「新たな文明の創造」 KMM3303
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
書籍名;「新たな文明の創造」[1996]
編集者;梅原 猛 発行所;朝倉書店 発行日;2009.7.2
初回作成年月日;H29.2.28 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Converging
この書の位置づけは、編集者の梅原 猛による「あとがき」の冒頭にある。
『この講座「文明と環境」が第15巻「新たな文明の創造」をもって完了する。この全集の総編集者に私と伊東俊太郎君と安田喜憲君が名を連ねているが、(中略)平成3年から5年まで、文部省科学研究費の重点領域研究「文明と環境」が行われたが、この研究には200人を超える自然科学者、人文科学者、社会科学者、ジャーナリストや市民運動家などが参加して共同研究をつづけたばかりでなく、・・・。』(pp.223)
さらに続けて、『地球科学、気象学、海洋学、生態学などの学問が地球環境破壊の現状の正確な認識を与えてくれるかもしれないが、それを全体の問題として考えるとき、哲学が必要であるし、文明論が必要である。そしてそのような哲学あるいは文明論の上に立って地球環境の保全を考えるとき、何よりも技術というものをどう考えるかという技術論が不可欠である。それには法的な規制をどうするか、またそれに伴う経済をどう考えるかという法律学、経済学の成功性が必要である。』(pp.224)
つまり、現状の正確な認識の後で、法律学と経済学の条件下における「哲学と技術論」が結論に導くことを示唆している。大掛かりな研究プロジェクトの最終結論としては、かなり常識内に留まりすぎているように感じられる。
本書は、総論と14の独立した論文で構成されているが、そのなかから3つ(総論と最初と最後)を選んで検討を試みる。
・「総論 地球と人類を救う東方思想と文明 梅原 猛」
表題からして結論ありきのように見えるが、冒頭から次のようにある。
『地球環境破壊の問題は、近代西洋文明の問題である。とすれば、この問題に対する解決の道は東洋文明すなわち東アジア文明の中に求められるであろうか。』(pp.1)
つぎに、いきなり古代西アジアにおける小麦農業による自然破壊を問題視して、『シュメールを統一して、最初の都市文明をつくったギルガメッシュ王が最初にしたことは、森の神フンババの殺害であった。これは人類を森を破壊するタブーから解放したことであり、自然破壊の理論的な許容を与えたことになる。』(pp.2)
一方で、東アジアのモンスーン地域で発生した稲作文明は、『稲作文明は小麦文明に負けない華麗な文明を生み出したと思われるが、それは自然に対して小麦文明よりははるかにやさしい。なぜなら稲作文明においてもっとも大切なものは水であり、水を恒久的に保存するのはもりであり、したがって稲作農業民は守を大切にし、森を神の住みかと考えざるを得ないからである。』(pp.3)
その後、仏教、キリスト教、ギリシア哲学などに触れた後で、ヨーロッパのロマン主義を「自然に帰れという思想」として紹介している。しかしそれも、結論的に「人間を世界の中心におき、自然と対立する文化」として否定している。
最終結論は、『人類のために東洋文明の原理の積極的採用を主張すべきなのである。』(pp.9)
で総論を終えている。
・「1.文明の転換と自然観の変貌 伊東俊太郎」
彼の従来からの主張である、「人類革命 ⇒農業革命 ⇒都市革命 ⇒精神革命 ⇒科学革命」を述べた後で、現在は、「環境革命」が進行中と述べている。そして、注目は最初の人類革命の時代にある。つまり、石器時代の生活環境である。
『生活の充実感も現在以上であったと考えられる。彼らには財産というものがなかったから、これを増やそうとあくせくすることもなかった。彼らは土地も所有しなかったから、そのテリトリーにとどまる限り、土地を奪い合う戦争もなかった。移動によって人口も自然と抑制されていた。』(pp.13)
そして、現代については、『人類史の第6の転換期「環境革命」-われわれはまさにその真っ只中に生きているーにおいて、今や自然観はどのように変わらなければならないのか。われわれはその自然観をデカルトの「機械論的自然観」(mechanistic view nature)にたいして「生世界的自然観」(bio-world view of nature)と名づける。
本章では、この新たに形成されるべき「生世界的自然観」がいかなる内実を含むものであるかが、考察されねばならない。』(pp.20)
としている。
そして結論としては、『来るべき21世紀は「生命の時代」といえる。(中略)従来の「自然」対「人間」、「物質」対「精神」の二元論的対立が究極的に止揚されるのみならず、「科学」と「宗教」の対立も、これまでとはまったく違った角度から、再検討されねばならなくなるであろう。』(pp.23)
これは、総論とほぼ同じ結論だ。
・「14.文明の縄文化・文明のヘレニズム化が人類を救う 安田喜憲」
表題のごとく、縄文人の思想を地球と人類の救済のために役立てるべきとの主張になっている。
『その縄文王国再生計画の中で、現代から未来にかけて極めて重要と思われるものをここでは5点にしぼって取り上げる。』(pp.201)
① 循環の思想に立脚した持続型社会
② 共生の思想に立脚した平和共存の世界
③ 平等主義に立脚した共同社会
④ 文明融合地帯の先進技術社会
⑤ 土偶文明にみる女性中心の世界
の5つである。
そして、それらを総合することを、「ヘレニズム化」と呼んでいる。
『日本人は文明の縄文化によって危機を回避し、自らの文明のアイデンティティーを確認できるだろう。しかし、文明の縄文化と叫んでも世界には通用しないだろう。世界に適用するたえには新たな概念を設定する必要がある。それを文明のヘレニズム化と呼ぶ。文明のヘレニズム化は3つの新たな文明原理からなっている。すなわち文明の大地化、文明の東洋化、そして文明の地球化である。』(pp.212)
これに関しては、ギリシア文明が崩壊したのちに、アレキサンダーが東方文化をもたらして、新たにヘレニズム文明として文明の伝統を継承したことを挙げている。そして、そのために必要なことは、以下であるとしている。
『ギリシア文明が破滅の淵を回避し、ヘレニズム文明にゆるやかにバトンタッチできたのは、プラトンからアリストテレスへの転換、つまり外なる天空のかなたの力から、内なる自然の内在する秩序への転換、文明の大地化が行われたからであった。もしそうならば、現代文明が破壊的な崩壊の危機を回避するためにまぜなさなければならないことは、文明の大地化である。その為にはアリストテレスやストア派に匹敵する哲学者が排出されなければならない。』(pp.216)
著者は、東洋の文明の概念を、「再生、循環、共存、調和、慈悲、感性など」としている。しかし、これらを並べたところで、新たな文明は発生しないであろう。しかも、昨今では日本は勿論、中国やほとんどのアジア諸国で、このような文化は、むしろ廃れ始めている。過去に存在した「優れた東洋的な文化」をいかに持続させるかのほうが問題になると思う。
先ずは、優れた文化の復活や堅持が問題で、並行して優れた文化の文明化を進めるプロセスが必要と思う。
グローバル化が世界の主流になってから、まだ20年ほどだが、すでに格差拡大や巨大金融による経済の不安定化など、問題が多発して、反グローバル化の動きも出始めた。しかし、インターネットやSNSの拡大のスピードは止めようもなく、グローバル化のさらなる拡散は逃れようもない。そのような中にあって、「再生、循環、共存、調和、慈悲、感性など」の概念を合理的かつ普遍的なレベルに持ち上げるのは、至難だろう。
唯一の可能性は、地球環境問題が真の危機として全世界に認識されることなのかもしれない。
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
書籍名;「新たな文明の創造」[1996]
編集者;梅原 猛 発行所;朝倉書店 発行日;2009.7.2
初回作成年月日;H29.2.28 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Converging
この書の位置づけは、編集者の梅原 猛による「あとがき」の冒頭にある。
『この講座「文明と環境」が第15巻「新たな文明の創造」をもって完了する。この全集の総編集者に私と伊東俊太郎君と安田喜憲君が名を連ねているが、(中略)平成3年から5年まで、文部省科学研究費の重点領域研究「文明と環境」が行われたが、この研究には200人を超える自然科学者、人文科学者、社会科学者、ジャーナリストや市民運動家などが参加して共同研究をつづけたばかりでなく、・・・。』(pp.223)
さらに続けて、『地球科学、気象学、海洋学、生態学などの学問が地球環境破壊の現状の正確な認識を与えてくれるかもしれないが、それを全体の問題として考えるとき、哲学が必要であるし、文明論が必要である。そしてそのような哲学あるいは文明論の上に立って地球環境の保全を考えるとき、何よりも技術というものをどう考えるかという技術論が不可欠である。それには法的な規制をどうするか、またそれに伴う経済をどう考えるかという法律学、経済学の成功性が必要である。』(pp.224)
つまり、現状の正確な認識の後で、法律学と経済学の条件下における「哲学と技術論」が結論に導くことを示唆している。大掛かりな研究プロジェクトの最終結論としては、かなり常識内に留まりすぎているように感じられる。
本書は、総論と14の独立した論文で構成されているが、そのなかから3つ(総論と最初と最後)を選んで検討を試みる。
・「総論 地球と人類を救う東方思想と文明 梅原 猛」
表題からして結論ありきのように見えるが、冒頭から次のようにある。
『地球環境破壊の問題は、近代西洋文明の問題である。とすれば、この問題に対する解決の道は東洋文明すなわち東アジア文明の中に求められるであろうか。』(pp.1)
つぎに、いきなり古代西アジアにおける小麦農業による自然破壊を問題視して、『シュメールを統一して、最初の都市文明をつくったギルガメッシュ王が最初にしたことは、森の神フンババの殺害であった。これは人類を森を破壊するタブーから解放したことであり、自然破壊の理論的な許容を与えたことになる。』(pp.2)
一方で、東アジアのモンスーン地域で発生した稲作文明は、『稲作文明は小麦文明に負けない華麗な文明を生み出したと思われるが、それは自然に対して小麦文明よりははるかにやさしい。なぜなら稲作文明においてもっとも大切なものは水であり、水を恒久的に保存するのはもりであり、したがって稲作農業民は守を大切にし、森を神の住みかと考えざるを得ないからである。』(pp.3)
その後、仏教、キリスト教、ギリシア哲学などに触れた後で、ヨーロッパのロマン主義を「自然に帰れという思想」として紹介している。しかしそれも、結論的に「人間を世界の中心におき、自然と対立する文化」として否定している。
最終結論は、『人類のために東洋文明の原理の積極的採用を主張すべきなのである。』(pp.9)
で総論を終えている。
・「1.文明の転換と自然観の変貌 伊東俊太郎」
彼の従来からの主張である、「人類革命 ⇒農業革命 ⇒都市革命 ⇒精神革命 ⇒科学革命」を述べた後で、現在は、「環境革命」が進行中と述べている。そして、注目は最初の人類革命の時代にある。つまり、石器時代の生活環境である。
『生活の充実感も現在以上であったと考えられる。彼らには財産というものがなかったから、これを増やそうとあくせくすることもなかった。彼らは土地も所有しなかったから、そのテリトリーにとどまる限り、土地を奪い合う戦争もなかった。移動によって人口も自然と抑制されていた。』(pp.13)
そして、現代については、『人類史の第6の転換期「環境革命」-われわれはまさにその真っ只中に生きているーにおいて、今や自然観はどのように変わらなければならないのか。われわれはその自然観をデカルトの「機械論的自然観」(mechanistic view nature)にたいして「生世界的自然観」(bio-world view of nature)と名づける。
本章では、この新たに形成されるべき「生世界的自然観」がいかなる内実を含むものであるかが、考察されねばならない。』(pp.20)
としている。
そして結論としては、『来るべき21世紀は「生命の時代」といえる。(中略)従来の「自然」対「人間」、「物質」対「精神」の二元論的対立が究極的に止揚されるのみならず、「科学」と「宗教」の対立も、これまでとはまったく違った角度から、再検討されねばならなくなるであろう。』(pp.23)
これは、総論とほぼ同じ結論だ。
・「14.文明の縄文化・文明のヘレニズム化が人類を救う 安田喜憲」
表題のごとく、縄文人の思想を地球と人類の救済のために役立てるべきとの主張になっている。
『その縄文王国再生計画の中で、現代から未来にかけて極めて重要と思われるものをここでは5点にしぼって取り上げる。』(pp.201)
① 循環の思想に立脚した持続型社会
② 共生の思想に立脚した平和共存の世界
③ 平等主義に立脚した共同社会
④ 文明融合地帯の先進技術社会
⑤ 土偶文明にみる女性中心の世界
の5つである。
そして、それらを総合することを、「ヘレニズム化」と呼んでいる。
『日本人は文明の縄文化によって危機を回避し、自らの文明のアイデンティティーを確認できるだろう。しかし、文明の縄文化と叫んでも世界には通用しないだろう。世界に適用するたえには新たな概念を設定する必要がある。それを文明のヘレニズム化と呼ぶ。文明のヘレニズム化は3つの新たな文明原理からなっている。すなわち文明の大地化、文明の東洋化、そして文明の地球化である。』(pp.212)
これに関しては、ギリシア文明が崩壊したのちに、アレキサンダーが東方文化をもたらして、新たにヘレニズム文明として文明の伝統を継承したことを挙げている。そして、そのために必要なことは、以下であるとしている。
『ギリシア文明が破滅の淵を回避し、ヘレニズム文明にゆるやかにバトンタッチできたのは、プラトンからアリストテレスへの転換、つまり外なる天空のかなたの力から、内なる自然の内在する秩序への転換、文明の大地化が行われたからであった。もしそうならば、現代文明が破壊的な崩壊の危機を回避するためにまぜなさなければならないことは、文明の大地化である。その為にはアリストテレスやストア派に匹敵する哲学者が排出されなければならない。』(pp.216)
著者は、東洋の文明の概念を、「再生、循環、共存、調和、慈悲、感性など」としている。しかし、これらを並べたところで、新たな文明は発生しないであろう。しかも、昨今では日本は勿論、中国やほとんどのアジア諸国で、このような文化は、むしろ廃れ始めている。過去に存在した「優れた東洋的な文化」をいかに持続させるかのほうが問題になると思う。
先ずは、優れた文化の復活や堅持が問題で、並行して優れた文化の文明化を進めるプロセスが必要と思う。
グローバル化が世界の主流になってから、まだ20年ほどだが、すでに格差拡大や巨大金融による経済の不安定化など、問題が多発して、反グローバル化の動きも出始めた。しかし、インターネットやSNSの拡大のスピードは止めようもなく、グローバル化のさらなる拡散は逃れようもない。そのような中にあって、「再生、循環、共存、調和、慈悲、感性など」の概念を合理的かつ普遍的なレベルに持ち上げるのは、至難だろう。
唯一の可能性は、地球環境問題が真の危機として全世界に認識されることなのかもしれない。