メタエンジニアリングによる文化の文明化(20)
題名;縄文土器と土偶のその場考
縄文土器と土偶の関係をメタ思考する。私は、縄文時代に大いに興味があり、関係本を何冊も読み、遺跡や博物館巡りも何回かした。それは、その時代が日本の文化の発祥だからである。そして、縄文時代には、驚くほどのイノベーションとその合理化が行われ続けられていた。だから、一万年以上も持続した。
特に、イノベーション指向は、弥生時代のそれを遙かに上回ると考えている。弥生時代になると、社会が稲作に拘って、新たなイノベーションはむしろ停滞したように思う。
先日、松本市の小さな考古館で、いろいろな土偶を楽しんだ。特に、小さな土偶の顔や胴体の表現は、千差万別で面白い。
松本市立考古博物館の土偶(胴体部)
10年以上前に青森で立ち寄ったある考古館では、物置のような建物を開けてもらい、岩木山北麓から発掘された山積みの土器と、その破片を見せてもらった。帰りがけに、「遠くからいらしたのだから、お土産に一つ気に入ったものをお持ちください」と云われて、一つ手に取ると、「それは面白くない、之をあげましょう」と言われて、頂いたのがこの土器片だ。
上縁の一部なのだが、以来、これと同じ文様を探しているのだが、まだどこの博物館でも図録でもお目にかかったことはない。
ちなみに、この場所は室内の階段の曲がり角で、土器と土偶を並べてじっくりと見ることができる。
国宝級の土偶は、手に取って細部を見ると、その素晴らしさが何倍にもなってくる。
本題に戻る。なぜ、「縄文土器と土偶の関係をメタ思考する」のか。それは、ほぼすべての専門家が、縄文土器は土器として、土偶は別の呪術的なものとして、別個に扱っているからです。この二つは、同じ時代に、同じ社会内で、同じ素材と製造方法で、同じ場所で作られた。つまり、エンジニアリング的には全く同じものになる、と考えるからなのだ。「いや、素材も製造方法も製造場所も違う」といわれれば、それまでなのだが。
私は、土偶の始まりを子供のおもちゃと考えている。親が土器を作っている傍らで、遊び相手のいない子供が、粘土の余りをもらって、お人形さんを作る、というわけである。子供の絵を見ればわかるのだが、初めて絵を描く子供は、先ず顔を描く、そのときの目鼻は、大人の目にはひどくかわっている。やがて、胴体と手足を描くが、これも異常な形が多いし、千差万別になる。
子供が人形遊びを始めると、すぐに首をもぎ取ったり、手足をバラバラにする。このことは、多くの土偶が破壊されていることと符合する。別々の場所で発見されるのは、子供があちこち持ち歩くからだ、別の部落に、体の一部が存在するのは、子供同士の友情の交換の結果と思う。墓にあるのは、早くに亡くなった子供の形見として、親が終生持ち歩いたか、子供とともに葬ったのだろう。
数百年の間には、子供達の創造性の優れた才能に親が気がつき、生活に余裕が生まれると自分で芸術作品としての土偶を作り始める。それが、土偶の歴史のように思うのだが。
芸術作品となった土偶には、それに適した置き場所が問題になる。我が家では、居間や通路に置いてあるのだが、トイレにふさわしい土偶もある。
八戸にある国宝の土偶はトイレに置いた
このような、勝手な想像を巡らすと「土偶は、縄文土器をつくる、その場で作られた」となる。陶芸は、一度捏ねた粘土で一気に原型を作り上げる。だから、その場でなくてはならないのだ。
題名;縄文土器と土偶のその場考
縄文土器と土偶の関係をメタ思考する。私は、縄文時代に大いに興味があり、関係本を何冊も読み、遺跡や博物館巡りも何回かした。それは、その時代が日本の文化の発祥だからである。そして、縄文時代には、驚くほどのイノベーションとその合理化が行われ続けられていた。だから、一万年以上も持続した。
特に、イノベーション指向は、弥生時代のそれを遙かに上回ると考えている。弥生時代になると、社会が稲作に拘って、新たなイノベーションはむしろ停滞したように思う。
先日、松本市の小さな考古館で、いろいろな土偶を楽しんだ。特に、小さな土偶の顔や胴体の表現は、千差万別で面白い。
松本市立考古博物館の土偶(胴体部)
10年以上前に青森で立ち寄ったある考古館では、物置のような建物を開けてもらい、岩木山北麓から発掘された山積みの土器と、その破片を見せてもらった。帰りがけに、「遠くからいらしたのだから、お土産に一つ気に入ったものをお持ちください」と云われて、一つ手に取ると、「それは面白くない、之をあげましょう」と言われて、頂いたのがこの土器片だ。
上縁の一部なのだが、以来、これと同じ文様を探しているのだが、まだどこの博物館でも図録でもお目にかかったことはない。
ちなみに、この場所は室内の階段の曲がり角で、土器と土偶を並べてじっくりと見ることができる。
国宝級の土偶は、手に取って細部を見ると、その素晴らしさが何倍にもなってくる。
本題に戻る。なぜ、「縄文土器と土偶の関係をメタ思考する」のか。それは、ほぼすべての専門家が、縄文土器は土器として、土偶は別の呪術的なものとして、別個に扱っているからです。この二つは、同じ時代に、同じ社会内で、同じ素材と製造方法で、同じ場所で作られた。つまり、エンジニアリング的には全く同じものになる、と考えるからなのだ。「いや、素材も製造方法も製造場所も違う」といわれれば、それまでなのだが。
私は、土偶の始まりを子供のおもちゃと考えている。親が土器を作っている傍らで、遊び相手のいない子供が、粘土の余りをもらって、お人形さんを作る、というわけである。子供の絵を見ればわかるのだが、初めて絵を描く子供は、先ず顔を描く、そのときの目鼻は、大人の目にはひどくかわっている。やがて、胴体と手足を描くが、これも異常な形が多いし、千差万別になる。
子供が人形遊びを始めると、すぐに首をもぎ取ったり、手足をバラバラにする。このことは、多くの土偶が破壊されていることと符合する。別々の場所で発見されるのは、子供があちこち持ち歩くからだ、別の部落に、体の一部が存在するのは、子供同士の友情の交換の結果と思う。墓にあるのは、早くに亡くなった子供の形見として、親が終生持ち歩いたか、子供とともに葬ったのだろう。
数百年の間には、子供達の創造性の優れた才能に親が気がつき、生活に余裕が生まれると自分で芸術作品としての土偶を作り始める。それが、土偶の歴史のように思うのだが。
芸術作品となった土偶には、それに適した置き場所が問題になる。我が家では、居間や通路に置いてあるのだが、トイレにふさわしい土偶もある。
八戸にある国宝の土偶はトイレに置いた
このような、勝手な想像を巡らすと「土偶は、縄文土器をつくる、その場で作られた」となる。陶芸は、一度捏ねた粘土で一気に原型を作り上げる。だから、その場でなくてはならないのだ。
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