卓袱台の脚

団塊世代の出発点は、狭いながらも楽しい我が家、家族が卓袱台を囲んでの食事から始まったと思います。気ままな随想を!

2021年 紫苑のカタログいろいろ マエダ工業

2021年10月02日 08時14分25秒 | 紫苑のカタログいろいろ

 

 

昭和20年代末、岩井製作所(東京)による外装3段サンツアー変速機の発売が「サンツアー」の始まりです。岩井製作所はリヤ変速機とレバーを製作しましたが、1954年(昭和29年)半ば、スプロケットとフリーホイールを製作していた堺の前田鉄工所との協力関係でリヤ3段変速の「サンツアー・エイト」を発売しました。

1957年、経営の行き詰まった岩井製作所に代わり、前田鉄工所がブランドを引き継ぎました。前田は1960年代末より米国向け変速機の提供を行っていましたが、1970年代米国に一大自転車ブームが起こり、会社は最盛期へと向かい、1975年「マエダ工業」と社名を変更しました。その間、サンツアーは1964年ガイドプーリーがフリーホイールの歯先に沿って斜めに移動するスラントパラレログラム方式を発明、特許を取得しました。この方式は後に、1984年の特許期限後に各社が採用しました。

 

1970年代イタリアのCAMPAGNOLO・日本のシマノは、自転車の主要部品を全てセットしたコンポーネントとして開発・供給し始めました。これを見極めた前田と他の部品メーカーは「サンツアー」を共通ブランド名に、栄輪業、杉野鉄工所、吉貝機械金属、三ヶ島製作所等の各メーカーがコンポーネントを構成、対抗しました。米国の拡大した自転車ブームにヨーロッパの主要部品メーカーの供給が追い付かず、日本メーカーのチャンスが生まれました。ロードレーサー向けコンポーネントの「サンツアー」ブランドは高品質なものが多く、Cyclone、Superbe、Superbe Proに加え、マウンテンバイク製品も人気がありました。1977年から1986年に行われた世界自転車選手権大会個人スプリント10連覇の中野浩一選手は、サンツアー専属契約選手でサンツアー製品がこの快挙を支えました。

 

スラントパラレログラム方式の特許期限後の各社採用により、サンツアーリヤディレーラーの競争力は徐々に低下、海外製品の台頭、1985年円高による輸出産業の鈍化等の要因が重なり、1990年代マエダ工業は経営危機に陥りました。サンツアーブランドを共有してきた部品メーカー他社も、この不況を被る事になりました。

1991年10月マエダ工業に資本参加した大阪のモリ工業により、モリ・サンツアーが設立されましたが、1995年自転車部品事業から撤退することにより、サンツアーの名前は社名から消えました。

 

 

前田鉄工所からマエダ工業へ社名変更後1年目のカタログになります。カタログ写真の中に新社名が見えます。内外とも競争は激しくなり始めましたが、右肩上がりの経済情勢で、製品開発にも拍車がかかり、この後レジェンドの名を残したSuperbeの製品も開発されました。Aのサンツアーとの関わりはスキッターに始まります。4段変速1/8チェーンから始まったと記憶します。

 

※ 掲載のコピーカタログにつきましては、著作権制限対象物に当たるか否かは不明ですが、個人使用のみに限らせてもらっております。掲載物関係者の方で、御異議・苦情等があれば、ご連絡下さい。早期に削除等の対処をさせていただきます。

 

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