猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

トランピズム、ディープストーリー、アメリカの分断は他人ごとではない

2020-11-23 22:48:55 | 社会時評
 
きょうのTBS『報道1930』に、森本あんり、中山俊宏がゲストで参加し、『米大統領選挙の主役となった「陰謀論」 その源流はアメリカ建国にあった』というテーマで話し合った。
 
森本あんりは『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)を書いた神学者である。中山俊宏は、2011年9月17日に始まった「ウォール街を占拠せよ(Occupy Wall Street)」運動を評して、機会の平等を訴える「アメリカン・ドリーム」が終わりを迎え、結果の平等を求める時代が来ていると言ったアメリカ政治学者である。
 
ところで、2日前の朝日新聞《耕論》で、宗教研究者の中村圭志がつぎのように言っていた。
 
〈トランプ現象は宗教に似ています。〉
〈自己実現できなかった人たちは、成功した人たちへの怨念を抱かざるをえない。それを救い上げた「救世主」がトランプ氏です。〉
〈今回の選挙では、陰謀論が飛びかいました。先進国では珍しく宗教の影響力強い米国社会には、「信じやすい」風土があります。〉
〈米国でさえ、若い世代の宗教離れ進み、無神論者が増えています。彼らには、トランプ氏のメッセージは響かない。トランプ現象は、衰退していく宗教の最後のあだ花のようなものになると思います。〉
 
私はこれ読んで、中村があまりにも人間をバカにしているのに言葉を失った。(もちろん、彼にインタビューした記者のまとめ方に問題があったのかもしれないが。)
 
森本も中山も、トランプが大統領選で前回よりも1千万票も上積みした約7300万票をとったことを真剣に受け止めていた。
 
トランプに投票した人たちを「自己実現できなかったひとたち」と呼んでよいのか。彼らは真面目に働いている、あるいは、働いていたが職を失っている人たちである。そして、そのような状況は今に始まったことではなく、1980年代に日本が米国に猛烈に輸出したころから始まったことである。安い賃金で働いた日本人にも責任があるのだ。
 
森本は、アメリカの労働者(workers)がトランプの嘘に騙されていると単純に見てはいけないと、「ディープストーリー」という視点を紹介した。
 
「ディープストーリー」とは、「心の奥深くで感じる物語」のことらしい。それによると、丘の向こうには豊かになれるというアメリカン・ドリームがあると信じ、人々が長い行列に辛抱強く並んでいる。が、列に割り込んで先に行くものがいる。それは移民であり、マイノリティであるという。すなわち、不正があるというのが、ディープストーリーである。
 
人を追い落とし成功していくことを「自己実現」だと思わない人たちがいて何が悪いのか。成功していく人たちを不正しているとみてどこが悪いのか。私は、彼らは真実の一部を見ていると思う。
 
これに、南北戦争(Civil War)で北部の人々が南部の人々からすべてを奪ったという怨念が絡んでいると思う。アメリカのカントリー・ソング「I Am a Rebel Soldier」を聞くと、そんな怨念の声が聞こえてくる。怨念には真実がある。
 
アメリカの分断を上から目線で批判しても解決しない。同じ問題は、日本でも起きていると思う。

政府の新型コロナ対策は危機意識がない

2020-11-22 22:35:54 | 新型コロナウイルス

きのう、その前日の政府の分科会(尾身茂会長)の「Go Toキャンペーン」の運用見直しの提言を受け、

〈「Go Toトラベル」について菅総理大臣は、感染拡大地域を目的地とする旅行の新規予約の一時停止などを導入するほか、「Go Toイート」は、食事券の新規発行の一時停止などの検討を、都道府県知事に要請する考えを示しました〉

とNHKテレビで報道していた。

いっぽう、きょうのテレビは、各局とも、日本各地で観光客の混雑ぶりを報道していた。びっくりしたのは、マスクをしていない観光客や、路上を食べながら歩いている観光客が映っていたことだ。観光客の危機意識が欠けている。この3連休に行楽地に出かけた国民が10%未満としても、このありさまは感染爆発をさらに後押するだろう。

政府の「検討を都道府県知事に要請する考え」というのが、あいまいで、「検討を要請」とは、何を検討してもらいたいのか、意味がわからない。また、「考え」とは、まだ行動を起こしていないという役人言葉と思われる。

結局、この3連休の「Go Toトラベル」と「Go Toイート」を止めたくなかったので、分科会の開催を3連休の前日に設定し、既成事実として、行楽地の混雑をわざわざ作ったといえる。

マスクをしない観光客、食べ歩きの観光客の行為は、危機意識をもたない政府にも責任がある。

横浜市でも、最近は、20人にひとりの割合でマスクなしで歩いている。通勤電車や駅構内は新型コロナ流行以前に戻って、混雑している。はやっているスーパーでは、人と人の間隔を1m開けるということが無視されている。

「経済を回しながら新型コロナ対策をする」という政府方針が間違っている。「新型コロナ対策をしながら経済を回す工夫をする」に切り替えるべきである。

また、新型コロナ対策専門家会議を政府が解散したのは間違いで、以前の専門会議には疫学調査をボランティアで行う部隊がいた。西浦博教授のグループである。飲食店が感染を広げていると政府やメディアが言っているが、感染経路の2割にも満たない。8割がほかで新型コロナに感染しているのである。

誰からうつったか、どの店でうつったかではなく、どのような状況で感染したのかを疫学的に究明しないといけない。それがないと、人混みから感染するのを防げない。

3月に始まった新型コロナの第1波は、町に出かけない、人混みを避けることで、収まった。疫学調査が進むまで、マスクとともに、三密を避けることでしか、国民の自衛手段はないようだ。

トランピズムは反知性主義である、火のないところに煙は立たない

2020-11-21 22:37:23 | 社会時評


ジョー・バイデンが11月初めの大統領選でかろうじてドナルト・トランプに勝った。バイデンが勝てたのは、これまで投票しなかった人々が投票したからであって、トランプは前回の大統領選より多くの投票数を得ている。

けさの朝日新聞《耕論》で『トランピズム 続くのか』の特集をしており、中山俊宏、中村圭志、伊藤潤がインタビューに答えていた。「トランピズム」という言葉まで できたのかと思ったが、意外だったのは、数年前に流行した「反知性主義」という言葉がどの論者からも出てこなかったことだ。

私は「反知性主義」という切り口が今でも有効だと思う。

「反知性主義」という言葉は、1963年のリチャード・ホーフスタッターの『Anti-intellectualism in American Life(アメリカの反知性主義)』(日本語訳はみすず書房)に初めて出てきたのではないか、と思う。「反知性主義」とは、権力から疎外されている民衆が知的エリートに対してあがらうことである。ホーフスタッターは「反知性主義」を批判する立場から本書をだした。

トランプは、明らかに、知的エリートへの不信を利用して、政治の場に出てきた。

しかし、この言葉を日本で広めたのは、森本あんりの『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)ではなかろうかと思う。森本は「反知性主義」に同情的で、そこにアメリカの民主主義の土壌を見いだしている。

(昨年4月21日の私のブログ『森本あんり、「反知性主義」は民主主義の原点』を参照のこと)

知的エリートへの不信はいまに始まったことではない。古くは、新約聖書の「福音書』の中に見られる。日本語聖書で「律法学者」と訳されているものは、「律法」とも「学者」とも無関係で、“γραμματεύς”、すなわち、読み書きできる者をいう。

イエスの生きた時代では、祭司の家系以外に生まれた者が、社会的評価をうけるには、勉強して、読み書きできる者になるしかなかった。だのに、底辺の民衆から、読み書きできる者が民衆から憎まれたのである。知的エリートは民衆の味方と思われなかったのである。

今日、弁護士という職業がある。法治国家というが、普通の人が「六法全書」を読んでも何を言っているかわからない。法治国家とは、何かわからない「言葉の檻」である法に人を閉じ込めているにすぎない。「法」によって、弁護士は金儲けをして、私たち民衆を搾取している。そういうふうに、民衆から見えているのだ。

「学者」である私の兄は大阪で死にかけている。その娘は、40代半ばだが、6年前に夫に出ていかれ、先日、家裁から、離婚調停への出頭命令が来て、パニックにおちいっている。娘の母は精神を患って数年前に死んでおり、弟は田舎で職を失って引きこもり状態である。娘はコロナ騒ぎで飲食店の仕事を失うかもしれないという状態にある。

相談先がないということで、電話を受け会ったのだが、夫には弁護士がついていて自分は困窮のどん底に落とされると思いこんでいた。離婚調停には、直接、弁護士が登場してくるのではないから、弁護士の力に頼らなくても、なんとかなるはずだ。パニックになる必要がない。

彼女だけでなく、知的エリートという者は、金のために動き、貧乏人の味方になってくれないと思っている人たちが多い。

本当は、ハンセン病患者の訴訟を引き受けた徳田靖之のように、東大法学部を卒業しても まともな人もいる。したがって、学歴だけで人をレッテル貼りする「反知性主義」ではいけない。日本学術会議任命拒否事件で、「叩き上げ」の菅義偉を支持するのは、レッテル貼りの「反知性主義」である。

いっぽう、火のないところに煙は立たない。高等教育を受けたものの多くが、自分の生活しか考えていないのも事実だろう。高校を中退して中卒の資格しかない息子は、毎日毎日、博士号をもっている私の前で、高学歴の者の悪口を言っている。

人混み(三密)が新型コロナ感染の起こしていないか、感染経路の疫学調査が必要

2020-11-20 22:13:19 | 新型コロナウイルス


ついに、私のNPOの放デーサービスの子どもに新型コロナ感染者が出た。幸いにも、私のところでクラスターが発生したわけでもなく、利用者もスタッフも、普段から、体温測定、マスク着用、シールド越しの対面指導、手洗い、さらに、部屋の換気、机や椅子のアルコール消毒を行っており、保健所の判断で、サービスの閉鎖にはいたらなかった。

しかし、きょう、神川県も新型コロナ新規感染者数が過去最多の208人になった。東京も2日連続で500人を超えた。全国でも新規感染者数が過去最多になっている。

「飲食店が感染源だ」「5つの小と心がけ」といっているだけでは済まされない時が来ていると思う。

新規感染者の約6割が感染経路不明で、残りの半分が職場や家庭感染で、飲食店感染は全体の2割だとされる。職場や家庭感染はどこから新型コロナウイルスを持ち込んだからであるから、結局は8割が感染経路不明である。

小池都知事の「5つの小」では、2割の飲食店感染しか予防できない。国や地方自治体に疫学調査をしっかりやっていただき、感染経路をハッキリさせて欲しい。

とくに、マスクや手洗いは普及しているように見えるのに、感染者数が増加しているのは、どこか、おかしい。

以前の新型コロナ対策専門家会議は、密集、密接、密室を避けようと言っていた。これって、人混みがいけないといっているのではないか。人混みがあるのは、通勤電車、駅構内、はやっているスーパーなどではないか。

経済と感染予防の両立を言いながら、経済優先で、政府が人混みを煽っていることはないか。GoToキャンペーンを止める必要があるのではないか。人混みを避けても経済はまわるのではないか。新型コロナ対策を優先させたうえで、経済をまわす工夫を政府はすべきではないか。

基本に戻って、人混みを避けるよう、政府が再度呼びかける時がきたと思う。

加藤陽子の指導教授 伊藤隆の『歴史と私』を読む

2020-11-19 23:00:32 | 歴史を考える


加藤陽子を菅義偉がなぜ日本学術会議の会員に任命拒否したのか、私はいまだに興味をもっている。というのは、任命拒否された6名のうち、菅が名前を知っていたのは加藤だけであるからだ。あとの6名は、加藤だけを拒否したといわれないように、道連れにされた可能性がある。

日本語ウィキペディアによると、加藤陽子は、山川出版社の教科書『詳説日本史』でつぎのように書いたことで、「自虐史観」の学者だと右翼から非難されている。

〈「日本軍は南京市内で略奪・暴行をくり返したうえ、多数の中国人一般住民 (婦女子をふくむ) および捕虜を殺害した (南京事件)。犠牲者数については、数万人~40万人に及ぶ説がある」〉

この記述に対して、

〈上杉千年は「理科の教科書に〈月に兎がいるという説がある〉と書くに似ている」と非難し、秦郁彦も加藤について「左翼歴史家のあかしともいうべき自虐的記述は、正誤にかかわらず死守する姿勢が読み取れる。つける薬はないというのが私の率直な見立てである」と非難している。〉

また、ウィキペディアにつぎのようにも書かれていた。

〈加藤の東大での指導教授だった伊藤隆は「彼女はぼくが指導した、とても優秀な学生だった。だけど、あれは本性を隠してたな」と語ったという。〉

それで、伊藤隆に興味をもって、『歴史と私』(中公新書)を図書館から借りてきている。伊藤が史料発掘に努めた近代日本史研究家であることと、共産党が大嫌いであることが、読み取れた。

この共産党が嫌いというのは理性的思考を越えた信仰のようなもので、共産党の言うことには、何でも反対する。まるでトランプ大統領のオバマ嫌いと似ている。

「第5章ファシズム論争」で、彼はつぎのようにいう。

〈アウシュヴィッツや「収容所列島」とまで言われた膨大な数の強制収容所をもつような体制こそを、ファシズム体制や共産主義体制を含めて全体主義と呼ぶのが適当なのではないでしょうか。〉

この第5章では、伊藤は「戦前期の日本をファシズムという用語で規定することによって、見えない部分が出てきたり、矛盾が生じてしまうのではないか」と批判している。それでは、「戦前期の日本」の体制はなんなのだろうか。「全体主義」体制なのか。どうも、伊藤はそう思っていないようだ。「全体主義」のレッテルをつけると、「共産主義体制」と一緒くたにされ、戦前の日本の良いことが否定される、と思っているようだ。

抑圧的体制であるという意味で、丸山眞男のように、「上からのファシズム」とか「日本的ファシズム」と呼んだって別に悪くないと思う。

伊藤が監修した育鵬社の中学教科書「みんなの公民」につぎのようにある。

〈政治の最大の目的は、国民の生命と財産を守り、その生活を豊かに充実させることにあります。〉

この観点からすれば、イタリアのファシストだって、ドイツのナチストだって、良い面があったと考えている人がいても不思議でない。自由、平等、共感がこの観点から抜け落ちている。

「第3章 木戸日記研究会のことなど」にもわからない議論が出てくる。昭和初期政治研究における視点として、2軸を設定する。1つの軸は「進歩(欧化)」対「復古(反動)」であり、もう1つの軸は「革新(破壊)」対「漸進(現状維持)」である。

私は、まず、伊藤の言葉のセンスがわからない。コンサルティング・ビジネスでは、価値観と結び付きやすい言葉を2軸の設定に使わない。「進歩」「反動」なんて、伊藤の嫌いなはずの共産党の言葉ではないか。この場合は「欧化」「国粋」であろう。「革新」「漸進」もわかりにくく、「破壊」「漸進」ではないか。

それでも、伊藤が「革新」「保守」を避けたのは、「保守」に後ろめたいニュアンスがあるからだろう。それが、「第4章 革新とは何か」を読むと明らかになる。

ところで、私は、非常に、単純に考えている。
「進歩」というものはない。人間の歴史は、言葉と文字の発明によって、多様化をたどるだけである。
左翼とは、人間が人間を支配することを否定するものであり、右翼とは人間が人間を支配することを肯定するものである。
加藤陽子の任命拒否は、思想の自由と学問の自由の否定であり、撤回すべきである。
加藤陽子は、指導教授の伊藤隆よりずっと人格が優れている。