古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

神功皇后(その7 香坂王・忍熊王の反乱)

2019年02月27日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 当ブログ第二部の執筆を実質的に中断して1年が経過してしまいました。ちょうど昨年の今頃、博物館学芸員の資格を取るために通信制大学で学ぶことを決めて準備を進め、入学が決まるとすぐにテキストを購入して学習を始めました。それ以降、博物館学の各科目の学習やレポート執筆に多くの時間を割くことになり、古代史の勉強のための時間がとれなくなってしまいました。その結果、遺跡探訪や博物館見学のレポートなどを断続的に投稿してきたものの、第二部の執筆は中断せざるを得ませんでした。そして1年が経過、大学の成績発表は3月なので無事に学芸員資格が取れたかどうかはまだわかりませんが博物館学の学習がようやく終わりを迎えたので、古代史の勉強を再開しました。
 ということで、1年前の記事「神功皇后(その6 新羅征討③)」の続きから再開しようと思いますので、よろしくお願いします。

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 新羅遠征を成功させた神功皇后は凱旋帰国し、誉田別皇子、のちの応神天皇を産んだ。翌年、亡き天皇の遺骸とともに帰京しようとしたところ、天皇の御子である香坂王と忍熊王の兄弟が謀反を企てた。この兄弟は仲哀天皇と妃である大中媛の間にできた子である。「仲哀天皇(その1 崇神王朝の終焉)」で書いた通り、本来であれば大中媛が皇后となり、その大中媛が産んだふたりの皇子のいずれかが仲哀天皇の跡を継ぐべきであったのだが、丹波・近江連合勢力の企みによって神功すなわち気長足姫尊が皇后となったために、この兄弟の皇位継承権は神功皇后の子である誉田別皇子に劣後することとなった。神功皇后はふたりの父親である仲哀天皇を亡き者にしただけでなく、ふたりを直系皇統から追い出したのだ。兄弟が皇后による天皇殺害の事実を知らないにしても、謀反を企てる理由は理解ができよう。
 兄弟は筑紫から畿内に帰京する皇后一行を播磨で待ち伏せた。一行を騙すために明石の地にわざわざ天皇のための偽の陵を築いたと書紀に記され、その陵が神戸市垂水区にある五色塚古墳とされる。全長が194メートルの兵庫県最大の前方後円墳で4世紀後半から5世紀前半の築造、奈良の佐紀盾列古墳群にある全長207メートルの前方後円墳である佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳と同形とされている。日本で最初に復元整備が行われた古墳で、墳丘に登ると明石海峡を挟んで淡路島がすぐそこに見える。調査の結果、3段築成の上段および中段の葺石が淡路島産であることがわかっており、淡路島から石を運んだとする書紀の記述と一致する。主体部の埋葬施設は明らかにされていないが、被葬者は明石海峡という要衝を押さえ、さらには淡路島にも勢力を及ぼしたこの地の首長と考えられている。仲哀天皇は即位の翌年に淡路に屯倉を定めている。大和の巨大古墳との関連性に加え、その勢力内に屯倉がおかれたことを考えると、この被葬者はかなり天皇家に近い人物ではないだろうか。また、4世紀後半から5世紀前半という築造年代は神功の時代と重なりがある。書紀では仲哀天皇のための偽の陵とされているが、実際はこの時代の天皇家に近い人物を葬るために築かれた古墳と考えられる。ちなみに仲哀天皇は書紀では河内国の長野陵に、古事記では河内の恵賀の長江に葬られたとあり、大阪府藤井寺市にある岡ミサンザイ古墳が仲哀陵に治定されている。

 兵を集めて待ち伏せていた兄弟であるが、難波の兎我野で祈狩(うけいがり)をしたときに赤猪に襲われた香坂王が命を落とすこととなった。怖気づいた忍熊王は軍を退かせて住吉に駐屯した。忍熊王が待ち構えていることを知った皇后は同行していた武内宿禰に命じて皇子を連れて紀伊水門に迂回させた。一方、そのまま難波に向かった皇后は難波を前にして船がぐるぐる回って進めなかったので務古水門(武庫の港)に戻って占いをしたところ4人の神々が現れて、それぞれが鎮座したい地を告げた。そしてその教えに従ったところ船が進むようになった。4人の神々とは天照大神、稚日女尊、事代主尊、そして表筒男・中筒男・底筒男の住吉大神であり「神功皇后(その3 打倒!崇神王朝)」で書いた通り、熊襲を攻めようとする仲哀天皇に対して新羅を攻めよと勧めた神々である。それぞれの神がどこに鎮座したのかを確認してみよう。

 天照大神が鎮座した廣田国は兵庫県西宮市の廣田神社、稚日女尊の活田長峡国(いくたのながおのくに)は神戸市生田区の生田神社、事代主尊の長田国は神戸市長田区の長田神社である。そして最後の住吉大神の鎮座地である大津渟名倉長峡(おおつぬなくらのながお)は特定が難しいが、先の3カ所から推定すると神戸市東灘区にある本住吉神社であろうか。五色塚古墳のある明石海峡を起点にして難波に至る現在の神戸市から西宮市にかけての大阪湾沿岸部に4つの神社が並んでおり、このことは明石海峡から難波までの航路を神功皇后が押さえたということを意味するのではないか。この航路を支配下に置いたことで船が進んだ、すなわち難波に進攻することができたのだ。そう考えると、これらの神々のお告げは新羅討伐の託宣と同様に神功皇后の意志や行動そのものを表していることになる。つまり、天照大神、稚日女尊、事代主尊、住吉大神は天皇家ではなく、神功皇后の味方であると言える。

 ところで、ここまでの神功皇后の様子、瀬戸内海を東進して難波の手前までやってきたところで不思議な力によって足止めを喰ったためにいったん引き返すという状況は、古事記の応神段に記される天日槍の来日譚とよく似ている。新羅から妻を追いかけて日本へやって来た天日槍はまさに難波に入ろうとしたところで難波の渡りの神に遮られたために引き返して但馬国に入るという話だ。天日槍はそのまま但馬に留まり、妻を娶って子孫を設ける。その末裔が気長足姫尊、すなわち神功皇后である。

 書紀はさらに示唆に富む話が続く。皇后一行が難波に入って来たために忍熊王は住吉から淀川を遡って宇治まで退いていたのだが、皇后は深追いせずにそのまま紀伊国に向かう。先に紀伊水門に向かった皇子と合流するためだ。皇后は紀伊国の日高で皇子と合流し、さらに小竹宮(しののみや)へ移った。この「日高」は現在の和歌山県日高郡、小竹宮はその北にあたる和歌山県御坊市にある小竹(しの)八幡神社が宮跡と考えられているが、果たしてそうであろうか。小竹宮の候補地は4カ所あるとされている。1つめが前述の小竹八幡神社、2つめが和歌山県紀の川市の志野神社、3つめが奈良県五條市西吉野夜中の波宝(はほう)神社、4つめが大阪府和泉市の旧府(ふるふ)神社である。
 小竹宮に滞在しているときに、昼でも夜のような暗さになる「常夜行」という現象が何日も続いた。日食があったのだろうか。天照大神の天の岩屋隠れを想起させる現象だ。土地の老人は、ふたつの社の祝者(はふり)を一緒に葬っているからだと言う。その祝者とは小竹祝と天野祝で、ふたりは良き友人であったので合葬されたのだが、別々のところに埋葬し直すと昼夜の区別が戻った。
 小竹祝は小竹宮とされる候補地のいずれかの社の神官で、天野祝は和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある天野大社とも呼ばれる丹生都比売神社の神官であると考えられる。「天野」が丹生都比売神社であるなら「小竹」はその近く、すなわち通説の小竹八幡神社ではなく、2つめの志野神社、あるいは3つめの波宝神社と考えるのが妥当であろう。それぞれの神社が小竹宮の候補とされる理由は、志野神社はその名称から、波宝神社は地名の「夜中」が前述の常夜行の現象に由来すると考えられている、ということからである。志野神社の主祭神は天言代主命・加具土命・息長帯姫命、波宝神社は息長帯日売命と上筒之男命・中筒之男命・底筒之男命の住吉大神が主祭神となっている。ちなみに、丹生都比売神社は第一殿から第四殿までの4つの本殿があり、第一殿には丹生都比売大神すなわち稚日女尊が祀られる。務古水門での占いに登場した神々のうち、天照大神を除く三神が祀られている。
 そしてさらに言うなら、皇后が皇子と合流した「日高」は日高郡ではなく、丹生都比売神社のすぐ近くの和歌山県伊都郡葛城町日高であると考えるべきであろう。

 皇后一行が明石海峡を通過して香坂王・忍熊王の兄弟と対峙するまでに登場した場所を地図にプロットすると下図のようになる。これを見ると、近江の高穴穂宮から瀬田川、宇治川、淀川を経て難波に至る河川航路(図の点線の楕円部分)は天皇家が押さえていたものの、播磨から難波に至る海路および紀ノ川から大和に入る河川航路は皇后が押さえていたと考えることができるだろう。なお、当時の住吉は上町台地の西に位置し、目の前には海岸が迫っていた。台地の東側は河内湖が広がっており、淀川や大和川が流れ込んでいた。





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若狭三方縄文博物館(DOKIDOKI館)

2019年02月15日 | 博物館
2019年2月3日、福井県年縞博物館を見学したあと、眼の前にある若狭三方縄文博物館(愛称DOKIDOKI館)を見学しました。雨がかなり強くなっていたのですぐそこに見えている入口まで走りました。でもそこは身障者用の入口で封鎖されていたので、さらに走ってなんと2階まで上がる必要があり、結構濡れてしまいました。

年縞博物館から見えるDOKIDOKI館。

そこに入口がありそうでしょ。でも入口はぐるっと右に回って2階への階段を上がる必要があるのです。

ここが入口。


入口から見える年縞博物館。


 年縞博物館でセット券を購入していたのでそれを見せて入館。展示室は階段を下りた1階です。階段を下りたところがホールになっていて縄文杉の大株(埋没林)が床に展示されていたのでパチパチと写真を撮っているときに思い出した。いつも博物館では写真撮影がOKかどうかを受付で聞くようにしているのに忘れていた。階段を駆け上がって受付で聞くと「申請書を書いてください」と言われた。SNS等で公開するかどうかも聞かれたので「ブログに掲載します」といったら「特別な許可が必要です」と。面倒だったので公開はしないと言って通常の撮影許可だけもらいました。そういう事情なのでたくさん撮った写真をここで公開することはできないのが残念です。

 ホールを通り過ぎて常設展示室へ向かう土器の径(みち)という順路の壁面には縄文土器がずらりと並びます。実はそれぞれの土器のキャプションには土器の年代が記されているのですが、なんとほとんどすべての土器の年代が訂正されていました。それは水月湖の年縞によって年代が書き換えられたのです。

 この博物館は近くの鳥浜貝塚やユリ遺跡などの縄文遺跡からの出土品を中心に展示が構成されています。なかでも特徴的な展示は縄文時代の丸木舟です。全部で11艘(鳥浜貝塚から2艘、ユリ遺跡から9艘)の丸木舟が展示されています。ユリ遺跡から出た9艘のうちの1艘は日本で初めて完全な形で出土した縄文丸木舟です。

 両遺跡とも古三方湖に面した遺跡で、この丸木舟で古三方湖から若狭湾、日本海へと漕ぎ出した姿が甦ります。この丸木舟のほか、発掘当時の縄文時代の遺跡としては日本で初めての出土となった漆塗りの櫛なども展示されていたようですが、記憶にありません。

 鳥浜貝塚は縄文時代草創期から前期にかけての集落遺跡で、この遺跡の発見が水月湖の年縞発見へとつながったそうです。ユリ遺跡は縄文時代中期から後期の遺跡と考えられています。

展示資料や展示室の写真が掲載できないので、代わりにリーフレットを。



入口から三方湖を臨むと縄文ロマンパークという公園が広がっています。



 このDOKIDOKI館の初代館長は先日亡くなられた梅原猛氏です。館の公式サイトには梅原氏のメッセージが掲載されていました。

縄文文化は日本文化の基礎であり、人類の還るべき文化が縄文にあるのではないかと考えています。森が破壊され、自然環境が破壊され、人類の未来が危惧される今日、縄文のもつ共生と循環の世界観が改めて認識される必要があるのではないでしょうか。
若狭三方縄文博物館[DOKIDOKI館]は、地球を破壊しつつある現代文明へのメッセージとして縄文の光を世界へ届けたいと思っています。  【初代館長 梅原 猛】




縄文のタイムカプセル 鳥浜貝塚 (シリーズ「遺跡を学ぶ」113)
田中祐二
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鳥浜貝塚: 若狭に花開いた縄文の文化拠点 (日本の遺跡)
小島 秀彰
同成社
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福井県年縞博物館

2019年02月14日 | 博物館
2019年2月3日、越前海岸へカニ旅行に行った帰り、若狭の三方五湖にある福井県年縞博物館を訪ねました。去年の9月にオープンしたばかりの博物館です。

建物のデザインも周囲の自然にマッチして素晴らしい。




 年縞とは聞きなれない言葉ですが、年縞博物館の公式サイトによると「長い年月の間に湖沼などに堆積した層が描く特徴的な縞模様の湖底堆積物」のことで、春から秋にかけてはプランクトンの死骸などが湖底に積もって黒っぽい層ができ、晩秋から冬にかけては鉄分や黄砂などが積もって白っぽい層ができるので、この黒っぽい層と白い層が交互に重なっていきます。つまり黒と白が1セットで1年分ということになります。

年縞を解説した映像とパネル。



 この博物館には2006年に三方五湖の水月湖の湖底から採取された何と7万年分の年縞が展示されています。水月湖の湖底35mからさらに73mの深さまでボーリングによって掘り進んで直径10cmほどの円筒状に切り出された堆積層です。これをボーリングコアというそうです。73m分を一度に採取できないので1mづつ掘り進めたとのことですが、そうすると1mごとの境い目は綺麗につながりません。それを補うために同時に3カ所で採取して、3本あわせて連続的な年縞として把握できるように工夫しています。年縞は縦に掘り進んで採取したものなので本来であれば立てて展示したいところですが、そんな高い建物を作れないので横向きに展示しているとのこと。

 73m分の堆積層がボーリングコアとして採取され、そのうち45m分で年縞が明確に確認され、それが7万年分に該当するということです。では45mより深いところはどうなっていたかというと、45m~64mまでは粘土堆積物で年縞が確認されず、65mから再び年縞が見られ、最深部の73m部分はおよそ15万年前のものと考えられているとのことです。

 1Fで料金を払って受付を済ませるとまずはシアターでの映像鑑賞。少しの待ち時間にシアター前のパネルを見ていると解説員の方が年稿についてやさしく説明してくれました。

シアター前のパネル。

シアターでは円筒型の壁面や床面いっぱいに立体的な映像が映し出され、年縞のこと、年縞で何がわかるのか、などをわかりやすく解説してくれます。身体が宙に浮くような感覚になる素晴らしい映像でした。

 そして階段を上がって2Fの展示室へ。この階段の踊り場には年縞研究に関するパネルが展示されているのですが、ここでも解説員の方が詳しい説明をしてくれました。とにかく年縞のことがよくわかっていないので、こういう解説は大変ありがたかったです。2Fへ上がると大きな空間に年縞が横たわっていました。

7万年分の年縞を横向きに展示。

見学はこちらからとなるのですが、この手前が一番浅いところ、つまり時代が新しい年縞で向こうの端っこが7万年前の年縞です。これを見るだけも圧巻でした。

 実際に展示される年縞を見た第一印象は「昆布みたい」です。採取したボーリングコアは直径10cmの円筒に詰まった黒っぽい泥で、そのコアを縦に半分に切ると年縞が現れます。細かな工程はおいといて、その切断したコアを乾燥させて樹脂で固めてから超極薄にスライスします。ここまで薄くスライスする技術を持った人は世界でただ一人しかいないそうです。たしかドイツのケーラーさん、だったかな。研究チームは処理を施したコアをドイツへ送ってスライスしてもらったそうです。そして薄くスライスしたものをアクリル板で挟みこんだものがここに展示されているのです。もともと黒っぽかったものが酸化して昆布のような色に変色しており、さらに小さな気泡がいっぱい見えるのですが、これはアクリル板で挟むときにほんのわずかに入った空気のために樹脂の中で気泡を生じてしまうとのことでした。

 年縞が3段に並べられていますが、3ヶ所から採取した3本の年縞で連続性を確保したことがわかります。ところどころに下の写真のような記載があって、これまたスゴイ!と思わず驚きの声が出てしまうのです。

「喜界カルデラの火山灰」と書いてあります。

7253年±23年前とあります。喜界カルデラの爆発は従来は約6300年前と言われていましたが、その後に約7300年前と補正されました。そしてこの水月湖の年縞によると7253年前であったことがわかります。

 ちなみに、この喜界カルデラの爆発は豊かに栄えていた南九州の縄文文化を消滅させました。この爆発で積もった火山灰はアカホヤと呼ばれ、鹿児島ではアカホヤの下の地層から数々の縄文遺跡が見つかっています。その代表が上野原遺跡で、イタリアのポンペイを彷彿とさせます。

下の段、左が「大山の火山灰(29888±36年前)」で右が「姶良カルデラの火山灰(30078年±48年前)」。

姶良カルデラの噴火は南九州にシラス台地を形成した日本最大級の噴火です。

縄文時代と弥生時代の境い目。


一番奥にある最初の年縞は71231±2097年前とあります。


一番奥から見た写真。

この角度がいちばん美しく撮影できるポイントとありました。

 放射性年代測定の較正に利用されて化石や過去の遺物の年代が特定できるのがこの年縞の大きな価値と言えます。この水月湖の年縞は7万年にわたって途切れることなく堆積してきたため、どの層が何年前のものかがわかります。その年縞に含まれる葉の化石の炭素14の量を測定することで、その葉が落ちて湖底に沈んだ年代の炭素14の量が特定できるので、逆に化石や遺物の炭素14の量がわかればそれらの年代が特定できるというものです。

 ただしそれは、この年縞を一年の狂いもなく正確に数えたからこそ可能になったのです。そしてこの水月湖の年縞は世界各地のどこの年縞よりも圧倒的に正確であることから、年代特定の世界のものさしとして認められたのです。「やはり2番じゃダメなんです。1番だからこそ世界標準になれたのです」とは解説員の言葉です。年縞を正確に数えるためにドイツやイギリスなどの複数のチームが顕微鏡やレントゲン撮影など複数の違う方法を用いて丹念に数えて突き合わせをして確定させたそうです。

 年縞はこのように化石や遺物の年代特定に使われるだけでなく、年縞に含まれる葉や花粉の化石から、湖の周辺はどの時代にどんな植生であったのかがわかり、そこから気候の変動もわかります。また先の喜界カルデラの火山灰のように、火山の噴火や地震、洪水などの自然災害の時代や規模などもわかります。火山灰や黄砂の積もった状況から偏西風の風向きの変化もわかるそうです。

研究の変遷。


年縞からわかったことを年表に表した展示。



世界各地の年縞。すべて実物です。





 年縞はどこでも採取できるわけではありません。水月湖の7万年もの年縞は次のような条件が重なったことで形成されたことから、この湖は「奇跡の湖」と呼ばれています。

水月湖で年縞が形成された理由。 
①山々に囲まれていて風が遮られるので、風によって湖水がかき混ぜられない。
②水深が深いので、仮に強い風が吹き付けて湖面が乱されても湖底は穏やか。
③流れ込む大きな河川がないので、大雨による土砂や水の流入で湖底がかき乱されることがない。
④かき乱されない湖底には酸素がなくて生物が生息しないので、生物に乱されれることもない。
⑤周辺の断層の影響で湖が沈降を続けているので、堆積物で湖が埋まってしまうことがない。

 水月湖の隣にある三方湖は水深が2mと浅く、また河川が流れ込むために年縞が形成されません。GoogleEarthで確認すると三方湖には土砂が流入しているので少し茶色に変色しているのがわかります。

 この年縞は上述したようにすでに様々な研究に活用されていますが、今後のあらたな研究にも活用できるように未利用のものが保存されているそうです。過去を解き明かすことは未来を考えることにつながります。歴史学や考古学はより良い未来を築くための学問だと思うので、水月湖の年縞は人類の未来のための貴重な資料であるといえます。

 たっぷり2時間、年縞の魅力にとりつかれた2時間でした。


時を刻む湖-7万枚の地層に挑んだ科学者たち (岩波科学ライブラリー)
中川毅
岩波書店


人類と気候の10万年史 過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか (ブルーバックス)
中川毅
講談社

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越前海岸カニ旅行

2019年02月12日 | 旅行・車中泊
2019年2月2~3日、一泊二日で福井県のあわら温泉へ行ってきました。毎年恒例のカニ旅行です。今回はランチで贅沢、宿泊は節約というパターンを試行してみました。

ランチはここ → 道の駅越前にあるお食事処「かねいち」
宿泊はここ  → 大江戸温泉物語 芦原温泉「あわら」

 さて、今回訪ねた福井県は昨年のこの時期にドカ雪の大きな被害があったので、タイヤはもちろんスタッドレス。天気予報も当初は雪模様だったのですが、当日が近づくに連れて雨の予報に変化。いずれにしても観光は天気と相談ということにしました。ランチのお店は人気店なのでできれば早い目に到着したいと思い、2日の朝はどこにも寄らずに越前まで直行です。8時過ぎに出て11時過ぎに到着し、無事に並ばず入ることができたのですが、食べている間にどんどん人がやってきて行列になっていました。

道の駅越前。


 越前海岸沿いにはランチでカニを出すお店がたくさんあって、ネットで調べて比較してみてもどこも似たり寄ったりで決め手がなく、道の駅というわかりやすさとコストパフォーマンスでこのお店にしました。本当は福井県ではなく、一度行ったことのある兵庫県の餘部鉄橋の近くにある「尾崎屋」でカニのフルコースのランチにしたかったのですが、直前だったので予約が取れませんでした。ちなみに尾崎屋でのフルコースランチはお一人様13,500円です。
 「かねいち」でのランチの越前蟹定食は、オス蟹とメス蟹が1杯ずつと刺身の盛り合わせ、小鉢2つ、ご飯、味噌汁、漬物で6,000円。それと、越前蟹のせいこ丼はせいこ蟹が3杯分で3,000円。奥さんとふたりでシェアしました。贅沢ランチといってもこれで9,000円なので十分に安い。でも、やはりカニはそれなりにコストをかけないと贅沢気分を味わえないと思いました。

写真を撮り忘れたのでタグだけでも。


 食後は道の駅で買い物をして車を走らせました。越前岬のあたりで急な山道に入って水仙ランドに行ってみたものの既に盛りは過ぎていたので素通り。さらになんとかもっていた天気も崩れだして途中から土砂降りに。予定していた東尋坊もあきらめて旅館に直行し、ゆっくり温泉を楽しむことにしました。

 宿泊は安い温泉旅館でいいと思って、加賀温泉郷にある湯快リゾートと大江戸温泉の空き室を検索したところ、一室だけヒットしたのがここでした。どこも空いていなければ車中泊か24時間営業のスーパー銭湯でもOKと思っていたので十分です。大江戸温泉はバイキングのご飯がおいしい。温泉に何度も浸かって身体はポカポカ。温泉とテレビで冬の夜長をのんびりと過ごしました。

 さて、翌日も天気はすぐれません。天気が良ければ越前や若狭の遺跡や神社へ行こうと考えていたのですが、あきらめて三方五湖へ向かいました。目的地は出来たばかりの年稿博物館。テレビで年縞の研究に関する番組を見て、ここに博物館ができたことを知り、機会があれば是非とも訪ねたいと思っていました。自然の神秘、科学の素晴らしさ、考古学研究への影響など、興味が尽きません。別の記事であらためて書きたいと思います。

レインボーラインから三方五湖を臨む。


年縞博物館でたっぷり時間を使ったので遅くなってしまいました。帰りはお土産を買いに敦賀の日本海さかな街へ。17時前だったのでどこのお店も店仕舞い直前の叩き売り。カニをお土産に買って帰りました。次は絶対に尾崎屋だ。
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