8月31日の記事に、応援、ありがとうございます。
読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。
【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?
【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。
*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。
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“動き続ける極相”は僕の自家製用語。「海の向こうの兄妹たち・上巻第2章」のタイトルです。最も気に入っている概念なので、何度も使っていきます。
世の中(世界でも地球でも宇宙でも神様でも、、、なんでも良いのですが)、当たり前の事なんでしょうけれど、複雑で多様です(「複雑でも多様でもないこと」も含めて)。
「安定」と「変動」は(ある意味)同義語ですから、「正義」や「事実」は一つではない。
民主主義社会の許での「教育」とか「道徳」は、本当に唯一無二の「良き」存在なのでしょうか?(例えば、選挙制度、婚姻制度、、、それは絶対的に「正しい」もの?)
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相変わらず、支離滅裂な事を書き連ねていきます。年齢による痴呆故なのか、元々馬鹿だからなのか、自分ではよく分かりません(笑、たぶん後者)。まあ、そのこと(精神面)は別に置いときましょう。
僕は今73歳なんですが、、、。すでに何度も言っていることを繰り返します。8年前のドングリ事故の大怪我もあるので、体調的には(生きていられるのが不思議なほどの)最悪状況が続いていることはともかくとして、連日10時間山の中を歩き回れるような、不思議な体力気力も保持しています(病理的な欠陥は何処にもない)。
この歳まで生きて(しかも極寒の5000mの山でも猛暑の熱帯のジャングルでもたぶん歩き回ることの出来るレベルで)これたわけですから、俗っぽい言いかたすりゃ、たとえ今くたばっても、大成功の部類に入るでしょう。
「健康マニア」「リスク排除主義者」の人たちに問いたいのですが、「健康の留意」「リスクの排除」を図ることに、どれほどの意味があるのか、と。それらを心がけている人たちの中には、僕よりもずっと早く(いろんな意味で)くたばっている人も、結構沢山いると思います。
「留意しないよりはした方が良い」と多くの人は言うでしょうが、本当にそうなのでしょうか? した方が良い場合もあるでしょうけれど、しない方が良い場合もあると思います。
「マスク」も「ワクチン」も、しない方が良いのかも知れない。少なくとも“「しないこと」を単純にネガティブに捉えること”は、やめた方が良いと思います。
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「人は何故フェイクニュースに騙されるのか?」というコラム。同様のコラムは定期的に度々出てきますね。読むと、(今回のも含めて)大抵は納得は出来ます。「フェイク」の「虚」を暴くこと自体は、(頭の良い人なら)そう難しいことではないのでしょうから。
問題はそれ以前の問題。その事実の深層です。「フェイク」というものの存在の本質、言い換えれば「事実」とは何か?ということ。 「騙されない」とは、どういうことなのか? 立場によっては、「洗脳が解かれる」=「騙される」と、解釈することも可能だと思います(思想や宗教絡みの道徳とか)。
「騙されないものが事実」とすれば「騙されるものはフェイク」となるわけで、「教育」と「洗脳」の分岐点は、何処にあるのか、という、、、、。
ちょっと何言ってるのか解かりませんね(笑)。痴呆老人の戯言と思ってて下さい。
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中国政府の方針についてのネットコラム。これも定期的に(というかほぼ毎日のように)現れます。今回のは、「知識人の間で囁かれる芸能界締め付けの理由」だそうです。
ネトウヨの方々は、「共産主義は悪」と、当たり前のように発言されているわけで、、、僕には分かるような分からないような、、、「正義(取得権確保に至る自由)が脅かされるから悪」と考えれば、当然なのかな?
(もちろん額面通りには受け取れないとしても)「人民の公平を期すために突出した金持ちの出現を制御する」ということは、何も間違っていない、と僕は思います。明治の中期、坪内逍遥とか斎藤緑雨とかは、それぞれの表現で、福沢諭吉の「学問の勧め」に対しての異議を表明しました。「教育を受けて偉くなる」ことに対する(本質的な部分に於ける)再認識・懐疑。「天は人の上に人を作らず」の言は、解釈の仕方で正反対の意味を持ってきますし。
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別のニュース(もう数年越しです)。
しかし何なんでしょうねぇ~。この小室君・圭子さんへのバッシングは、、、。
「善良な国民を舐めるなよ!」といったコメントが溢れていますが、とんでもない“ヘイト”言動だと思うのですが、違うんでしょうか?
彼らを祝福している僕は、(全然接点のない人たちだし、個人的な印象だけで言えば嫌いですが、誰であっても結婚は一応祝福したい)「善良な国民」ではない、と言う事なんですね。
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話は変わります。難しい話になりそうなので触りだけ。
湖北省のメタセコイアから始まって、スギ科、さらには裸子植物全般に関与する論文やその梗概をチェックし始めました。
今回に関わらず、植物学(だけでなく、生物学、科学、学問全般、、、例えば文学とかなども含めて)の資料や文献をチェックしだすと、必ずと言っても良い程、途方もなく落ち込んでしまいます。
「なんて皆頭が良いのだろう、、、僕にはとても無理」との想いに、強く襲われるのです。僕は自分の知能が低い事を自覚しています。決して韜晦などではなく、心底そう認識しているのです。でも、「知能の低い人間からの発信」もあっても良いと思って、臆面もなくブログに書き連ねているわけですね。
でも、そのことに対して、ひとつ興味深いことがあります。上記したように、様々な「学術論文」に接した際の僕の反応の99%は、「この人たち凄く賢い、僕にはとても太刀打ちできない」ということですね。然るに、なぜ100%じゃないのか?それは、もしかすると(もちろんフェイクとまでは行かないとしても)どこかの立脚点で「(無意識的に為された)まやかし」があるのではないか、という懐疑的な部分が僕の想いの中に存在しているからです。
なぜそのように感じるのか。
ほとんどの対象は、「知識」として得たものです。それぞれに於いての具体的な評価は、僕には判断しようがない。ただひたすら学ぶことしか出来ないからです。
ところが、僕が自分自身の眼と脚と頭でもって、調査、観察、検証、構築を行っている「蝶」と「野生アジサイ」については、自信を持って自己評価を成し得る。それに対し、知識として入ってくる(蝶や野生アジサイに関する)先行文献の大半は、それがいくら充実した内容ではあっても(細部の検証の充実と相反するように)、本質的な部分での(最初の立脚点での)欠陥が露見してしまうのです。
ロジックやエビデンスが確立していればいるほど、「まやかし」のような部分を感じてしまうのですね(自分自身でのオリジナルな検証を行っていない分野に関しては「まやかし」の所在は知る由もなく、ただただ自分の無能さを感嘆するしかない)。
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僕は最初の段階から言っているのですが、、、、。
「コロナ騒動」の根源にある決定的な失陥は、「有識者」「専門家」の発言*。もちろん、それ(「科学」とか「権威」)に追従する「大衆」。
*彼らの言っていることが「間違い」であるとは思いません。しかし、それだけが「正しい」というわけでもない。