屯田物語

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夕愁白嶺のこと・・

2024年09月14日 | 四季の風

夕愁白嶺の経歴
本名 種田仱一(兄)
昭和12年4月6日旭川生
大成小→明星中→旭川東高(第6期生)→日大芸術演劇科
現在は西宮市在住
 
画像は京都建仁寺で「遊女」にまつわるお話の講師を務めたときのポスターです。(主催:京都造形芸術大学)

中西京子さんの和紙人形展「夢かぶき」が札幌三越で開かれたとき、
「夢かぶき」の演し物の説明員として兄が人形展に同行してきた。
そのことがあって、中西さんからサイン入り「夢かぶき人形展」の本を戴いた。
わたしにとって貴重な本である。

詩集「四季の風」夕愁白嶺<手紙>

2024年09月13日 | 四季の風
詩集「四季の風」は<手紙>をもってすべての詩の紹介がおわりました。

 【あとがき】

第二詩集「四季 の 風」は先の 習作時代の 「琴しぐれ」と共に、私の詩における第一期 の作品です。この「四季の 風」は「雪柳抄」「四季」「放談」「雪国」と四部からの構成になっていますが、それは私の詩的年令がもたらした結果によるものです。
これらの作品は目まぐるしく展開しながら表現形式を異にしてはいますが、しかし私の追求しているものは依然同様であり、私には目的の為の手段にしか過ぎないのです。勿論私自身の統一した文体で、私の追求しているものが表現出来るのに越した事はありませんが、現在の私は潮く前途に一筋の光を見出して、一歩一歩目的に向って前進している状態なので、これは今後の私に課せられた最大の問題だと思っています。
著者である私には私の作品を客観的に批判出来得る立場にある読者の目が恐しく、或は読者の方が私より一歩先に、私の追求しているものを取得してしまうかも解りません。
何にせよ私は私に忠実で、しかもその上に私自身の世界を創造したいと思っています。
  ━以下略━

  1959年4月6日 浦和にて  夕愁白嶺



<手紙>

発車の時
見送りに文た少女
小さい箱を差出した
車内で箱を開けると
真新しい青い手袋が入っていた

そうそう何時だったか
一度みかんを買いに行った事があった
その時店先に少女が立っていた
少女がみかんを袋に入れようとした時
少女の手袋の綻びていた所から
人差指が顔を出した
私の視線に気付いた少女は
人差指で「コンニチワ」と云った
私と少女はお可笑しくなって笑った
私は少女の機智が嬉しくなった
袋入りのみかんをもらうと
薄汚れた古い私の手袋を差出した
少女は驚いて暫く私と手袋を交互に見較べ
程無く「有難う」と云って受取った

今私は暖い青い手袋に
しみじみとした幸福感を味いながら
袋入りのみかんを抱いている

詩集「四季の風」夕愁白嶺<新聞記事>

2024年09月12日 | 四季の風
<新聞記事>

青函連絡船欠航
  急行大雪二時間立往生


「札幌発」昨日の猛吹雪の為・空知地方は積
雪一米を記録し、その為急行大雪は札幌・江別間に二時間立往生。
函館本線、宗谷線、石北線等主要ダイヤ各所
で混乱。
「青森発」昨夜海上風速三十米を越え、・一便、二便ともに欠航。


詩集「琴しぐれ」「四季の風」の著者・夕愁白嶺が日大芸術学部演劇科に在籍していたころ、たしかユネスコ村(西武園?)で撮った写真だと思います。

詩集「四季の風」夕愁白嶺<カクマキ>

2024年09月11日 | 四季の風
昭和30年代前半までの旭川といえば、冬は角巻姿のオバさん(このころは小学生→中学生だったからね。大人の女性は皆オバさん)をよく見かけたものだ。
この写真は詩集「四季の風」に掲載していた。

カクマキ>

カクマキとは何
一反風呂敷を大きくしたもの
生地の厚さは毛布のようなもの
三角に折って 四角に折って
頭から着るか 肩から着る
便利なことこの上もない
ただスタイルが蓑虫に似ている
野暮ったいことこの上もない
何時の頃からか
カクマキを着ている女性を
見掛けなくなった

詩集「四季の風」夕愁白嶺<老姿>

2024年09月09日 | 四季の風
わたしの愛車「フォレスター」が車検のため、スバルのディーラーへ入庫した。代車は「フォレスターXTエディション」である。わたしの12年前のフォレスターと比べて、XTエディションのインパネは革新的で未来的で「バックトゥザフューチャー」のテロリアンを運転しているような感覚であった。凄いけど楽しい。

<老姿>

━━この辺は何の木です
━━蝦夷松だけんね

薪摘む老婆

詩集「四季の風」夕愁白嶺<雪国の恋>

2024年09月08日 | 四季の風

はまなすの丘公園 
はまなすの花の咲くころはきれいだが、年々砂に侵食されている。
ヴィジターセンターにいくと「喜びも悲しみも幾歳月」のスチール写真が何枚か掲示してあった。
「石狩灯台」は1957年(昭和32年)「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台となった際に、「カラー映画」自体が珍しい時代なのでインパクトのある赤白に塗り替えたとのことである。
高峰秀子さんと石狩のご婦人がた(映画撮影のためのお手伝いやエキストラとして出演された)

<雪国の恋>

辛抱強い雪国の恋は
氷柱の中に
閉籠っている真紅の炎
愼しく激しい
注意深く雲母を剥がすように
一枚一枚薄着になる
幼い生毛のような雪解の
鋭敏で
感受性の強い情趣なもの

詩集「四季の風」夕愁白嶺<馬橇>

2024年09月07日 | 四季の風
昭和19年~20年、江丹別へ疎開したことがある。
途中までバスで行ってどこかで馬橇に乗り換えたのだろうか。ほんとうにおぼろげな記憶しかないが馬に付けた鈴の音がシャンシャン鳴って、戦時中なのに子供心に楽しかったのだと思う。

「喜びも悲しみも幾歳月」赴任地の石狩灯台へは馬橇で向かった。いまでも冬季間は灯台までの道路は雪が深くて車は通れない。

<馬橇>

五、六年前には一条大通り 四条大通り
よく馬橇を見掛けたものだ
それが今では衢環の大型パスが通るだ
大型パスが馬橇に取って代った雪の町
近代化した一条大通り 四条大通りに
何か一抹の物足りなさを感じる