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「あなたは幸せになれる」という知らせは、福音と呼ばれる。
「あなたは幸せになれる」という知らせはできるだけ、多くの人に伝えたい。
だから、福音は多くの人にわかりやすく話す必要がある。
政治哲学者の丸山眞男も憲法学者の石川健治も、本来は、現代の福音の伝え手でないかと私は思っている。残念ながら両者ともわかりやすく福音をのべるのが上手でない。ところが、石川健治は、めずらしく読みやすい福音を朝日新聞のオピニオンに寄稿した。2014年6月28日の朝刊の「『いやな感じ』の正体」である。
石川健治の福音は、高見順の長編小説「いやな感じ」の紹介から始まる。その主人公は、反インテリの労働者で、何かいやな感じを社会にいだきながら、時代に流されていき、国家に表だってNOも言わず、中国大陸の戦線で発狂する。その「いやな感じ」から高見順を解放したのが、敗戦であり、戦後の日本国憲法である、と石川健治はのべる。
ついで、安倍晋三首相が、人権を抑圧するため、戦争をするため、憲法を変えようと少しずつ政治環境を変えていっているさまを、石川健治はのべる。すなわち、「いやな感じ」は、戦前の話ではなく、現在の話だ、とのべる。この辺からまた文章が難しくなる。
石川健治の寄稿の最後にある「ふさわしい手続きは、やはりレファレンダムである」は、わかりにくいが、レファレンダムは国民投票のことである。憲法改正の国民投票を直接的には意味しているのだが、自民党が国民の30%の支持で、国会の3分2の議席を取る、現在の代議制民主主義を危惧しているのだろう。
石川健治は、日本の法秩序が政権自身によって踏みにじられている現状を、みんなが自覚し行動を起こしたら、平和を尊重し「価値観を異にする<他者>と共存する」ことを選んだら、幸せになると言いたいのだと思う。
丸山眞男もわかりやすく福音を伝えるために工夫している文書がある。「現代における人間と政治」である。
石川健治が高見順の「いやな感じ」を書き出しに使ったように、丸山眞男は、チャップリンの映画「独裁者」で、かれの福音を書き出す。映画の冒頭に、チャップリンがふんする床屋が一兵卒として雲の中を飛んでいるとき、士官から“What time is it?”と言われ、懐中時計をとりだすと、突然それが上に向かってそびえたつ。そう、雲のなかを飛行機がさかさまに飛んでいたのだ。丸山眞男は、このtimeは時代(times)だという。すなわち、わたしたちは、正気が狂気とされ、狂気が正気とされる時代に生きていると主張する。
世の中全体が間違う例として、労働党員と老哲学者バートランド・ラッセルの正気論争を、丸山眞男が取り上げている。いちばん公平だと考えられている新聞に、当時の労働党員が、一方的核廃棄論に反対することこそが「正気」だ、と書いた。老哲学者バートランド・ラッセルは、一方的核廃棄論こそ正気だ、と再反論しようとしたが、その新聞はその掲載を拒否したという事件である。雲が晴れた現在では、当時も現在もイギリスは核兵器も原発も持つ必要がなく、一方的に核を廃棄するので十分であることに、同意していただけるだろう。現在の原子力発電再稼働も狂気である。
次に、現在「狂気のナチ支配の時代」とされている、あの12年を、ドイツ国民がどう思い生きたか、を丸山眞男は文献を引用しのべる。
この部分は、高見順の「いやな感じ」に対応していて、すべての変化が少しずつであったため、いやな感じだが自分には関係ないと思っているうちに、抵抗できない破滅に追い込まれた、とドイツの知識人たちが弁解する。はなはだしきは、政治的にはナチに抵抗しなかったが、内面では人間的に誠実に生きていたと誇る法学者がいる。実際には、ナチは多数の共産主義者や社会主義者や自由主義者を殺したり強制収容所に閉じ込めたりしたのであり、高見順の「いやな感じ」ではすまされることではない。
丸山眞男の福音は、共産主義者や社会主義者を自分と関係ないと思わず、「おどかし屋(alarmist)」と言われて、「のけ者」扱いされることを恐れず、既成事実に気落ちせず、正気を保って、破滅が来る前に、人権の抑圧に反対する行動を起こすことである。
丸山眞男の「現代における人間と政治」は石川健治の「『いやな感じ』の正体」より、論旨がすっきりしているので、おすすめである。もちろん、丸山眞男はいつものように知識人しか見ていないが。
この「現代における人間と政治」は次の本で読むことができる。
丸山眞男:「丸山眞男セレクション」平凡社ライブラリー、平凡社、ISBN: 978-4-582-76700-1 (2010.4)
丸山眞男:「現代政治の思想と行動」未来社、ISBN:4-624-30103-X (2006.8)