その場考学との徘徊(69)
題名;高校時代の修学旅行 場所;小豆島 月日;2021.11.14-16
テーマ;猛烈時代の高校生 作成日;2021.11.25
TITLE:修学旅行を思い出す旅
前回(第68回)示したように、年一回のJAL有料の旅は、JALパックでも構わない。他の旅行会社のパックでJALを使ったのでは、年度ごとの初回搭乗のボーナスはもらえない。コロナで、東京発の旅は制限が多かったが、昨年は何とかGO TOの期間中に伊丹往復のパックがあった。大阪、京都、奈良のいずれかからホテルを選ぶもので、秋の京都を満喫できた。コロナのお蔭で、通常は大混雑の紅葉の名所も楽に廻ることができた。
羽田から高松のルートは、京都市の北を通り、それから南下するので、姫路城(ここも修学旅行コース)上空を通過
今年は、年末が差し迫った11月に、紅葉の小豆島を選んだ。高校の修学旅行以来なので50年ぶりを超えている。ちなみに、ある同級生が日記に残していた記録を見ると、当時の猛烈ぶりが分かる。
3月19日(火)「ひので」で8:20発(座席6人掛け)⇒京都泊 ⇒就寝1時
3月20日(水)起床4:20 ⇒ 5:40バスで出発 ⇒船で淡路島へ ⇒琴平泊 ⇒就寝1時
3月21日(木)6:00琴平宮参拝 ⇒屋島 ⇒栗林公園 ⇒ 小豆島 ⇒就寝2時半
3月22日(金)4:30起床 ⇒寒霞渓 ⇒姫路城 ⇒京都 ⇒修学旅行専用列車に乗車
3月23日(土)5:00品川着
早朝から深夜までの、こんな旅程では、今だったらとても許可されないだろう。しかし、当時の高校生は、こういった中で育ったために、猛烈社員になっても、それを全く感じなかった。やはり、今の日本の停滞は、高卒までの育て方に問題があるようだ。
ちなみに、就学旅行の始まりは、明治14年(1881)に栃木県の第一中学校とあり、やはり高校生だった。
また、日本初の修学旅行専用車両は、昭和34年4月に登場とあるので、我々の昭和38年での使用は、まだ新車並みだったようだ。
この旅行の各地は、その後も訪れる機会はあったのだが、栗林公園と小豆島は、全くその機会が無かった。それが、今回の大きな動機だった。
小豆島で驚いたのは交通の便の良さだった。瀬戸内海の島々はどこも同じようだが、海中の島という感覚がない。あちこちの港との間では、フェリーが頻繁に往復しているし、大型のフェリーには、10台を超すトラックが、荷物満載で乗っている。高速道路で結ばれている地方都市と、何ら変わりはない。島内の移動は、勿論レンタカーだが、バスの便も、地方都市よりは優れており、レンタカー無しでも十分に島内を巡ることができる。
高校時代の記憶を確かめることのほかに、二つの目的があった。一つ目は、オリーブ栽培に関するスペインとの違いだ。英国に滞在中には、よく自炊のアパートに滞在した。揚げ物は常にオリーブオイルを使用した。これだと、素人でもカラッと揚げることができる。日本のオリーブオイルやオリーブの化粧品は、なぜもこんなに高価なのだろうか。栽培面積の違いは明白なのだが、それほど多くの人手や、諸経費をかけているようには見えなかった。
二つ目は、二十四の瞳の映画村だ。実は、小学校時代の親友が、子役の一人として出演している。彼とは自宅が近く、小学校時代には、ほぼ毎日下校後に遊んでいた。日記にはそのように書いてある。ちなみに、小学校の2年から4年生までの担任は詩人で、日記を書くことは強要されていた。今でも、クラス会で会うのだが、クラス一番の暴れ者が、きれいな字で、克明な文章を書いていたのには、驚かされた。
映画村での昼食(揚げパンが美味しかった)
展示されている写真から、12人のうちの誰が彼なのか。何枚かの写真を見たが、候補者を2人以下には絞れなかった。次のクラス会が楽しみになってきた。
ところが、この映画村で、足長バチに指を指されてしまった。頭に何か触れた感じで、払うと、「チクッ」と感じた。蜂かどうかは分からなかったが、辺りを見回すと、足長バチがうろうろしていた。
八ヶ岳の我が家には、毎日数回、足長とスズメバチが偵察飛行に来る。スズメバチの巣は、小さいうちに数回つぶしたことがあるが、刺されそうになったことは、一度もなかった。映画村の人に聞くと「蜂が出てきているのは知っていますが、応急処置の備えはありませんので、腫れたら病院へ行ってください」だけだった。
幸い、刺された指が赤く腫れるだけで、二日後に帰宅した。ところが、翌朝には、手がグローブになってしまい、大慌てで、かかりつけに行ったが、「うちには、薬を置いていないので、皮膚科に行ってください」といって二つの病院を紹介してくれた、そこは歩いても5分以内なのだが、なんと二つとも「本日休診」だった。
日本の医療体制については、コロナで色々な問題が持ち上がっているが、連係の悪さが最大の問題だと感じている。蜂は、二度目に刺されると、アナフラキシー・ショックが現れやすいそうなので、気を付けよう。
最後は、栗林公園だったが、50年ぶりに見る松林は、どれも立派に育っていて、とても他の有名公園の追随を許すものではなかった。多くの植木職人さんが、盛んに手入れをしていた。
私の孫娘の修学旅行は、コロナ直前のニュージーランドだった。コロナで、また元の国内巡りに戻るのかもしれない。それだと、50年後に比較を楽しむことができる。
題名;高校時代の修学旅行 場所;小豆島 月日;2021.11.14-16
テーマ;猛烈時代の高校生 作成日;2021.11.25
TITLE:修学旅行を思い出す旅
前回(第68回)示したように、年一回のJAL有料の旅は、JALパックでも構わない。他の旅行会社のパックでJALを使ったのでは、年度ごとの初回搭乗のボーナスはもらえない。コロナで、東京発の旅は制限が多かったが、昨年は何とかGO TOの期間中に伊丹往復のパックがあった。大阪、京都、奈良のいずれかからホテルを選ぶもので、秋の京都を満喫できた。コロナのお蔭で、通常は大混雑の紅葉の名所も楽に廻ることができた。
羽田から高松のルートは、京都市の北を通り、それから南下するので、姫路城(ここも修学旅行コース)上空を通過
今年は、年末が差し迫った11月に、紅葉の小豆島を選んだ。高校の修学旅行以来なので50年ぶりを超えている。ちなみに、ある同級生が日記に残していた記録を見ると、当時の猛烈ぶりが分かる。
3月19日(火)「ひので」で8:20発(座席6人掛け)⇒京都泊 ⇒就寝1時
3月20日(水)起床4:20 ⇒ 5:40バスで出発 ⇒船で淡路島へ ⇒琴平泊 ⇒就寝1時
3月21日(木)6:00琴平宮参拝 ⇒屋島 ⇒栗林公園 ⇒ 小豆島 ⇒就寝2時半
3月22日(金)4:30起床 ⇒寒霞渓 ⇒姫路城 ⇒京都 ⇒修学旅行専用列車に乗車
3月23日(土)5:00品川着
早朝から深夜までの、こんな旅程では、今だったらとても許可されないだろう。しかし、当時の高校生は、こういった中で育ったために、猛烈社員になっても、それを全く感じなかった。やはり、今の日本の停滞は、高卒までの育て方に問題があるようだ。
ちなみに、就学旅行の始まりは、明治14年(1881)に栃木県の第一中学校とあり、やはり高校生だった。
また、日本初の修学旅行専用車両は、昭和34年4月に登場とあるので、我々の昭和38年での使用は、まだ新車並みだったようだ。
この旅行の各地は、その後も訪れる機会はあったのだが、栗林公園と小豆島は、全くその機会が無かった。それが、今回の大きな動機だった。
小豆島で驚いたのは交通の便の良さだった。瀬戸内海の島々はどこも同じようだが、海中の島という感覚がない。あちこちの港との間では、フェリーが頻繁に往復しているし、大型のフェリーには、10台を超すトラックが、荷物満載で乗っている。高速道路で結ばれている地方都市と、何ら変わりはない。島内の移動は、勿論レンタカーだが、バスの便も、地方都市よりは優れており、レンタカー無しでも十分に島内を巡ることができる。
高校時代の記憶を確かめることのほかに、二つの目的があった。一つ目は、オリーブ栽培に関するスペインとの違いだ。英国に滞在中には、よく自炊のアパートに滞在した。揚げ物は常にオリーブオイルを使用した。これだと、素人でもカラッと揚げることができる。日本のオリーブオイルやオリーブの化粧品は、なぜもこんなに高価なのだろうか。栽培面積の違いは明白なのだが、それほど多くの人手や、諸経費をかけているようには見えなかった。
二つ目は、二十四の瞳の映画村だ。実は、小学校時代の親友が、子役の一人として出演している。彼とは自宅が近く、小学校時代には、ほぼ毎日下校後に遊んでいた。日記にはそのように書いてある。ちなみに、小学校の2年から4年生までの担任は詩人で、日記を書くことは強要されていた。今でも、クラス会で会うのだが、クラス一番の暴れ者が、きれいな字で、克明な文章を書いていたのには、驚かされた。
映画村での昼食(揚げパンが美味しかった)
展示されている写真から、12人のうちの誰が彼なのか。何枚かの写真を見たが、候補者を2人以下には絞れなかった。次のクラス会が楽しみになってきた。
ところが、この映画村で、足長バチに指を指されてしまった。頭に何か触れた感じで、払うと、「チクッ」と感じた。蜂かどうかは分からなかったが、辺りを見回すと、足長バチがうろうろしていた。
八ヶ岳の我が家には、毎日数回、足長とスズメバチが偵察飛行に来る。スズメバチの巣は、小さいうちに数回つぶしたことがあるが、刺されそうになったことは、一度もなかった。映画村の人に聞くと「蜂が出てきているのは知っていますが、応急処置の備えはありませんので、腫れたら病院へ行ってください」だけだった。
幸い、刺された指が赤く腫れるだけで、二日後に帰宅した。ところが、翌朝には、手がグローブになってしまい、大慌てで、かかりつけに行ったが、「うちには、薬を置いていないので、皮膚科に行ってください」といって二つの病院を紹介してくれた、そこは歩いても5分以内なのだが、なんと二つとも「本日休診」だった。
日本の医療体制については、コロナで色々な問題が持ち上がっているが、連係の悪さが最大の問題だと感じている。蜂は、二度目に刺されると、アナフラキシー・ショックが現れやすいそうなので、気を付けよう。
最後は、栗林公園だったが、50年ぶりに見る松林は、どれも立派に育っていて、とても他の有名公園の追随を許すものではなかった。多くの植木職人さんが、盛んに手入れをしていた。
私の孫娘の修学旅行は、コロナ直前のニュージーランドだった。コロナで、また元の国内巡りに戻るのかもしれない。それだと、50年後に比較を楽しむことができる。
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