猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

『自閉症の世界』評のまとめ:「ニュロー諸族」を支持し

2019-03-14 23:52:09 | 奇妙な子供たち

「自閉スペクトラム症」についての非常に不毛な論争が長らくあった。例えばスティーブ・シルバーマンが『自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実』(ブルーバックス)にそれを描いている。病因が遺伝なのか環境なのかの論争である。環境派は、さらに、母親が冷たいからか、それとも甘やかしたからかに分かれる。

なお、シルバーマンの本の原題は、”NeuroTribes: The Legacy of Autism and the Future of Neurodiversity” だから、シルバーマンは私と同じく「自閉スペクトラム症」は病気でないとの立場であろう。

シルバーマンの本を読めば、すぐ、わかるのだが、親がお金持ちであれば、その子が社会と関係を持たず、一人で好きな研究をやっていても、幸せに一生を送ることができる。シルバーマンは、万有引力定数をはじめて測定し、地球の質量を決めたヘンリー・キャヴェンディッシュを例としてあげている。
「自閉スペクトラム症」の問題は、金持ちでない親からみれば、「身勝手で自己中」ばかりの社会をこの子は生きていけるかの悩みである。身勝手で自己中なのは、子どもでなく、社会の大人たちなのだ。

シルバーマンの本によれば、そのような親の気持ちを手玉にとって、自閉症を治せると子どもを預かり、かえって子どもを廃人にする療育センターが米国にあったという。そうでなくとも、母親が悪いとなじるだけの精神分析医やセラピストが多いともシルバーマンが本で書いている。

最近読んだ『分子脳科学: 分子から脳機能と心に迫る』(DOJIN BIOSCIENCE、化学同人)の18章で、内匠透は、「自閉スペクトラム症」は間違いなく遺伝が病因で、薬で治せるはずだが、複数の遺伝子が複雑に絡んだ発現過程であるらしく、いまだに特定できていないと書いている。これって、遺伝であるかどうか、いまだにわかっていない、と言っていると同じではないか。

一方、遺伝子が同じでも、ばらつきが生じることがクローン技術の実験からわかってきた。有性生殖と異なり、クローン技術で、まったく同じ遺伝子の子どもを作れるのである。

2001年になって猫のクローンが作成されるようになったが、驚いたことに、遺伝子が同一なのに、成長したクローン猫たちの体毛の模様は異なることがわかった。さらに、クローン猫たちの性格もそれぞれ異なっていた。

したがって、遺伝子を特定するより、子どもを薬で治そうと思うよりも、まず、多様性を認め、長所を伸ばし、親や他の隣人と共存していけば良いのだ。これが、シルバーマンの言う「ニュロー諸族」の未来のあるべき姿だと思う。

ところが、先ほどの内匠透は、勝手に「患者本人だけでなく、その家族やさらには社会の負う経済的、心理的マイナスは莫大なものになる」と言い切り、「自閉スペクトラム症」治療薬の開発にのめり込んでいる。大きなお世話だ。

NPOでの私の担当する子に、学校からみんなでディズニーランドに行くより、学校で勉強しているほうが好きだという子どもがいる。薬を開発し、みんなとディズニーランドに行きたいと言わせることが、そんなに素晴らしいとは私には思えない。

原題は『自閉症の世界』でなく『ニュロー諸族』

2019-03-14 23:47:30 | 奇妙な子供たち

スティーブ・シルバーマンの『自閉症の世界』(講談社ブルーバックス)の翻訳に誤りが多すぎると、「サイコドクターにょろり旅」(「にょろり」と以下引用)がネットで指摘している。読んでみてその通りだから、まことに残念である。

例えば、witches' Sabbatを「安息日の魔女たち」と翻訳している。しかし、「'」に気づけば、文法上、witchesが所有格でSabbatにかかるから「魔女たちのサバト」としか訳しようがない。また、「安息日に飛びかう魔女たち」なんてありえないイメージで、翻訳者たちが意味を考えないで字面だけを追っているからである。

たぶん翻訳者の正高信男は共同訳者の入口真夕子に訳を任したままチェックをしなかったのであろう。いわゆる「名義貸し」である。指摘されている間違いは翻訳ソフトが犯しがちな誤りで、文脈を考えれば、すぐおかしいと気づくものばかりである。
これは小保方晴子事件と同じ構図である。京大教授の正高信男は小保方晴子の悪口を言う資格がない。

「にょろり」によれば、『自閉症の世界』の原題は『NeuroTribes』で、欧米では数々の賞を受賞した話題作とのことだ。実際、自閉スペクトラム症の子どもたちやその親たちに共感をもって書かれており、私のNPOの仲間たちに薦めようと思っていたので、とても残念としか言いようがない。

「にょろり」は、この原題に著者シルバーマンが特別の思いを寄せている、と言う。すなわち、NeuroTribes は認められるべき「ニュロー諸族」なのだ。私の時代の言葉で言えば、「新人類」あるいは「ミュータント」なのだ。その意味で、第6章のハイテク産業やSFに携わった「自閉症的」英雄の列伝を大幅にカットした翻訳は、原著の趣旨を無視したものと言える。訳者はハイテクの世界にうといから第6章を大幅にカットしたとしか思えない。

原著は、「自閉症」が「何であるか」を解明することではなく、「自閉症」とか「アスペルガー」とか言われる人間たちの権利宣言である。したがって、副題 The Legacy of Autism and the Future of Neurodiversityは、自閉スペクトラム症の子どもたちとその親たち側からの言葉として受け取らねばならない。一般にLegacyは必ずしも良い意味ではなく、都市「伝説」のように「ウソ」という響きがある。Neurodiversityこそ、著者の言いたい「多様性」を認めよ、という権利宣言である。

講談社も、小保方晴子の悪口を言うような正高信男に、訳のチェックを依頼すべきでなかったし、原著の趣旨をあいまいにする原題、副題の変更をすべきでなかった。

なお、著者シルバーマンは自閉スペクトラム症の定義範囲を広げよ、言っているように思えるが、私は、「症」の定義範囲を日常生活の支援が必要な者たちに限定し、それより、社会がNeurodiversity(ニュロー多様性)を受け入れ、良き隣人として「ニュロー諸族」と共存できるようにもっていくべきである、と考える。

「にょろり」のブログ

映画『レインマン』の原作者の物語、バリーとビル

2019-03-14 23:13:56 | 映画のなかの思想

1988年公開のハリウッド映画『レインマン(Rain Man)』は、映画評論家の酷評にもかかわらず、記録的ヒットになり、「自閉症」に対するアメリカ人の認識を大きく変えた。
映画は、事業に失敗した小ワルの弟が、遺産を横取りするため、それを引き継いだ「自閉症」の兄を施設から無断で連れ出し、二人で旅をするという物語である。兄をダスティン・ホフマンが演じ、弟をトム・クルーズが演じた。

映画評論家の酷評とは、映画のハッピーエンドが気にいらないとか、「自閉症」の人間は施設に戻し閉じ込めるべきとか、いうものである。一方、観客は、「自閉症」の兄に人間的魅力を感じ、弟が兄を本気で好きになり、一緒に暮らすという結末に感動したのである。

スティーブ・シルバーマンの『自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実』(ブルーバックス)の第9章は、この原作(正確には原脚本)を書いたバリー・モローの本当の物語にあてている。
バリー・モローは、老人のビルと少年のピーク、二人の実在の人物をモデルにし、一人の愛すべき「自閉症」の兄のキャラクターを作った。

このビルは、7歳で州立精神病院に閉じ込められ、44年後、精神病院の過酷な実態の改善の一環とし、精神障害者の社会適応を調べるため、試験的に外にだされ、クラブ(キャバレー)の掃除人になる。

ビルが州立精神病院を「地獄のような場所」と語ったように、すさまじい所であったようだ。上院議員の妻たちが、州立病院を見に来た時、あまりにも気分が悪くなり、視察を断念せざるを得なかったという。
それが何年かの記述がないが、1960年代の終わりではないかと思う。日本でも、東大闘争で精神科閉鎖病棟の解体が叫ばれていた。

ビルはなぜ州立精神病院に閉じ込められたか、本書には詳しい記述はない。ただ、父親が急死したとき、学校の成績が急落し、校長は知恵遅れだ、施設に閉じ込めるべきだと主張したという。想像するに、一時的に抑うつ症を示したのだと思う。

しかし、コミュニティがよくそれだけで7歳のビルを精神病院に閉じ込めた、と思う。父親の急死で生活に困った母親はコミュニティに助けを求めたのだろうが、貧乏人とロシア系ユダヤ移民に対する強い偏見から、コミュニティがビルの社会からの隔離を選択したのだ、と想像する。日本で言えば、措置入院である。

ビルは、母親に見捨てられ、いかなる教育も受けられず、44年間、その州立病院で配膳係りとして働いた。働けるのだから、DSM-5の基準からすると、知的能力障害ではない。ビルはハーモニカを上手に吹けたとあるので、地獄のような州立病院の中で、他の大人の患者が子どものビルを助けていたのではないかと思う。

ビルは州立病院から外に出たとき、歯はほとんどなくなっており、かつらをつけていたという。酔っぱらった病院の用務係を起こしたため、髪の毛を握ったまま、階段から落とされ、頭皮がはがれたから、という。すさまじい話である。

20代のバリー・モローは、控えめだがおしゃべり好きのビルが好きになり、友人、そして家族の一員として付き合うようになった。

1974年、バリーは別の州に大学の仕事を見つけ、州行政の監督下にあるビルを置いて引っ越しする。しかし、2,3カ月すると、ソーシャルワーカーから電話がかかってくる。ビルの足の潰瘍が悪化したらから足を切断するよう、説得してくれとの電話である。すぐ病院に駆けつけると、足を切断した後、義足をつけるのではなく、また施設に閉じ込めるという。

そこで、バリーは無断でビルを連れ出し、彼の足の潰瘍を直し、彼の職を見つける。ところが、州外に連れ出したとして、バリーは誘拐罪で起訴され、精神鑑定委員会の審問が開かれた。
バリーは審問で追いつめられ苦境におちいる。そのとき、ビルは「祈りましょう!」と突然しゃべり出す。「天にまします我らの父よ、願わくは、み名をあがめさせたまえ。そして神よ、相棒のバリー氏を授けてくれたことに感謝します。チャビーという名の鳥を飼っています。いまは幸せな人生を送っています。そしてあの地獄のようなところには絶対に戻りたくありません。……。アーメン」

主の祈り(『マタイ福音書』6章『ルカ福音書』11章)のリズムで話したという。ぜひ、英文でここを読んで聖書と比較したいところである。

ビルのスピーチのおかげで、若いバリーが2倍も年上のビルの法的後見人と認められた。死が二人を分かつまで、友人として家族として再び暮らせるようになった。めでたし、めでたし。
映画はバリーとビルを弟と兄に置き換えたものである。しかし、ビルは「自閉症」ではない。あくまで、偏見に満ちた社会の犠牲者である。

アスペルガーとカナーの原点:『自閉症の世界』を読む

2019-03-14 23:09:37 | 奇妙な子供たち

スティーブ・シルバーマンの『自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実』(ブルーバックス)は、原題が『NeuroTribes』で、欧米では数々の賞を受賞した話題作である。
日本語タイトルに違和感があるが、それに目をつぶれば、これまでの書とくらべ、はるかに面白く、読みやすい。特に第3章、第4章が良い。
これらの章は、これまでの知られていた精神疾患患者とはまったく違ったタイプの、奇妙な子どもたちの一群を、独立に見出した精神科医ハンス・アスペルガーとレオ・カナーの伝記で、また、彼らの報告の内容がわかりやすく紹介されている。

アスペルガーもカナーも彼らの患者である自閉スペクトラム症の子どもたちに人間としての敬意を払っていることを著者シルバーマンは、指摘している。
著者自身も、また、自閉スペクトラム症の子どもたちだけでなく、障害者全般に敬意を払っている。そして、知的能力障害=貧困家庭の子という当時の欧米社会の偏見や当時のドイツ精神医学会がナチスと共に障害者たちを抹殺したことを批判している。

これらの章で、私が特に興味を引いたのは、アスペルガーもカナーもコミュニケ―ション障害を自閉スペクトラム症の特性とはしていないということである。アスペルガーの指摘は、自閉スペクトラム症の子どもは他人の言っていることを理解しており、ただ興味がないだけ、あるいは、自分の意に反する指示を無視するだけ、ということである。言語に関してのカナーの指摘は、「人称」代名詞が正しく使い分けできていないということだけである。

米国精神医学会が、DMS-IVの広汎性発達障害を、DMS-5では、自閉スペクトラム症と社会的(語用論的)コミュニケーション症とに分離したのは、アスペルガーとカナーに戻ったとも言える。

これらの章で、また、自閉スペクトラム症の子どもの色々な奇妙なふるまいが書かれているが、それ自体にあまり意味がない。例えば、「入浴しない」とか「動作がぎこちない」とか「靴ひもをうまく結べない」などは、私の子ども時代を思い浮かべると、自分に当てはまることばかりで、少しも奇妙ではない。本当の問題は、自分の考えや自分の習慣(ルーチン)に強くこだわり、親を含む他の人間に興味がないことである。

そういう子どもたちの報告自体は、アスペルガーやカナー以前にも実はあったが、彼らのユニークな点は、なにか生後に原因があって発症したのでないと考えたことだ、と著者シルバーマンは強調する。これは、自閉スペクトラム症の大事なところである。

第5章以降は、精神科医の多くが自閉スペクトラム症の原因は母親の養育態度にあるとしたり、メディアがワクチン接種の副作用としたり、米国社会で、大きな混乱が起きたことを紹介している。

第4章で描かれるカナーの俗物的な性格、出世欲、権力者への迎合性、知的に劣る人への差別意識が、せっかく見出した自閉スペクトラム症の「生まれつき」という観点を撤回し、母親への非難という精神分析医の流れを許した、と著者は見ている。

著者シルバーマンは、自閉スペクトラム症の起きるメカニズムを決めつけるのではなく、どう自閉スペクトラム症の人々を、個々人の長所を伸ばし、受け入れていくか、多様性肯定の視点で本書を書いている。