マイステイズからシャトルに乗せてもらい、9時過ぎに第2ターミナルへ。
軽くハムトーストとコーヒーで朝食をとり、昼飯の弁当を買い込んで、午前10時半過ぎのANA便に乗り込む。
機内は満席。
おきなわ線は、いつでも人気のようだ。
機内誌を読んでいたらすぐに昼飯時となり、弁当を開く。
寿司と天むす。
程なく、那覇へ到着。
野球のキャンプがあちこちにあるので、旅行者も多いような気がする。
マイルで航空券をとっているが、2月のこの時期、ホテル予約をすると、那覇のホテルの軒並み高かったが、なぜか?
プロ野球のキャンプにちがいない。
ファンが押し寄せてるんだろな。
空港を出て、フジレンタカーへ。
1430には、出発。
目指すは、首里城。
今まで
何度も行っているが、2月から御内原、いわゆる大奥がオープンとなった。
守礼門を通り、
園比屋武御嶽石門
アプリ
on the trip
で、首里城の詳しい説明をきいて、
この園比屋武御嶽石門の御嶽(うたか )は、本当の御嶽とは、異なるとのことを知る。
*御嶽 :神を祀る聖所、祭祀を行う施設。
昔琉球時代この辺りはうっそうと森に覆われていて、石門は、こちら側とあちら側の境を表していたらしい。
さて、先へ
城へ入る最初の門であり、
お客様専用の門、歓会門を抜け、
琉球の守り神シーサーがあるだけのシンプルな門。
一国の城にしては、無防備の感がある。
これは、
築城の時には、戦争を意識するが、その後、外交が重要となり、迎賓館的な要素が強くなってからだという。
何しろ、
琉球王国は15世紀に誕生し、450年続いたのには、上手な外交術があったに違いない。
続いての門は瑞泉門。
瑞泉とは、すばらしい泉という意味。
その手前には、龍樋という龍の口から水が出ている。
この水は、琉球王国の時代からずっと出ている水で、水質もよいため、、王国時代は王の水のほか、港に到着した中国からの客人に与えるため水を運んだとか。
その量、1日200リットル。
役人の苦労はどんなだったろう。
この井戸も他の場所同様、戦火にあったらしいが、驚くことにこの龍樋は残っていて井戸も復元でき、昔のままの泉をたたえている。
3つ目の門、漏刻門を過ぎる。
写真を撮ってないが、この漏刻門の櫓の上に水時計があり、時間を知らせるため下級役人によって見守られて、時が来ると時報がわりに太鼓が叩かれたらしい。その音を聞いて、首里の周りの寺が一斉に鐘を鳴らして時を告げたとか。
その後、有能な政治家の蔡温は、水時計だけでは、時間がルーズになり、時間がルーズになりことは、国家のゆるみになると考え、、日時計も併用したんだとか。
勉強になる。
さて、
続いては、首里森御嶽
ここは、首里城発祥の地。
神のいるニライカナイから、島づくりの命を受けたアマミキヨという神様が7つの御嶽を作ってその最後の御嶽がこの首里森御嶽だとか。
斎場御嶽もその一つなんだよな。
実際にも、この御嶽が首里城ができるより前から存在していたから、その霊力にあやかり御嶽を取り囲むように築城したと考えられる。
券売機で券を買って奉神門を通る。
この先は、神と崇められた国王のいる場所。
琉球の時代は、普段はもんはしめられており、冊封使だけがこの門を通ることができ、どんなに上級の役人であれ両脇の小さな扉から出入りしたとこ。
この先は御庭(うなぁ )と呼ばれる広場と、首里城のメインの正殿がある。
正殿の裏には国王のプライベートの御内原(おうちばら )が広がる。
つまり、正殿を境に表と裏に分かれて、
表は男社会で政治、裏は女社会で生活の場だったとか。
正殿の1階は表、2階は裏でもあった。
正殿前の浮道と言われる15センチくらい高くなった道がある。
ここは国王だけが歩く道で、役人はまたぐこともできない神聖な道であったらしい。
以前から不思議だなと思っていたのが、
なぜか正殿に対し垂直ではなく80度となっている。
説明によれば、
この浮道の先は、首里森御嶽。
国王と御嶽の神様をつなぐためではないかという。
納得。
正殿の右側が、薩摩藩をもてなす南殿、左側が中国からの冊封使をもてなす北殿。
南殿は、あえて色を塗ってないが、北殿は、紫禁城に見られるような赤や丸い柱を使う。
中国と日本をうまく外交に使っていた当時の琉球王国の立ち位置がよくわかる。
正殿をよく見ると、龍が立っている。
普通何かに巻いているのではない龍の姿は、他の国では見られず、これは琉球の自立を示しているのではないかという見解は、面白い。
龍は国王の象徴だが、また、水の神でもあるので、火事よけで屋根の上ににもある。
さて、中に入る。
書院に進む。
以前よりも整備されている。
ここは、国王の仕事部屋。
国王は、神であるが、役人の上げてくる書類に目を通し印を押すので、かなり多忙だったというのが笑える。
書院の前に広がるのは、
日本の枯山水をベースに中国の回遊式を取り入れた庭となっており、仕事の合間にここを散歩したらしい。
奥書院は国王の休憩室。
この↓金の釘隠しが、国王の部屋である証。
さて、今回新しく公開された裏の女社会、生活の場へ。
この大奥を総称して、御内原というらしい。
御内原は、男子禁制の女の園。
女の園と聞くと、侵入したいとおもうだろうが、
男が侵入し捕まると島流しという厳しい罰が待っていた。
恐ろし
それにしても女官が住100人くらいが住み込みで一緒に暮らしていたらしいが、居室を見ると狭そうだが、それでも機織りをして暮らす日々で、きれいな服を着て食事もちゃんと取れるので、農村で暮らすのと違い、夢のような奉公だったという人もいたとか。
ただ、この御内原の資料は極端に少ないらしく今も謎に包まれていることが多いようだ。
ここは、展望台としても素晴らしい。
空から見た御内原の動画
↓
こちら
首里城を空撮した動画
↓
こちら
首里城を楽しんだ後は、
御内原を見た後は、
京の内(きょうのうち )も散策。
京の内とは、「きやのうち」。「きや」とは、霊力が満ちている場所のこと。
琉球王国時代、ここは深い森に覆われていて、
国王や神女によって王家繁栄、航海安全、五穀豊穣を祈る儀式が行われていた場所。
初めて散策。
首里城は、見どころ満載。
というように今回、かなり時間をとって見て回り、気がつけば夕方時刻になっている。
今宵の宿は糸満なので、そのままホテルへ向かうことにする。
つづく。
軽くハムトーストとコーヒーで朝食をとり、昼飯の弁当を買い込んで、午前10時半過ぎのANA便に乗り込む。
機内は満席。
おきなわ線は、いつでも人気のようだ。
機内誌を読んでいたらすぐに昼飯時となり、弁当を開く。
寿司と天むす。
程なく、那覇へ到着。
野球のキャンプがあちこちにあるので、旅行者も多いような気がする。
マイルで航空券をとっているが、2月のこの時期、ホテル予約をすると、那覇のホテルの軒並み高かったが、なぜか?
プロ野球のキャンプにちがいない。
ファンが押し寄せてるんだろな。
空港を出て、フジレンタカーへ。
1430には、出発。
目指すは、首里城。
今まで
何度も行っているが、2月から御内原、いわゆる大奥がオープンとなった。
守礼門を通り、
園比屋武御嶽石門
アプリ
on the trip
で、首里城の詳しい説明をきいて、
この園比屋武御嶽石門の御嶽(うたか )は、本当の御嶽とは、異なるとのことを知る。
*御嶽 :神を祀る聖所、祭祀を行う施設。
昔琉球時代この辺りはうっそうと森に覆われていて、石門は、こちら側とあちら側の境を表していたらしい。
さて、先へ
城へ入る最初の門であり、
お客様専用の門、歓会門を抜け、
琉球の守り神シーサーがあるだけのシンプルな門。
一国の城にしては、無防備の感がある。
これは、
築城の時には、戦争を意識するが、その後、外交が重要となり、迎賓館的な要素が強くなってからだという。
何しろ、
琉球王国は15世紀に誕生し、450年続いたのには、上手な外交術があったに違いない。
続いての門は瑞泉門。
瑞泉とは、すばらしい泉という意味。
その手前には、龍樋という龍の口から水が出ている。
この水は、琉球王国の時代からずっと出ている水で、水質もよいため、、王国時代は王の水のほか、港に到着した中国からの客人に与えるため水を運んだとか。
その量、1日200リットル。
役人の苦労はどんなだったろう。
この井戸も他の場所同様、戦火にあったらしいが、驚くことにこの龍樋は残っていて井戸も復元でき、昔のままの泉をたたえている。
3つ目の門、漏刻門を過ぎる。
写真を撮ってないが、この漏刻門の櫓の上に水時計があり、時間を知らせるため下級役人によって見守られて、時が来ると時報がわりに太鼓が叩かれたらしい。その音を聞いて、首里の周りの寺が一斉に鐘を鳴らして時を告げたとか。
その後、有能な政治家の蔡温は、水時計だけでは、時間がルーズになり、時間がルーズになりことは、国家のゆるみになると考え、、日時計も併用したんだとか。
勉強になる。
さて、
続いては、首里森御嶽
ここは、首里城発祥の地。
神のいるニライカナイから、島づくりの命を受けたアマミキヨという神様が7つの御嶽を作ってその最後の御嶽がこの首里森御嶽だとか。
斎場御嶽もその一つなんだよな。
実際にも、この御嶽が首里城ができるより前から存在していたから、その霊力にあやかり御嶽を取り囲むように築城したと考えられる。
券売機で券を買って奉神門を通る。
この先は、神と崇められた国王のいる場所。
琉球の時代は、普段はもんはしめられており、冊封使だけがこの門を通ることができ、どんなに上級の役人であれ両脇の小さな扉から出入りしたとこ。
この先は御庭(うなぁ )と呼ばれる広場と、首里城のメインの正殿がある。
正殿の裏には国王のプライベートの御内原(おうちばら )が広がる。
つまり、正殿を境に表と裏に分かれて、
表は男社会で政治、裏は女社会で生活の場だったとか。
正殿の1階は表、2階は裏でもあった。
正殿前の浮道と言われる15センチくらい高くなった道がある。
ここは国王だけが歩く道で、役人はまたぐこともできない神聖な道であったらしい。
以前から不思議だなと思っていたのが、
なぜか正殿に対し垂直ではなく80度となっている。
説明によれば、
この浮道の先は、首里森御嶽。
国王と御嶽の神様をつなぐためではないかという。
納得。
正殿の右側が、薩摩藩をもてなす南殿、左側が中国からの冊封使をもてなす北殿。
南殿は、あえて色を塗ってないが、北殿は、紫禁城に見られるような赤や丸い柱を使う。
中国と日本をうまく外交に使っていた当時の琉球王国の立ち位置がよくわかる。
正殿をよく見ると、龍が立っている。
普通何かに巻いているのではない龍の姿は、他の国では見られず、これは琉球の自立を示しているのではないかという見解は、面白い。
龍は国王の象徴だが、また、水の神でもあるので、火事よけで屋根の上ににもある。
さて、中に入る。
書院に進む。
以前よりも整備されている。
ここは、国王の仕事部屋。
国王は、神であるが、役人の上げてくる書類に目を通し印を押すので、かなり多忙だったというのが笑える。
書院の前に広がるのは、
日本の枯山水をベースに中国の回遊式を取り入れた庭となっており、仕事の合間にここを散歩したらしい。
奥書院は国王の休憩室。
この↓金の釘隠しが、国王の部屋である証。
さて、今回新しく公開された裏の女社会、生活の場へ。
この大奥を総称して、御内原というらしい。
御内原は、男子禁制の女の園。
女の園と聞くと、侵入したいとおもうだろうが、
男が侵入し捕まると島流しという厳しい罰が待っていた。
恐ろし
それにしても女官が住100人くらいが住み込みで一緒に暮らしていたらしいが、居室を見ると狭そうだが、それでも機織りをして暮らす日々で、きれいな服を着て食事もちゃんと取れるので、農村で暮らすのと違い、夢のような奉公だったという人もいたとか。
ただ、この御内原の資料は極端に少ないらしく今も謎に包まれていることが多いようだ。
ここは、展望台としても素晴らしい。
空から見た御内原の動画
↓
こちら
首里城を空撮した動画
↓
こちら
首里城を楽しんだ後は、
御内原を見た後は、
京の内(きょうのうち )も散策。
京の内とは、「きやのうち」。「きや」とは、霊力が満ちている場所のこと。
琉球王国時代、ここは深い森に覆われていて、
国王や神女によって王家繁栄、航海安全、五穀豊穣を祈る儀式が行われていた場所。
初めて散策。
首里城は、見どころ満載。
というように今回、かなり時間をとって見て回り、気がつけば夕方時刻になっている。
今宵の宿は糸満なので、そのままホテルへ向かうことにする。
つづく。