屯田物語

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不思議の人・詩人大村正次先生

2019年12月23日 | 大村正次


ここに昭和初期、富山にあった「日本海詩人」という詩誌の一枚の表紙がある。主宰者は「大村正次」。彼は後年北海道旭川東高の生物教師となった人で、同校逍遥歌の作詞者でもあった。
敗戦を間近に控えた昭和20年7月富山での教師生活に区切りをつけ、家族疎開するとの理由で「渡道」したと語られているが、決して真実を語っているとは思われないものと解している。
確かにその直後、昭和20年8月1日~2日にかけて富山市内だけでも3000人の死者を出したとされる「富山大空襲」があったが、単に家族の身の安全を図る疎開のための移動なら、近隣でも十分なのでは、と考えると、北海道行きの理由としては、薄弱なものと思われてならない。
ここはやはり、隠された理由としては、昭和3年発行の「春を呼ぶ朝」刊行後の自身の虚脱感と、その後の同人仲間が詩集を発行し、彼の元から離脱していったことから嫌気をさして、詩作に限界を感じたのでは、と考えるのが妥当なように思えてならない。
そのことは、その後筆を折って永年詩作をしていないことからも伺われることでもあり、そして思いっきり遠くの地に行くという、「北海道行き」となったのでは?と思うのは考え過ぎであろうか。

摂津国の怪人



謎多き詩人・大村正次

2019年12月15日 | 大村正次



大村先生は、母校旭川東高の生物学を教える教師である。先生が逍遥歌の作詞者であることはつい最近まで知らずに過ごしてきた。入学当時(昭和32年)、校歌、応援歌、逍遥歌の歌唱指導があったことは記憶に有るが、先生在校中にも拘わらず、作詩者の紹介も無かったように思われる。
昭和初期、富山詩壇では知る人ぞ知る詩誌の主宰者として、或いは詩人であった彼がなぜ生徒への紹介さえなされなかったのかという謎(大半の同窓生、同期生はその事実を知らずに過ごしてきたものと思われる)、そして筆を断ちなにゆえ北海道まで来られたのかの謎、そして昭和35年我々卒業時に退官すると同時に妻(彼女も大原菊子のペンネームで同人、先生と同じく高等師範卆。)とも離婚した謎など、知らないとはいえ彼にまつわる謎の多さに気付き、調べてみようという想いに至ったような訳である。彼の一生に光を当てることにより、世の人々にもっと知って頂きたいという想いが調べる発端となった。

摂津国の怪人

詩人・大村正次に惹かれる

2019年12月13日 | 大村正次


大村正次は詩誌「日本海詩人」の主宰者であることは前に述べた。
大村は大正5年から岩瀬小学校から教員生活をスタートして、昭和20年(大村49歳)に金沢二中から旭川中学に着任、昭和23年に道立旭川東高の教諭(生物)となった。
わたしたちが大村先生に教えを受けたのは昭和32年~昭和35年である。
大村先生が旭川東高生逍遥歌を作詞したのは昭和26年であった。
逍遥歌は旭川東の在校生・卒業生に愛されて、同期会・同窓会では校歌と同じくらい歌い継がれているのではないだろうか。
一介の生物の教師が、どうしてここまで美しい詩が書けたのか、われわれ同期の間でも謎であったが、このときは大村先生が名の知れた詩人であったことなど知らなかったのだ。
そこで謎を解明すべく同期の「摂津国の怪人」さんが、大村先生の故郷である富山県立図書館・高岡市立中央図書館のご協力を得て大村正次に関する資料(A4で約200枚)を収集・整理し、同期のH君が富山市立図書館の資料に基づいて「大村正次の足跡・年譜・人物像・所感」(A4で4枚)を作成した。
われわれはもうすぐ大村先生が亡くなった79歳になるが、その歳になってなぜ詩人・大村正次に惹かれるのか、やはり、旭川東高生逍遥歌にはわれわれを魅了する「謎」があったからなのだと思っている。



卓上噴水―金像

2019年12月12日 | 大村正次

12月11日は誕生日、ようやく78歳になった。
ちょうど七年前の赤レンガ前の鴨たちはよく肥えていて、まるでクールムーンのようだ。

  金 像

 暗い暗い真くら闇に
 ふくれあがった太鼓腹
 ふとられるだけふとり
 はち切れたとき
 光をはなち
 飛び出した金像


大村正次は室生犀星主宰の『卓上噴水』三号に鳳太郎のペンネームで詩を出した。

井上靖と旭川 「幼き日のこと」

2019年11月11日 | 大村正次


井上靖は明治四十年(1907年)に旭川で生まれた。
翌年、朝鮮の動乱で第七師団に出動命令が降り、靖の父が従軍することになったので、靖と母は伊豆へ移った。旭川で過ごしたのは生まれてすぐの一年間でしかないが、井上靖が旭川に寄せる格別な思いを知って、あらためて井上作品を読んでみたいと思った。


以下、「幼き日のこと」から
「いつ、どこで生まれた?」
幼少の頃、こういう質問を受けると、私はいつも「五月に、北海道の旭川で生まれた」こう答えて、多少の誇りに似た思いを持った。
私は物心がついてからずっと、自分が生まれた旭川という町にも、自分が生まれた五月という月にも、理由のさだかでない誇りを感じていた。


ドミール絵手紙サークル
「11月のカレンダー」


日本海詩人 大村正次

2017年09月29日 | 大村正次


「日本海詩人」
「春を呼ぶ朝出版記念号」昭和4年2月21日
旭川東高逍遥歌を作詞した大村正次は高岡の「日本海詩人」の主宰者であった。
大村先生はわたしたちの卒業年度(昭和35年)に旭川東高を辞められたそうだ。
先生の担当教科は「生物」だが授業を受けた記憶はほとんどない。

大村正次の「桜」と井上靖の「稲の八月」

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富山県の戦前詩誌

大村先生の詩集「春を呼ぶ朝」を読んでみたいと思っている。