浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「垂訓」

2024-02-14 00:04:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

     ◆不浄なる肉の身があってこそ悟らせてもらえる◆

先の続き・・・

過去の嫌な記憶が蘇り、不愉快になった時なども。
「あれも実体がなかった」「無い、無い」
と否定しまうと気が楽になります。
過去は帰らないことを悟り、捨て去ることです。
この練習が日々の修行と思って精進することです。

しかし、実際問題としては脳裏を去来する思いが絶えずあり、
何かしら思ったり考えたりしているのが私たち凡夫です。
そこに「思い変え」という有効な方法があります。
一足跳びに空とか無になってしまうなどというのは、
私たち凡人にはできないことです。
それどころか、この不浄なる肉体を持った以上は、
何か自分にとって不都合なことを見たり聞いたりすれば、
誰でも腹を立てずにいられぬようになっているのです。

愚痴も言えば、欲も持つ。
それを、感謝のほうにどう思いを変えていくか。
苦しみの中で本当に感謝できた時に、
その感謝できた自分が自らに対する喜びとなります。
古語に「この世は上見りゃきりない 
下見りゃきりない 上見て暮らすな 下見て暮せ」
という言葉があります。
常に下を見て暮らす時、
よかったよかったと感謝と喜びが湧き上がります。


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「垂訓」

2024-02-12 23:59:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

     ◆不浄なる肉の身があってこそ悟らせてもらえる◆

先の続き・・・

般若心経の中に「色即是空 空即是色」とあるように、
この世のいっさいの現れには
実体がなく、実体がないからこそ形として現れる。
そして、実体がないからこそまた消えていくものである。
しかし、実体がないからといって形がないのではない。
実体がないからこそ形として現れるのだ、といわれています。
思いさえも実体が「無い」ということになります。
「受想行識亦復如是」はこのように見た時、受想行識もまたかくの如し、
五感に受けるということも思うことも行うことも識ることも、
また同じくかくのごとく実体がない。
「無受想行識」「無限耳鼻舌身意」はこの見方からすると、
眼も耳も鼻も舌も身も意さえも
ないことになります。

人間はいろいろと身聞きする結果、
余計なことを思い煩ったりするわけですが、
そういうものはいっさい実体がなく、
あるように見えても実はないのだということです。
「是諸法空相」はこのように見た時は、
この大自然界でさえも実体がないということになります。
ただ実体がないということをよく理解し、
感覚によって知り得たものにとらわれてはいけない、
そんなものは実体がないのだから理解するほうが楽になることができます。


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「垂訓」

2024-02-12 00:07:03 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


     第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

    ◆不浄なる肉の身があってこそ悟らせてもらえる◆

古来、肉体は不浄なるものを詰め込んだ皮袋にたとえられました。
目から目糞、耳から耳糞、鼻から鼻糞、歯から歯糞、皮膚から汗アカ、
下から大小の排泄物というふうに汚いものがこの皮袋に
詰め込まれているのですが、この不浄なる肉体があってこそ
私たちは悟らせていただけます。

肉体を持ちながら、その肉体や五感にとらわれないということは、
心がそれだけ自由自在であり、泥に汚れることのないあの蓮の花と
同じだと思います。
そうして、はじめて本当の神に近付けます。
つまり、自分を犠牲にし、燃え上がらせ、
人様の喜びのために肉体を動かし、
しかも嫌いな人をつくらず、平等に愛する心です。 
太陽のような意識です。

人間は肉体を持ち、五感があるために、
どうしても自分に都合のわるい人を嫌いになったり、
都合のよくない状況から逃げたりするようになっています。
どうしても、時として自己保存や自我我欲の塊みたいに
ならないわけにはいかないことがあります。
自分を守ろうとするのは、五感の煩悩、自己保存、
自我我欲の本質からいってしかたのないことですが、
これにとらわれた時、苦悩の中に陥ります。
しかし、この思いさえも実体が「無い」
といわれているのが般若心経です。


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「垂訓」

2024-02-11 00:03:04 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

      ◆あらゆる不幸は五感に翻弄されることから生ずる◆

先の続き・・・

ところで、この中で神殿や神棚の前では宝を供えるのと同様の有り難いものであり、
仏前にあっては花を供養するのと同様の功徳があり、
家人のためには祈祷と同様の価値あるものとして、このお経が信じられていました。
ここは非常に誤解を生じやすい箇所です。
というのは、このお経を声高々と詠みあげたら、
あらゆる神仏から眷属に到るまでの心の願望に慈悲をけて
救ってくださると書いてあるからです。
そこは、日本人の宗教観の一つの傾向として、他力信仰、
つまり神頼みやお陰をいただくためにのご利益信仰に
偏ってしまいやすいからです。

元来、宗教というのは自分の魂磨きや霊性の開発を目的としたものであり、
般若心経もただ朗々と読み上げれば、
それで不思議な功徳がいただけるという都合のいいものではありません。
般若心経の冒頭には「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」と説かれています。
これに続いて「正見五蘊皆空」と説かれています。
心によって観ることの自由自在で、なおも仏を目指して修業される方が、
内在された智慧に到達する教えを深く実践された時、
人間存在はすべて実体がないと見通されたという意味です。

もし、とらわれた時はすべて苦しみとなり、災いとなるであろうと、
お釈迦様が舎利子(十大弟子の中の智慧第一と呼ばれた方)を代表する、
すなわち仏弟子達にに向かって、説いてくださっているのです。
「色即是空」は、〈目に見えるあらゆる物質、「色」には実体がない、
実体がないからこそいつの日にか消えていくものである。
実体がないからといって、物質がないのではなく、
実体がないからこそ物質として現象しているのである〉。
このような真理がら見た時、私たちは何を悩み苦しむのであろうか。
日々の生活の中でこの教えを理解した時は苦悩も少なくなると思います。


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「垂訓」

2024-02-10 00:15:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


    第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆あらゆる不幸は五感に翻弄されることから生ずる◆

先の続き・・・

心経奉賛文
抑々般若心経と申す御経は文字の数僅か二百六拾餘文字なれど
釈迦は一代の経即天台経毘廬舎経 華厳経方等 般若 法華経等一切
七千餘巻より撰み出されたる御経なれば 神前にては宝の御経
仏前には花の御経 況家の為 人の為には祈禱の御経なれば声高々と
読み上ぐれば 上は梵天帝釋四天王 日本國中 大小神祇 諸天善神
諸大眷属に到る迄哀愍納受して我等の所願を成就せしめ給う
(謹んで読誦し奉る)


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「垂訓」

2024-02-09 00:02:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

      ◆あらゆる不幸は五感に翻弄されることから生ずる◆

先の続き・・・

というのは、桜をめでるお顔を見ることもできなくなるでしょうし、
美しい音楽を楽しむこともできないでしょうし、
花やお香の芳しい匂いも嗅げないでしょう。
また、おいしいものを味わうこともできないでしょう。
気持ちのいい水の冷たさを感じることもできないでしょう。
これでは人間の存在そのものがなくなるからです。
第一に、五感が働かないと、危険から身を守ることができません。
腐ったものを舌で見分け、異臭や不完全燃焼の臭いなどを鼻で嗅ぎ分け、
変な物音に耳を澄ませられるからこそ、身の安全を確保できるのです。
最高度に精巧なセンサーが私たちには与えられています。
生きていくためにはどうしても必要なものが五感です。

これは今日までの驚くべき科学の進歩によってできた
精巧なロボットも及ぶことができません。
危険から身を守り、できるだけ無事に平安に行ける道を選択するように
最初からつくられ、それにしたがって行動できるようになっているのが
人間の五官の働きです。
しかし、私たちには意識の働きがあって、様々な思いを抱き、
その思いの中に生かされています。
その思い方しだいで五感に引きずり回されて
苦しみをつくり出すのか、それとも智慧を
働かせて幸せな人生を送るかが決まってまいります。
般若心経は、わずか二百六十余文字です。

しかし、
この中にお釈迦様の説かれた真理のうち最も本質的なものが
結晶化されているといわれています。
お釈迦様のみ教えを後世に遺した天台経、毘盧舎那経、
阿含経、華厳経などのお経のいっさい、
七千余巻とされていますが、これらのうちから大事な
要素を精選したものが、
この般若心経だといわれています。
ですから、いかに有難い功徳あるものなのかということが、
日本に入ってきて今日まで
伝えられているか心経奉讃文という文章でも紹介されています。
その原文をここに引用してみます。


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「垂訓」

2024-02-07 23:58:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

      ◆あらゆる不幸は五感に翻弄されることから生ずる◆

般若心経の中にある「眼耳鼻舌身意」は
「げん・に・び・ぜつ・しん・い」と読み、
仏教では六根と呼ばれています。
このうち最初の五つが感覚器官です。
それぞれが視覚、聴覚、臭覚、味覚、触角という五感を知覚し、
これが外の環境からの刺激として神経を
通じて行動に結びついていきます。

善い行いだけをしようと心に決めていても、
ついつい見たり聞いたりするうちに欲望が生じてまいりまして、
葛藤の末についにこれに負けてしまうといったことが起きるのも、
人間に与えられた肉体とそれに付随する五つの感覚器官のせいです。
それなら、いっそのことこんな面倒なものは
取り除いてしまった方がいいのかというと、
それでは非常に困ります。


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「垂訓」

2024-02-07 00:01:58 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

     ◆指をとられて自殺した方と腕をもがれて感謝した方◆

先の続き・・・

一日のうちでたとえ五分でも十分でも感謝の心を持つと、
その間に魔が入ってくることはできません。
感謝は心の魔から自分を守ってくれる鎧であり、
自分自身の喜びでもあります。
「ありがとうございます」と、
素直に感謝できること自体が心の宝です。
一日の中で感謝する時間が長くなればなるほど、
その人は幸せな時間が長いことになります。
あらゆることに対し、できるだけ感謝忘れずにいると、
最後には一日のすべてが感謝に満たされるということになります。
そして、いっさいの苦しみなく、
安らぎの時だけがあるということになります。
これが幸せになる要領です。

苦しみに心を向けさせないために、無理やりにでもいいから、
感謝の対象を見つけて感謝することです。
そうするうちに、健康も家庭も仕事も商売もすべてよくなり、
喜びに満たされてきます。
もともと私たちの内に入っている神我は、
完全無欠の神そのものの性質を持っているのですから、
それがこの世の生活に反映されてくることになるのです。


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「垂訓」

2024-02-06 00:12:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

     ◆指をとられて自殺した方と腕をもがれて感謝した方◆

先の続き・・・

しかし、この一つ一つしか思えない心の法則を
逆にうまく利用すれば、
怒ることも不平を言うこともできなくなります。
それには感謝の心だけを常に思うといいのです。
熱光を恵んでくれている太陽に、
酸素を供給してくれている空気に、そして水、海、山、
大地などの自然、それから動物、植物、
鉱物などの食物、自分自身の肉体と、
感謝の対象は数限りなくあります。

この感謝に心を満たしている時は、
私たちの苦しみの原因である想念感情、すなわち怒り、
恨み、憎しみ、愚痴、妬み、謗り、
取越し苦労などの思いが心に入ることはできません。
感謝は光ですから、その光の中で
怒りでも愚痴でも消えてしまいます。


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「垂訓」

2024-02-05 00:06:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

    ◆指をとられて自殺した方と腕をもがれて感謝した方◆

先の続き・・・

「へえ。あの目が潰れて泣いておられた方ですか」と、
びっくりして言いました。
すると、「本当に私は救われました。
地獄の底から極楽に救いあげていただくというのは、
こういうことかと思いました」と言われました。
そして、もう一つ付け加えられました。
「私は自分が本当に幸せであるということを忘れていました」と、
目が治ったから幸せになったのかというと、目はそのままです。
心を潰れた目に向けていたのを、残った目のほうに向け換えてことで、
地獄から極楽へと境涯が変わったのです。

心の働きとはこのように実に不思議なものです。
不幸だ不幸だと思っていたのが、ちょっと見方を変えたら、
私はこんなに幸せだったんだなあということがわかりました。
心を切換えるだけで、不幸が幸せになるということです。
そのような方にはたくさん出会っております。
人の心は一念三千と言われ、
あらゆる思いの世界に通じることができますが、
その時その時においては一つのことしか思えないというのが
人間の心の法則です。
思いの矢印の向きは一つです。
私たちは、この法則に案外気付いていません。
「悲しみと喜び」「怒りと安らぎ」「恨みと赦し」など、
一瞬のうちにこれら二つを思うことはできません。


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「垂訓」

2024-02-03 23:58:21 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

    ◆指をとられて自殺した方と腕をもがれて感謝した方◆

先の続き・・・

彼女にお話をさせていただきました。
「つらいのはよくわかります。私は両目が見えますから、
私にはあなたの悲しみがわからないとあなたは思うでしょう。
ただ、悲しい悲しいと毎日泣いて暮しているのも一つの現実です。
しかし、悲しい、悲しいと泣いていても
それは何の役にも立たないはずです。
その女性はワイヤロープの製造工場に勤めていたのですが、
ワイヤの一本の針金の先の尖ったところが
突き刺さって失明してしまったそうです。

全身の面積から考えても、
よりによって目の瞳孔にワイヤの先が突き刺さるという
惨事はよほどわずかの確立で起きたとしか考えられず、
たいへん不運だったとも言えます。
また、次のようにお話させていただきました。
「あなたは失われた片目に心をとらわれています。
しかし、もう十センチも長いのが飛んできて
両目をピシッとやられていれば、
今どころではないはずです。
両方見えなくなります。
そうなれば、どんなに不自由かわからない。
そこで、残ったほうの目に心を向け換えなさい。
これからつらい時があれば、
こうして片目を助けてくださいまして
有難うございますという気持ちで
感謝に心を向けて下さい」

賢い方だったのでしょう。
よく理解してくださり、それから一週間ほど過ぎて、
にこにこ笑って本当に幸せそうな
女性になって訪ねていらっしゃいました。
わたしはおつきあいは多いのですけれど、
一度お会いした方のお顔はよく覚えています。
あの時の腰はいかがですかとか、
あの時こうおっしゃいましたね、
などと必ずお話ができます。
それなのに、その時ばかりは、
どうしても相手が誰だったのかが思い出せず、
「初めてですか」とお聞きすると、恥ずかしそうに笑いながら、
「いや、このあいだまで泣いていましたから」とおっしゃるのです。
喜びに満たされて、
お顔までまったくの別人になってしまっていたのでした。


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「垂訓」

2024-02-02 23:57:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

    ◆指をとられて自殺した方と腕をもがれて感謝した方◆

若い頃の知り合いの方に、工場で働いていて機械に指の先をはさまれて
右親指の第一関節から切断した方がおられました。
女性の方でしたが、勤め先の会社を恨み、機械を修繕した人を恨み、
生まれもつかない手になってしまったと運命を呪い、
もう結婚もできなくなってしまったと悲観しました。
そして、とうとう自殺してしまいました。
指先を失っただけで自殺をしてしまったのです。

同じ年頃の方に、
やはり機械に巻き込まれて右上腕部から切断していしまった方がいました。
指先どころか腕までも取られてしまったこの方は、
「ああ、よかった。そのままずっと機械に引き込まれていたら、
全身までも機械に引き込まれてしまっただろうに。
私は運がよかった。
お陰様で助けてもらった」と、一命をとりとめたことを喜びました。
義手をつけていますが、今も幸せに生きておられます。
指の先を失って命を捨てる方と、腕を失っても
「よかった。私は幸運だった」と言って、
幸せに生きている方と、この両者の違いは何かというと、
思い方にあります。
思い方ひとつがどんなに大きく人間の幸不幸を左右するか、
良く分かると思います。
何が起きたかということには、関係なくです。
片目を事故で失った女性もそうでした。


四年間というもの、なぜ私だけがこんな不幸な目に
遭わなければならないのかと毎日
泣き暮らしていたそうです。
そのお姉さんが見るに見かねてあまりかわいそうだからということで、
私のところに妹さんを連れておいでになりました。
毎日四年も泣いておりますと、笑っても泣き顔になるのです。
笑筋といって、笑う時に使う顔面の筋肉を使わないで、
泣筋ばかりを使っているために
こちらが発達してしまい、
笑った時でさえ泣き顔にしか見えないのです。


           

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「垂訓」

2024-02-02 00:08:19 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

     ◆幸せの扉を開ける鍵「観自在菩薩」の意味と「思い変え」の法◆

先の続き・・・

私たちは天上界で魂の兄弟たちと、ある約束をしてこの世に生まれてきます。
それは、「魂の修行をして、自分を高めてきます」という約束です。
あの世から見れば、この世は、断崖絶壁にも似た危険きわまりない場所です。
蟻地獄に落ち込み、逃げようとしても、砂をかけられて落とされ、
最後には食べられてしまう蟻の姿と同じような人生もあります。
現象界は一歩足を踏み外せば、底の見えない谷底に落ちたり、
霧がたちこめれば一歩も
進めないような危なかしい世界です。
その危なさは、状況に応じて思いをコントロールすることの
難しさからも来ています。
魂を百パーセントとすると、オギャーと生まれた時に、
意識は百パーセント潜在してしまい、
徐々に浮上してわずか十パーセントの表面意識で生活をします。

九十パーセントまでが潜在意識として隠れます。
怒りたくないと思っても怒ってしまったり、
嫌ってはならないと思っても嫌ってしまったりと、
私たちは表面の意識でいくらこういう自分でありたいと願っても、
肉体の煩悩がそうさせてくれません。
しばしば自分で自分を裏切るような自己矛盾が出て来ます。
これが不幸の始まりです。
偽我の思いと、そうでない神我の自分とをはっきり
峻別する努力が必要です。
それを可能にしてくれるのが、
潜在意識の最も奥深くに蔵されている智慧です。
この中には観自在すなわち物事を見通す力が備わっています。
それを獲得することこそ、この世での魂の修行の目的でもあります。


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「垂訓」

2024-02-01 00:05:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

     ◆幸せの扉を開ける鍵「観自在菩薩」の意味と「思い変え」の法◆

先の続き・・・

私たちは天上界で魂の兄弟たちと、ある約束をしてこの世に生まれてきます。
それは、「魂の修行をして、自分を高めてきます」という約束です。
あの世から見れば、この世は、断崖絶壁にも似た危険きわまりない場所です。
蟻地獄に落ち込み、逃げようとしても、砂をかけられて落とされ、
最後には食べられてしまう蟻の姿と同じような人生もあります。
現象界は一歩足を踏み外せば、底の見えない谷底に落ちたり、
霧がたちこめれば一歩も
進めないような危なかしい世界です。
その危なさは、状況に応じて思いをコントロールすることの
難しさからも来ています。
魂を百パーセントとすると、オギャーと生まれた時に、
意識は百パーセント潜在してしまい、
徐々に浮上してわずか十パーセントの表面意識で生活をします。

九十パーセントまでが潜在意識として隠れます。
怒りたくないと思っても怒ってしまったり、
嫌ってはならないと思っても嫌ってしまったりと、
私たちは表面の意識でいくらこういう自分でありたいと願っても、
肉体の煩悩がそうさせてくれません。
しばしば自分で自分を裏切るような自己矛盾が出て来ます。
これが不幸の始まりです。
偽我の思いと、そうでない神我の自分とをはっきり峻別する努力が必要です。
それを可能にしてくれるのが、潜在意識の最も奥深くに蔵されている智慧です。
この中には観自在すなわち物事を見通す力が備わっています。
それを獲得することこそ、この世での魂の修行の目的でもあります。


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