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Lady Justice (正義の女神)(3)

2013年09月09日 | 

水俣病闘争の奇跡「黒旗の下に」  池見哲司 著

 

1953年水俣病認定第一号患者発症。

1968年9月26日、政府は熊本と新潟の二つの水俣病についての公式見解を発表した。熊本に関しては厚生省が「チッソの排水に含まれた有機水銀による公害病」と初めて認めた。

「水俣病は、水俣湾産の魚介類を長期かつ大量に摂取したことによって起こった中毒性中枢神経系疾患である。その原因物質は、メチル水銀化合物であり、チッソ水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が、工場排水に含まれて排出され、水俣湾産の魚介類を汚染し、その体内で濃縮されたメチル水銀化合物を「保有する魚介類を、地域住民が摂取することによって生じたものと認められる」

公式確認から十三年目。見解を発表した厚相の園田直は「原因調査に困難な問題が多く、政府見解が甚だしく遅れた事は遺憾であり、国民にお詫びしたい」と語った。

  

1970年代初頭、水俣病闘争のシンボルとして、日本列島を「怨」の黒旗が駆け抜けた。近代社会の犠牲になった死者たちの霊を宿すかのように、林立する黒旗は、日常の見慣れた風景を切り裂き、あの世を垣間見せる力があった。

  

1972年1月7日、川本は十人余りの支援者たちとともに、千葉県市原市にあるチッソ石油化学五井工場に出向いた。チッソ本社で川本たちの前に立ちはだかるのが五井工場の従業員だったため、労組組合長の夏目英夫に面会を申し入れていた。

約束の午前11時に行くと、正門はぴったりと閉ざされている。応対に現れた労組役員は、鉄柵越しに「緊急の執行委員会を開いているから待ってくれ」とか、「五人以内という話だったのに約束が違う」などと言い、引き上げてしまった。

二時間近くも待たされた川本は、寒さに耐えられなくなって、守衛室に入れてもらった。支援者や同行した報道陣の一部も入った。やがて、守衛室に電話があり「組合長は東京に行った。三時頃には連絡がつく」という。怒りを抑えて、川本は守衛室内の仮眠室で休んでいた。

まもなく三時という時刻だった。

二百人近い従業員が現れて守衛室を取り囲んだ。責任者の号令のもと、あっという間に川本や支援者たちに襲いかかり、構内から排除した。水俣の記録写真で知られる写真家のユージン・スミスや同行記者達も殴る蹴るの暴行を受けた。

川本は後に、チッソ従業員に対する傷害罪で起訴されるが、こちらのチッソ従業員による集団暴行事件は不起訴になった。

ユージンは袋だたきに遭った。写真集「水俣」にはこう記述されている。「四人の男が私の手足を取って、ひっくり返った椅子の脚の上を引きずり、別の六人の手に渡し、今度は私の頭は外のコンクリートに叩きつけられた。ガラガラ蛇の尾を持ってたたきつけて殺すあのやり方だ。そしてゲートの外に放り出された。」

同行していた妻のアイリーンによると、ユージンは口の中を切り、体のあちこちにあざができていた。カメラ二台と交換レンズもめちゃくちゃにされた。頭を打ったせいで、激しい頭痛と視力低下の後遺症が残った。様々な治療を受けても完全にはよくならなかった。

取材記者にまで暴行をはたらきながら、チッソは「自損行為。暴力は振るっていない」と言い張った。

ユージンは71年8月にアイリーンと結婚。9月から二人で水俣に住みついて、水俣の風景や患者の撮影を始めた。胎児性患者の上村智子や坂本しのぶ達の暮らしを撮り、川本達の闘いを撮った。74年11月にアメリカに引き揚げた後、75年5月、英語版の写真集「MINAMATA」を出版した。

78年10月、脳出血のため死去、59歳だった。五井事件の後遺症が影響したのかどうかは分からない。ユージンが強く待ち望んでいた日本語版「水俣」がアイリーンの手で出たのは、それから一年後だった。

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