対酒
書を読むは酒を飲むが如し
至味は会意にあり
酒は以て気力を養い
書は以て神智を益す
彼の糟と粕を去り
淋漓(りんり)としてその粋を掬(きく)す
一飲三百杯、万巻駆使すべし
いかにも酒好きの東湖らしい漢詩です。「書を読むのは酒を飲むのに似ている 共に心にしみわたり 酒は気力を養い、書は人を超える知をふやす それぞれの無駄な部分を取り去り、勢いよくそのもっとも良いところをすくう 三百杯の酒を飲み、万巻の書を自分に生かすべきだ」といった意味でしょう。これは、酒を賛美する最高の詩でしょう。弘化2年(1845)の作だそうです。写真は藤田東湖書の拓本である、神道無念流壁書に記された署名のようです。彪(たけき)は東湖の名で、斌(斌卿(ひんけい))は字(あざな)のようです。弘道館で見ました。
明治6年、田谷町に田谷小学校が開設されたそうですが、並行して寺子屋も開設されたそうです。寺子屋の先生は2人で、そのうちの1人は漢文担当で、九州出身の山伏だった人だそうです。この人は、ときに、囲炉裏端にあぐらをかいて芋串を食べ、酒を飲みつつ、授業をしたそうです。学校草創期にあったエピソードの一つなのでしょう。
防腐剤を酒に入れるのをきらった柴田幸三郎という酒屋は、はじめ、明治38年に銀釜、明治39年には金釜を作って火入れ殺菌をして、清酒・金釜などという酒銘で清酒を売り出したそうです。銀釜は18貫目(約67kg)で2石4斗(約43l)入り、金釜は10貫目(約8kg)で2石(36l)入りだったそうです。銀釜2個、金釜1個計3個を作ったそうですが、その彫刻をしたのは、東京美術学校教授、帝室技芸員になった、水戸出身の彫金家・海野勝珉だったそうです。柴田は、海野の墓誌を建てているそうです。
水戸の市内を走っていた水浜電車が創立したのは大正12年だそうです。このころまで、人力車が利用されていたようで、商売がたきの鉄道に対して、酔っ払った人力車の車夫が線路上に寝て運転妨害をしたという話があるそうです。
小川知可良(ちから)が仙台国税局鑑定官室長だったときにみつけた酵母は、はじめ茨城県食品試験場と明利酒類㈱で、後に日本醸造協会で昭和52年から、吟醸酒醸造の代表的酵母の一つであるである協会10号酵母として頒布されたそうです。小川知可良は明利酒類㈱の副社長にもなったそうです。