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青島-武漢-恩施-重慶-成都-雅安-康定
恩施到着は5月22日深夜11:30。翌朝始発バスで重慶に向かう予定でいたのですが、日本に連絡して、資金の調達をしなくてはなりません。青島滞在中の2日間に渡って(パソコンのインターネットが出来なくなってしまい、その回復のため)ヨドバシカメラにかけた電話代(3万5000円)で、資金が一銭も無くなってしまったのです。
恩施は、以前のブログ(「白いレンゲソウ」)や、前回のブログで紹介したように、日本と中国の生物相の相関を考えるに当たって非常に興味深い地なのです。野生アジサイについても、“ギンバイソウ”と“タマアジサイ”の、それぞれ近縁種が、日本から飛び離れて分布している可能性があり、出来ることならば周辺の山々を調べたいのですけれど、今回は青島-武漢から重慶-成都に向かう通過地点として宿泊するだけです。もし、この後のスケジュールが上手く進行して行けば、帰路に立ち寄って、探索してみたいと考えています。
お昼前に、やっと資金調達の交渉が成立。というと聞こえはいいのですが、半ば“土下座と恫喝”といった形で、知人のAさんやT氏から、計3万円を振り込んで貰ったのです。この3万円を、3週間後の年金振込日まで持たさねばなりません。かなり難しい遣り繰りだけれど、なんとかするしかありません。昼から暫く熟睡、夕方、アモイから来たテンテン(甜甜、本名だそうです)が訪ねてきたので、一緒に食事に行きます。部屋に帰って日本とのメールのやり取りをしながら、そのまま眠ってしまいました。心身とも、相当に疲れているようです。
5月24日朝7時、訪ねてきたテンテン(テンテンのことは「アモイから来たテンテン」として、そのうち一項目を設けるつもりです、18歳になったばかりの、とても可愛い、利発で不思議な雰囲気を湛えた少女です)に起こされて、長途バスターミナルに。恩施発AM9:00、重慶着PM2:00(100元=約1350円)。
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“テンテンのことはそのうち”と書いたけれど、今ここで少し紹介しておきましょう。
恩施の町の真ん中の十字路の角にある売店で、あや子さんに電話をしていたら、隣の怪しげな部屋(以前、「白いレンゲソウ」の項の冒頭でも述べた、短編連作を予定している「純白のウエディングドレスと少女の涙」の舞台のひとつ)にいた女の子が、声をかけて来ました。
「どこの国の人なの?」
「日本人。」
「私、日本大好き!、、、、70元(1000円弱)でどう?」
「とんでもない。今一銭も無いんだよ!」
「それは可愛そうね、昼飯おごってあげようか。」
「有難う。でも疲れているので部屋に帰ってひと休みしなくては。」
「じゃあ夜に行くね。晩飯一緒に食べよう。」
どう見ても、この商売にそぐわない、清楚で素朴で利発そうな少女です。何よりも年が若すぎる。
「なんでそんな仕事やってるの?」
「。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」
「愛情が無ければ、そんなことしてはいけないんだよ!」
「。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」
「それに、見知らぬ人とするのは、君だって辛いだろう?」
「。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」
「一回70元なら、他の事をしても稼げるじゃないか。」
「。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」
「僕は愛の無い000はやらない。君はその気持ちを解るかな?」
「シャングリラに連れてってよ!」
「それはいいけれど、山の中を通って行くから、辿りつくまで1週間以上かかるよ。それに今回は資金がギリギリだし、当分帰って来れなくなるかも知れない。」
「。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」
「このあとも度々行くから、次回にしよう。」
「約束してね。」
「うん。でもそんな仕事やめなよ。君みたいに若くて可愛い子なら、幾らでも他に仕事はあるよ。違う生き方をしてみなよ。」
夕食時、朝食事、買い物をした時、それぞれお釣りをあげようとしたのだけれど、きっぱりと「いらない、大切なお金だから無駄に使わずに持っていなさい!」。僕が苦労して資金調達したことを知っているから、というよりも、仕事を遂行せずに報酬は貰えない、というのが彼女のポリシーのように思うのです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。の部分は、必ずしもずっと黙っていた(ときもある)わけではなく、いろいろと説明してくれたのだけれど、僕の語学力ではきちんと理解出来ていない、ということなのです。おおよそ、こんなことを言っていたのではないかと思います。
青島近郊の「渚港」という村の出身。両親は上海に住んでいる。どうやら、両親とは折り合いが悪い(継母?)らしい(でないとしても、何らかの問題を抱えている)。1つ下の弟も上海に住んでいて、今は高校2年生、自分が稼いで大学に行かせたい(ここはスーリンと同じ)。5日前まで、数年間アモイに住んでいた(アモイ-恩施は長距離夜行バスで24時間余)。恩施には知り合いは一人もいない。友達はアモイに沢山いるけれど、決まった彼氏はいない。アモイでは別の(たぶんまともな?)仕事をしていた。等々。
今の仕事を始めたのは、どうやら両親(それに祖母?)の存在に関係があるらしいのですが、そこのところが良く解らない。いずれにしろ、今の(一般概念からすれば“良からぬ”)仕事をやめるわけにはいかない、体は売っても、心さえ売らなければどうってことない(僕達の思っているような卑しい仕事なのではなく、普通の仕事のひとつ、、、手でマッサージして体を解してあげるのも、あそこを使って気持ちよくさせてあげるのも、同じでしょう?)、と言っているようにも聞こえます。
日本が大好きで、いつか日本に行くのが夢、、、、、。
(なにしろ僕は独身ですから、いつでも「切り札」は使えるのです、でも絶対条件は、こんな仕事はやめること)
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重慶北駅到着は午後1時45分。成都への新幹線(中国語で「動車」)は、4時まで無いとのこと、到着は6時になります。となると、成都に泊まらざるを得ない。出来れば今日中に雅安まで行っておきたいのです。2時や3時の列車が絶対にあるはず。それ(チケットではなく列車自体があるのかないのか)を問いただしても、そんな列車は無いとしか返事が返って来ません。でも全く信用は出来ない。とりあえず、4時のチケットを購入して、ダイアの表示を見たら、2時15分発というのが、ちゃんとあります。
駅の入口、改札口、列車の乗車口、、、何度も制止を振り切って、強引に2時15分の列車に乗車、こういう時は中国語を使わずに、英語や日本語でわめくに限ります。乗ってみればガラ空き。車掌さんにチケットの変更をお願いしたら、どうぞ、適当な席に座って下さいと、何のおとがめも無しです。
中国の人々は、自分の持ち場の責任を遂行することしか考えていないのですね。臨機応変とか、横の連絡とかは、無縁なのです(日本も似た傾向にあるようですが、中国の場合は極端です)。
4時15分成都着。タクシーで南門汽車駅に。乗り場の脇に、両足の無い、いざりの兄ちゃんが、元気で働いていた時の写真(農村での野菜の取り入れ作業中の姿)と、大けがをしてしまった理由を書いたボードを掲げて、物乞いをしていました。むろん誰一人、恵む人などいません。いつものごとく小銭を探して渡そうとしたのだけれど、相場の1元札が見つからない。結局10元(約135円)をあげてしまった。大金です。僕の今の身分では、御法度なのかもしれません。でも、あや子さんやスーリンに怒られようとも、僕のポリシーからして、あげないわけにはいかない。コーラ一本を我慢すれば良いのです。
「謝謝」と何度も何度も繰り返しお礼を言われました。本当に素直な感謝の気持ちなのだと思う。ぼくも、見習わねばならないのです(あや子さんには、「“有難う”という言葉を言うべき時に言わないのは良くない」と指摘されています)。
渋滞のため、新南門汽車駅(バスターミナル)到着は5時10分(35元も取られてしまった)。5時20分の切符は売ってくれず、でもまあ今日中に到着すれば良いので、6時20分のチケットを購入。汽車駅横の安食堂には英語の喋れるねえちゃんがいて、珍しくスムーズに食事が注文出来ました。パソコンを開いたら、なんとネットが繋がった! 想定外の出来ごとにも、たまには良いことがあるものです。
雅安着午後8時20分。急いできたのはいいのだけれど、バスターミナル脇の安宿に結局連泊してしまいました(武漢・重慶・成都といった巨大都市は乗り換えだけでスルー、恩施・雅安・康定といった地方都市に連泊しているわけで、±なんとか辻褄を合せています。この後、宝興から東拉(去年世話になった「東拉紀行」の民宿)に一週間ほど滞在するか、すぐに康定に向かうかを、一両日中に決めねばなりません。いずれにしろ、東拉なり、康定なり、理塘なり、香格里拉なり、、、宿泊費・食事代を後払い可能な地に、一週間ほど滞在して、年金支給日の6月15日に繋げるほかないのです。
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結局、5月26日早朝のバスで康定へ。途中崖崩れのために7時間の延着です。アメリカ人のケビンが経営する、僕の常宿のゲストハウス「Zhailam」に投宿。翌早朝(6時)に、理塘との中間の町・雅江に向けて出発する予定(途中の4000m超の峠の周辺でシャクナゲ大群落の撮影)だったのですが、疲れているのと、ゆっくりとインターネットをしたいこともあって、ここでも連泊。
しかし、翌朝(5月27日)起きて見たら、雲ひとつない快晴です。恩施からずっと快晴が続いていて、しかし一度もフィールドに出ることなく、写真も全く写していません。明日以降は、そろそろ天候が崩れ出す確率が高そうです。いつものごとく、取材時には雨天、待機日or移動日には快晴、という巡りあわせになってしまいそう。終日部屋に閉じ籠ってメールというわけにはいかないでしょう。
で、予定を変更して、近くの6000m峰の、4500m付近まで登り、高山植物や雪山の撮影をしてきました。炎天下の高地を長時間歩き続けたものですから、軽い高山病+日射病にやられてしまったみたいです(その顛末は、次回の項に)。もう一日、康定に滞在することになりそうです。
1 Zhailamの入り口と、康定の新市街のアパート群。
2 最も近くに位置する6000m峰を目指します。
3 しゃにむに急斜面を登ります。数m進むごとに息切れが。年は取るものじゃないですね。
4 チベタンの一団、お茶と食事を御馳走になりました。
5 冬虫夏草(コウモリガの一種に帰省する菌類)を採取に来ているのです。べらぼうな高額で出荷されます。
6 シャクナゲの開花期にはやや早め、それでも5~6種が見られました。快晴時は花の撮影には適していません。
7 この季節(5月下旬)、この標高(4500m前後)では、まだ花はほとんど見られません。数少ない出会った花のひとつ、サクラソウ科のたぶんトチナイソウ属。
8 アブラナ科の矮性種。
9 “ヒマラヤの青いケシ(メコノプシス)”の黄花種。
10 チョウは、唯の(中国では最普通種の)フィールドベニモンキチョウだけしか見られません。こんなところまでやって来て、フィールドベニモンキチョウの撮影とは、情けない限りです。他の種はまだ発生していないようなのですが、意外なことにパルナッシウス(Parnassius orleans?)の姿を目撃しました。
11 6000m峰のひとつ。
12 もう一つの6000m峰、黒い牙のような岩群が目を惹きます。7時間に亘り登り続けたのだけれど、峰の本体には近づくことは出来ませんでした。