ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の垣根(3)

2018-01-16 21:10:31 | 水戸

 主に民家で見られた垣根です。

 

五平町民家(鹿島神社の近くです)
 全部竹でつくったきれいな組み方の垣根です。

 

小吹町民家(水戸市植物公園近くです)
 背後の竹林の竹を利用しているのでしょう。

 

吉沢町民家(天満宮の近くです)
 かなりまばらに立てた竹垣です。

 

綿引家(元吉田町2192)
 窓隠しとしての小さな垣根なのでしょう。県指定文化財古民家の一部です。

 

柳河町民家(柳河小学校近くです)
 雨対策の屋根をつけた立派な垣根です。

 

元吉田町民家(野木神社近くです)
 立すだれ(たてす)のようです。地震で倒れた塀の代わりかもしれません。

 

弘道館鹿島神社(三の丸1-6-4)
 垣根とはいえないかもしれませんが、雨除けの鉄板を上部につけた本殿を囲う塀です。

水戸の垣根(2)

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水戸の滝(1)

2018-01-15 21:05:51 | 水戸

 水戸では、崖や急坂はたくさんありますが、そこに滝を見ることがありません。滝のないのが水戸の特長なのでしょう。高台の上町と崖下との標高差は20mくらいありますので、滝があったら見ごたえはあったでしょうが、それ以上高い水を集める土地がありませんし、水を通さない地層が台地上方にはないそうなので、ないものねだりといったことなのでしょう。もっともそのかわり、崖下の湧水が豊富なわけです。

 

千波公園(千波湖南側)
  相当量の水がわいているようで、流れ落ちる水音を楽しめます。

 

もみじ谷(偕楽園公園)
 もみじ谷の護国寺側入口付近にあります。

 

保和苑(松本町13-19)
 庭内に4つの小滝がありました。

 

渡里湧水群(渡里町)
 滝と呼ばれていた湧水だそうです。野菜の洗い場などになっていたそうです。平成28年の写真です。

 

小澤の滝(北見町4-19)
 今はただ池に湧水が流れ込んでいる(写真右上方)だけですが、かつては滝のような姿が見られたのでしょう。

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水戸の火(1)

2018-01-14 19:32:13 | 水戸

根本町のわーほい(1月14日)
 どんど焼きを根本町ではわーほいというそうです。お年寄り27人が1日がかりでつくったそうですが、あっという間に焼け落ちました。写真にある黒い灰が遠くまで届いたということで、今年は高さを下げたそうです。後継者不足が深刻なようです。

 

吉田神社初詣(1月2日)
 年を越した縁起物を燃して暖をとっています。初詣ではこの暖かさが楽しみです。

 

東照宮どんど祭(1月7日)
 火おこしの道具で採火していました。あまりかんたんに発火してびっくりしました。わーほい同様、この火で餅を焼いて雑煮にしていました。

 

水戸八幡節分祭(2月3日)
 寒いさかりの時期ですので、去年のダルマも役に立つようです。最近、こうした縁起物の処分をどの神社でも考えるようになったようです。

 

千波湖花火('14年8月2日)
 これも火の一つでしょう。水戸は野村花火のお膝元で、市民は恵まれています。

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水戸の三角点(3)

2018-01-13 20:32:17 | 水戸

 三角点は神社や公共の地などにあることが多いようです。道路上というのは、多分三角点設置後に道路がつくられたのでしょう。

 

 水戸市水道杉崎加圧場(杉崎町 国道50号線杉崎南信号北方約100m)  イオンモールが見えます。

 

 筑地信号脇(築地町)  ここからもイオンモールが見えます。

 

 鹿島神社(飯島町734)  境内の南側にあります。ここは3等三角点でした。

 

 小吹町(常盤大学野球グランド近くの農道) 写真に写る農道上にあるため、埋められていて見えません。以前掘り返して測定した所30cmずれていたと話題になったという話を聞きました。

 

 白幡神社(小林町655)  境内の東側にあります。

水戸の三角点(2)

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水戸の画家

2018-01-12 21:10:44 | 水戸

林十江(じゅっこう) 安永6(1777)-文化10(1813)
 酒造業・升屋高野惣兵衛(俳句・遅月のパトロン)の子で、近くの醤油業を営む伯父の林市郎兵衛の養子になったそうです。絵の師ははっきりせず、独学だったらしいですが、立原翠軒の塾に通い、漢籍や和歌、俳句などを勉強し、翠軒の子・杏所に絵を教えたそうです。養父の死後家は衰え、結核をわずらった身で文化10年(1813)、37歳で江戸へのぼったものの1カ月余りで帰郷して死去したそうです。画壇の定法とは離れた題材や手法によって絵を描いたそうで、今の時代にあいそうです。墓は清巌寺にあります。

 

立原杏所(きょうしょ)  天明5年(1786)-天保11年(1840)
 彰考館総裁だった立原翠軒の子供で、幼い頃、7つ年上の林十江に絵を学び、江戸小石川藩邸勤務となってから谷文晁に師事し、渡辺崋山や椿椿山とも交流があった画家だそうです。関東南画に属し、十江とは対照的な丹精な山水画や花鳥画をよくしたそうです。墓は東京から移されて菩提寺の六地蔵寺にあります。

 

立原春沙(しゅんさ)  文化12年(1815)-安政2年(1855)
 立原杏所の娘で、絵を父と渡辺崋山に学び、崋山十哲の一人といわれたそうです。22歳で、父と共に当時の人名録に掲載されているそうです。加賀藩へ嫁いだ将軍・徳川家斉(いえなり)の娘・溶姫(やすひめ 東大赤門はその輿入れのときに造られたそうです)の侍女となって絵に向かい続けられたそうで、大奥の屏風などを手がけたそうです。墓は杏所らとともに六蔵寺に移されて新造されたそうです。

 

松平雪江(せっこう)  天保5(1834)-大正5(1916)
 横山大観の父とはいとこの関係だそうで、画家だった父・雪山や、その師・杏所に学んだそうです。雪江の絵は、内国勧業博覧会に刺激を受けて同じ農商務省が主催した内国絵画共進会に出品されて、褒賞や入選したそうです。県庁の職員になり、常磐公園攬勝図誌や追鳥狩絵図をつくったりしたそうです。

 

加藤雪潭(せったん) 文化6(1809)-元治1(1864)
 松平雪山に絵を学んだそうです。徳川斉昭の命により、天保14年に行われた軍事演習である追鳥狩を鳥瞰的に描いた、19軸からなる絹本着色・追鳥狩絵巻を佐野致盛ら5名でてがけたそうです。この絵は、斉昭が妻の吉子におくったもので、完成までに約10年間かかったそうで、徳川ミュージアムにあるそうです。雪潭は、幕末の天狗党との騒乱の中で、那珂湊で戦死したそうです。墓は酒門共有墓地にあります。

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