書籍名;「レクサスとオリーブの木」[2000] KMM3309
訳者;トーマス・フリードマン 発行所;草思社 発行日;2000.2.25
初回作成年月日;H29.3.3 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Converging
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
グローバル化の世界を初めて包括的に捉えた名著だと思う。副題は「グローバリゼーションの正体」。上下2冊を粕谷図書館のリユース本で手に入れた。
2000年は、日産が手放した航空宇宙部門を、新会社として立ち上げるべく、電通のチームと社名やワードマーク、夏冬用の作業衣や社用封筒のデザイン、通勤用のバスの配色などなど、3か月間ですべての準備を終わらせるべく、あくせくしていた時期だ。
労働組合の支部も立ち上げたが、自動車労連と造船重機労連の文化の違はかなりのものだった。文化は、とんでもないところでも育つものなのだ。
そんな中で、この書を読んだ覚えがよみがえる。当時は、何となくしっくりとしない印象だったが、今読み返すと「よくもここまで言い当てたものだ」と感心させられる。
前回の「講座「文明と環境」第15巻「新たな文明の創造」編集者梅原 猛」とは、正反対で、日本が現代文明の最先端を追い続け、地中海諸国がオリーブの木に代表される、昔ながらの文化を保ち続けているという内容なので、比較も面白い。
「包括的に捉えた」の意味は、冒頭の次の言葉で代表される。
『本書は、新しいグローバル化時代が20世紀末を支配する(冷戦システムの後を継ぐ)国際システムになった経緯を説明し、それが今、ほとんどすべての国の内政と外交を方向づけているその仕組みを検証しようという試みである。その意味では、冷戦後の世界を定義しようとしてきたあまたの著作群の末席に連なるものといっていい。
このジャンルのなかで、最も広く読まれてきたのは、次の4冊だろう。ポール・ケネディー「大国の興亡」、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」、ロバート・D・カプランの多様な論文や著書、サミュエル・P・ハンチントンの「文明の衝突」。
この4冊には、それぞれ重要な真実が記されているものの、私の目から見ると、いずれも冷戦後の世界の全体像をつかみ損ねている。』(pp.I7)
これに続けて、4冊に対する意見と理由を述べているのだが、なるほどと思わせるものがある。
本論では、まずトヨタの最新工場を見学した後で、具体的な話が始まる。
『わたしは世界最新の電車に乗って、時速270キロで快適な旅をしながら世界最古の地域に関する記事を読んでいた。そのとき、ある思いが頭をよぎった。きょう見学したばかりのレクサスの工場をつくり、今乗っているこの電車をつくった日本人は、ロボットを使って世界最高級の車を生産している。
一方、ヘラルド・トリビューンの第3面のトップには、わたしがベイルートやエルサレムで長年いっしょに暮らした人々、よく知っている人々が、いまだにどのオリーブの木が誰のものかをめぐって争っているとある。ふいに、レクサスとオリーブの木は、冷戦後の時代にじつにぴったりの象徴ではないかと思った。どうやら、世界の国々の半分は冷戦を抜け出して、よりよいレクサスを作ろうと近代化路線をひた走り、グローバル化システムの中で成功するために躍起になって経済を合理化し、民営化を進めている。ところが、世界の残り半分―ときには、ひとつの国の半分、ひとりの個人の半分、ということもあるーは、いまだにオリーブの木の所有権をめぐって戦いを繰り返しているのだ。
オリーブの木は大切だ。わたしたちをこの世界に根づかせ、錨を下ろさせ、アイデンティティーを与え、居場所を確保してくれるものすべて、つまり家族、共同体、部族、宗教、そしてとりわけ故郷と呼ばれる場所を象徴する。オリーブの木は第3者に手を差しのべ、知り合いになるために必要な信頼と安全な環境を与えるだけでなく、家族のぬくもり、自主独立の喜び、私的な儀式に漂う親密さと私的な関係を持つ懐の深さを与えてくれる。』(pp.58)
ここではなんと、先の著書「文明の縄文化・文明のヘレニズム化が人類を救う;安田喜憲著」の結論の言葉である、「著者は、東洋の文明の概念を、再生、循環、共存、調和、慈悲、感性など」と同じ言葉が、日本文化とは正反対の西洋におけるオリーブの木の文化として挙げられている。
『グロ-バルという新システムのリング上で、レクサスとオリーブの木がレスリングをしている(中略)。少しばかり経済的な効率を失っても、オリーブの木、つまり独自のアンデンティティにしがみ付いているほうがいい。レクサスとオリーブの木が健全なバランスを保っている例を、環境保護団体・・・。(中略)オリーブの木がレクサスを負かした例は、1998年の春、インドが・・。』(pp.61)というように、直近の様々な事例を紹介している。
それから、
第8章「グローバリューション」、
第9章「あなたの国は大丈夫か?」で上巻が終わる。
下巻では、
第11章「持続可能なグローバル化」、
第12章「勝者が全てを手に入れる」、
第13章「グローバル化システムへの反動」、
第14章「うねり、または反動に対する反動」、
第15章「合理的な活況」、
第16章「革命はアメリカから」、
第17章「破滅に向かうシナリオ」とつづく。
まるで、トランプ大統領の演説を聞いた後、昨日書かれた内容のようだ。
以上は、つくづく一流の米国ジャーナリストの才能を思わせる内容なのだが、下巻の最後に記された言葉は、?であった。しかし、これもいかにもアメリカ人が言いそうな言葉だった。
『だが、持続可能なグローバル化のための政治学や地政学や経済地理学を正しく理解できたとしても、もうひとつの、ほとんど雲をつかむような一連の政策も、心に留めておかなくてはなるまい。それには、オリーブの木がわたしたちすべての人に必要だということを理解し、オリーブの木が必ず守られるような手段を講じなくてはならない。だから、わたしは本書をバベルの塔の話で終わらせたい。
バベルの 塔の問題点は何だったのか? それは、グローバル推進者が現在について夢見ているもの ーすべての人が同じ言語を話し、同じ通貨を用い、同じ会計習慣に従う世界ではないのか? 聖書の時代に、世界の人々が協力し合ってバベルの塔を建てること ー本当に天国に届きそうな塔を建てることー を可能にしたものは、まさしく、人々の同一性だ。』(pp.264)
この結論は、1960年代に書かれた、トインビーの「歴史の研究」の最終的には世界帝国に至るということと共通する。
訳者;トーマス・フリードマン 発行所;草思社 発行日;2000.2.25
初回作成年月日;H29.3.3 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Converging
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
グローバル化の世界を初めて包括的に捉えた名著だと思う。副題は「グローバリゼーションの正体」。上下2冊を粕谷図書館のリユース本で手に入れた。
2000年は、日産が手放した航空宇宙部門を、新会社として立ち上げるべく、電通のチームと社名やワードマーク、夏冬用の作業衣や社用封筒のデザイン、通勤用のバスの配色などなど、3か月間ですべての準備を終わらせるべく、あくせくしていた時期だ。
労働組合の支部も立ち上げたが、自動車労連と造船重機労連の文化の違はかなりのものだった。文化は、とんでもないところでも育つものなのだ。
そんな中で、この書を読んだ覚えがよみがえる。当時は、何となくしっくりとしない印象だったが、今読み返すと「よくもここまで言い当てたものだ」と感心させられる。
前回の「講座「文明と環境」第15巻「新たな文明の創造」編集者梅原 猛」とは、正反対で、日本が現代文明の最先端を追い続け、地中海諸国がオリーブの木に代表される、昔ながらの文化を保ち続けているという内容なので、比較も面白い。
「包括的に捉えた」の意味は、冒頭の次の言葉で代表される。
『本書は、新しいグローバル化時代が20世紀末を支配する(冷戦システムの後を継ぐ)国際システムになった経緯を説明し、それが今、ほとんどすべての国の内政と外交を方向づけているその仕組みを検証しようという試みである。その意味では、冷戦後の世界を定義しようとしてきたあまたの著作群の末席に連なるものといっていい。
このジャンルのなかで、最も広く読まれてきたのは、次の4冊だろう。ポール・ケネディー「大国の興亡」、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」、ロバート・D・カプランの多様な論文や著書、サミュエル・P・ハンチントンの「文明の衝突」。
この4冊には、それぞれ重要な真実が記されているものの、私の目から見ると、いずれも冷戦後の世界の全体像をつかみ損ねている。』(pp.I7)
これに続けて、4冊に対する意見と理由を述べているのだが、なるほどと思わせるものがある。
本論では、まずトヨタの最新工場を見学した後で、具体的な話が始まる。
『わたしは世界最新の電車に乗って、時速270キロで快適な旅をしながら世界最古の地域に関する記事を読んでいた。そのとき、ある思いが頭をよぎった。きょう見学したばかりのレクサスの工場をつくり、今乗っているこの電車をつくった日本人は、ロボットを使って世界最高級の車を生産している。
一方、ヘラルド・トリビューンの第3面のトップには、わたしがベイルートやエルサレムで長年いっしょに暮らした人々、よく知っている人々が、いまだにどのオリーブの木が誰のものかをめぐって争っているとある。ふいに、レクサスとオリーブの木は、冷戦後の時代にじつにぴったりの象徴ではないかと思った。どうやら、世界の国々の半分は冷戦を抜け出して、よりよいレクサスを作ろうと近代化路線をひた走り、グローバル化システムの中で成功するために躍起になって経済を合理化し、民営化を進めている。ところが、世界の残り半分―ときには、ひとつの国の半分、ひとりの個人の半分、ということもあるーは、いまだにオリーブの木の所有権をめぐって戦いを繰り返しているのだ。
オリーブの木は大切だ。わたしたちをこの世界に根づかせ、錨を下ろさせ、アイデンティティーを与え、居場所を確保してくれるものすべて、つまり家族、共同体、部族、宗教、そしてとりわけ故郷と呼ばれる場所を象徴する。オリーブの木は第3者に手を差しのべ、知り合いになるために必要な信頼と安全な環境を与えるだけでなく、家族のぬくもり、自主独立の喜び、私的な儀式に漂う親密さと私的な関係を持つ懐の深さを与えてくれる。』(pp.58)
ここではなんと、先の著書「文明の縄文化・文明のヘレニズム化が人類を救う;安田喜憲著」の結論の言葉である、「著者は、東洋の文明の概念を、再生、循環、共存、調和、慈悲、感性など」と同じ言葉が、日本文化とは正反対の西洋におけるオリーブの木の文化として挙げられている。
『グロ-バルという新システムのリング上で、レクサスとオリーブの木がレスリングをしている(中略)。少しばかり経済的な効率を失っても、オリーブの木、つまり独自のアンデンティティにしがみ付いているほうがいい。レクサスとオリーブの木が健全なバランスを保っている例を、環境保護団体・・・。(中略)オリーブの木がレクサスを負かした例は、1998年の春、インドが・・。』(pp.61)というように、直近の様々な事例を紹介している。
それから、
第8章「グローバリューション」、
第9章「あなたの国は大丈夫か?」で上巻が終わる。
下巻では、
第11章「持続可能なグローバル化」、
第12章「勝者が全てを手に入れる」、
第13章「グローバル化システムへの反動」、
第14章「うねり、または反動に対する反動」、
第15章「合理的な活況」、
第16章「革命はアメリカから」、
第17章「破滅に向かうシナリオ」とつづく。
まるで、トランプ大統領の演説を聞いた後、昨日書かれた内容のようだ。
以上は、つくづく一流の米国ジャーナリストの才能を思わせる内容なのだが、下巻の最後に記された言葉は、?であった。しかし、これもいかにもアメリカ人が言いそうな言葉だった。
『だが、持続可能なグローバル化のための政治学や地政学や経済地理学を正しく理解できたとしても、もうひとつの、ほとんど雲をつかむような一連の政策も、心に留めておかなくてはなるまい。それには、オリーブの木がわたしたちすべての人に必要だということを理解し、オリーブの木が必ず守られるような手段を講じなくてはならない。だから、わたしは本書をバベルの塔の話で終わらせたい。
バベルの 塔の問題点は何だったのか? それは、グローバル推進者が現在について夢見ているもの ーすべての人が同じ言語を話し、同じ通貨を用い、同じ会計習慣に従う世界ではないのか? 聖書の時代に、世界の人々が協力し合ってバベルの塔を建てること ー本当に天国に届きそうな塔を建てることー を可能にしたものは、まさしく、人々の同一性だ。』(pp.264)
この結論は、1960年代に書かれた、トインビーの「歴史の研究」の最終的には世界帝国に至るということと共通する。