当ブログ第二部の執筆を実質的に中断して1年が経過してしまいました。ちょうど昨年の今頃、博物館学芸員の資格を取るために通信制大学で学ぶことを決めて準備を進め、入学が決まるとすぐにテキストを購入して学習を始めました。それ以降、博物館学の各科目の学習やレポート執筆に多くの時間を割くことになり、古代史の勉強のための時間がとれなくなってしまいました。その結果、遺跡探訪や博物館見学のレポートなどを断続的に投稿してきたものの、第二部の執筆は中断せざるを得ませんでした。そして1年が経過、大学の成績発表は3月なので無事に学芸員資格が取れたかどうかはまだわかりませんが博物館学の学習がようやく終わりを迎えたので、古代史の勉強を再開しました。
ということで、1年前の記事「神功皇后(その6 新羅征討③)」の続きから再開しようと思いますので、よろしくお願いします。
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新羅遠征を成功させた神功皇后は凱旋帰国し、誉田別皇子、のちの応神天皇を産んだ。翌年、亡き天皇の遺骸とともに帰京しようとしたところ、天皇の御子である香坂王と忍熊王の兄弟が謀反を企てた。この兄弟は仲哀天皇と妃である大中媛の間にできた子である。「仲哀天皇(その1 崇神王朝の終焉)」で書いた通り、本来であれば大中媛が皇后となり、その大中媛が産んだふたりの皇子のいずれかが仲哀天皇の跡を継ぐべきであったのだが、丹波・近江連合勢力の企みによって神功すなわち気長足姫尊が皇后となったために、この兄弟の皇位継承権は神功皇后の子である誉田別皇子に劣後することとなった。神功皇后はふたりの父親である仲哀天皇を亡き者にしただけでなく、ふたりを直系皇統から追い出したのだ。兄弟が皇后による天皇殺害の事実を知らないにしても、謀反を企てる理由は理解ができよう。
兄弟は筑紫から畿内に帰京する皇后一行を播磨で待ち伏せた。一行を騙すために明石の地にわざわざ天皇のための偽の陵を築いたと書紀に記され、その陵が神戸市垂水区にある五色塚古墳とされる。全長が194メートルの兵庫県最大の前方後円墳で4世紀後半から5世紀前半の築造、奈良の佐紀盾列古墳群にある全長207メートルの前方後円墳である佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳と同形とされている。日本で最初に復元整備が行われた古墳で、墳丘に登ると明石海峡を挟んで淡路島がすぐそこに見える。調査の結果、3段築成の上段および中段の葺石が淡路島産であることがわかっており、淡路島から石を運んだとする書紀の記述と一致する。主体部の埋葬施設は明らかにされていないが、被葬者は明石海峡という要衝を押さえ、さらには淡路島にも勢力を及ぼしたこの地の首長と考えられている。仲哀天皇は即位の翌年に淡路に屯倉を定めている。大和の巨大古墳との関連性に加え、その勢力内に屯倉がおかれたことを考えると、この被葬者はかなり天皇家に近い人物ではないだろうか。また、4世紀後半から5世紀前半という築造年代は神功の時代と重なりがある。書紀では仲哀天皇のための偽の陵とされているが、実際はこの時代の天皇家に近い人物を葬るために築かれた古墳と考えられる。ちなみに仲哀天皇は書紀では河内国の長野陵に、古事記では河内の恵賀の長江に葬られたとあり、大阪府藤井寺市にある岡ミサンザイ古墳が仲哀陵に治定されている。
兵を集めて待ち伏せていた兄弟であるが、難波の兎我野で祈狩(うけいがり)をしたときに赤猪に襲われた香坂王が命を落とすこととなった。怖気づいた忍熊王は軍を退かせて住吉に駐屯した。忍熊王が待ち構えていることを知った皇后は同行していた武内宿禰に命じて皇子を連れて紀伊水門に迂回させた。一方、そのまま難波に向かった皇后は難波を前にして船がぐるぐる回って進めなかったので務古水門(武庫の港)に戻って占いをしたところ4人の神々が現れて、それぞれが鎮座したい地を告げた。そしてその教えに従ったところ船が進むようになった。4人の神々とは天照大神、稚日女尊、事代主尊、そして表筒男・中筒男・底筒男の住吉大神であり「神功皇后(その3 打倒!崇神王朝)」で書いた通り、熊襲を攻めようとする仲哀天皇に対して新羅を攻めよと勧めた神々である。それぞれの神がどこに鎮座したのかを確認してみよう。
天照大神が鎮座した廣田国は兵庫県西宮市の廣田神社、稚日女尊の活田長峡国(いくたのながおのくに)は神戸市生田区の生田神社、事代主尊の長田国は神戸市長田区の長田神社である。そして最後の住吉大神の鎮座地である大津渟名倉長峡(おおつぬなくらのながお)は特定が難しいが、先の3カ所から推定すると神戸市東灘区にある本住吉神社であろうか。五色塚古墳のある明石海峡を起点にして難波に至る現在の神戸市から西宮市にかけての大阪湾沿岸部に4つの神社が並んでおり、このことは明石海峡から難波までの航路を神功皇后が押さえたということを意味するのではないか。この航路を支配下に置いたことで船が進んだ、すなわち難波に進攻することができたのだ。そう考えると、これらの神々のお告げは新羅討伐の託宣と同様に神功皇后の意志や行動そのものを表していることになる。つまり、天照大神、稚日女尊、事代主尊、住吉大神は天皇家ではなく、神功皇后の味方であると言える。
ところで、ここまでの神功皇后の様子、瀬戸内海を東進して難波の手前までやってきたところで不思議な力によって足止めを喰ったためにいったん引き返すという状況は、古事記の応神段に記される天日槍の来日譚とよく似ている。新羅から妻を追いかけて日本へやって来た天日槍はまさに難波に入ろうとしたところで難波の渡りの神に遮られたために引き返して但馬国に入るという話だ。天日槍はそのまま但馬に留まり、妻を娶って子孫を設ける。その末裔が気長足姫尊、すなわち神功皇后である。
書紀はさらに示唆に富む話が続く。皇后一行が難波に入って来たために忍熊王は住吉から淀川を遡って宇治まで退いていたのだが、皇后は深追いせずにそのまま紀伊国に向かう。先に紀伊水門に向かった皇子と合流するためだ。皇后は紀伊国の日高で皇子と合流し、さらに小竹宮(しののみや)へ移った。この「日高」は現在の和歌山県日高郡、小竹宮はその北にあたる和歌山県御坊市にある小竹(しの)八幡神社が宮跡と考えられているが、果たしてそうであろうか。小竹宮の候補地は4カ所あるとされている。1つめが前述の小竹八幡神社、2つめが和歌山県紀の川市の志野神社、3つめが奈良県五條市西吉野夜中の波宝(はほう)神社、4つめが大阪府和泉市の旧府(ふるふ)神社である。
小竹宮に滞在しているときに、昼でも夜のような暗さになる「常夜行」という現象が何日も続いた。日食があったのだろうか。天照大神の天の岩屋隠れを想起させる現象だ。土地の老人は、ふたつの社の祝者(はふり)を一緒に葬っているからだと言う。その祝者とは小竹祝と天野祝で、ふたりは良き友人であったので合葬されたのだが、別々のところに埋葬し直すと昼夜の区別が戻った。
小竹祝は小竹宮とされる候補地のいずれかの社の神官で、天野祝は和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある天野大社とも呼ばれる丹生都比売神社の神官であると考えられる。「天野」が丹生都比売神社であるなら「小竹」はその近く、すなわち通説の小竹八幡神社ではなく、2つめの志野神社、あるいは3つめの波宝神社と考えるのが妥当であろう。それぞれの神社が小竹宮の候補とされる理由は、志野神社はその名称から、波宝神社は地名の「夜中」が前述の常夜行の現象に由来すると考えられている、ということからである。志野神社の主祭神は天言代主命・加具土命・息長帯姫命、波宝神社は息長帯日売命と上筒之男命・中筒之男命・底筒之男命の住吉大神が主祭神となっている。ちなみに、丹生都比売神社は第一殿から第四殿までの4つの本殿があり、第一殿には丹生都比売大神すなわち稚日女尊が祀られる。務古水門での占いに登場した神々のうち、天照大神を除く三神が祀られている。
そしてさらに言うなら、皇后が皇子と合流した「日高」は日高郡ではなく、丹生都比売神社のすぐ近くの和歌山県伊都郡葛城町日高であると考えるべきであろう。
皇后一行が明石海峡を通過して香坂王・忍熊王の兄弟と対峙するまでに登場した場所を地図にプロットすると下図のようになる。これを見ると、近江の高穴穂宮から瀬田川、宇治川、淀川を経て難波に至る河川航路(図の点線の楕円部分)は天皇家が押さえていたものの、播磨から難波に至る海路および紀ノ川から大和に入る河川航路は皇后が押さえていたと考えることができるだろう。なお、当時の住吉は上町台地の西に位置し、目の前には海岸が迫っていた。台地の東側は河内湖が広がっており、淀川や大和川が流れ込んでいた。
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ということで、1年前の記事「神功皇后(その6 新羅征討③)」の続きから再開しようと思いますので、よろしくお願いします。
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新羅遠征を成功させた神功皇后は凱旋帰国し、誉田別皇子、のちの応神天皇を産んだ。翌年、亡き天皇の遺骸とともに帰京しようとしたところ、天皇の御子である香坂王と忍熊王の兄弟が謀反を企てた。この兄弟は仲哀天皇と妃である大中媛の間にできた子である。「仲哀天皇(その1 崇神王朝の終焉)」で書いた通り、本来であれば大中媛が皇后となり、その大中媛が産んだふたりの皇子のいずれかが仲哀天皇の跡を継ぐべきであったのだが、丹波・近江連合勢力の企みによって神功すなわち気長足姫尊が皇后となったために、この兄弟の皇位継承権は神功皇后の子である誉田別皇子に劣後することとなった。神功皇后はふたりの父親である仲哀天皇を亡き者にしただけでなく、ふたりを直系皇統から追い出したのだ。兄弟が皇后による天皇殺害の事実を知らないにしても、謀反を企てる理由は理解ができよう。
兄弟は筑紫から畿内に帰京する皇后一行を播磨で待ち伏せた。一行を騙すために明石の地にわざわざ天皇のための偽の陵を築いたと書紀に記され、その陵が神戸市垂水区にある五色塚古墳とされる。全長が194メートルの兵庫県最大の前方後円墳で4世紀後半から5世紀前半の築造、奈良の佐紀盾列古墳群にある全長207メートルの前方後円墳である佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳と同形とされている。日本で最初に復元整備が行われた古墳で、墳丘に登ると明石海峡を挟んで淡路島がすぐそこに見える。調査の結果、3段築成の上段および中段の葺石が淡路島産であることがわかっており、淡路島から石を運んだとする書紀の記述と一致する。主体部の埋葬施設は明らかにされていないが、被葬者は明石海峡という要衝を押さえ、さらには淡路島にも勢力を及ぼしたこの地の首長と考えられている。仲哀天皇は即位の翌年に淡路に屯倉を定めている。大和の巨大古墳との関連性に加え、その勢力内に屯倉がおかれたことを考えると、この被葬者はかなり天皇家に近い人物ではないだろうか。また、4世紀後半から5世紀前半という築造年代は神功の時代と重なりがある。書紀では仲哀天皇のための偽の陵とされているが、実際はこの時代の天皇家に近い人物を葬るために築かれた古墳と考えられる。ちなみに仲哀天皇は書紀では河内国の長野陵に、古事記では河内の恵賀の長江に葬られたとあり、大阪府藤井寺市にある岡ミサンザイ古墳が仲哀陵に治定されている。
兵を集めて待ち伏せていた兄弟であるが、難波の兎我野で祈狩(うけいがり)をしたときに赤猪に襲われた香坂王が命を落とすこととなった。怖気づいた忍熊王は軍を退かせて住吉に駐屯した。忍熊王が待ち構えていることを知った皇后は同行していた武内宿禰に命じて皇子を連れて紀伊水門に迂回させた。一方、そのまま難波に向かった皇后は難波を前にして船がぐるぐる回って進めなかったので務古水門(武庫の港)に戻って占いをしたところ4人の神々が現れて、それぞれが鎮座したい地を告げた。そしてその教えに従ったところ船が進むようになった。4人の神々とは天照大神、稚日女尊、事代主尊、そして表筒男・中筒男・底筒男の住吉大神であり「神功皇后(その3 打倒!崇神王朝)」で書いた通り、熊襲を攻めようとする仲哀天皇に対して新羅を攻めよと勧めた神々である。それぞれの神がどこに鎮座したのかを確認してみよう。
天照大神が鎮座した廣田国は兵庫県西宮市の廣田神社、稚日女尊の活田長峡国(いくたのながおのくに)は神戸市生田区の生田神社、事代主尊の長田国は神戸市長田区の長田神社である。そして最後の住吉大神の鎮座地である大津渟名倉長峡(おおつぬなくらのながお)は特定が難しいが、先の3カ所から推定すると神戸市東灘区にある本住吉神社であろうか。五色塚古墳のある明石海峡を起点にして難波に至る現在の神戸市から西宮市にかけての大阪湾沿岸部に4つの神社が並んでおり、このことは明石海峡から難波までの航路を神功皇后が押さえたということを意味するのではないか。この航路を支配下に置いたことで船が進んだ、すなわち難波に進攻することができたのだ。そう考えると、これらの神々のお告げは新羅討伐の託宣と同様に神功皇后の意志や行動そのものを表していることになる。つまり、天照大神、稚日女尊、事代主尊、住吉大神は天皇家ではなく、神功皇后の味方であると言える。
ところで、ここまでの神功皇后の様子、瀬戸内海を東進して難波の手前までやってきたところで不思議な力によって足止めを喰ったためにいったん引き返すという状況は、古事記の応神段に記される天日槍の来日譚とよく似ている。新羅から妻を追いかけて日本へやって来た天日槍はまさに難波に入ろうとしたところで難波の渡りの神に遮られたために引き返して但馬国に入るという話だ。天日槍はそのまま但馬に留まり、妻を娶って子孫を設ける。その末裔が気長足姫尊、すなわち神功皇后である。
書紀はさらに示唆に富む話が続く。皇后一行が難波に入って来たために忍熊王は住吉から淀川を遡って宇治まで退いていたのだが、皇后は深追いせずにそのまま紀伊国に向かう。先に紀伊水門に向かった皇子と合流するためだ。皇后は紀伊国の日高で皇子と合流し、さらに小竹宮(しののみや)へ移った。この「日高」は現在の和歌山県日高郡、小竹宮はその北にあたる和歌山県御坊市にある小竹(しの)八幡神社が宮跡と考えられているが、果たしてそうであろうか。小竹宮の候補地は4カ所あるとされている。1つめが前述の小竹八幡神社、2つめが和歌山県紀の川市の志野神社、3つめが奈良県五條市西吉野夜中の波宝(はほう)神社、4つめが大阪府和泉市の旧府(ふるふ)神社である。
小竹宮に滞在しているときに、昼でも夜のような暗さになる「常夜行」という現象が何日も続いた。日食があったのだろうか。天照大神の天の岩屋隠れを想起させる現象だ。土地の老人は、ふたつの社の祝者(はふり)を一緒に葬っているからだと言う。その祝者とは小竹祝と天野祝で、ふたりは良き友人であったので合葬されたのだが、別々のところに埋葬し直すと昼夜の区別が戻った。
小竹祝は小竹宮とされる候補地のいずれかの社の神官で、天野祝は和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある天野大社とも呼ばれる丹生都比売神社の神官であると考えられる。「天野」が丹生都比売神社であるなら「小竹」はその近く、すなわち通説の小竹八幡神社ではなく、2つめの志野神社、あるいは3つめの波宝神社と考えるのが妥当であろう。それぞれの神社が小竹宮の候補とされる理由は、志野神社はその名称から、波宝神社は地名の「夜中」が前述の常夜行の現象に由来すると考えられている、ということからである。志野神社の主祭神は天言代主命・加具土命・息長帯姫命、波宝神社は息長帯日売命と上筒之男命・中筒之男命・底筒之男命の住吉大神が主祭神となっている。ちなみに、丹生都比売神社は第一殿から第四殿までの4つの本殿があり、第一殿には丹生都比売大神すなわち稚日女尊が祀られる。務古水門での占いに登場した神々のうち、天照大神を除く三神が祀られている。
そしてさらに言うなら、皇后が皇子と合流した「日高」は日高郡ではなく、丹生都比売神社のすぐ近くの和歌山県伊都郡葛城町日高であると考えるべきであろう。
皇后一行が明石海峡を通過して香坂王・忍熊王の兄弟と対峙するまでに登場した場所を地図にプロットすると下図のようになる。これを見ると、近江の高穴穂宮から瀬田川、宇治川、淀川を経て難波に至る河川航路(図の点線の楕円部分)は天皇家が押さえていたものの、播磨から難波に至る海路および紀ノ川から大和に入る河川航路は皇后が押さえていたと考えることができるだろう。なお、当時の住吉は上町台地の西に位置し、目の前には海岸が迫っていた。台地の東側は河内湖が広がっており、淀川や大和川が流れ込んでいた。
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