水俣病闘争の奇跡「黒旗の下に」 池見哲司 著
59年7月、熊大の水俣病研究班が有機水銀説に行きついた。これが引き金になって漁民騒動も起きた。厚生省の食品衛生調査会は、熊大研究班を中心メンバーとする水俣食中毒部会の中間報告を踏まえて11月12日、「水俣病の原因は湾周辺の魚介類中のある種の有機水銀化合物」と厚相に答申した。
食中毒部会は引き続き、原因企業がチッソであることを明らかにする構えでいた。ところが、答申を受けたその日、厚相はなぜか部会を解散させてしまう。通産省から圧力がかかったと考えて間違いない。翌日の閣議で厚相が答申内容を報告すると、さっそく通産相の池田勇人が「有機水銀が工場から出たと結論するのは早計」と牽制球を投げた。その挙句に18日、厚生省は仕事を取り上げられるのだ。
突然、お鉢が回ってきたものの、経企庁にやる気はなかった。主宰した「水俣病総合調査連絡協議会」は四回の会合で自然消滅。63年二月には熊大研究班が「原因物質はチッソの排出したメチル水銀」とまで断定したが、それでも国は手を打たなかった。そして65年5月、新潟で第二の水俣病が確認された。
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「こんにちただいまから、私達は国家権力に立ち向かうことになったのでございます」
1969年6月14日、熊本地方裁判所に訴状を出した原告代表の渡辺栄蔵は、地裁前の集会でこう挨拶した。
水俣病の認定患者29世帯がチッソを相手取って起こした損害賠償請求訴訟。71歳の老体の胸中には、患者を圧殺してきた本当の敵は、チッソではなく「国家権力」であるとの思いがたぎっていたに違いない。