猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「自由と責任」や「権利と義務」は国家主義の痕跡

2019-05-21 11:15:17 | 自由を考える

もし、「自由と責任」や「権利と義務」などの対立する言葉の対に違和感を覚えないなら、あなたは、政府主導の学校教育に洗脳されたままだ。
この「責任」は「自由」の行使を抑えこむために、この「義務」は「権利」意識を抑え込むために、つけ加えられたものだ。

戦前、日本は他国を侵略するだけでなく、国内でも、人間の自由や人権を否定する国であった。ドイツやイタリアのファシズムと異なり、日本では、戦前、下からの大衆の反乱はなく、上からのファシズム、すなわち、集団主義、精神主義、権威主義の圧政があった。

敗戦でそれらが一層されたわけでなく、天皇制が維持されたように、いたるところに、憲法や社会制度に、国家主義の痕跡が残っている。これらの「対立する言葉の対」は国家主義の痕跡の一例なのだ。そして、それらが正しい考えかのように、学校教育やネット世論に、いま、勢いを取り戻している。

いまこそ、学校は、「人間は自由なんだ、みんなと同じく、自分も楽しく生きる権利がある」ということを、教えないといけない。

日本国憲法に、「第3章 国民の権利及び義務」の見出しがある。これは、まずい。
国家が、国民にこれこれの「権利」を与えるから、これこれを「義務」として強要するという誤解を生む。
これでは、主権が国民にないという、書き方である。主権が天皇にあって、あたかも、天皇と契約したという形にも読める。実際、太平洋戦争に敗戦するまでの、大日本帝国憲法に、「第2章 臣民権利義務」とあったものを、戦後の日本国憲法では、「臣民」を「国民」に置き換えたものにすぎない。

「権利と義務」という概念を欧米の憲法のサイトで調べてみたが、「権利」と「義務」を取引事項にするところはない。

岩波の国語辞典には「義務」を「法律上または道徳上、人や団体がしなくてはならない、また、してはならないこと」とある。ここの「団体」は「政府」や「法人」を指すのだろう。

「義務」が強要である以上、誰が誰によって何をどんな理由で強要されるのか、はっきりさせないといけない。本当に、憲法に、国民の「義務」と書く必要があるのだろうか。

憲法第26条の「義務教育」の「義務」は、「子どもに教育を受けさせる親の義務」である。
子どもが勉強したいというのに、家が貧しいから学校に行かず働けと親は言ってはならないという意味である。
私が子どものとき、あちらこちらの家で、この問題が起きた。中学を卒業したら働いて親の家計を助けろ、高校に進学してはならない、と親たちがいったのである。
日本政府は、中学までが「義務教育」だから、高校に行きたいという子どもの夢を親が踏みにじっても、良いとした。

しかし、「義務」というのは、なにか、おかしい。子どもの「教育を受ける権利」をじゃましてはいけないのであって、「教育を受けさせる義務」は言い過ぎである。子どもをムチうって、教育を受けさせることは、子どもの自由を否定している。

さらに、現在、政府は、教育の内容に干渉して、教科書の検定を行っている。そして、授業時間にも干渉している。これは、教育の自由の全面否定である。

憲法第27条に「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」の「勤労の義務」も国家主義の名残りである。

勤労が義務であれば、国民は国家の奴隷であると言っているのにひとしい。
そして、個々人のなかには、「勤労」ができない 体や心の やまいの人もいる。また、贅沢するより、できるだけ、働きたくないという人もいる。
「義務」は「多様性」を否定するものである。個々人の事情を容認しないなら、マイノリティに死ねというのに等しい。

「勤労の権利」とは、あくまで、雇用者の都合で、職場を解雇されないことを言っているのだ。

憲法第30条に「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」とあるのも、不思議である。これは、大日本帝国憲法第21条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ納税ノ義務ヲ有ス」をそのまま残したものである。

国民に主権があるなら、税は、行政サービスを維持するための経費であり、「義務」として憲法に書くべきものなのか。これは、日本国憲法第7章「財政」に「国の財政は、国民の総意によってまかなわれる」と書くだけで充分である。

ちなみに、大日本帝国憲法第20条は「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」である。

憲法は、「人間の自由」の宣言であるべきで、「義務」について書くべきではない。

不登校の自由と憲法

2019-05-20 11:02:15 | 自由を考える

最近、また、不登校の話題が新聞に載るようになった。
原則は、学校に登校するかどうかは、本人の自由である、とすることだ。

問題は、子どもがなぜ学校に行きたくないのか、また、多くの親がなぜ子供が学校に行くことを望むかである。

これについて論じる前に、日本国憲法第26条の「教育の権利と義務」の誤解をとく必要がある。

憲法第26条 「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
○2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」

日本国憲法のどこにも、「学校に行け」、とは書いていないのである。学校に行くか否かは、本人の自由である。憲法に書いてあるのは「教育を受ける」権利である。
誤解を生むのは、第26条の2項に「義務を負ふ」と書いてあるからだ。

第2項の「義務を負ふ」の主語は、「その保護する子女に普通教育を受けさせる」とあるから、「親」である。子どもには、教育を受ける義務はない。

もっとも、私は憲法に「義務」という語を用いることには反対の立場である。だから、第2項は、次のように書けば、良かった、と思っている。
「教育を受ける権利をなにびとも妨害してはならないし、国は、その権利の享受を助けなければならない。」

憲法第26条は、戦前の富国強兵の国策の観点が色濃く残っており、教育を人権の視点から書き直す必要がある。

さて、子どもが学校に行きたくないのは、子どもが学校に行くことに、なんらかの苦痛があるからだ。それは、なんなのか、まず、理解しないといけない。

現在の学校は、競争社会の「ふるい」の役割をしており、また、他国と戦う「戦士」を育てる役割をしている。

「ふるい」とは、学校が、たえず、テストを行い、成績をつけ、それで、進学先がきまるという暗黙の了解である。何のために、勉学するのか、親の立場になれば、楽な生活をしてほしいからである。なぜ、楽な生活ができるか、人から富を奪うことが許される社会だからである。

そして、「愛国」「貿易立国」という幻想のもとに、製品に競争力をつけ、輸出せよ、国は、子どもの思想教育を行って、働け働けと教えている。

この結果、何が生じるのか。いじめや恐喝や暴力が学校で頻発している。暴力をふるえない子どもは、負け組として劣等感に苦しむ。そのうちの何割か、うつになるか、不安症になるか、パニック症になるか、家庭内で暴力をふるようになる。

親は、子どもが、社会の既定路線をはずれることに不安を覚え、子ども以上に暴力的になるか、うつを発症し病院通いになるか、である。

いずれにせよ、国が悪い。ついで、親も悪い。

学校に登校するかどうかは、本人の自由である、という原則に戻るしかない。また、どの学校に行くか、の選択を行う手立てもある。

本来、民主主義社会では、教育を国に任すのではなく、親が教育のあり方を決めるのでなければならない。そのために、各自治体に「教育委員会」がある。「教育委員会」は国の出先機関ではない。

「競争」を排除する学校がよい学校である。テストは、ひとりひとりが、自分の学習度を確認するためであって、学校が順位をつけるためのものではない。

知識は人間の成長に役に立つが、知識を得る手段は学校教育だけでない。
学校の良さは、同年齢の子どもがいて、友達を作ることができることだ。しかし、競争をしいられると、たがいに意地悪をする関係になる。徒党を組んで、ひとの嫌がることをすることだけを、覚える。

選ぶ良い学校もなく、「教育委員会」を動かすこともできないなら、自分たちの学校(フリースクール)をつくるしかない。

とにかく、子どもが不登校になったら、まず、子どもがなぜ学校に行きたくないか、理解することである。

映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』、移民と星条旗

2019-05-19 21:03:29 | 映画のなかの思想


2002年の映画「ギャング・オブ・ニューヨーク」の原題は、Gangs of New Yorkで、ギャングでなくギャングズである。

タイトルからは暴力団抗争のように聞こえるが、アイルランド系移民と星条旗に忠誠を誓う者たちの抗争である。この2つに、ニューヨークのスラムに住む人々が分れて抗争していた1840年代から1863年が映画の舞台だ。

もっとも、この抗争がフィクションか歴史的事実か、私にはわからない。

しかし、アメリカが移民からの搾取で繁栄してきたのは、今も変わらない事実だ。また、この時代には、アイルランドで飢饉が起きて、大量の移民がアメリカに来て、最下層をなした。

この映画について日本のインタネットの書き込みを見ると、アイルランド系移民とWASPの抗争であるとか、WASPではなくスコットランド人との抗争だとか、プロテスタントとカトリックの抗争とか、色々な見方が書いてある。また、あらすじの書き込みさえも、同じ映画をみたはずなのに、互いに矛盾している。

確かに分かりにくい映画で、レオナルド・ディカプリオが出ている割には、ヒットしなかった。

この映画のテーマは、ニューヨークのスラムに住む人々が、移民であることを引きずって生きるか、星条旗のもとにアメリカ人として生きるか、に分断されていること、と私は思う。この抗争は、あくまでスラムの住人のなかでの抗争で、ニューヨークには、別に、金持ちと政治家とが特権的な暮らしをしている。その様子も映画で描かれている。

ディカプリオがアイルランド系移民派のリーダを演ずるので、移民派に、つい共感してしまうが、アメリカに次々と色々な国から移民が押し寄せるのだから、同郷意識だけでは、排他的になり、未来がない。本当は、自立したコスモポリタンとして、すべての人間と連帯するか、そうでなければ、星条旗をかかげるアメリカ人になるかしかない。

ダニエル・デイ=ルイスの演じるザ・ブッチャーは星条旗をかかげ、アイルランド系移民であろうとなかろうと、自分の手下に吸収していく。

そして、ディカプリオの移民派とデイ=ルイスの星条旗派の最終的決闘が行われる、その日に、南北戦争(American Civil War)のための徴兵に反対する暴動がニューヨークで起きる。特権階級は暴動を鎮めるため、スラムの住人をみさかいなく、艦砲射撃で殺していく。

ディカプリオとデイ=ルイスは艦砲射撃に吹き飛ばされ倒れるが、気づくと互いにすぐそばに倒れている。
ナイフで刺し合うが、デイ=ルイスが死に、ディカプリオが生き残る。
ディカプリオがヒロインのキャメロン・ディアスとともにニューヨークを去ろうとするシーンで映画が終わる。

スラムを二分して貧民同士が殺し合うより、愛し合うカップルとして生き残る方がましであるというのが、マーティン・スコセッシ監督のメッセージであるようだ。私は単に「ましである」だけだと思う。

いまのアメリカ国民の分断は、新しいアメリカが生まれるための必要なプロセスだと思う。2001年9月11日、同時多発テロの後、街頭で星条旗をふる群衆が現れたが、それは、いずれ、普遍主義に乗り越えられる、と信じている。

北方四島戦争発言での丸山議員辞職勧告の是非

2019-05-18 23:44:29 | 戦争を考える


私は、戦争で北方4島を取り戻すことに、反対である。
そして、戦争で北方4島を取り戻すしかない、と、丸山穂高衆院議員が北方四島ビザなし交流の訪問団の団長にせまったことを、非難する。

しかし、5月17日に野党6党共同で衆院に、議員辞職勧告決議案を、提出したことには、反対である。非難決議にとどめるべきである。

民主主義社会では、人に発言の自由がある。そして、その発言を非難する自由がある。しかし、トンデモナイ発言をした国会議員を多数派の国会議員が辞職させる権利はない、と私は思う。日本では、国会議員は、選挙区の国民によって選ばれたものである。

丸山議員がトンデモナイのは、大阪19区の選挙民の多数派が、トンデモナイか、彼のことをよく知らないで選んだか、どちらかだ。辞職を要求するのは選挙民であって、仲間の国会議員でない。

維新は党派であり、党員か否かは維新がきめることである。維新が丸山議員の戦争発言をトンデモナイと除名処分するのは、適切な判断である。

国会議員が国民によって選挙で選ばれたということを、国会議員は尊重すべきである。選挙民からの辞職要求署名が国会に送られるまで待つべきである。


テレビが過失に復讐を あおるのは まずい、池袋暴走事故

2019-05-18 22:05:39 | 社会時評


きょう(5月18日)の夜、テレビ朝日で、池袋で車にはねられ死んだ母子の遺族の夫が、はねた87歳の老人に、厳罰を求める映像が、流れた。そして、テレビのアナウンサーが、老人が退院したのだから、どうして、逮捕しないのか、と言った。この「逮捕せよ」というのは、警察に「拘置せよ」という意味である。

テレビが過失に復讐をあおるのはまずい。不寛容になっている社会に冷静さを求めるのが、ジャーナリズムの役割ではないか。
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事件は、4月19日に都内の池袋で、87歳の老人の車が赤信号を無視して暴走し、母と子の2人が死に、8人がけがした。その老人は胸の骨折などの重傷を負い、5月18日退院し、現在、警察の任意聴取をうけている。
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老人ははねたことを認めているので、あとは、どうして暴走したか、である。本人はアクセルから足をはずしたが、アクセルが戻らなかったと言っているようだが、私自身は車を運転しないので、アクセルが戻らなくても、ブレーキを踏めば良いような気もする。

これは、力で老人をねじ伏せて、アクセルを踏み続けました、と「自白」させる問題ではなく、裁判で決着つける問題だと思う。

遺族の夫が、老人に厳罰だ、と怒る気持ちもわかるが、自分の悲しみを、過失者にぶつけて、全人生を刑務所で過ごしても償いきれるものでない、とまでテレビで言っても仕方がない。番組プロデューサーは、遺族の夫のしゃべっている映像を出さない方が良かった。本人が時を経て冷静になるかもしれないが、そのときでも、本人の映像が多くの人の頭にのこるから、まずい。

アナウンサーは「逮捕せよ」というが、過失に逮捕して調べるということ自体が、異常だという認識をもってほしい。本件は、身元がはっきりしているし、老人だから、逃げる心配はない。そして、事故を犯した車は、事後の当日、押収されている。証拠隠滅もあり得ない。

過失にも捜査するのは、同じような過失を防ぐ手立てを探すためである。車の技術的な改良、運転手の健康や能力管理の制度的改善で、今回のような事故を防げるかもしれないからだ。

「過失に厳罰を」という不寛容な社会は、やんでいる。社会の格差などへの怒りが、抑え込まれ、おかど違いのところに吹き出ている。

警察は、住民の安全のため、犯罪予防と捜査をする組織であって、処罰をする組織ではない。処罰は、裁判をへてのみ、行われるのが、正常な社会である。

日本国憲法は、次のように刑罰について定める。

第31条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

第32条 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。

第33条 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。

第38条 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
○2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
○3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。