ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸徳川家の人たちが書いた題字(1)

2019-10-16 21:04:29 | 水戸
 
斉昭(9代水戸藩主)
  弘道館記碑(八卦堂 三の丸1-6) 弘道館建学の由来を記した碑で、「斉昭撰文并(なら)びに書、及び篆額(篆字で書かれた題字)」とあります。偕楽園記も同様です。
 
 
 

慶篤(10代水戸藩主)
 会沢先生墓表(本法寺 千波町2367) 会沢正志斎の墓です。 「旌正之碑」とあります。正しさを表すといった意味のようです。文は青山延光だそうです。「慶喜か」と書いたものもあるようです。
 
 
 

昭武(11代水戸藩主)
 菁莪遺徳碑(伍軒原先生碑 偕楽園 常盤町1-3-3) 菁莪(せいが)は「人材を育てること」で、菁莪塾を開いていた原市之進のことで、慶喜の側用人(そばようにん)でしたが、奸臣と見なされて暗殺されたそうです。文は仙台の儒学者・岡千仞だそうです。
 
 
 

圀順(くにゆき 水戸徳川家13代 父12代篤敬(10代慶篤の長男))
  大日本史編纂之碑(三の丸2-6-8) 圀順題字の碑はたくさんあります。この碑はその代表的なものの一つです。
 
 
 

宗敬(むねよし 慶篤の孫、圀順の弟)
 義公祠堂碑(水戸黄門神社 三の丸2-2-4)  宗敬は伊勢神社の宮司だったそうで、文は常磐神社宮司の鹿島則幸だそうです。水戸黄門神社は、光圀が生まれた、三木之次(ゆきつぐ)屋敷の跡だそうです。
 
 
 

厚(斉昭7男の将軍・慶喜4男)
 傳萬世碑(常磐神社 常磐町1-3-1) 10歳とあり、印の一つに「厚之章」とあります、文は水戸藩の矢倉方(武器係)になり、維新後は毎年神発流の流れを引いた花火をあげたという橋本儀重だそうです。斉昭の考えた神発流を伝えようとした碑のようです。
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水戸で見られた木の鳥居(3)

2019-10-15 20:26:25 | 水戸
 鳥居の語源は、鳥が居る所ということで、鳥を止まらせるものの意味のようです。天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)にこもった時に、やおろずの神々が長鳴き鳥を鳴かせて、その鳥が止まった木が鳥居の起源であるという説もあるようです。
 
 
 
 
吉田神社(宮内町3193-2)
 境内の朝日三角山内にある「祭神日本武尊(やまとたけるのみこと)御遺跡」の石碑前に建てられた鳥居です。笠木の上には銅板がはられています。
 
 
 

三柱神社(見川町丹下一ノ牧)
 明治維新後、丹下の地を開拓した旧・武士の人たちが、偕楽園から移して心のよりどころにした神社だそうです。この鳥居は、笠木の左右と柱の根元に銅板がはられています。
 
 
 

杓子稲荷(平戸町 大為葬祭さくらホール(平戸町646-1)近く)
 風邪をひいたときに、神社の杓子でのどをなでると治るという信仰があったそうです。
 
 
 

愛宕神社(五平町 茨城交通㈱鯉渕営業所(鯉淵町3491)北西約250m)
 ほかの鳥居は丸太で作られていますが、ここだけは笠木の左右が斜めになっていて、(ぬき)が四角形で柱の外に出ています。鹿島鳥居というようです。
 
 
 

素鵞神社(大串町 稲荷第一小学校(大串町142-1)裏口から約50m西)
 この鳥居も笠木の左右が斜めになっています。これを襷墨(たすきずみ)というそうです。
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水戸の市営住宅(1)

2019-10-14 21:16:25 | 水戸
 高齢世帯向や、肢体障害向が新しい住宅ほどつくられるようになってきているようです。こうした時代なので、市営住宅のような施設の必要性は高くなっていることでしょう。
 
 
 
 
六番池住宅(平須町1827-55)
  昭和56年建設、3階建、78戸 、高齢世帯向、肢体障害向はないようです。昭和58年以前に建てられたマンションのエレベーター設置率は3割だそうです。
 
 
 
 
見川住宅(見川5-295-2)
  昭和60~61年建設、3階建、76戸 、肢体障害向は2戸。和の感じを出したデザインのようです。
 
 
 
 
城東住宅(新棟)(城東1-15-82)
  平成4年建設、9階建、69戸、肢体障害向は2戸。ここは引き込み線の駅跡のようです。
 
 
 
 
緑岡第1住宅(見川町2563)
  平成5~10年建設、3~6階建、10階建、199戸、高齢世帯向は41戸、肢体障害向は4戸。住宅地をつなぐために、道路を横断する歩道橋が作られています。
 
 
 
 
柳河町住宅(柳河町402-1)
  平成10~12年建設、3階建、42戸、高齢世帯向は10戸、肢体障害向は2戸。
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水戸の石畳(5)

2019-10-13 20:02:52 | 水戸

 長い年月ですり減ってくる石畳の風情もまたよいものです。寺社などで石畳は、建物よりよほど長い寿命があるでしょうから、寺社のなかで一番歴史を見てきた部分なのかも知れません。

 

春日神社(下国井町1574)
 大谷石のような石が使われているようです。この神社の左右には天満宮と八幡宮が建てられています。

 

弘道館(三の丸1-6-29)
 門から玄関に向かう通路の石畳です。ここは不整形の石が並べられています。

 

三所神社(加倉井町1162)
 両側に立てた石は、結界の意味があるのでしょうか。

 

千波町民家
 民家入口の石畳です。左に見えるケヤキは樹齢130年だそうで、古い家のようです。

 

蓮乗寺(元吉田町2705)
 本堂の新築がなって、切りそろえられた石畳も見ばえがよくなったようです。


水戸の石畳(4)

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水戸・六地蔵寺住職・恵範のゆかり

2019-10-12 13:41:15 | 水戸

 

 六地蔵寺の中興第3世といわれる学僧・恵範(えはん)は、寛正3年(かんしょう 1462)の生まれと推定され、六地蔵寺の過去帳に出生時に恵範を取り上げた女性の名があるので、地元の出身だろうといわれているようです。写真は六地蔵寺境内にある古墳の中腹に置かれた「恵範大徳供養塔」です。

 

 

 17歳のとき、六地蔵寺(当時は六蔵寺といっていたそうです)で、師の宥実(ゆうじつ)による受戒をうけて僧となり、26歳頃から伊予の安養寺、讃岐の聖通寺、奈良の東大寺、近江の三井寺、根来等で学んだり、資料の書写を行ったりしたそうです。写真は国指定の文化財に指定されている、恵範の名前が書かれた、根来塗りの盥(たらい)の裏だそうです。

 

 30歳の頃いったん水戸に戻り、38歳まで六地蔵寺や、仏陀院(栗崎町1685-1)にもいたそうです。写真は仏陀院にある「六地蔵寺中興第三世恵範大徳隠化之地」と記された碑です。

 

 39歳のとき、山城の醍醐寺へ行き、翌年戻ったそうです。今に残された写本のほとんどがこの時期のものだそうです。写真は資料等を運んできた牛が寺に着くと力尽きて死んだので、それを供養して建てた牛塚だそうです。道向かいの駐車場にあります。

 

 44歳(永正2年(1505))のときに六地蔵寺の住職なったそうです。写真は吉沼町にある、現在の極楽橋と、極楽橋跡の石碑です。恵範が極楽橋を再建させるために書いた勧進疏(かんじんそ 寄付を募る書)があるそうです。(恵範は徳川時代以前の人なので、リンクしてある極楽橋伝説は、後世に作られたもののようです) 恵範による布教の対象の多くは庶民層だったそうで、太鼓念仏を布教手段としたらしいという文章もあります。
 62歳以降に著述のほとんどがなされたそうで、壮年期の勉学と資料収集が晩年になって実ったということなのでしょう。穴の中で著述等にふけったそうで、晩年は、土龍(どりゅう もぐらのこと)と号したそうです。

 

 

 76歳(天文6(てんぶん 1537))で死去したそうですが、墓はわからないそうです。写真は晩年の天文2年(1533)に恵範が恵潤に授けた印可状(真言密教の奥義を師から弟子に相承したことを証する書)だそうです。

 恵範没後、徳川光圀は、伝えられた資料を修理したり副本をとったりして、保管する法宝蔵を建てたそうです。現在は新法宝蔵に保管されているそうで、「六地蔵寺所蔵典籍・文書(もんじょ)」といわれる典籍892部1975冊と文書407点は、県の文化財に指定されているそうです。

 年齢と年号に1年の誤差があったり、資料によって年号が違いますので、どこかがおかしいのでしょうが、私にはよく分かりませんのでご注意ください。年齢の方は恵範自身が資料に記しているそうで、多くは確かなようです。
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