けさ、目を覚ました時、TBSテレビの『サワコの朝』(総編集編)がかかっていた。ピアニストの清塚信也が、姉とふたりで笑って遊んでいたとき、母親に「いま笑うな、人生の後半で笑え」と言われたと語ったので、びっくりした。
「小学校低学年の僕らに"笑う暇があったら練習しろ"って言うんです。」
「あんた達は音楽家になれなかったら、生きていかなくていいですってハッキリ僕らに言うんです。」
しかし、冷静になってみると、親が自分の思い込みで子どもの未来を決め、英才教育をする、これは意外とあることだ。音楽家だけでなく、左官業などの職人の世界でもある。受験勉強をしいる母親たちも同じである。そして、それに感謝している人たちも多い。
清塚はさらに語る。
「毎朝5時起きの朝練から始まって。たたき起こされるんですけど、時には眠くて起きれない時があるじゃないですか?そしたら母は “いい?人はいつかず~っと寝るときがくるんだから今は起きなさい” って。」
清塚の場合は、親が英才教育をさずけることに、疑問をもっている。自分の子どもには、自由に生きろと思っている。そして、ピアニストになってから、それを母に告げると、母は「姉とあんたの教育は失敗だった」と答えた。
切り抜きの総編集だったので、清塚の母親が何を指して何を「失敗」と考えたか、私には わからなかった。
私のことを言おう。認知症になって死んだ私の父は、「兄の教育に失敗した」と生前、私に語っている。父は兄を厳しく教育し、そのことで、父と兄との間に自然な心の交流が持てなくなった、ことを言っている。(もっとも、父と兄のばあいには、父が戦争に徴集され、兄の誕生を見ておらず、敗戦1年近くたって、4歳過ぎの兄を見たことにも一因があるだろう。)
私は父に叱られたことは、たった一度しかない。小学生のとき、兄にそそのかされて、父を物干しざおで突いたときだ。だから、親は子に愛情をいっぱい注いで育てるものだと私は思っていた。何か強いられたことはない。
清塚の母親は、姉と清塚のふたりへの教育と、妹への教育と、切り離して話すから、親子の情に何か問題を感じたのであろう。
私は、人間を、体験を通して得た記憶で動く機械だと思っている。何が好きだ、何が嫌いだも、偶然の個人的体験で形づくられると思っている。才能も思い込みで教育で形づくられたのかもしれない。教育も、記憶を形づくる体験だ。
私は「英才教育」は不要だと思う。「英才教育」は自己を見失う。「洗脳」と同じである。洗脳と教育に大差はない。
「英才教育」に限らず、自分の受けた教育を批判的に吟味し、思い込みから「自由」になることを、私は重んずる。もちろん、偶然に生じた「好き嫌い」の感情を否定せず、だいじにすればよい、と思う。
「愛情のない子育て」は親として教育の失敗である。