猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

福音とは「あなたは幸せになれる」という知らせ

2019-03-06 09:15:29 | 思想

「あなたは幸せになれる」という知らせは、福音と呼ばれる。
「あなたは幸せになれる」という知らせはできるだけ、多くの人に伝えたい。
だから、福音は多くの人にわかりやすく話す必要がある。

政治哲学者の丸山眞男も憲法学者の石川健治も、本来は、現代の福音の伝え手でないかと私は思っている。残念ながら両者ともわかりやすく福音をのべるのが上手でない。ところが、石川健治は、めずらしく読みやすい福音を朝日新聞のオピニオンに寄稿した。2014年6月28日の朝刊の「『いやな感じ』の正体」である。

石川健治の福音は、高見順の長編小説「いやな感じ」の紹介から始まる。その主人公は、反インテリの労働者で、何かいやな感じを社会にいだきながら、時代に流されていき、国家に表だってNOも言わず、中国大陸の戦線で発狂する。その「いやな感じ」から高見順を解放したのが、敗戦であり、戦後の日本国憲法である、と石川健治はのべる。
ついで、安倍晋三首相が、人権を抑圧するため、戦争をするため、憲法を変えようと少しずつ政治環境を変えていっているさまを、石川健治はのべる。すなわち、「いやな感じ」は、戦前の話ではなく、現在の話だ、とのべる。この辺からまた文章が難しくなる。

石川健治の寄稿の最後にある「ふさわしい手続きは、やはりレファレンダムである」は、わかりにくいが、レファレンダムは国民投票のことである。憲法改正の国民投票を直接的には意味しているのだが、自民党が国民の30%の支持で、国会の3分2の議席を取る、現在の代議制民主主義を危惧しているのだろう。

石川健治は、日本の法秩序が政権自身によって踏みにじられている現状を、みんなが自覚し行動を起こしたら、平和を尊重し「価値観を異にする<他者>と共存する」ことを選んだら、幸せになると言いたいのだと思う。

丸山眞男もわかりやすく福音を伝えるために工夫している文書がある。「現代における人間と政治」である。

石川健治が高見順の「いやな感じ」を書き出しに使ったように、丸山眞男は、チャップリンの映画「独裁者」で、かれの福音を書き出す。映画の冒頭に、チャップリンがふんする床屋が一兵卒として雲の中を飛んでいるとき、士官から“What time is it?”と言われ、懐中時計をとりだすと、突然それが上に向かってそびえたつ。そう、雲のなかを飛行機がさかさまに飛んでいたのだ。丸山眞男は、このtimeは時代(times)だという。すなわち、わたしたちは、正気が狂気とされ、狂気が正気とされる時代に生きていると主張する。

世の中全体が間違う例として、労働党員と老哲学者バートランド・ラッセルの正気論争を、丸山眞男が取り上げている。いちばん公平だと考えられている新聞に、当時の労働党員が、一方的核廃棄論に反対することこそが「正気」だ、と書いた。老哲学者バートランド・ラッセルは、一方的核廃棄論こそ正気だ、と再反論しようとしたが、その新聞はその掲載を拒否したという事件である。雲が晴れた現在では、当時も現在もイギリスは核兵器も原発も持つ必要がなく、一方的に核を廃棄するので十分であることに、同意していただけるだろう。現在の原子力発電再稼働も狂気である。

次に、現在「狂気のナチ支配の時代」とされている、あの12年を、ドイツ国民がどう思い生きたか、を丸山眞男は文献を引用しのべる。

この部分は、高見順の「いやな感じ」に対応していて、すべての変化が少しずつであったため、いやな感じだが自分には関係ないと思っているうちに、抵抗できない破滅に追い込まれた、とドイツの知識人たちが弁解する。はなはだしきは、政治的にはナチに抵抗しなかったが、内面では人間的に誠実に生きていたと誇る法学者がいる。実際には、ナチは多数の共産主義者や社会主義者や自由主義者を殺したり強制収容所に閉じ込めたりしたのであり、高見順の「いやな感じ」ではすまされることではない。

丸山眞男の福音は、共産主義者や社会主義者を自分と関係ないと思わず、「おどかし屋(alarmist)」と言われて、「のけ者」扱いされることを恐れず、既成事実に気落ちせず、正気を保って、破滅が来る前に、人権の抑圧に反対する行動を起こすことである。
丸山眞男の「現代における人間と政治」は石川健治の「『いやな感じ』の正体」より、論旨がすっきりしているので、おすすめである。もちろん、丸山眞男はいつものように知識人しか見ていないが。

この「現代における人間と政治」は次の本で読むことができる。
丸山眞男:「丸山眞男セレクション」平凡社ライブラリー、平凡社、ISBN: 978-4-582-76700-1 (2010.4)
丸山眞男:「現代政治の思想と行動」未来社、ISBN:4-624-30103-X (2006.8)

わたしのくびきを自分で負い、わたしを見習いなさい

2019-03-06 00:32:13 | 聖書物語



先日、キリスト教布教ビラに『マタイ福音書』11章28節が書かれていた。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

私の通ったプロテスタント改革派の教会の牧師も、続く29節、30節を合わせて、よく朗読する。ここはとても心地よく聞こえるところである。以下に、山浦玄嗣にみならって、私もギリシア語聖書からここを直訳してみよう。

働き疲れ、重荷を負う者は、だれでもわたしのそばにおいで。
そう、わたしがあなたがたを休ませてあげよう。(11章28節)
わたしのくびきを自分で負い、わたしを見習いなさい。
そう、わたしは穏やかで心のへりくだった者、あなたがたはたましいに休息を見いだすだろうから。(11章29節)
なぜって、わたしのくびきはやさしく、わたしの荷は軽いから。(11章30節)

29節と30節は、心地よく聞こえるが、また、わたしがひっかかったところでもある。
この「くびき」は、τὸν ζυγόνで、牛に荷物をひかせるための首かせである。イエスはどのような「くびき」を自分で負えと、私たちに主張しているのかが気になった。

田川建三は、11章28節で私が「働き疲れ」と訳したκοπιάωは、「過酷な労働をする」という動詞であると言う。これを「教え」と考えると、ここは、実際の過酷な労働をしている者に精神的な慰めをあげよう、と言っているだけになる。

旧約聖書の『列王記上』12章4節、また、『歴代誌下』10章 4節に
「あなたの父上はわたしたちに苛酷な軛(くびき)を負わせました。今、あなたの父上がわたしたちに課した苛酷な労働、重い軛を軽くしてください。そうすれば、わたしたちはあなたにお仕えいたします。」(新共同訳)
とイスラエルの民がソロモンの息子レハブアムに訴えたとある。

これに対し、『列王記上』12章 11節、また、『歴代誌下』10章 11節で、レハブアムは
「父がお前たちに重い軛を負わせたのだから、わたしは更にそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめる。」(新共同訳)
と答えた。これにより、民は去り、イスラエルは南北に分裂した。

過酷な労働は過酷な労働でなくなることが私たちの願いなのだ。『マタイ福音書』11章30節は、単純に、くびきにかかる荷が実際に軽くなって欲しいという願いではないか。
私は、マタイ福音書のこの部分は、イエスの教えでなく、「ヨイトマケの唄」のような当時の仕事歌を下敷きにした慰めだと考える。

「わたしのくびきを自分で負う」までが仕事歌で、「わたしを見習いなさい」はマタイ派が挿入した「イエスの教え」ではないかと思う。「ファリサイ派の『律法』ではなくイエスの無料の『律法』に従う」ことをマタイ派が言っているのであろう。
『マルコ福音書』『ルカ福音書』『ヨハネ福音書』には、この11章28節、29節、30節に相応する記述はない。

実は、『列王記上』と『歴代誌下』のこの部分のギリシア語は「くびき」をのぞき、正確に一致している。『列王記上』のくびきはτὸν κλοιὸνであり、『歴代誌下』のくびきはτὸν ζυγὸνである。『マタイ福音書』のくびきは『歴代誌下』に対応する。
『列王記』は、分裂した南北の王国を対等に扱う。『歴代誌』は南のユダヤ王国を中心として歴史を記述する。

イエスの故郷、ガリラヤは北のイスラエル王国にある。「ソマリヤ人」のソマリヤも北のイスラエル王国にある。
神殿のあるエレサレムは南のユダヤ王国にある。

土地の肥えた北のイスラエル王国が先に滅ぶので、ユダヤ王国がイスラエルの正式な後継者と見なされがちであるが、それは誤りである。
名称「イスラエル」王国が示すように、イスラエルの民は、ソロモンの子レハブアムとエレサレムを見捨て、北に自分たちの王国を作ったのである。