猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

新型コロナ騒ぎに隠れて悠々としている悪党の安倍晋三

2020-03-24 23:23:38 | 安倍晋三批判
 
私自身を含め、新型コロナの騒ぎで、ほかの問題からみんなの目をそらされている。新型コロナ対策は大事な問題だが、トンデモナク腐りきった安倍晋三が政権の座にすわりきっていることを、忘れてはならない。
 
きのう、3月23日のBS TBSの『報道1930』で、森友問題への安倍とその妻の関与を隠すために、財務省近畿財務局職員の赤木俊夫が公文書の改ざんを上司に強要され、財務省幹部や特捜に追い込まれて自殺したことを、新型コロナを押しのけて、取り上げた。この判断を私は評価する。
 
番組のゲストは、自民党参院議員の林芳正、元NHK記者の相澤冬樹、弁護士・元検事の若狭勝であった。
 
本当のことをいえば、日本にとって、東京オリンピックが新型コロナで中止であろうと延期であろうと、そんなことはどうでも良い。そんなのは、安倍晋三が目くらましに仕組んだ猿芝居にすぎない。今年の夏にオリンピックが行えないことは、誰の目にも明らかだ。それより、新型コロナの早期診断と治療の体制を整えるべきだ。
 
赤木俊夫の妻は、3月18日、国と改ざんを事実上指示したとされる財務省の佐川元理財局長に、1億1000万円余りの損害賠償を求める訴えを大阪地方裁判所に起こした。そして、残された3通の遺書を公開した。
 
翌日の国会で、森友問題に端を発した公文書改ざんの再調査の要求にたいし、安倍首相と麻生財務大臣は「財務省が2年前に出した報告書で調査は尽きている」「自死した赤木さんの手記に新事実はない」と言い張り、再調査を拒否した。
 
そのうえで、安倍は「真面目に職務に精励していた方が自ら命を絶たれたことは、痛ましい出来事であり、本当に胸が痛む思いだ」と述べた。なんと遺族の心を踏みにじるものだろう。前にも、赤木の妻は麻生に亡き夫の墓に線香をあげて欲しいと訴えたが、それも拒否されたという。
 
この問題をずっと追ってきた元NHK記者の相澤冬樹は、遺書につぎのような「新真実」が書かれており、第3者による再調査が必要だと指摘している。
 
「すべて、佐川理財局長(当時)の指示です。」
「本省理財局中村総務課長(当時)をはじめ田村国有財産審理室長などから(近畿財務局の)楠部長に直接電話があり、(改ざんに)応じることはやむを得ないとし、美並近畿財務局長(に)報告したと承知しています。」
「美並局長が全責任を負うと言っていました。」
「(会計)検査院への説明は「文書として保存していない」と説明するよう事前に本省から指示がありました。」
「平成30年2月の国会で(中略)麻生財務大臣や、太田理財局長(当時)の説明(中略)は、明らかに虚偽答弁なのです。」
 
これらは、公開された報告書にはないと相澤はいう。
 
元衆議員で元検事の若狭弁護士は、公文書改ざんを財務省ぐるみで行ったのは重大な犯罪で、国民のひとりとして、個人として、大阪高検に告発したという。ところが、不起訴にされて終わったという。
「新しい真実がない」と安倍や麻生が言うのは、彼らが読んだ報告書にはその事実が すでに 書かれていたからではないか、と若狭は言う。
 
赤木の妻は、安倍首相らが再調査しない考えを示したことについて、「安倍首相らは調査される側で、再調査しないと発言する立場ではない」とし、「第三者委員会を立ち上げてほしい」と3月23日に訴えた。
 
3月22日のJBpressで、伊東乾は、「…森友学園を巡る公文書改ざんに関与させられて追い詰められ、心を病み、2018年3月7日自ら命を絶った」と簡単に言い切れない、特捜部のすざましい追い詰めがあったのではと言う。残されたメモから、特捜が全責任を赤木ひとりに押し付けようと、したと伊藤は推測する。
 
2017年6月23日に赤木以外の全員が配置転換され、また、森友問題関連の資料がすべて処分されてなくなった。そして、6月28日18:30に大阪地検特捜部が来庁し、改ざんだけでなく、籠池に便宜を図ったと、赤木を追い詰める。
 
赤木はメモにつぎのように書く。
 
「問題の土地取引があったとき、(赤木は)当該部署に配置されていません。したがって、土地の取引そのものについては何も知りません。知っているのは「改竄」だけで、これについては、極めて不本意ながら「実行犯」にさせられてしまっていた…。」
 
特捜部は赤木に全責任を押しつけようとして、自殺に追い込んだのだという。そして、それに失敗すると、いまは、全責任を籠池夫妻に押し付けている。
 
伊東はつぎのように言う。
 
「しかし、精神科の加療を受けつつ自殺(未遂を含む)した人を身近にもつ一個人として思うのは、これはいわゆる、疾病に基づく「発作的・衝動的な希死念慮」ではないということです。冷静な意識を最期まで保ったままの、覚悟の自殺、「憤死」と呼ぶしかない、凄まじい最期だった。」
 
安倍晋三が東京オリンピックのために良くやった などと たわごとを言わず、もっと怒らないといけない。

サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』を通過儀礼と言う村上春樹

2020-03-23 22:58:09 | こころ
 
村上春樹と柴田元幸の『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(文春新書)を読んで、面白いと思うところもあるが、私と彼らとは、違う種類の人間だと強く思った。小説家とか翻訳家とか大学の先生は信用ならない
 
本書の冒頭で村上は言う。
 
「ぼくは60年代の半ばに高校生だったんだけど、当時『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読むことはひとつの通過儀礼みたいなものでしたよね」。
 
この「通過儀礼」という言葉がわからない。おとなは子どもと違う、おとなに ならなければという思い込みが、この言葉の背景にあるのではないか。どんな おとなにならないといけないと言うのか。
 
村上は私より2歳わかい。高校生の時、私はサリンジャーを読んでいない。サリンジャーをはじめて読んだのは、会社を定年退職したあとの、9年前の東日本大震災で、福島第1原発がブラックアウトし原子炉から放射性物質が吹き出て、枝野幸男が「ただちに人体や健康に影響をおよぼす数値ではない」とテレビで繰り返していたときだ。
 
おとなと子どもと何が違うと言いたいのだろうか。
 
私は、会社を退職する前、悩みをもっている若い社員たちの相手を個人的にしていた。悩みとは自分が何を欲しているかの混乱からくる。ひどくなると、すべてが、重苦しくなり、会社に来るのも、しんどくなる。
 
退職後も、NPOで子どもたちの相手をしている。うつの子もいる。不安症で人に会えない子もいる。ひとは混乱しやすくできているのだ。
 
子どもと大人の違いはなんであるか、むずかしい。おとなは誰かを護り、子どもは誰かに護られると言う人もいる。おとなは自分でものごとを判断でき、子どもは誰かの助けなしには判断できない、と言う人もいる。しかし、おとなになっても、そんなことができない人がいっぱいいる。
 
しかし、村上や柴田が言いたいのは、そんなことではないようだ。「イノセンス」を問題にしている。
 
村上は言う。
 
「妹のフィービーは、幼児的イノセンスがもっとも強く」
「フィービーという存在はあまりにもイノセンスに過ぎる」
「ホールデンが読者に向けて真実を語っているかがよくわからない」
「真実というものの嘘くささ」
「この小説を読んでいちばん僕が怖いなと思ったのは、……ホールデンがどこかへ行って、キャビンにこもって暮らしたいと述べる部分」
「サリンジャーの悲劇というのは、彼がここである程度の、彼にとっての最終的解答の雛形みたいなのをたまたま出しちゃったこと」
「(サリンジャーは)学習障害からPTSDへと向かうっていう、図式的な話になっちゅうね(笑)。おまけに分裂傾向があってとか」
 
どうも、イノセンスであることは悪いことであるようだ。繊細さをもつことも悪いことのようだ。すると、強くなることが「おとな」になることのようだ。
 
村上によれば、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の原稿が最初に持ち込まれたハーコー・ブレイス社の編集者は一読して驚嘆し出版しようとしたが、その上司が「狂人を主人公にした小説」の出版はできないと言い出し、結局、別の出版社、リトル・ブラウン社が出版した。
 
村上が言う。
 
「一度読んだだけでは、あの子(ホールデン)が精神の病でそういうサナトリウムに入っているだというのは、けっこうわかりにくい仕組みになっています」
 
この点は指摘されるまで気づかなかった。しかし、村上や柴田に心の病への偏見があるんじゃないかな?違和感の残るふたりの対話であった。

25年前の3月20日に地下鉄サリン事件があった

2020-03-22 22:17:39 | 社会時評

2日前、私の妻は、地下鉄サリン事件のニュースが新聞にのっていないと怒っていた。25年前の1995年3月20日に、オウム真理教団は、東京都の運転中の地下鉄車両に有毒ガスのサリンをまいたのである。千代田線、丸ノ内線、日比谷線の5つの電車でサリンをまいたのである。

地下鉄サリン事件のあの日、わたし自身は、地下鉄電車が霞が関駅を止まらず通過し、おやと思ったのを覚えている。ちょうど、医療システム構築の仕事をしていて、築地のがんセンターに着いて事件を知った。

同じ日、乳がん手術後の私の妻も、定期検診のため、地下鉄にのって虎ノ門病院に行った。サリンに倒れた市民たちが次々と病院に運び込まれるのを妻は目撃した。

その日、私も妻も、わずかな時間差で、サリンがまかれた車両に乗らないですんだ。

新型コロナウイルスの騒ぎで、地下鉄サリン事件のことが新聞から消えてしまった。オウム真理教団幹部と実行犯の13人に死刑判決を下し、2年前に死刑を執行した。だからといって、サリン事件のようなことが2度とおこらないとはいえない。

韓国の新型コロナウイルスの感染拡大は、新天地イエス教会の集団礼拝スタイルが関係しているという。その教祖の謝罪会見で、信者の子をもつ親が押しかけて「子供たちを返せ」と叫んでいる様子がテレビで映し出された。

オウム真理教団でも、親たちは、子どもが「洗脳」によって教団に囲い込まれ、親子の関係が引き裂かれたと訴えた。オウム真理教団から親たちが子どもを取り戻すことを助けていた坂本堤弁護士は、地下鉄サリン事件の6年前に、教団によって、妻と子供ともに殺害されていたのである。

なぜ、人は、このような宗教団体に誘い込まれてしまったのか。単に「洗脳」と言って済ますわけにいかないのではないか。

新天地イエス教会の元信者は、自分が社会で孤立しているとき、やさしい声をかけられたからだという。そして、教団に参加することで、自分をはるかに超えた強い力に包まれたと感じ、やすらぎを得た。自分でものごとを判断する必要がなくなったという。

エーリック・フロムは、「自由からの逃走」に、強い者にひたすら頼り、自我を放棄するタイプがあり、最も多いタイプという。その強い者は宗教なら救世主や教祖であり、政治では大統領や首相である。

いま、首相に命令されなければ、何をなすべきか、何をなしてはいけないか、わからない人は、オウム真理教の信者や新天地イエス教会の信者とかわらないと思う。

いま、自由・節制・自粛・行動変容・専門家を考える、新型コロナ

2020-03-21 22:47:15 | 自由を考える

けさ、3月21日の朝7時のフジテレビのニュース番組にびっくりしたのだが、新型コロナ対策専門家会議がイベントを禁止しなかったことを、国民に判断を丸投げしていると非難していた。

近代社会では、人は「自由」である。何を行い、何を行わないかは、人が自分で判断するのだ。他人の自由を侵害する、他人の生命をそこなうことには、社会の合意として、法でもって、禁じている。

自分で判断するのではなく、政府に、権威あるものに、命令されたい、というのは、エーリック・フロムのいう「自由の放棄」ではないか。フジテレビのニュース番組関係者はなさけない。

私は誰かに命令されたくない。「自由」を求める。

3月19日の専門家会議の記者会見では、新型コロナの爆発的感染拡大がいつ起きてもおかしくない状態であると言っていた。個人が判断するにそれで十分でないか。あと、何を知りたいのか。

専門会議は疫学チームである。疫学の常識は、「免疫や有効な治療法がなければ、国民の60から70%が感染するまで、流行が収まらない」である。新型コロナが新型である所以(ゆえん)は、みんなが免疫をもっていないことをいう。だから、疫学のできることは、感染者を隔離して感染の広がるスピードを遅らせ、有効な治療法が開発されるのを待つか、そうでなければ、重症者出さずに国民の大半を感染させ、集団免疫の状態に持ち込むしかない。

有効な治療法を開発することも、重症者をださないことも、疫学チームの仕事ではない。疫学ではできないことなのだ。

疫学チームの第1の仕事は、集団感染(クラスター)の早期発見・感染者隔離である。あたりまえのことだが、集団の規模が多ければ、参加者を特定できなければ、対応できない。疫学は、初期消火できなければ無力なのだ。

大規模イベントや人ごみが、クラスター対策班にとっては、困る存在であるのは、あたりまえである。だから、大規模イベントは「禁止」すべきか、専門家会議で議論になったことは驚くべきことであり、副座長の尾身茂の言うとおり、肯定的に評価すべきである。

私は人が集まる場所にわざわざ行かない。私に投票権があれば、東京オリンピックは開催しないに1票をいれる。

3月19日の専門家会議の記者会見で、尾身は一度も「自粛」とはいわず、市民の「行動変容」と言っていたと記憶している。私は、尾身が「行動の選択の自由」を意識していたのだと思う。感染の危険リスクについて説明したうえで、みずから危険を冒すか、避けるかは自由なのだ。

ただ、それ以前に、ひとに感染をうつしてまわらないよう、専門家会議が若者に願いしているから、あとは個人の行動の選択である。

「自粛」とは「自己規制」「節制」の言い換えである。プラトンは『国家(Πολιτεία、ポリテイア)』の3巻でつぎのように言う。

「節制(σωφροσύνη)とは、大多数の一般の者にとって、支配者たちへの従順であり、そして、みずからは飲食や愛欲などの快楽に対する支配者である、ということ」

B. Jowettはこの“σωφροσύνη”を“self-control”と訳している。

「節制」は「享楽」の反対語である。そして、同時に、「自由」を否定する語にもなりうる。

尾身は「自粛」とは言いたくなかったので、「行動の変容」という言葉を選択したのであろう。

「行動の変容」とは、人の行動に漫然とした慣習的なものがあり、危機に面しては、違った選択をしたっていいものがあり、自分でそれを選択すればよい。

命令されて動く国民だと、命令がやめば、反動がおきる。きょう、遊園地に人ごみが殺到したとテレビで放映していた。

きょうの夜のニュースで、小学校の卒業式の練習ができず、ぶっつけ本番で卒業式を行ったと教師がこぼしていた。卒業式を練習するなんて、バカか。卒業式は見世物じゃない。卒業式、入学式なんて、本来、不要なものである。

結婚していたら、ジムや居酒屋に行く必要だってない。花でも買って帰って、ふたりでセックスに励めばよい。

現在の民主主義を壊すのは専門家集団だとよく言われる。今回、専門家会議のメンバーを見ると、非常に地味な経歴である。疫学は地味なんだ。地味な専門家は、国家によってようやく生きながらえている。確かに政府を恐れてはいるが、しかし、今回のメンバーは政府の太鼓たたきになっていない。政府は専門家の知識がない。専門家が政府の指示に従順であれば、もはや専門家の機能を果たせない。

専門家と官僚は区別しないといけない。官僚は組織の中で泳ぐことを知っているが、社会にとって有用な知識の専門家ではない。

もちろん、テレビにでてくる専門家には政府の太鼓たたきもいる。メディアも自前のまともな専門家を抱えたらよいのではないか。

国民の80%が感染する新型コロナ、専門家会議の記者会見

2020-03-20 22:16:02 | 新型コロナウイルス

きのう3月19日の夜、10時50分から新型コロナウイルス対策専門家会議の記者会見がおこなわれた。これまでより、一歩踏み込んだ記者会見であり、木村太郎が評価していた。

これから、日本の都市部で、ヨーロッパのように爆発的感染拡大がいつ起きてもおかしくないというのが、専門家会議の結論である。このメッセージが、どうも、メディアにも国民に伝わっていないようだ。

記者会見に座長の脇田隆字氏(国立感染症研究所所長)、尾身茂(独立行政法人地域医療機能推進機構理事長)、西浦博氏(北海道大学教授)、川名明彦(防衛医科大学)が出席し、50分間、専門家会議の結論を説明し、日にちを越えて、70分間、記者質問を受けた。NHKは、記者質問にはいったところで、中継を打ち切った。CS TBSは真夜中の12時を過ぎたところで、打ち切った。

YouTubeで2時間の記者会見、全体を見ることができる。ぜひ、見るべきだ。
「全国イベント自粛解除「慎重に」 爆発的な感染拡大を警戒 専門家会議が見解(2020年3月19日)」で検索できる。

記者の質問に対し、専門家会議でもめたところは、大規模イベントは制限すべきか否かなどの行動制限のところで、いっぽう、日本の都市部で爆発的感染拡大(overshoot)が起きるとの危機意識は全員で共有されたと答えた。

この専門家会議は、厚生労働省の新型コロナウイルス対策 クラスター対策班の報告書を受けて開かれたものであり、あくまで、疫学上の立場からの議論である。したがって、医療体制をどのように整えるかや、また、分子生物学とくに塩基配列からの知見がまったく含まれず、疫学からの知見に限定したものである。

それでも、爆破的感染拡大に備えて、無症状の感染者は自宅待機、軽症者は民間宿泊施設か一般病院、重症者は感染症病院との対策を提言していた。

今度の新型コロナの特徴は、「気が付かないうちに感染が広がり、ある時点で爆発的に感染が拡大し、医療の供給に過剰な負担をかける」というものである。簡単にいえば、新型だから、飛沫浴びれば簡単に感染してしまうが、無症状の感染者が4割近くおり、気づかないうちに感染を広げてしまうということだ。咳をしなくても、しゃべれば飛沫が飛ぶのだ。

爆発的感染がいつ起きてもおかしくないというのは、感染源のつかめない孤発症例が増えている、都市部では感染の実効再生産数が1を超えている、新規感染者数が増えていることによる推定である。

「実効再生産数」とは、感染者数の増加数にモデル数式を適用し求められた、ひとりの感染者が何人に感染させるか、という数字で、再生産数が1ということは、新規感染者数は現状維持で、1より大きければ、感染者数は爆発的に増える。

あたりまえのことだが、PCR検査が多くなされなければ、再生産数は小さく出る。したがって、PCR検査数を増やさなければ、本当のことはわからない。この点については、専門家会議は政府のPCR検査の怠慢について追及していない。古典的疫学というものは、たとえ担当者に誠意があっても、できることに限界がある。

「リンクのない感染者」という言葉が会見で出てきたが、ウイルスをPCRでふやして、シーケンサーで塩基配列を決定すれば、塩基配列の類似性より、感染の経路や、発見されていない感染者の数を推定できる。分子生物学者が専門家会議に参加していないとは、このことである。簡易検査とともにPCR検査はぜひすべきである。

疫学にもとづく専門家会議の主張する対策はつぎのようになる。
(1)クラスター(集団感染)の早期発見対応
(2)感染者の早期診断、重症者の集中治療
(3)市民行動の変容

北海道での大規模イベントの自粛要請は、道民の「行動変容」に効果にあったという。行動変容とは、感染リスクの高い行動を避けることである。

地域によって感染状況が異なるので、地方自治体に感染状況に応じた対応の指揮ができる専門家が現状では少ないと言及した。しかし、急いでそのような専門家を育てることができないから、現在の専門家集団の討論をおおやけにし、地方自治体や民間医療機関に利用してもらうしかないのではないか。

それと、クラスターの早期発見とは、限界があり、簡易検査による集団検診を広めるしかないのではないか。

今回、専門家会議が、社会的隔離(social distancing)を実行可能な程度に緩めることを提言したのは一歩前進である。経済活動をつづけるために、人と人の接触を一律的に制限することはできないとし、無駄な接触を避けることを強調し、長期的に持続できる社会的隔離策とるべきとした。また、感染者の隔離を緩めたのも現実的である。

また、学校一斉閉鎖を専門家会議が提言したことはなく、政府が勝手にやったことであるとした。児童が感染を広めている証拠はなく、学校閉鎖については専門会議で議論していないと尾身は答えた。2月24日の全国学校閉鎖は政府の危機感の表れであろうと、記者に答えていた。

しかし、「爆発的感染拡大がいつ起きてもおかしくない」という危機感がメディアに伝わらないのは、1つは、本当の感染数を専門家会議がつかんでいないこと、もう1つは、疫学の常識「免疫も治療法もないなかでは、人口の60から70%が感染するまで流行はおさまらない」をハッキリと言わないことだと思う。

[追記]
記者会見で、東京オリンピックができるかの記者質問に尾身は言葉を濁し、何を言っているのか理解不可能であった。
専門家会議での結論からすると、すべきではないことになる。
なぜなら、海外からの人の流入のために、変異した新型コロナウイルスが感染をまた引き起こすだろうし、また、地方から東京に観戦にきた人が感染して地方に戻って、まだ感染の広がってない地域に流行をもたらす可能性もある。
東京、大阪、兵庫、愛知が、これから爆発的感染(overshoot)の予測されるところである。