青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

“距離”という概念

2021-09-27 19:33:25 | コロナ 差別問題と民主化運動 日記



読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

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今日は福生公立病院通院(F先生との雑談)の日です。電車で3駅(歩かずに電車に乗ってます)。この時間帯(朝8時42分河辺発、8時49分福生着)、最後尾車両の乗客は2-3人。毎回車掌さんに告げます。「僕は肺が悪いのでマスク出来ません、福生まで乗客がいない席で窓を開けさせてもらいます」 99%の車掌さん(むろん今日の人も)が気持ちよくO.K.してくれます。
>もちろん良いですよ。気になさらないで(窓も大きく開けて下さって良いですよ)。
個人の想いと社会の空気は別物、という一つの証ですね。

ちなみに、毎日曜(昨日も)は、原則として教会礼拝(晴れた日には裏山探索)。牧師さんの説教が始まる直前に行って、終わるとすぐ帰ります。誰にも声をかけられる隙を与えないように(笑)。 “洗脳”がどうやって為されるのか、それを知るために聖書を読んでいる、という、、、。

もっとも、「陰謀論」の中にも真実?の一片があるのかも知れないように、聖書の「洗脳」の中にも真実の欠片のようなものがあるのかも知れません。それはそれで、良きことだとは思っています。まあ、罰ゲームみたいなもんで、週に1時間ぐらいはそんな時間があっても良いかと(どうせ礼拝に行くなら40年前に行っていた三鷹の教会に行きたいのだけれど、電車賃が、、、、)。

福生までの車内テレビのニュース、消える瞬間にちらっと眼に留まった記事です。
『「、、、、という表現は実態を正確に表していないので、“社会的距離症候群”と変更すべき」と専門家が指摘。』

、、、、が見えなかったので、何に対しての指摘なのか明確には分からないのだけれど、いわゆる発達障害のことかな?と勝手に解釈していました。

さっきネットで調べたら、「社会的距離」は2つの異なる事例を指しているようですね。

ひとつは僕が想像していた「発達障害」とかに近い概念の「引きこもり」に関すること。“引きこもり”という表現を辞めて“社会的距離症候群”と呼ぼう、という提案です。

「症候群」ですから、(むろん病気でもなくて)かなり曖昧なスタンスですね(便利な言葉です)。専門家もなかなか良い事を言います。まあ、大衆やメディアよりは実態を把握しているはずなので、専門家には思い切った発言をして欲しいですね。「責任を持った発言(学門的に証明済みの責任逃れの発言)」よりも「無責任な発言(まだ体系に組み込まれていない知り得た知識の提供)」のほうが、僕としては望ましく思います。

提案新呼称?は「社会的距離」と「症候群」の間に何も付いてないので、ただ距離があるというだけで、それに対する意味づけ(距離の中身の解釈)を行っていないのが潔い(別に誉めてるわけではない)です。

「距離がある」ということが、「良いか悪いか」ではなくて、(自分にとって周囲にとって社会にとって)「得か損か」。

一方、「距離がない」ということは「空気に同調」ということですから、教育、道徳が行き届いた社会による「洗脳」を受け入れている、と言う事になります。

「距離がある」すなわち「自分で考える」、、、、それは、現代社会に於いては、「落ちこぼれ」「困った人」「反社会的存在」 と見做されることになります。

自分にとって、社会にとって、前者の立場を採ることは「得」に繋がり、「後者」の立場を採ることは「損」に繋がるわけです

もうひとつ「社会的距離」「呼称が適切ではない」に関して、全く異なる意味の問題提起がネット上で指摘されています。今、頻繁に使われている「社会的距離」という語は、「ウイルス感染防止の手段」の話題の中で使われる言葉ですね。

ネット上で、専門家による指摘。「ソーシャル・ディスタンス」の日本語訳は「社会的距離」でなく「物理的距離」とするべき、と。そりゃそうでしょう。「社会的」と「物理的」は、大変な違いです。

いずれにしろ、「社会的距離」、、、、なんか嫌な言葉だなぁ~~。こんな言葉を、平気で(無意識のうちに)肯定的に使っている人の神経が、僕には解らんです。

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大谷、7回まで快投も勝ち星つかず、なおかつ後ろが打たれてチームは負け。もっとも、数字(勝ち星10勝など)がつかない方が、メディアや大衆の、気持ちの悪い「称賛」を少しは押さえることが出来るでしょうので、それはそれで良い事かも知れんですね。

白鵬引退。照ノ富士の時代に入ったことを自覚したのでしょう。しかし(僕個人的には白鵬を批判する人々の気持ちは分からなくもないけれど)彼は彼のやり方で、大相撲に(貴乃花に劣らぬぐらい)真剣に向き合っている。それが日本の社会(大衆)との「距離」を生みだしている、と言う事でしょう。

距離の空間(すなわち今必要とされているものから取り残された部分)に存在するものこそが大事、という信念を押し通したんだと思う。大相撲に対する考えに、根本から取り組もうとしたのです。しかし「大相撲」のような対象を、日本の社会では、根本から考えちゃいけないのです。

朝青龍や日馬富士を辞めさせた正義のお婆さんや貴ノ花信者(貴乃花自身は悪くない、、、変な人なので僕は結構好きです、、、悪いのは妄信大衆)は、「根本」などは考えず、今漂っている「空気」しか考えていないので。

貴乃花の改革は、日本の伝統としての大相撲の原点に返る、という「思想表現」です。お約束の「空気」ですから、大衆はそれに乗ります。

白鵬の改革は、(結果として“伝統”=“お約束”を無視した)改革そのものの実行。そりゃ日本の大衆には嫌われます。

照ノ富士だけでなく、白鵬も日馬富士も 勝負はこれからです。頑張って欲しいですね。僕は応援します。






コメント
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