せっかくなので、国分寺山門の中をくぐって本堂にもお参りしました。
国分寺は国分尼寺とともに鎮護国家を祈るため、天平13年(741)に、聖武天皇の勅願によって建てられた官寺で、全国各地にありました。その多くは廃寺となり、現存するものも近年に再興されたものや、国分寺跡として一部のみ残っているものが多いようです。
ここ備中国分寺の寺域は、東西約160m南北約180mで、周囲には1.2~1.3mの築地土塀がめぐらされており、寺域内には、南門、中門、金堂、講堂、塔などの伽藍が配置されていました。残念ながら、中世には廃寺となり、その後江戸時代中期に至って日照山国分寺として再興されました。現存する伽藍はすべて再興後に建てられたものだそうです。
山門
本堂
備中国分寺 伽藍配置略図
お天気はいいし、お花もきれいし、暖かい日曜日だったので、ご夫婦連れやカップル、家族連れ、バスツアーの観光客もたくさん訪れでいました。ただ五重塔があまりにも有名すぎて、この国分寺山門の中まで散策される方は少ないようです。^^; 私も今回初めて中に入ってみました。
調子にのってウロウロしすぎて、皆とはぐれてしまい、その上帰り道が分からなくなってしまって・・・集合時間に遅れそうになりあせりました~
ちなみにわが姫路市にも播磨・国分寺があります。
播磨国分寺は、全域が国指定史跡である。741(天平13)年、国分寺の建立について聖武天皇が詔(みことのり)を出した事により全国に国分寺が創建された。約200mの築地塀の中に南大門、中門、回廊、金堂、講堂、七重塔、僧坊、北門を備えた壮大な寺であった。平安中期末に一度焼け、さらに天正年間(1573~92)に豊臣秀吉の兵火にあって焼失した。現在の国分寺は1639(寛永16)年姫路城主となった松平忠明が率先して再建したものである。『峯相記』に疫病除けの霊牛説話が関連して記され、寺宝にも霊牛がみられる。
現在、創建当時の伽藍配置に基づき、塔や門、回廊などの基壇、築地塀などが復元された。広大な寺域を持つ奈良時代の国分寺は、この伽藍配置で偲ぶことができる。(兵庫歴史ステーションより引用)
訪問ありがとうございます。
にほんブログ村ランキングに参加しました。
←クリックよろしくね
国分寺は国分尼寺とともに鎮護国家を祈るため、天平13年(741)に、聖武天皇の勅願によって建てられた官寺で、全国各地にありました。その多くは廃寺となり、現存するものも近年に再興されたものや、国分寺跡として一部のみ残っているものが多いようです。
ここ備中国分寺の寺域は、東西約160m南北約180mで、周囲には1.2~1.3mの築地土塀がめぐらされており、寺域内には、南門、中門、金堂、講堂、塔などの伽藍が配置されていました。残念ながら、中世には廃寺となり、その後江戸時代中期に至って日照山国分寺として再興されました。現存する伽藍はすべて再興後に建てられたものだそうです。
山門
本堂
備中国分寺 伽藍配置略図
お天気はいいし、お花もきれいし、暖かい日曜日だったので、ご夫婦連れやカップル、家族連れ、バスツアーの観光客もたくさん訪れでいました。ただ五重塔があまりにも有名すぎて、この国分寺山門の中まで散策される方は少ないようです。^^; 私も今回初めて中に入ってみました。
調子にのってウロウロしすぎて、皆とはぐれてしまい、その上帰り道が分からなくなってしまって・・・集合時間に遅れそうになりあせりました~
ちなみにわが姫路市にも播磨・国分寺があります。
播磨国分寺は、全域が国指定史跡である。741(天平13)年、国分寺の建立について聖武天皇が詔(みことのり)を出した事により全国に国分寺が創建された。約200mの築地塀の中に南大門、中門、回廊、金堂、講堂、七重塔、僧坊、北門を備えた壮大な寺であった。平安中期末に一度焼け、さらに天正年間(1573~92)に豊臣秀吉の兵火にあって焼失した。現在の国分寺は1639(寛永16)年姫路城主となった松平忠明が率先して再建したものである。『峯相記』に疫病除けの霊牛説話が関連して記され、寺宝にも霊牛がみられる。
現在、創建当時の伽藍配置に基づき、塔や門、回廊などの基壇、築地塀などが復元された。広大な寺域を持つ奈良時代の国分寺は、この伽藍配置で偲ぶことができる。(兵庫歴史ステーションより引用)
訪問ありがとうございます。
にほんブログ村ランキングに参加しました。
←クリックよろしくね