レフ・トルストイの童話は教訓臭さが強く、一般には面白くない。
しかし、彼の『人にはどれだけの土地がいるか』を最近読み直して、小説のようにデテールが書かれており、教訓臭さが弱められていることに気づいた。悪魔がその童話に出てくるが、悪魔が出てこなくても、小説として成立する。主人公のパホームはごく普通の農民として描かれている。
それとともに、中村白葉の訳(岩波の文庫)に誤りがあり、なぜか、ネット上で誤りがそのまま引用されているのに気づいた。それは、「1デシャティーナは約1092ヘクタール」という注釈である。
ほんとうは、「約1.092ヘクタール」である。100メートル×100メートルの土地である。
パホームは、「あまり大きくない女地主」から、林のある15デシャティーナの土地を借金して買うのである。小作農パホームは、ささやかな土地を借金で所有したのだ。「あまり大きくない」とは、女地主がもっている土地が120デシャティーナ(1.1km×1.1km)だということだ。
パホームがその土地を買う動機は、その土地の新しい管理人が、何かといって周りの農民から罰金を取り上げ始めたからだ。パホームもこれに苦しめられ、家でイライラしだす。
〈罰金をとられるたびに、パホームはうちの者を罵ったりぶったりした。〉
とにかく、彼は、借金でささやかな土地を買い、自作農になる。
〈パホームは種子を借りて、買い取った地面に作づけをした。作物はよくできた。1年のあいだに彼は、女地主にも義兄にも借金を返してしまった。〉
このささやかな成功で、彼の欲望がたかまり、また、イライラのもとが生まれる。
〈牛飼いが彼の草場へ牛どもを追い込んだり夜会の馬が作物の中へ踏み込んだりするのであった。〉
とうとう周りの農民と争いになる。
〈こうしてパホームは土地を広く持ったけれども、世間を狭く暮らすようになってしまう。〉
英語訳をみると、「広く(more)」も「狭く(worse)」も比較級である。ロシア語の原文もそうだろうと思う。「パホームは土地をもったけれど、村での居場所がなくなった」という意味であろう。彼の土地はあくまで15デシャティーナで、広くない。
この後、移住し、より大きな土地(50デシャティーナ)を借りる。そこでも一応成功するが、悩みの種ともめ事を抱え、さらに大きな土地を求めて旅たつ。そこの村長は、日没までに歩いて周った土地を1000ルーブルで売ると言う。
結局、ここで、大きな土地を得るために、朝早く起き、ひたすら歩き続け、ついに、日没と争って走しることになる。元の地点に戻った瞬間、心臓が破裂して死ぬことになる。
筋だけ述べると教訓的になるが、デテールがそれを薄める。
教訓は、成功は単なる運で、たまたまの成功が欲望を強め、また、周りとのいさかいを作り、不幸になるだけということである。
勤め人として、私のように成功しなかった者を慰める物語りである。働きすぎてはいけないのだ。偉くなろうとしてはいけないのだ。