『工場』 小山田浩子 新潮社
何を作っているのかわからない、巨大な工場。そこでの仕事に精励するほどに謎はきざす。この仕事はなぜ必要なのか…。(表題作)他二篇を含む。
表題作はカフカの『城』ぽい。どの話も不思議な味わいがある。嫌ミスではなく、もっと乾いた、ザラリとした肌触りの話。何だか、何を言っているのか今一つわからない。不安と不安定を感じるような。でも、私は嫌いではない。むしろ、好きかも。
『日日是好日 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』 森下典子 新潮社
お茶を習い始めて二十五年。就職につまずき、いつも不安で自分の居場所を探し続けた日々。失恋、父の死という悲しみのなかで、気がつけば、そばに「お茶」があった。がんじがらめの決まりごとの向こうに、やがて見えてきた自由。「ここにいるだけでよい」という心の安息。季節を五感で味わう歓びとともに、「いま、生きている!」その感動を鮮やかに綴る。
作者は表千家。私が習っているのは裏千家。お茶の流派の違いはあっても、感じることは一緒というか、あるあると思いながら読んだ。
本と私が共感したところ。
お点前が突然わかるようになること。いろんなお点前が混じり合ってこんがらがって頭を抱える私に姉弟子が「ある日、突然わかるようになるから、くじけないで」と励ましてくれたこともあったなあ。
大寄せの席取り争いなぞ、よく経験することなので、くすりと笑ってしまった。大寄せで着物を美しく着た老婦人が足で座布団を動かしたのを見て「ええええっ」と驚いたこともあったけ。
「行くのしんどいなあ。でも、一週休むと忘れるしなあ」と嫌々行ったのに、帰りは元気をもらってルンルンなこと。
姉弟子が「資格を取ってからが勉強やで」と言ったこと。お薄を点てるにもお湯の温度や初心者かどうか、お菓子を食べている状況とかで違う。(お湯が熱ければ、茶筅をたくさん振って温度を下げる。初心者ならば薄めにお茶を点てる。お菓子を食べている途中ならば、動作をゆっくりめにして食べ終わるくらいにお茶を出す等)軸に花に茶器に茶碗にと覚えることが一杯で「日日これ勉強」なのだ。資格は通過点であって、ゴールではない。
茶道の才能。座っているだけで美しい人がいると羨ましい。お茶を点てる時に、腰から背中、頭まで板のように真っすぐに倒れると美しいのだが、私は気をつけないと首だけが下を向く。才能がない私は、きれいなお点前をしたいとがんばるしかないのだ。
沸いている釜に水を一杓さすと、釜の鳴りがおさまり、沈黙が訪れる。私もこの瞬間がとても好きなのだ。
そして、この本に出てくる先生も素敵だけれども、私の師匠もこんな風に年を重ねたいと思うようなすばらしい方だ。
でも、作者と私には決定的な違いがある。作者には、感じる心があるのだ。たとえば、梅雨の雨と秋雨の音が違うと気付くところ。六月の雨音は若い葉が雨をはね返す音で、大きく聞こえる。十一月の雨は、葉がないので、しおしおと土にしみ込んでいく。これを読んだ時、私がまつやま俳句ポストで「人」をなかなか取れない理由がわかった気がした。お茶のセンスがない理由も。
映画「日日是好日」を見に行こうっと。
何を作っているのかわからない、巨大な工場。そこでの仕事に精励するほどに謎はきざす。この仕事はなぜ必要なのか…。(表題作)他二篇を含む。
表題作はカフカの『城』ぽい。どの話も不思議な味わいがある。嫌ミスではなく、もっと乾いた、ザラリとした肌触りの話。何だか、何を言っているのか今一つわからない。不安と不安定を感じるような。でも、私は嫌いではない。むしろ、好きかも。
『日日是好日 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』 森下典子 新潮社
お茶を習い始めて二十五年。就職につまずき、いつも不安で自分の居場所を探し続けた日々。失恋、父の死という悲しみのなかで、気がつけば、そばに「お茶」があった。がんじがらめの決まりごとの向こうに、やがて見えてきた自由。「ここにいるだけでよい」という心の安息。季節を五感で味わう歓びとともに、「いま、生きている!」その感動を鮮やかに綴る。
作者は表千家。私が習っているのは裏千家。お茶の流派の違いはあっても、感じることは一緒というか、あるあると思いながら読んだ。
本と私が共感したところ。
お点前が突然わかるようになること。いろんなお点前が混じり合ってこんがらがって頭を抱える私に姉弟子が「ある日、突然わかるようになるから、くじけないで」と励ましてくれたこともあったなあ。
大寄せの席取り争いなぞ、よく経験することなので、くすりと笑ってしまった。大寄せで着物を美しく着た老婦人が足で座布団を動かしたのを見て「ええええっ」と驚いたこともあったけ。
「行くのしんどいなあ。でも、一週休むと忘れるしなあ」と嫌々行ったのに、帰りは元気をもらってルンルンなこと。
姉弟子が「資格を取ってからが勉強やで」と言ったこと。お薄を点てるにもお湯の温度や初心者かどうか、お菓子を食べている状況とかで違う。(お湯が熱ければ、茶筅をたくさん振って温度を下げる。初心者ならば薄めにお茶を点てる。お菓子を食べている途中ならば、動作をゆっくりめにして食べ終わるくらいにお茶を出す等)軸に花に茶器に茶碗にと覚えることが一杯で「日日これ勉強」なのだ。資格は通過点であって、ゴールではない。
茶道の才能。座っているだけで美しい人がいると羨ましい。お茶を点てる時に、腰から背中、頭まで板のように真っすぐに倒れると美しいのだが、私は気をつけないと首だけが下を向く。才能がない私は、きれいなお点前をしたいとがんばるしかないのだ。
沸いている釜に水を一杓さすと、釜の鳴りがおさまり、沈黙が訪れる。私もこの瞬間がとても好きなのだ。
そして、この本に出てくる先生も素敵だけれども、私の師匠もこんな風に年を重ねたいと思うようなすばらしい方だ。
でも、作者と私には決定的な違いがある。作者には、感じる心があるのだ。たとえば、梅雨の雨と秋雨の音が違うと気付くところ。六月の雨音は若い葉が雨をはね返す音で、大きく聞こえる。十一月の雨は、葉がないので、しおしおと土にしみ込んでいく。これを読んだ時、私がまつやま俳句ポストで「人」をなかなか取れない理由がわかった気がした。お茶のセンスがない理由も。
映画「日日是好日」を見に行こうっと。
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