現代日本語百科   けふも  お元気ですか

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233 染め職人体験

2013-09-26 | 日本語新百科
現代日本語「誤」百科 868  染め職人を体験する を、例題にしている。染職人が体験できるか、と言うコラムの解説は、体験は事柄であって、人間はできなない、と言うことのようだ。事柄を作業としているので、染め職人の作業なら表現にあっているというのだろう。その通りだけれど、それをこの例題で誤りだとするのは、立てた論理説明に当てはめてのことであって、職人体験、学生体験、社長体験、一日警察暑長体験など、この意味の表現はいくらでもある。職人で青の技を体験する、学生になって授業を体験する、というふうに理解する。社長業であり、警察署長の業務を指して言う。なお、染めを体験する、染め職人の仕事を体験するというのは、染め職人体験との内容に同じかどうかは、とくに染めを体験するというだけでは表現上で対比して不足があるので、意味内容はちがっているようだ。 . . . 本文を読む

語感

2013-09-26 | 日本語百科
語感 ごかん と、聞けば、語幹、五感、互換など同音異義が並ぶ。語感は、語の微妙な感じである。それを語のニュアンスと言い換えることができる。その語が持つもので使い手が印象を与えるように表現する。語感を主観によってぴたりと言い当てるように用いるのはなかなか難しい。場面と話題と聞き手をとらえた使い手の思惑は伝わるかどうか、文化庁が調査したオノマトペを使ったことがある割合が聞いたことの割合の半分になるのはそんなところによる。朝日新聞夕刊、昨夜付けの素粒子で、新聞のコラムの表現にその語感が現れていない。いわく、ざっくりですませていたか保守点検、と見える。また、サクサク動くだけでは不満とは、消費者はよくよく欲深、とあっては、おやおやぁ、この使い方はどうだろうと思ってしまう。さらに、読者から届いた手紙に仕事を忘れ、ほっこりと。え、ほっこりは、手書きの文字に人柄と言霊とを包むからなどと、何をかいわんやである。 . . . 本文を読む

語彙論再説

2013-09-26 | 語と語彙
語彙の論はどのように行われるか。日本語のある範囲をとって基準を設定してそこに現われる語彙の項目を計算する。その総量を語彙量という。文学作品を例にすると古典文学作品の源氏物語はその作品を対象とする範囲で、ひとつの調査によると、語彙量が20万7800語となる。源氏物語の作品を使ってすべての自立語を数えた場合である。延べ語数である。これに対して作品中に使われている語を一つずつ数えて、同じ語の使用について2回以上、数えない場合には、そこに現われる語数は、1万1423語となる。異なり語数である。こうして文学作品に現われた日本語語彙は幾つかの古典文学で明らかにされている。古典文学のシリーズが1967年までに日本古典文学大系が編まれたが、作品について索引の作成が研究者によって行われた。また2005年までに新日本古典文学大系として新たに岩波書店から出版されるなどして、日本の古典文学を対象とした全集ではデジタル化をすすめてこのような調査の語彙論が進められている。 また一方で、現代語の使用状況についても大規模な調査が行われるようになった。 . . . 本文を読む

じわじわびしょびしょ

2013-09-26 | 日本語どうなるの?
天使人語が書いた。擬音語、擬態語は厄介であると。それは文学表現にして、俗に堕すというわけだ。不用意に使うと、とあるが、用意して使うものは文学表現だから、この言いには異論も出そうだ。きんきん、サクサク、ざっくり、ほっこり、うるうる。どれもこれも、聞いてすぐにイメージがわけばオノマトペである。日本語表現としてわかるという限定つきだが、奇をてらったり意に反するというものではない。パソコンを使ってサクサク動くのはページに移り変わることなのか、フリーズすることなく、検索が早くてそう思わせるのか。いまだにわからないところでもある。何よりもこの国語の調査はいとすることはなんであろう。市民権を得た言葉さがしか、民衆が忘れ行く日本語を憂えるのか。サクサクが野菜食べ物の擬音から、マージャンを囲んでの擬態擬音なのか、これは漫画にあるらしい、果ては機械の使用を表す擬情語のような使い方をする時代だ。 . . . 本文を読む

私説 源氏物語19

2013-09-26 | 源氏語り
絵巻の構図だけを眺めて芸術性よろしく観賞をするなら、ここはにこやかに笑う君であろう。 そして腕が伸びてこたえるふうなら、無邪気な子供そのものである。 ことばが物語の筋を語っていても祝いの場面であることは疑うべくもない。 さほどに大きな絵の修正があったわけではないようだ。 それも赤子の表現についてだけであるから、この場面性を著しく変える者でもないだろう。 ただ、絵に表現されていることと、物語原文を読むとくいちががいがあり、それが、まみであるのか、 きみ、であるのか、文学の想像力にゆだねて、絵では赤子の笑みがけされ、物語原文では手を伸ばす ほほえましい君が表現されていない。 そして絵にもほほえましさが隠される結果となったのは、赤子の描写によって、読む人が憂愁にいる 光源氏を見てとれるように、赤ん坊の宿命を思う親の姿として、より表そうとした対比の妙を描き だしたのである。 . . . 本文を読む