継体の父方は息長氏の後裔であり、継体の曾祖父であり応神天皇の孫である意富富等王まで近江国坂田郡を本拠地としていた可能性が高いことがわかった。継体の母方の三国氏がそうであったように、父方の息長氏も天武天皇が制定した八色の姓において「真人」の姓を与えられた氏族である。三国氏、息長氏ともに意富富等王を先祖とするが、古事記が記す同祖の氏族としてほかに波多君・坂田酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君があるが、このうち坂田酒人氏(あるいは坂田氏と酒人氏)、山道氏が「真人」を与えられている。
さて、息長氏の本拠地である琵琶湖東岸の湖北地方には多数の古墳がある。長浜市と米原市にまたがる横山丘陵の北端周辺に位置する長浜古墳群と南端周辺に位置する息長古墳群について「息長氏の考察③」で詳しく見てみたが、ここであらためて確認しておきたい。
長浜古墳群には長浜茶臼山古墳をはじめとする数十基の古墳があり、古墳群の最盛期は5世紀と考えられている。丘陵北端に築かれた長浜茶臼山古墳は全長92mの前方後円墳で築造時期は4世紀後半とも5世紀前葉とも言われる。また、丘陵の西側1キロほどのところにある丸岡塚古墳は前方部がすでに失われているが全長が130mに復元しうることが明らかになった湖北最大の前方後円墳で5世紀中頃の築造とされる。丘陵東麓には第30代敏達天皇の皇后である息長広媛の陵墓として宮内庁が管理する村居田古墳がある。墳丘の多くが失われているために墳形や規模に諸説あるが、全長100mを超える前方後円墳で5世紀中葉から後半の築造と考えられる。さらに丘陵西麓には応神天皇の皇子である稚野毛二派皇子の墓とされる全長50数m、5世紀後半の前方後方墳とされる垣籠古墳がある。
このように長浜古墳群では少なくとも5世紀の100年間に数十mから100mを超える規模の前方後円墳あるいは前方後方墳が継続的に築造されている。
次に横山丘陵の南側に位置する息長古墳群を見てみる。こちらは長浜古墳群が最盛期を終えたあとの6世紀に入ってから最盛期を迎える。丘陵南西端の北陸自動車道沿いに位置する後別当古墳は全長が50m余りの帆立貝型の前方後円墳で5世紀後半の築造とされる。そこから真南に500mのところにある全長40m余りの塚の越古墳は、5世紀末から6世紀初頭の築造とされる前方後円墳である。盗掘を受けているが、鏡1面、金銅製装身具の残片をはじめ、馬具、金環、ガラス製勾玉、管玉、丸玉、切子玉など豪華な副葬品が確認されている。その塚の越古墳の東、丘陵南端の山津照神社境内にある山津照神社古墳は全長63mの前方後円墳で6世紀中葉の築造とされる。明治時代の社殿移設に際する参道拡幅工事で横穴式石室が発見され、3面の鏡のほか、金銅製冠の破片、馬具、鉄刀・鉄剣の残欠、水晶製三輪玉など、塚の越古墳とよく似た副葬品が見つかった。被葬者は息長宿禰王との言い伝えがある。また、山津照神社由緒には「当地に在住の息長氏の崇敬殊に厚く、神功皇后は朝鮮に進出の時祈願され、帰還の際にも奉賽の祭儀をされて朝鮮国王所持の鉞(まさかり)を奉納されました。これは今もなお当社の貴重な宝物として保管してあります」とある。そして後別当古墳の北西、丘陵の南西端の縁にある人塚山古墳は全長58mの前方後円墳で6世紀後半の築造と考えられる。
以上の通り、息長古墳群では長浜古墳群が最盛期を終えたあとの5世紀後半から6世紀後半の100年間にわたり、数十m規模の前方後円墳が継続的に築かれている。ふたつの古墳群の盛衰から、5世紀に姉川流域を中心に栄えて長浜古墳群を築いた勢力と、6世紀に入って天野川流域で栄えて息長古墳群を築いた勢力があったと考えられる。息長古墳群については、息長の地名や山津照神社に残る由緒・伝承なども併せて考えると息長氏の墓域と考えて差し支えないと思うが、そうすると長浜古墳群はもう一方の坂田氏(あるいは坂田酒人氏)ということになるのだろうか。
なお、塚の越古墳や山津照神社古墳の副葬品として出土した金銅製装身具や馬具などの存在はこの地域の首長が朝鮮半島と交流していたことを示すものと考えられている。また、これらは湖西地方の高島市にある6世紀前半の築造と考えられる前方後円墳である鴨稲荷山古墳の副葬品とも似ている。その副葬品とは、金銅製の広帯二山式冠と沓、金製耳飾り、捩じり環頭大刀・三葉文楕円形杏葉など大変豪華なものであった。
この鴨稲荷山古墳は、継体天皇の父である彦主人王の別業があった三尾の地と考えられる安曇川町三尾里や水尾神社に極めて近い所にある。古墳のある場所、その築造時期、豪華な副葬品などから、その被葬者を三尾氏の首長とする説が有力であるが、継体天皇の皇子である大郎皇子(大郎子)を充てる説もある。
応神天皇の治世が4世紀後半から5世紀前半と考えると、その子である稚野毛二派皇子や孫の意富富等王あたりまでは5世紀の人物となる。そうするとこの二人は5世紀に栄えた長浜古墳群に葬られていると考えることもできる。現に5世紀後半の垣籠古墳は稚野毛二派皇子の墓と伝えられているのだ。
そして応神三世孫の乎非王や四世孫、つまり継体の父である彦主人王は5世紀後半から6世紀にかけての人物ということが言えるから、その墓を息長古墳群に求めることが可能となる。ただし、彦主人王は湖西の高嶋郡で亡くなっているので、その地に葬られている可能性が高いだろう。滋賀県高島市安曇川町田中に全長70mの帆立貝式古墳で5世紀後半の築造と推定される田中王塚古墳がある。被葬者は彦主人王であるという伝承により「安曇陵墓参考地」として宮内庁が管理している。
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さて、息長氏の本拠地である琵琶湖東岸の湖北地方には多数の古墳がある。長浜市と米原市にまたがる横山丘陵の北端周辺に位置する長浜古墳群と南端周辺に位置する息長古墳群について「息長氏の考察③」で詳しく見てみたが、ここであらためて確認しておきたい。
長浜古墳群には長浜茶臼山古墳をはじめとする数十基の古墳があり、古墳群の最盛期は5世紀と考えられている。丘陵北端に築かれた長浜茶臼山古墳は全長92mの前方後円墳で築造時期は4世紀後半とも5世紀前葉とも言われる。また、丘陵の西側1キロほどのところにある丸岡塚古墳は前方部がすでに失われているが全長が130mに復元しうることが明らかになった湖北最大の前方後円墳で5世紀中頃の築造とされる。丘陵東麓には第30代敏達天皇の皇后である息長広媛の陵墓として宮内庁が管理する村居田古墳がある。墳丘の多くが失われているために墳形や規模に諸説あるが、全長100mを超える前方後円墳で5世紀中葉から後半の築造と考えられる。さらに丘陵西麓には応神天皇の皇子である稚野毛二派皇子の墓とされる全長50数m、5世紀後半の前方後方墳とされる垣籠古墳がある。
このように長浜古墳群では少なくとも5世紀の100年間に数十mから100mを超える規模の前方後円墳あるいは前方後方墳が継続的に築造されている。
次に横山丘陵の南側に位置する息長古墳群を見てみる。こちらは長浜古墳群が最盛期を終えたあとの6世紀に入ってから最盛期を迎える。丘陵南西端の北陸自動車道沿いに位置する後別当古墳は全長が50m余りの帆立貝型の前方後円墳で5世紀後半の築造とされる。そこから真南に500mのところにある全長40m余りの塚の越古墳は、5世紀末から6世紀初頭の築造とされる前方後円墳である。盗掘を受けているが、鏡1面、金銅製装身具の残片をはじめ、馬具、金環、ガラス製勾玉、管玉、丸玉、切子玉など豪華な副葬品が確認されている。その塚の越古墳の東、丘陵南端の山津照神社境内にある山津照神社古墳は全長63mの前方後円墳で6世紀中葉の築造とされる。明治時代の社殿移設に際する参道拡幅工事で横穴式石室が発見され、3面の鏡のほか、金銅製冠の破片、馬具、鉄刀・鉄剣の残欠、水晶製三輪玉など、塚の越古墳とよく似た副葬品が見つかった。被葬者は息長宿禰王との言い伝えがある。また、山津照神社由緒には「当地に在住の息長氏の崇敬殊に厚く、神功皇后は朝鮮に進出の時祈願され、帰還の際にも奉賽の祭儀をされて朝鮮国王所持の鉞(まさかり)を奉納されました。これは今もなお当社の貴重な宝物として保管してあります」とある。そして後別当古墳の北西、丘陵の南西端の縁にある人塚山古墳は全長58mの前方後円墳で6世紀後半の築造と考えられる。
以上の通り、息長古墳群では長浜古墳群が最盛期を終えたあとの5世紀後半から6世紀後半の100年間にわたり、数十m規模の前方後円墳が継続的に築かれている。ふたつの古墳群の盛衰から、5世紀に姉川流域を中心に栄えて長浜古墳群を築いた勢力と、6世紀に入って天野川流域で栄えて息長古墳群を築いた勢力があったと考えられる。息長古墳群については、息長の地名や山津照神社に残る由緒・伝承なども併せて考えると息長氏の墓域と考えて差し支えないと思うが、そうすると長浜古墳群はもう一方の坂田氏(あるいは坂田酒人氏)ということになるのだろうか。
なお、塚の越古墳や山津照神社古墳の副葬品として出土した金銅製装身具や馬具などの存在はこの地域の首長が朝鮮半島と交流していたことを示すものと考えられている。また、これらは湖西地方の高島市にある6世紀前半の築造と考えられる前方後円墳である鴨稲荷山古墳の副葬品とも似ている。その副葬品とは、金銅製の広帯二山式冠と沓、金製耳飾り、捩じり環頭大刀・三葉文楕円形杏葉など大変豪華なものであった。
この鴨稲荷山古墳は、継体天皇の父である彦主人王の別業があった三尾の地と考えられる安曇川町三尾里や水尾神社に極めて近い所にある。古墳のある場所、その築造時期、豪華な副葬品などから、その被葬者を三尾氏の首長とする説が有力であるが、継体天皇の皇子である大郎皇子(大郎子)を充てる説もある。
応神天皇の治世が4世紀後半から5世紀前半と考えると、その子である稚野毛二派皇子や孫の意富富等王あたりまでは5世紀の人物となる。そうするとこの二人は5世紀に栄えた長浜古墳群に葬られていると考えることもできる。現に5世紀後半の垣籠古墳は稚野毛二派皇子の墓と伝えられているのだ。
そして応神三世孫の乎非王や四世孫、つまり継体の父である彦主人王は5世紀後半から6世紀にかけての人物ということが言えるから、その墓を息長古墳群に求めることが可能となる。ただし、彦主人王は湖西の高嶋郡で亡くなっているので、その地に葬られている可能性が高いだろう。滋賀県高島市安曇川町田中に全長70mの帆立貝式古墳で5世紀後半の築造と推定される田中王塚古墳がある。被葬者は彦主人王であるという伝承により「安曇陵墓参考地」として宮内庁が管理している。
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