古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

『日本軍兵士』(吉田裕・著)を読みながら思う

2018年09月02日 00時54分22秒 | 古希からの田舎暮らし
 いま吉田裕の『日本軍兵士』 ーアジア・太平洋戦争の現実ー (中公新書)という本を読んでします。著者の吉田裕は昭和29年生れ(64歳)の大学教授です。
 戦後生れの人が書くと、「あの戦争」は「歴史」なってしまう。
 なんというか「庶民の痛み・苦しみを感じて、読者がヒリヒリする」感じが遠いのです。
 吉田裕氏は学者ですから、戦時中の当事者の文献を多く調べて、キチンと引用した事実を書いています。インパール作戦の項を引用してみます。


 実際の兵士の記録を見てみよう。 …… 独立工兵の曹長だった西地保正は、インパール作戦の記録を残しているが、そこには自殺した兵士の状況が繰り返し描かれている。  ……

 「今日は体調がいいから先に行くぜ」と出ていった兵が、道の真ん中で自決していた。あとからこの道を(戦友が)通るから(自分の遺体を)始末してくれるとやったことだ。まだ歩けるのに早まったことををしてくれたと一同は残念だった。分隊の足手まといになることは彼の性格から許さなかったのだろう。この様子を近くで休んでいた病兵が、足の親指で引金を引いたと話した。(『神に見放された男たち』)

 目撃していた「病兵」によれば、この兵士は、小銃の銃口を口にくわえ、あるいは自分の頭部に向けて、足の親指で銃の引金を引いて自殺した。
 インパール作戦は、1944年3月に開始されたインド北東部のインパールに対する進攻作戦だが、補給を無視した無謀な作戦を強行した結果、日本軍が英軍に完敗した作戦である。多数の餓死者や戦病死者を出したことでも有名であり、日本軍の退却路は「白骨街道」や「靖国街道」などと呼ばれた。


 書いてあることは事実でしょうが、読んでスーッと通り過ぎていく。心に波風を立てない。
 あの戦争は、戦後生れの人たちには「歴史」になってしまったんだなあ。


 

コメント
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