そうなんだ、息子よ。手から書類が滑り落ちたのはそのすぐ後だ。吐き気がするほどの恐怖心に襲われた。なんという習慣に私はとりつかれていたんだろう。あら探しをする習慣、叱ってばかりいる習慣。ほんの子供のきみに、何という仕打ちだ。決してきみを愛していないわけじゃない。お父さんは幼いきみに無理な期待をしていた。大人のものさしできみを測っていたんだね。
だがきみという人は、とてつもなく善良で、気高くて、純粋だった。この小さな胸は、広い丘の夜明けのように大きかった。私に思わず飛びついて、お休みのキスを力いっぱいしてくれたときに、それがわかった。今夜は他のことなんかどうでもいい。お父さんは今ベッドの脇へ来て、こうして暗がりの中でひざまずいている。恥ずかしさでいっぱいになって。
きみにせめてもの償いがしたい。昼間こんなことを言っても、わかってはもらえないだろうが。だが明日から、お父さんは本当のお父さんになろう!もっと一緒に過ごして、きみが悲しい時には一緒に悲しみ、笑う時には一緒に笑おう。つい何かいいそうになったら口をつぐんで我慢する。おまじないみたいにいつもこう言っているよ。「この子はまだほんの子供じゃないか。ほんのおチビさんさ!」
私はきみを一人前の男のように見ていたようだ。だが今こうして、くたくたになって小さなベッドの中で眠りこけているきみを見れば、まだほんの赤ん坊だ。つい昨日までお母さんに抱っこされて肩にもたれていたんだから。お父さんはそんなきみに、無理な注文をしていたね。
カーネギーがその物語を取り上げたのは、日ごろつい自分のことを棚にあげ、他人を批評したり批判したりに明け暮れている私たちに気付きを促すためだった。
同じものをここでもう一度、別の視点から読んでみようではないか。自分の間違いにようやく気付いた父親の話ではなく、幼い息子の無条件の肯定の精神が、父親を永久的に変えるほど大きな影響力を振るったという話として。
D・カーネギー 人を動かす2