猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

母の死 -- 人は死んで記憶になる

2019-03-08 22:00:40 | 思い出


もう、母が亡くなって、5年がたつ。あのとき、連絡があって、あわただしく田舎町に帰り、通夜と葬儀に参列した。

人が死ぬと言うことは、周りの人の記憶としてしか、この世に存在しなくなることである。年をとって死ぬのは、そんなに悪いことではないと思う。本人はもう苦しむことも悩むことも怒ることもないからである。

母が死んで、私の記憶の中の母はドンドン若くなった。父との楽しかった時代の元気な母に戻っていく。
だから、母の死顔を見たいと思わなかった。どうして、葬儀屋の人は死んだ人の顔を見るように勧めるだろう。どうして、葬儀屋は死んだ母の顔を変えるのだろう。

母は自分がブスと思っていたから、美男子の父をとても愛していた。母は自分が愛されるためにいつも笑顔を絶やさなかった。そんな母の顔を整えて、ブスでも笑顔でもなくして、何の意味があるのか。母はブスで笑顔で良い。

記憶の中の母は、私たち兄弟のあいだでも異なる。

私の兄にとって、母は、幼少の自分を必死で一人で守った強い人である。町で商いをしていた父は、戦争にとられ、終戦になっても中国大陸からすぐには戻れなかった。母は、兄を乳母車にのせて農家に芋などを仕入れに行き、それを売ることで戦後の混乱期を生き延びた。強くて合理的な母である。

弟は、また、やり手の母として記憶しているようだ。父は話しべたであった。母は、誰とも付き合い、自己主張のする人であった。また、生活に余裕ができてから、手芸を周囲に教えていた。

しかし、私に取っては、母は、父をこころから愛し続けたひとりの女である。私の記憶の中では、先に死んだ父と一緒になって笑顔で私を育てている。

だから、葬儀屋によって、誰かの記憶に基づいて母のプロフィールを勝手に作り上げられ、式場で声をふるわせて読み上げられても、困る。人々はそれぞれ異なる記憶をもっていて、それらは尊重されねばならない。葬儀はショウではない。葬儀は、人が死んで記憶になるための通過儀礼である。

天国と地獄 福音書のラザロの物語

2019-03-08 01:21:59 | 聖書物語


ウディ・アレンの映画に、ニューヨークの住むユダヤ人の一家の息子のひとりが、つかまって死刑囚となる物語がある。その息子は刑務所の中でキリスト教に改宗する。母親がなぜかと問い詰めると、ユダヤ教には死後の世界がないから、と答える。

エジプトの宗教と異なり、ユダヤ教などメソポタミアの宗教には、死後の世界がなかった。神は「生きているものの神」なのである。

では、キリスト教では、死後の世界があったのだろうか。初期のキリスト教には、じつは、死後の世界も、天国も地獄もない。

だからこそ、パウロは、善人は生き返って悪人を罰することを考えだした。これが復活であり、最後の審判である。
パウロの書簡の後に書かれた、4つの福音書には、イエスを除いて復活する者はいず、もちろん、天国も地獄も書かれていない。最後の審判も、いつまで待っても、こなかった。
死者が動き回るというのは、ヨーロッパ人のガイスト(亡霊)の伝承にすぎない。死後の世界があるなら、復活は不要である。

深井智明は、『神学の起源』(教文社)で、天国、地獄はキリスト教の司祭が森にすむヨーロッパ人を支配するために、考案したものという。教会の鐘は時間を支配する象徴で、鐘を突くことで、司祭が「天国の門」を管理していることを村々に伝えたという。

ところが、福音書に1つだけ、死後の世界の物語がある。『ルカ福音書』16章19節から31節の次の物語である。
    *  *  *
できものだらけの貧乏人 ラザロが、金持ちの玄関前に投げ捨てられた。ラザロは、金持ちの食卓から落ちるものを食べて飢えをしのぎたいと思ったが、できずに、犬に全身のできものをなめられながら死んだ。死んで祖先のアブラハムのふところに包まれた。
ラザロを門外に締め出していた金持ちも死ぬが、死んだ世界では、熱さと渇きに苦しむ。ふと、遠くを見ると、ラザロがアブラハムのふところに包まれている。金持ちはアブラハムに、ラザロを使わして渇きをいやすように、訴えるが、たしなめられる。
    *  *  *
この金持ちが交渉するのは神ではなく、ご先祖様のアブラハムである。また、生きているときに善いことをしたか、悪いことをしたかの、審判の話ではない。アブラハムは次のようにたしなめる。
「お前は生きている間に良いものを受け、ラザロのほうは悪いもの受けた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」(16章25節 聖書協会共同訳)

すなわち、ご先祖様のアブラハムは、生きているときと死んでいるときの幸福の合計はバランスがとられると、平等思想で、金持ちに答えた。つまり、格差社会に怒る貧乏人の声を、『ルカ福音書』の記者は代弁しているのだ。

4つの福音書で、死後の世界がでてくるは、この『ルカ福音書』のラザロの物語だけである。ウディ・アレンの映画の死刑囚ユダヤ人が、キリスト教に改宗するほどのことはない。
私はと言えば、死後の世界はいらない。死んで、自分の存在がなくなるのも、そんなに悪くないと思っている。

[補足]『ルカ福音書』16章21節の“ἐβέβλητο”は、中受過去完了三人称単数で、中動とも、受動とも考えられる。中動だとの聖書協会共同訳、新共同訳の「横たわった」となるが、自分で動けなければ、受動の「横たえられた」なる。上では、 私は、「投げ捨てられた」と訳してみた。
[補足]新共同訳は、『ルカ福音書』16章22節、23節の“κόλπον”を「宴席」と訳しているが、これは誤りである。このギリシア語は「暖かく包むもの」で、子どもを抱きあげるとき、膝にのせたり、胸に抱え込んだり、するさまをいう。船では、「入り込んだ湾のなか」をいう。聖書協会共同訳や口語訳にしたがい、上では、「ふところ」と訳した。