青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

中国の野生植物 Wild Plants of China リンドウ科Gentianoceae-33

2021-03-12 20:51:00 | コロナ 差別問題と民主化運動 中国の花


★3月10日の記事に、いいね!その他、ありがとうございました。


読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*毎回(リンドウの項目奇数回)のブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けることにします。

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イジメに負けずに頑張ってね!

愛ちゃんと江さん。

メーガン妃とヘンリー王子。

眞子さんと小室君。

人類は、なんで、こんな汚らしい人たち(上記彼らを攻撃する“正義”の大衆たちの事です)ばかりの世界になってしまったのか、、、それを想うと、情けなくなってきます。

「空気」の伝染病(あるいは教育の名を借りた洗脳の結果)、、、、、なんだろうな、きっと。みんな、知らず知らずのうちに“正義”という不治の病に侵されてしまっている。

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次の(第34回)に含まれる「サクラソウリンドウ?」というのをチェックしだしたら、にっちもさっちもいかない状態に陥ってしまいました。「小竜胆組」スタート時に、「詳しい検討はやめます」と前もって念を押していたのだけれど、うっかり踏み込んでしまって、後悔しちゃっています。

それと昨日は、別の用事(メール返信の要件)が2つ立て続けに入って、それらにかかりっきりになってしまった。それで、奇数回の第33回共々後回しになってしまいました。

そういうわけで、この文章も、途中で何度も中断しながらくだくだ書いているので、いつも以上に支離滅裂です。

あらためてはっきりしておきたいと思います。僕がたぶん(「はっきり」で「たぶん」も矛盾していますが)バカ/低知能であることは、ほぼ間違いない事実であると思います。読者の方も、それを前提で読み進めて行ってください(凄い責任逃れ、でも本当です)。

おそらく「偏差値」とかも、相当に低いのだと思います(「偏差値」の意味知らないんだけれど、笑)。「知能指数」とか「IQ」(どうやって測ればいいのだろう)とかも低いんじゃないでしょうか。だからといって、世の中から排除されてしまう道理はないと思うのですが、、、。まあ、世の中の仕組みからすれば、仕方がないのかも知れないですけれどね。

何度も繰り返して言うように、僕は、英語も中国語も全く出来ない。日本語も(U氏曰く)全然ダメなんだそうです。僕自身は、U氏よりはマシ(マスコミ記者の紋切り型文章は最悪!)だと思っているのですが、客観的に考えれば、やっぱりかなり程度が低いのかも知れません。

僕のポリシー(基本姿勢)は「何でも受け入れる」ことです。唯一受け入れられないことは、「特定の現象しか受け入れない」ということに対してです(その現象を支持するかしないかとは全く関係がなく)。

「特定の現象しか受け入れない」ということは、換言すれば、「正義」とか「事実」とか「自由」とか(そのほか全ての事例)に対して、答えを一つに限定することですね。もちろん「なんでも受け入れる」からには、「受け入れない」人たちも「受け入れ」ねばならないわけで、大変です。

まあ、「なんでも受け入れる」というのは、言葉を換えれば「出鱈目」「無秩序」と同義かも知れず、今の日本の社会構成の中では、馴染まないのだと思います。

「受け入れる」「受け入れない」は、本人たちは自分がそうであることを自覚していないことが多いのですね。実は、「受け入れている」と思っていたものが、本質的には全く「受け入れていない」状況にあったり、或いはその逆であったり、、、概ね「空気」という巨大な力(実質的な全能神のようなもの)の中で、いつの間にか為されている。

例えば、冒頭にも記したように、言葉について、度々書いているわけですが、最近、次々と出現する新しい言葉(概ねマスコミを通しての“有名人”の発言などを基にした)の「定義」のようなものに、凄い違和感を覚えているのです。いわゆる「若者言葉」ではないです(それはそれで面白いと思うし)。普遍的に使われる普通の言葉に対して。

これも何度か書いていますが、例えば前回の記事でも使った「世代」という表現。この言葉が、最近別の意味(同学年)を指す(特定する?)ようになってきているのですね。いや、新しい意味を持つことは、悪い事ではないと思うのです。

漱石は当て字(それも意外に思える字)を頻繁に使っていました。ある方が指摘していましたが、「(言葉に広がりを持たせるために)意識して当て字を使っているのではないか」と。なるほど、、、と思うところがあります。鴎外が文中にやたらと差し入れるドイツ語やフランス語も、気障や嫌味に感じる読者も確実にいるわけでしょうが、(本人はそれを承知の上で)敢えてレトリック(この言葉自体が曖昧ですね)的な意味合いの許で行っているように思えます。

言葉は、体系的に構築されることで、他者に対する意思の疎通が可能になるのだと思います。それがバラバラのままだと、うまくいかない。といって、体系的に組み立てられた言葉が意思の疎通を司る絶対的な最終形態とは限らないと思います(僕の自家製概念「動き続ける極相」とオーバーラップする)。そこに、(体系に則ったうえでかつそれを破壊する)自分の感性に基づく表現が加わって、一歩先の意思伝達が可能になるのではないかと(僕はそんな偉そうな事を言える立場じゃないですが、笑)。

北杜夫の「白きたおやかな峰」という小説(ほぼ実体験が基)を三島由紀夫が激賞しました。が、唯一、批判を加えた。 “我々言葉の世界で生きるものにとっては、ひとつひとつの言葉が命である。安易に言葉を選ばず、責任を持たねばならない。「白きたおやかな峰」は、言葉として間違っている、「白きたおやかなる峰」あるいは「白いたおやかな峰」とするべきである”という要旨(うろ覚えの意訳)です(その文章は記事にはせず直接本人に送ったのだそうです)。

さすが三島由紀夫だと思う。これは非常に大事な指摘です。しかし、、、、北杜夫は、そのことを分かっていて、あえて異質の次元に置かれる“本来相容れない”表現様式を組み合わせた。

彼は、実際にディラン初登頂を目指す遠征隊の一員(ベースキャンプに常駐した専属医師)であるわけです。彼が全身で感じたカラコルムの「実際の空気」を、(それを体感したことのない)読者に言葉で伝達するのは、不可能ともいえるほど難しい作業です。体系に則った普通の手段では伝えきれない。

北杜夫にとってのディランは、2つの相反する側面を持っているはずです。透徹、荘厳、全身全霊を集中して対さねばならない、(一時の気も抜けない)スリリングな挑戦対象。それは「白い」ではなく「白き」でなくてはならない。と同時に(全ての高峰雪嶺がそうであるように)「母なる峰」でもあるわけですね。そこには、ぼんやりした暖かさや、解き放たれた(失敗とかずっこけとかを甘受した)諦念にも繋がる気分が伴っている。それを受け入れるための表現は「たおやかなる」ではなく「たおやかな」でなくてはならない。一つの言葉に同時に、相反する次元の感情を込めた。その使い方は間違ってはいるけれど、ここ(彼の感じたディラン)はこれでなくてはならなかったのです。

言葉の定義に囚われず、動きを持たせて、その時々で変化させていくことは、悪い事ではないでしょう。古くからある言葉は尊重して使い続けるべきだし、自分(あるいは自分たち)の感性で、新しく組み立てて行っても良い。

ただ、僕が嫌なのは、広げる、のではなく、広がった部分に意味を限定させてしまう、ということに対してです。無論、意思の伝達の際には言葉の意味を限定せねばなりません。その場その場に於いては出来得る限り言葉の意味を明確にしておく必要があります。しかし、新たに意味を持った言葉が普及することで、それのみに(普遍的な状況下で)意味を固定してしまい、本来の言葉の持つ意味が否定されてしまう、という傾向がまま見られるように感じます。

一つを認めることで、他を排除していく。例えば、若ければいい、新しければいい、ということではない(むろん年食ってればいい、古ければいい、でもない)はずなのですが、なんだか、その価値観に(当たり前のように)追従しなければならない「空気」が形成されてしまっている。

ここんところ、スタバとかイオンとかの隅っこに居座ってWi-Fi拾って作業をしていると、(スタッフと客とのやり取りで)一日に100回ぐらい「大丈夫です」の会話が聞こえ、辟易してしまっている、ということも書いたですね。その表現(そこでの「大丈夫」の使用)は「違うだろ」と突っ込みたくなって、そのうちチャンスがあれば「大丈夫じゃありません」と答えようと思っているのだけれど、まだ実行していません。実行どころか、スタバやマクドでコーヒーをオーダーする際、若い店員さんに「お食事は大丈夫ですか?」とか言われて、僕自身もうっかり「大丈夫です」と答えてしまったりします。情けなくなってきます。

しかしまあ、(我彼の使用言語の意味が異なると)自分の使ってきた言葉の意味が、本当に正しいのだろうか? と考え込んでしまうことも有ります。

僕が言葉について蘊蓄を重ねるなど、考えてみれば笑止千万なことでしょうけれど(その資格が最もない人間かも知れない)。

この「リンドウ」のテーマを始めから、「ロゼット」「クラスター」の言葉の意味を、ずっと考えています。

それに関わって、2~3日前に書いた記事(で使った言葉)で気になったことがあって、、、。

その話題に入る前に、ちょっと別の話を先にしておきます。

パソコン(というかインターネットを使った作業、SMNとかでしたっけ?未だに何のことかわからないんだけれど)は、人類を破滅します。「自分で考える」という機能を破壊している。

例えば、出てこない文字が幾つもあります。(それ以前に自分の思った文字が打てないですね、勝手に決められてしまう)。いわゆる差別用語も規制されている。そのこと自体が、本質的な意味での差別に繋がる、と思うのですが、、、。

力(空気)に従わねば、先に進めない、という世界に、気が付かないうちになりつつある。教育、文明、科学の許に(洗脳と同義語だと思う)。

「空気」の力で、無理やり(かつ無意識に)「統一」される“民主社会”が形成されつつあります。特定の指導者によってなされる「共産主義」よりも、ある意味はるかに強大な「共産主義」社会です。

このあいだ、久しぶりに(福生の「餃子の満州」ではない方の)近所の餃子チェーン店で餃子を食べました。注文の仕方が分からない。以前にあったメニューがどこにもない。店員さんに訊ねたら、電子パネルにタッチしてオーダーするのだそうです。これじゃ、僕みたいに、「一番安いメニュー見つけて注文しよう」なんて人間は、どうして良いか分かんなくなってしまいます。メニュー表であれば、開ければとりあえず全部が出てくる。全部とは言わないまでも、単純に何ページか開いて行けば、全部がチェックできる。文字通り「俯瞰的」というやつです。

電子パネルだと、順番に従って作業を行わない限り、先に進めないのですね。ぼんやり考えることは許されなくて(は大袈裟かな?)、機械の指示に従いつつ「体系的」な作業を続ける能力が必須となってくるわけで、僕のような知能の低い人間は、餃子を食べることも出来なくなってしまいそうです。

パソコンで、文字が出てこない、という話をしていたのです。それで気になったのが、僕が度々使っている(さっきも使った)「機能」という言葉の関係で、、、、僕は「機能的」と「き質的」という言葉を、しばしばセットで使っているのですが、「機質」と書こうとしたら、出てこない。どうやらそういう言葉はないらしくて、いくら頑張っても「機質」は出てこない。全部「気質」に変換されてしまいます。むろん「気質」でも良いのですが、その言葉の解釈の中には、僕が示そうとしている意味合いは含まれてはいないみたいなのです。

まあこれは、僕が間違った思い込みで使っていたのだろうことは確かなのでしょうけれど、、、。どうも納得がいかない。「気質」「気質的」という言葉には、いわゆる一般に使う「気質が云々」ということ以外にも、もっと幾つかの(よりベーシックな)意味合いが含まれている、と思っていたのですが、、、、しかし僕が頭に思い浮かべていた「き質」は、どこにも記されていません(その字自体は「機質」でも「気質」でも良いのですが)。

最も近いのが「器質」です。器官の特性。これは、僕の言おうとしている意味と、ほぼ一致しているように思えます。ただし、この用語は(いわば医学用語で)人間の器官に限定されて使われます(僕の主治医のF先生との会話にもしばしば出てくる)。細かく言うと、臓器や器官に認められる形態的・解剖的性質。人間以外の対象には用いられないのですね。ということで、僕の示したい意味が含まれる「き質」に相当する語は、いろんな方法で検索しても出てこない。

それで考えました。「機能」「機能的」の反対語から導きだそうと。いくらなんでも「機能」はあるでしょう。

ところが、「機能」「機能的」も、僕が思い浮かべていた意味とは違うようなのです。

僕は、この言葉の中に、必須条件としての「有意性」は含めていませんでした。でも、どうやら必須らしい。「意味があることを成す能力」みたいなニュアンスなのですね。確かに「機能している」は、「うまく噛み合って順調に進んでいる」という意味で使われることが多いのだと思います。でも「機能」「機能的」という言葉自体は、その動きが「役に立つかどうか」とは関係ない、はずだと思っていました。動いている力そのものを総体的に表す言葉であると。

反対語は、もっと意外でした。「機能」「機能的」の反対語は、「無意味」「装飾的」、、、。「機能」という言葉の中には、「有意」である、という属性が、必須条件なのです。

となれば、僕の認識は間違っていたことになります。有意無為にかかわらず、結果として動いている状態が「機能」「機能的」という言葉の根源的な意味であり、「働きや役割を“果たす”こと」ではなく(果たすという結果の有無には関りなく)その過程の「動き」自体にある、と認識していたのです。

例えて言えば、「人間とは何か」という命題に対して。

「機能」は、動き。人間で言えば、歩いたり、話したり、食べたり、考えたり、愛したりすること。

「き(機/気/器)質」は、もの。人間で言えば、水分とタンパク質と、、、あるいは酸素とか。

それは間違いだったと、今になって知ったわけです(が、、、、本当に間違っているのだろうか?と、まだ往生際が悪く考えている部分もあります、笑)。

ということで、言葉(用語)について、どうも僕は正しく「認知」する能力に欠けているのではないかと。

リンドウについて書くに当たって、
「雌蕊が発達した後の雄蕊」
「ロゼット、およびそのクラスター」
の捉え方に苦慮し続けています。

「言葉」自体の意味を理解出来ないことが多すぎるのです。

「照葉樹と落葉樹」「熟果と乾果(←パソコンでは出てこない)」といった単純な対象さえ、未だに理解できないでいる。

やっぱり、僕は、バカなんでしょうか?
(皮肉や韜晦で言ってるのではなくて、本気でそう思ってるのです)





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