浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

五十路過ぎ振り返り見ば
我が人生罪と恥との
積み重ねなり

「垂訓」

2024-02-12 23:59:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

     ◆不浄なる肉の身があってこそ悟らせてもらえる◆

先の続き・・・

般若心経の中に「色即是空 空即是色」とあるように、
この世のいっさいの現れには
実体がなく、実体がないからこそ形として現れる。
そして、実体がないからこそまた消えていくものである。
しかし、実体がないからといって形がないのではない。
実体がないからこそ形として現れるのだ、といわれています。
思いさえも実体が「無い」ということになります。
「受想行識亦復如是」はこのように見た時、受想行識もまたかくの如し、
五感に受けるということも思うことも行うことも識ることも、
また同じくかくのごとく実体がない。
「無受想行識」「無限耳鼻舌身意」はこの見方からすると、
眼も耳も鼻も舌も身も意さえも
ないことになります。

人間はいろいろと身聞きする結果、
余計なことを思い煩ったりするわけですが、
そういうものはいっさい実体がなく、
あるように見えても実はないのだということです。
「是諸法空相」はこのように見た時は、
この大自然界でさえも実体がないということになります。
ただ実体がないということをよく理解し、
感覚によって知り得たものにとらわれてはいけない、
そんなものは実体がないのだから理解するほうが楽になることができます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「垂訓」

2024-02-12 00:07:03 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


     第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

    ◆不浄なる肉の身があってこそ悟らせてもらえる◆

古来、肉体は不浄なるものを詰め込んだ皮袋にたとえられました。
目から目糞、耳から耳糞、鼻から鼻糞、歯から歯糞、皮膚から汗アカ、
下から大小の排泄物というふうに汚いものがこの皮袋に
詰め込まれているのですが、この不浄なる肉体があってこそ
私たちは悟らせていただけます。

肉体を持ちながら、その肉体や五感にとらわれないということは、
心がそれだけ自由自在であり、泥に汚れることのないあの蓮の花と
同じだと思います。
そうして、はじめて本当の神に近付けます。
つまり、自分を犠牲にし、燃え上がらせ、
人様の喜びのために肉体を動かし、
しかも嫌いな人をつくらず、平等に愛する心です。 
太陽のような意識です。

人間は肉体を持ち、五感があるために、
どうしても自分に都合のわるい人を嫌いになったり、
都合のよくない状況から逃げたりするようになっています。
どうしても、時として自己保存や自我我欲の塊みたいに
ならないわけにはいかないことがあります。
自分を守ろうとするのは、五感の煩悩、自己保存、
自我我欲の本質からいってしかたのないことですが、
これにとらわれた時、苦悩の中に陥ります。
しかし、この思いさえも実体が「無い」
といわれているのが般若心経です。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする