垂仁25年に、天皇は阿倍臣の祖である武渟川別、和珥臣の祖である彦国葺、中臣連の祖である大鹿島、物部連の祖である十千根、大伴連の祖である武日の五人の大夫(まえつきみ)に対して先帝の崇神天皇を称えた上で、自分の代においても神祇を祀ることを怠ってはならない、と詔した。一人目の武渟川別は四道将軍の一人として東海地方に派遣された人物、二人目の彦国葺は武埴安彦の反乱を鎮圧した人物、三人目の中臣氏の祖である大鹿島は記紀では初登場で、諸家の系図を記載する「尊卑分脈」の藤原氏系図に見える国摩大鹿嶋命(くにすりおおかしまのみこと)がその人とされる。四人目の十千根は、先代旧事本紀や新撰姓氏録で饒速日命の七世孫とされ、垂仁26年に出雲へ赴いて神宝を検校して天皇に報告する役割を担った人物で、その後の垂仁87年に石上神宮に納められた剣一千口と神宝を管理する役割を与えられ、物部氏が石上神宮の神宝を管理する起源となった。五人目の大伴武日は景行天皇40年に日本武尊(やまとたける)が東国征伐に向かった際に従者に任じられている。
天皇の詔のひと月後、天照大神を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)から離して倭姫命(やまとひめのみこと)に託した。崇神天皇の時、天照大神と倭大国魂神を宮中に祀っていたが、神の勢いが強すぎたために天照大神を豊耜入姫命に託して大和の笠縫邑に遷した。「崇神天皇(その2)」では、神武王朝(狗奴国)と崇神王朝(邪馬台国)が1つにまとまることができなかった、すなわち対立が解消することはなかった、という主旨のことを書いたが、そもそも神武王朝の祖先神である天照大神が崇神王朝の宮中に祀られていたということは、和解のために神武側が妥協して自らの神を差し出したのか、それとも四道将軍の派遣などによって神武側の敗北がすでに決定的なものになっていたのか、のいずれかであろう。武埴安彦や狭穂彦がそれぞれ反乱を起こしたように、断続的な抵抗はあったが長くは続かなかった。狗奴国(神武王朝)は北九州倭国に勝利したものの、東征してきた大和の地で倭国の本丸である邪馬台国(崇神王朝)を制圧することができず、むしろに立場が逆転してしまったのではないだろうか。神武王朝は大和で返り討ちにあったのだ。そして邪馬台国(崇神王朝)は景行天皇の時に神武の故郷である九州の熊襲を征討することになるのだ。
垂仁天皇は天照大神を祀る役割を異母姉(あるいは異母妹)の豊耜入姫命から自分の娘である倭姫命に譲らせた。豊耜入姫命が高齢であったからなのか、それとも天照大神を自分の目の届く状態にしておくために娘に担わせたのか。前者の意味は当然あるとしても、前述の状況から考えると後者の意味が強いような気がする。神武王朝の祖先神である天照大神をより直接的に管理できる状況におこうとしたのだ。
倭姫命はその後、天照大神を鎮座させるべきところを探して宇陀、近江、美濃と順に巡って伊勢に着いたときに大神自らが「ここに居たい」と言ったので、伊勢に祠を立てて祀った。さらに斎宮を五十鈴川の川上に立てた。書紀はここが天照大神が初めて天より降りた場所であると記す。伊勢神宮(皇大神宮=内宮)の起源説話である。天照大神は天上の高天原から降臨した。それまでは天上界にいたので、あくまで地上で祀られていたのはご神体である八咫鏡である。しかし、伊勢に降臨したことでここが天照大神の終の棲家となった。もしかすると、大和での神武王朝の終焉を表しているのかもしれない。
さて、「崇神天皇(その3)」や「卑弥呼と台与」で卑弥呼や台与を誰に比定するかを考えてみた。倭迹々日百襲姫、豊耜入姫命、倭姫命のいずれかが卑弥呼で、いずれかが台与である、というところまで考えてみたものの特定には至っていない。しかし、前述のように倭姫命が天照大神を伊勢に鎮座させたことが神武王朝の終焉を意味しているとすれば、それは台与が立って国中が治まったことと符合するのではないだろうか。つまり、倭姫命を台与と考えることができるのではないだろうか。魏志倭人伝によると、卑弥呼が3世紀半ばに死去し、その後に少し男王(崇神天皇)の時期があったので台与は3世紀後半の女王である。3世紀後半と言えばまさに垂仁天皇の治世であり、倭姫命の活躍の時期と一致する。倭姫命が台与であるとすれば、素直に考えると卑弥呼は豊耜入姫命ということになろうか。
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天皇の詔のひと月後、天照大神を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)から離して倭姫命(やまとひめのみこと)に託した。崇神天皇の時、天照大神と倭大国魂神を宮中に祀っていたが、神の勢いが強すぎたために天照大神を豊耜入姫命に託して大和の笠縫邑に遷した。「崇神天皇(その2)」では、神武王朝(狗奴国)と崇神王朝(邪馬台国)が1つにまとまることができなかった、すなわち対立が解消することはなかった、という主旨のことを書いたが、そもそも神武王朝の祖先神である天照大神が崇神王朝の宮中に祀られていたということは、和解のために神武側が妥協して自らの神を差し出したのか、それとも四道将軍の派遣などによって神武側の敗北がすでに決定的なものになっていたのか、のいずれかであろう。武埴安彦や狭穂彦がそれぞれ反乱を起こしたように、断続的な抵抗はあったが長くは続かなかった。狗奴国(神武王朝)は北九州倭国に勝利したものの、東征してきた大和の地で倭国の本丸である邪馬台国(崇神王朝)を制圧することができず、むしろに立場が逆転してしまったのではないだろうか。神武王朝は大和で返り討ちにあったのだ。そして邪馬台国(崇神王朝)は景行天皇の時に神武の故郷である九州の熊襲を征討することになるのだ。
垂仁天皇は天照大神を祀る役割を異母姉(あるいは異母妹)の豊耜入姫命から自分の娘である倭姫命に譲らせた。豊耜入姫命が高齢であったからなのか、それとも天照大神を自分の目の届く状態にしておくために娘に担わせたのか。前者の意味は当然あるとしても、前述の状況から考えると後者の意味が強いような気がする。神武王朝の祖先神である天照大神をより直接的に管理できる状況におこうとしたのだ。
倭姫命はその後、天照大神を鎮座させるべきところを探して宇陀、近江、美濃と順に巡って伊勢に着いたときに大神自らが「ここに居たい」と言ったので、伊勢に祠を立てて祀った。さらに斎宮を五十鈴川の川上に立てた。書紀はここが天照大神が初めて天より降りた場所であると記す。伊勢神宮(皇大神宮=内宮)の起源説話である。天照大神は天上の高天原から降臨した。それまでは天上界にいたので、あくまで地上で祀られていたのはご神体である八咫鏡である。しかし、伊勢に降臨したことでここが天照大神の終の棲家となった。もしかすると、大和での神武王朝の終焉を表しているのかもしれない。
さて、「崇神天皇(その3)」や「卑弥呼と台与」で卑弥呼や台与を誰に比定するかを考えてみた。倭迹々日百襲姫、豊耜入姫命、倭姫命のいずれかが卑弥呼で、いずれかが台与である、というところまで考えてみたものの特定には至っていない。しかし、前述のように倭姫命が天照大神を伊勢に鎮座させたことが神武王朝の終焉を意味しているとすれば、それは台与が立って国中が治まったことと符合するのではないだろうか。つまり、倭姫命を台与と考えることができるのではないだろうか。魏志倭人伝によると、卑弥呼が3世紀半ばに死去し、その後に少し男王(崇神天皇)の時期があったので台与は3世紀後半の女王である。3世紀後半と言えばまさに垂仁天皇の治世であり、倭姫命の活躍の時期と一致する。倭姫命が台与であるとすれば、素直に考えると卑弥呼は豊耜入姫命ということになろうか。
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