メタエンジニアの眼シリーズ(177) TITLE: 言語哲学
書籍名;「意味の深みへ」[2019]
著者;井筒俊彦 発行所;岩波書店
発行日;2019.3.15
初回作成日;R2.7.28 最終改定日;
引用先;様々なメタ
参照書;イスラムの神秘主義
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
スーフィズムという言葉に興味を持った。いわゆるイスラーム神秘主義なのだが、数冊の本を読んでも分かりにくい。判ったようで分からない。そこで1冊だけ選んで、この書を纏めてみる。理由は、この書だけは「メタ言語」の話に行き着いていたからである。「メタ言語」的に考えると、理解できた気がしてくる。
Wikipediaの説明はこうである。
『スーフィズムとは、9世紀から10世紀頃、官僚化したウラマーたちの手によってイスラーム諸学が厳密に体系化され始めた頃、コーランの内面的な解釈を重視し、スンニ派による律法主義・形式主義的なシャリーアを批判した初期のイスラーム神秘主義思想家たちが、虚飾を廃した印として粗末な羊毛(スーフ)の衣を身にまとったことでスーフィーと呼ばれたことに由来すると言われる。
スーフィーは特定の宗派または教義の呼称ではなく、もっぱらイスラーム世界においてこのような傾向をもって精神的な探求を志向した人物や、彼らのまわりに生まれた精神的共同体もしくは教団の総称とされるほか、さらにそれらと結び付いた思想・哲学・寓話・詩・音楽・舞踏などを指すこともある。諸派の間にはある程度まで共通の精神性や方向性が認められるが、諸派の間での違いも大きい。』とある。
この書の副題は「東洋哲学の水位」とあり、様々な東洋思想に言及している。それだけでも、メタ視点が感じられる。
表紙には、「解説」として、次の言葉がある。
『イスラーム神秘主義、仏教唯識論、空海密教、老荘思想、インド哲学、西洋思想の記号学を論じることで、人間の思考、存在を決定する「コトバの意味」の根源を探求する。』
冒頭は、現代の「地球社会」のありさまから始まっている。『人類の歴史の上で、未だかつてありませんでした』(pp.14)という状態なのだ。それは、西欧型機械文明のために、世界が機械的に一様化されたということで、次のように述べられている。
『だいたい同じ型の標準的な住居に住み、形も材料も基本的に同じ衣服を着、平等に汚染された空気を吸い、平等に汚染された肉や野菜を食べつつ、何億という人間が、至るところで均一化された灰色の味気ない生活を生きている。』(pp.17)
この均一化が、生活の外面だけでなく、心の内面に広がっているというわけである。「マスメディアの暴力的な支配によって」とある。
西洋哲学史で広く使われ始めている熟語の「文化的普遍者」(cultural universals)という言葉が説明されている。「普遍者」とは、ある文化を共有する集団の中で画一化された構造が出来上がることを意味している。そして、現代人間社会は、『遅かれ早かれ、人間生活は、内的にも外的にも、「文化的普遍者」の塊みたいなものになってしまう』(pp.19)というわけである。
ここから、話はカール・ポパーの文化論になる。ポパーは、およそ文化は本来的に独特な「枠組み」を持っており、『それ自体において整合的な一個の記号論的構造体なのである』(pp.28)としている。
つまり、その文化の成員は、その「枠組み」の中で考え、感じ、行動しているというわけである。つまり、持って生まれた深層意識によって「内的な牢獄」に縛られているという。
『外界のある対象を知覚するというような一見単純な行動でも、ただ外界からやって来る刺激にたいして我々の側の感覚器官が直接反応するのではない。その対象をどんなものとして認識するかは、その時その時に我々の意識の深層から働き出してくるコトバの意味構造の、外界を分節する力の介入によって決まるのであります。』(pp.29)
これらは全て、「日常的自然的態度」であって、特に疑問を持たない。しかし、「主体性の探求」が始まると、事情は異なってくる。つまり、自分自身の内面の深層を底の底まで究明しようとすると、多くの東洋哲学に行きつくというわけである。そこから、様々な東洋哲学の『意識の形而上的次元における特異な認識能力を活性化するための体系的な方法』(pp.39)が生まれたというわけである。
そこから、「意識の多層構造モデル」の話になってくる。
『意識の多層構造モデルで、一番浅い、表層レベルとして位置づけられるのは、感覚、知覚、思惟、意志、欲動など、普通の意味での心理現象の生滅するレベルでありまして 、このレベルでの意識にたいしてはリアリティは 先ず何よりも、無数の事物、事象に分節された世界として現われます。』(pp.41)
「枠組み」の中でとらえられた「粗大な」事物が、次第に「微細な」ものになり、意識の特別なレベルに到達する。
『要するに、「結び目をほどかれた」事物が、元来、日常的感覚の次元で固く保持していた個別的質料形能から己れを解きほぐして、流動的、創造的なイマージュに変形するということです。』(pp.43)
色々な東洋思想の解説の後で、「スーフィズムと言語哲学」の章に移る。ここでは、『常識的には誠に奇妙な表現がスーフィーの言語世界では成立する』(pp.256)例えば、「神は近いけれども遠い、遠いけれども近い。結局、近くも遠くもない」など。
ここ言葉は、次の三層構造によって説明される。この三層がタテに貫かれて全体がその語の意味になっているというわけである。
第1層;文字通りの空間的な隔たり
第2層;比喩的な空間性、つまり精神的な隔たり
第3層;絶対無空間性におけるふたつのものの相互関係
話は、ここから「天地創造」での、「神は無から創造した」という言葉の解釈になる。「無からの創造」はどう解釈できるのだろうか。「理性の向こう側の領域」で考えると、「存在は、実は存在ではなく、無なのだ」
という無時間的次元の解釈になる。
最後に、「手紙が書かれる手順」の話から、次の結論が語られている。
『神が存在するというただその一事で世界がそこにある。そこでは手紙の最初の一行も最後の行も、最初の一字も最後の一字も全部まったく同じ資格で「神の顔」の前に立っている。というより、「神の顔」によってそこに仮象的に存在させられている。最初の文字が最後の文字より時間的にも空間的にも先にあるということはない。もし時間空間的に考えるなら、すべての文字が一挙に同時に、そしてその源から等距離に存在しているといるのであります。それが「創造」の事態である。』(pp.261)
次元が異なれば、言語的な表現は全く異なったものになってゆく。メタエンジニアリング的には、「理性の向こう側の領域」の存在論を理解することはできても、その存在が「無」であれば、思考の対象にはなってこない。
書籍名;「意味の深みへ」[2019]
著者;井筒俊彦 発行所;岩波書店
発行日;2019.3.15
初回作成日;R2.7.28 最終改定日;
引用先;様々なメタ
参照書;イスラムの神秘主義
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
スーフィズムという言葉に興味を持った。いわゆるイスラーム神秘主義なのだが、数冊の本を読んでも分かりにくい。判ったようで分からない。そこで1冊だけ選んで、この書を纏めてみる。理由は、この書だけは「メタ言語」の話に行き着いていたからである。「メタ言語」的に考えると、理解できた気がしてくる。
Wikipediaの説明はこうである。
『スーフィズムとは、9世紀から10世紀頃、官僚化したウラマーたちの手によってイスラーム諸学が厳密に体系化され始めた頃、コーランの内面的な解釈を重視し、スンニ派による律法主義・形式主義的なシャリーアを批判した初期のイスラーム神秘主義思想家たちが、虚飾を廃した印として粗末な羊毛(スーフ)の衣を身にまとったことでスーフィーと呼ばれたことに由来すると言われる。
スーフィーは特定の宗派または教義の呼称ではなく、もっぱらイスラーム世界においてこのような傾向をもって精神的な探求を志向した人物や、彼らのまわりに生まれた精神的共同体もしくは教団の総称とされるほか、さらにそれらと結び付いた思想・哲学・寓話・詩・音楽・舞踏などを指すこともある。諸派の間にはある程度まで共通の精神性や方向性が認められるが、諸派の間での違いも大きい。』とある。
この書の副題は「東洋哲学の水位」とあり、様々な東洋思想に言及している。それだけでも、メタ視点が感じられる。
表紙には、「解説」として、次の言葉がある。
『イスラーム神秘主義、仏教唯識論、空海密教、老荘思想、インド哲学、西洋思想の記号学を論じることで、人間の思考、存在を決定する「コトバの意味」の根源を探求する。』
冒頭は、現代の「地球社会」のありさまから始まっている。『人類の歴史の上で、未だかつてありませんでした』(pp.14)という状態なのだ。それは、西欧型機械文明のために、世界が機械的に一様化されたということで、次のように述べられている。
『だいたい同じ型の標準的な住居に住み、形も材料も基本的に同じ衣服を着、平等に汚染された空気を吸い、平等に汚染された肉や野菜を食べつつ、何億という人間が、至るところで均一化された灰色の味気ない生活を生きている。』(pp.17)
この均一化が、生活の外面だけでなく、心の内面に広がっているというわけである。「マスメディアの暴力的な支配によって」とある。
西洋哲学史で広く使われ始めている熟語の「文化的普遍者」(cultural universals)という言葉が説明されている。「普遍者」とは、ある文化を共有する集団の中で画一化された構造が出来上がることを意味している。そして、現代人間社会は、『遅かれ早かれ、人間生活は、内的にも外的にも、「文化的普遍者」の塊みたいなものになってしまう』(pp.19)というわけである。
ここから、話はカール・ポパーの文化論になる。ポパーは、およそ文化は本来的に独特な「枠組み」を持っており、『それ自体において整合的な一個の記号論的構造体なのである』(pp.28)としている。
つまり、その文化の成員は、その「枠組み」の中で考え、感じ、行動しているというわけである。つまり、持って生まれた深層意識によって「内的な牢獄」に縛られているという。
『外界のある対象を知覚するというような一見単純な行動でも、ただ外界からやって来る刺激にたいして我々の側の感覚器官が直接反応するのではない。その対象をどんなものとして認識するかは、その時その時に我々の意識の深層から働き出してくるコトバの意味構造の、外界を分節する力の介入によって決まるのであります。』(pp.29)
これらは全て、「日常的自然的態度」であって、特に疑問を持たない。しかし、「主体性の探求」が始まると、事情は異なってくる。つまり、自分自身の内面の深層を底の底まで究明しようとすると、多くの東洋哲学に行きつくというわけである。そこから、様々な東洋哲学の『意識の形而上的次元における特異な認識能力を活性化するための体系的な方法』(pp.39)が生まれたというわけである。
そこから、「意識の多層構造モデル」の話になってくる。
『意識の多層構造モデルで、一番浅い、表層レベルとして位置づけられるのは、感覚、知覚、思惟、意志、欲動など、普通の意味での心理現象の生滅するレベルでありまして 、このレベルでの意識にたいしてはリアリティは 先ず何よりも、無数の事物、事象に分節された世界として現われます。』(pp.41)
「枠組み」の中でとらえられた「粗大な」事物が、次第に「微細な」ものになり、意識の特別なレベルに到達する。
『要するに、「結び目をほどかれた」事物が、元来、日常的感覚の次元で固く保持していた個別的質料形能から己れを解きほぐして、流動的、創造的なイマージュに変形するということです。』(pp.43)
色々な東洋思想の解説の後で、「スーフィズムと言語哲学」の章に移る。ここでは、『常識的には誠に奇妙な表現がスーフィーの言語世界では成立する』(pp.256)例えば、「神は近いけれども遠い、遠いけれども近い。結局、近くも遠くもない」など。
ここ言葉は、次の三層構造によって説明される。この三層がタテに貫かれて全体がその語の意味になっているというわけである。
第1層;文字通りの空間的な隔たり
第2層;比喩的な空間性、つまり精神的な隔たり
第3層;絶対無空間性におけるふたつのものの相互関係
話は、ここから「天地創造」での、「神は無から創造した」という言葉の解釈になる。「無からの創造」はどう解釈できるのだろうか。「理性の向こう側の領域」で考えると、「存在は、実は存在ではなく、無なのだ」
という無時間的次元の解釈になる。
最後に、「手紙が書かれる手順」の話から、次の結論が語られている。
『神が存在するというただその一事で世界がそこにある。そこでは手紙の最初の一行も最後の行も、最初の一字も最後の一字も全部まったく同じ資格で「神の顔」の前に立っている。というより、「神の顔」によってそこに仮象的に存在させられている。最初の文字が最後の文字より時間的にも空間的にも先にあるということはない。もし時間空間的に考えるなら、すべての文字が一挙に同時に、そしてその源から等距離に存在しているといるのであります。それが「創造」の事態である。』(pp.261)
次元が異なれば、言語的な表現は全く異なったものになってゆく。メタエンジニアリング的には、「理性の向こう側の領域」の存在論を理解することはできても、その存在が「無」であれば、思考の対象にはなってこない。