猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

悪魔やサタンとは何か、聖書からの考察

2019-03-17 22:34:07 | 聖書物語


聖書の「悪魔」や「サタン」は、英語の “devil”または“Satan”の訳である。

しかし、聖書は、もともと、紀元前にギリシア語やヘブライ語で書かれたものである。
キリスト教の旧約聖書は、ヘブライ語聖書をギリシア語に、あるいは、ラテン語に訳したものであった。もちろん、現在では、各国語の旧約聖書は、ヘブライ語聖書から直接訳されている。

英語の “devil”または“Satan”は、ヘブライ語聖書では、ともに、ヘブライ語の “שטן”(サタン)である。
その意味は、「邪魔する者」、「裏切り者」、「逆らう者」、「敵対するもの」という意味である。

すなわち、サタンに「悪魔」という意味はなかった。
「善」と「悪」の対決という考えは、ユダヤ教にはないのである。「善」と「悪」の対決はゾロアスター教の考えである。

サタンは、ギリシア語では、“διάβολος”(ディアボロス)と訳されたり、 “σατανᾶς”(サタナース)と訳されたりする。サタナースは、ヘブライ語の音をそのまま受け取り、ギリシア語風に語尾が格変化したものである。

ヘブライ語聖書『民数記』22章に「サタン」という言葉が2度出てくるが、「サタン」は「邪魔する者」という意味である。神の使いが、神の意を受けて、バラムという名の男が道を進むのを「邪魔する者」となる。ヘブライ語聖書は、約2300年前にギリシア語に訳されるが、このとき、διάβολος(ディアボロス)があてられる。

別に「神に逆らう者」という意味はなかった。

ヘブライ語聖書『ヨブ記』 1章と2章に出てくる「サタン」は、神の判断に逆らうが、神に逆らったり、敵対したり、したわけではない。『ヨブ記』は次のような物語である。
- - - -
神が「ヨブを善良な男だ」とほめるが、サタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」という。
すると、神は「ヨブをためしてみよ、だが、命を奪ってはいけない」という。
早速、サタンは神の意を受けて、ヨブを皮膚病におとす。
ヨブは かゆくて かゆくて 灰のなかを転げまわり、神をののしる。
- - - -
神とは、いばりくさって、くだらないものだという寓話である。あるいは、神を敬うのは自分の利益のためではないかという、仄めかしである。
サタンはヨブをためしたが、そのことは、神の意志でもあった。
後期のヘブライ語聖書には、神というものへの疑念が書かれるようになる。

新約聖書はギリシア語で書かれたものが原本である。

新約聖書『マルコ福音書』や『マタイ福音書』では、イエスが弟子のペトロを「サタン」と叱っているが、その意味は「この悪魔め」ではなく「邪魔するな」である。

マタイ福音書16章23節(新共同訳)
〈イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」〉

また、『ルカ福音書』22章3節のユダに「サタンがはいった」というのは「裏切った」という意味である。

『マルコ福音書』 『マタイ福音書』 『ルカ福音書』では、イエスは霊に導かれ荒れ野で試練を受ける。このとき、旧約聖書の『ヨブ記』をみならい、試練を与える者は、『マルコ福音書』ではサタナースであり、『マタイ福音書』や『ルカ福音書』はディアボロスである。

新約聖書の『ヨハネ黙示録』だけは、「悪魔」や「サタン」を他と異なるイメージで使っている。
2章、3章では、ユダヤ人のくせにユダヤ人に敵対する「非国民(裏切者)」という意味の「ののしり言葉」として使っている。(ヘレニストのための聖書のはずなのに、おかしな用法だと思う。)
ところが、12章、20章では、イエスや神に戦いを挑む者として、竜のイメージを与える。注意すべきは、サタンがはじめから竜であったのではなく、神に戦うために竜に変身したという、著者の妄想が書かれている点である。

このように、現在のゲームソフトやハリウッド映画の「悪魔」や「サタン」のイメージは、ユダヤ教や初期キリスト教とは関係がない。キリスト教がヨーロッパにはいって土着化したことで、生じたイメージである。

団体行動を取らない子どもたちの人権を守れ

2019-03-17 20:25:21 | 奇妙な子供たち

スティーブ・シルバーマンは、自分の本にタイトル『NeroTribes: The Legacy of Autism and t he Future of Neurodiversity』をつけ、風変りな子どもや大人の人権を擁護している。タイトルを日本語に訳すれば『ニュロー諸族:自閉症の神話とニュロー多様性の未来』となるだろう。
残念ながら、講談社の翻訳本のタイトルが『自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実』(ブルーバックス)となっており、中身の翻訳の誤りもあり、著者の意図を読み間違うかもしれない。

シルバーマンだけでなく、日本でも、山登敬之、中川信子、井上祐紀らが「発達障害」の子どもたちをマイノリティと名づけ、平均からずれていることがなぜ悪いのか、人権を守れ、と声を上げている。

私も、「発達障害」だけでなく「知的能力障害」を含めて「神経発達症群」の子どもたちや大人の「人間としての権利」を守るべきと考える。私の要求していることは、風変りな子どもや大人にも敬意を表し、良き隣人として認めよ、という単純なことである。

私が子どもから大人になる頃、日本の社会は個性の尊重を訴え始めていた。日本は、個性を認めない集団主義的な風土だから、独創的な研究が生まれないのだと言われた。
そのとき、日本は「ニュロー多様性」を受け入れるかのように見えた。実際、そのおかげで、私は覚えることが大嫌いなのにもかかわらず、受験勉強せず、高校に進学でき、大学に進学でき、大学院に進学できた。
大学の3年生のとき東大闘争、全共闘運動が起きた。そして、全共闘派の大量逮捕と、企業や大学からの締め出しで、日本の社会は右旋回を始めた。個性を否定し、集団行動と規律を重んじるようになった。

今の、空気を読む社会は、おかしくないか。
NPOで子どもたちと接していると、絵を描く子と描ない子がいる。絵を描くということは楽がき、自由に遊ぶことである。描ない子がいるのは、失敗を恐れ、踏み出せないから、である。「知的能力障害」の子どもも、叱られたり、笑われたくないのである。
近所の大型商業施設では、閉じた店舗の前で、近くの各幼稚園の子どもたちの絵を貼りだしている。おかしなことに、幼稚園ごとに同じタイプの、同じ描き方の絵になっている。個性がないのである。

私のNPOで担当していた、支援学校高等部の子は、学校の絵画クラブに入ったが、自由に描かせてくれないと、今年部活を辞めた。

私は、中学高校と、美術の授業で、黒い太陽、赤い太陽、青い太陽、爆発する太陽を時間内に10枚以上描きあげ、みんなに天才だと言われ、有頂天になっていた。
嫌いな科目は、日本史など、白紙の答案を出してもとがめられなかった。年号なんて、基準が変われば、変わる数字でないか。覚える科目なんて、やっていられるか。

「ニュロー多様性」は、ひとりひとりの個性に敬意を払うことである。50年前は今よりも個性が尊重されていた。