古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

近江・越前への実地踏査ツアー⑥

2024年08月08日 | 実地踏査・古代史旅
2024年7月28日。鴨稲荷山古墳から近江大津宮跡へ向かう途中、トイレ休憩を兼ねて白髭神社に寄りました。琵琶湖に浮かぶ大鳥居が人気の映えスポットでしたが、あまりに観光客が増え、道路横断に際するマナーの悪さも手伝って、ついには湖岸へ降りる階段を閉鎖し、道路横断も禁止になりました。なんとも残念。代わってジェットスキーやボートで鳥居までやってくるサービスをする業者が出てきました。社殿は改修中でした。





湖西道路を走って琵琶湖を南下、近江大津宮跡(錦織遺跡)へやってきました。これまで巡った遺跡や神社から少し時代が下って7世紀の遺跡です。663年に白村江で唐・新羅軍に大敗を喫した天智天皇は敵国の本土侵攻に備えて都を飛鳥からこの近江に遷しました。しかしその後、壬申の乱で後継者の大友皇子(弘文天皇)が敗れたために5年余りで廃都となった宮です。















これは面白そう。
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ここから大阪に戻って高槻にある安満宮山古墳に向かいます。丘陵上に設けられた公園墓地の中、たいへん見晴らしのいいところにある古墳で、3世紀後半の築造、墳形は18m×21mの長方形、割竹木棺が直葬され、5面の青銅鏡、1,600個のガラス玉、鉄刀などの副葬品が見つかっています。中でも青龍3年(235年)の方格規矩四神鏡が有名で、丹後の大田南5号墳のものと同笵鏡とされています。







埋葬施設が復元されています。長方形墳であること、丹後の大田南5号墳との同笵鏡が出ていることから、この三島の地と丹後のつながりが考えられます。三島、近江、越、丹後の4点がつながっているように思います。すべてに関わりがあるのは天日槍です。



とにかく眺望が素晴らしい。淀川流域が見渡せます。しかも眼下には安満遺跡が広がっています。ここも最近になって公園として整備されました。また別の機会に行ってみようと思います。









これも良さそう。
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このあと、ファミレスでランチをとったあと、いよいよ継体天皇の真陵とされる今城塚古墳へ向かいます。それとともにツアーのゴールが近づいています。古墳見学の前に今城塚古代歴史館を見学します。



説明ガイドをお願いしたところ、なかなか楽しいガイドさんが担当してくれることになりました。このガイドさん(小和田さんといいます)、かなり勉強しているようで知識が豊富で、手作りの資料もたくさん用意しているし、質問にはすぐに答えが返ってくるし、何よりもしゃべりが軽妙で、たいへん楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。

歴史館の展示については以前に投稿したこちらの記事「今城塚古代歴史館」をご覧ください。

さて、いよいよ今城塚古墳に行きます。佐々木さんは二度目ということでベンチで休憩。初めての岡田さんを案内する形で墳丘に登りました。墳丘の様子も以前の投稿「今城塚古墳」をご覧ください。







時刻は17時。このあと、この古墳に並べられた埴輪を焼いたとされる新池埴輪製作遺跡へ行く予定にしていたのですが、見たいと思っていた復元焼成窯が17時までしか見れないとのことだったのであきらめてパスし、代わりに継体天皇陵に治定される太田茶臼山古墳に行きました。

太田茶臼山古墳は5世紀中葉の築造で、全長226mは全国21位の大きさ。ここの埴輪も新池埴輪製作遺跡で焼かれています。さて、この古墳が継体陵ではないとしたら、いったい誰が葬られているのでしょうか。古墳の築造時期と継体の没年に70~80年程度の開きがあるとして、継体の曽祖父である意富冨杼王との説があるようです。なるほど。







さあ、これですべての踏査地の訪問を終了しました。そのまま出発地点のOCATに戻り、レンタカーを返却して、3人で反省会です。岡田さん、運転お疲れさまでした。佐々木さん、次はもう少しゆとりのあるプランを考えますね。とにかく無事に帰ってこれて何よりでした。

(おわり)


やっぱり最後は継体天皇で締めよう。
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近江・越前への実地踏査ツアー⑤

2024年08月07日 | 実地踏査・古代史旅
2024年7月28日、いよいよ最終日です。ホテルを朝7時半に出発してこの日の一番目、鳥浜貝塚まで走りました。本来なら近くにある若狭三方縄文博物館で詳しい情報を得たいところですが、朝早いために叶いませんでした。





鳥浜貝塚は縄文時代早期から前期の遺跡で、発掘当時としては日本最古の丸木舟とともに能登の輝石安山岩や隠岐島の黒曜石も出ているので、丸木舟で日本海を往来していたのでしょう。



こんなもの作らなくても来る人は来るし、この遺跡のことや縄文時代を勉強する人はする。あそこにこれがあるから行ってみよう、なんて誰も思わないぞ。がっかりだな。

それはそれとして、これはわかりやすいよ。
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次は若狭国一之宮へ向かいます。若狭国一之宮は上社と下社があり、上社が若狭彦神社、下社が若狭姫神社で、まずは下社から。








.
下社の祭神は海幸山幸神話に登場する豊玉姫命。上社の鎮座に遅れること6年、養老5年(721年)にこの遠敷の地に鎮座。よって遠敷神社とも呼ばれます。



境内にこんな謎かけのような案内板が。3人で解読を試みましたが叶わず、答えはきっと上社にあるだろうと言いながら次の上社に向かいました。





上社の若狭彦神社の祭神はこちらも海幸山幸神話に登場する彦火火出見尊。





下社もそうでしたが、緑に覆われた境内の雰囲気がいい。どうやらこの遠敷川沿いは大変湿気の多い所と思います。次の鵜の瀬や神宮寺も空気が湿った感じだし、国道のトンネルも水浸しだったし、きっと地下水脈があると岡田さんと話していました。

そして下社の謎かけの答えを佐々木さんが見つけました。詳しくは説明しませんが、そういうことです。太陽の道とかレイラインとか、こういうのいっぱいありますね。



さらに鵜の瀬まで遠敷川を遡ります。大阪に住んで60余年、東大寺のお水取りは知っていても、このお水送りは知らなかった。(お水取りも実際に見に行ったことはないけど)





水が綺麗でせせらぎが心地よい。





少し戻って神宮寺へ。お水送りの「お香水」を汲む井戸があるのだけど、拝観料が要ったので入口から写真だけ撮らせてもらいました。







まだ読んでいないけど面白そうです。
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ここから若狭街道(鯖街道)を走って滋賀県へ抜けます。途中、佐々木さんの提案で名水の里、瓜割の滝に寄りました。きれいな水で作ったくずまんじゅうが名物とのこと。





涼しくて気持ちがよい。しかし、ここで大きな失態。眼鏡を落としてしまった。帽子越しに頭に乗せて車外へ出たのだけど、車に戻って運転しようとしたときに失くしたのに気がついた。途中、頭に乗せていることは全く意識になかったので、どこで落としたのかもわからない。でもどこかに落ちているだろうともう一度滝まで戻ったけど無い。ふたりが一緒に行こうと言ってくれてもう一度行ったので、滝まで計3往復。滝のところで顔を洗ったりしたので流されたのかもわからない。やむなく、運転を岡田さんに代わってもらいました。

ここから再び継体天皇に戻ります。まずは継体の父、彦主人王の墓とされる田中王塚古墳。あたりに密集する田中古墳群の盟主墳で、直径約58m、高さ約10mの帆立貝形古墳です。築造年代は墳形や埴輪から5世紀後半頃と推定され、安曇川以南で最初に造られた首長墓とされています。陵墓参考地に指定されているために入れませんが、周囲を歩いてまわることができます。5年前に来た時は日が暮れて真暗だったので何も見えなかったけど、今回は高さや大きさ、くびれ部などが確認できました。











次は車ですぐのところ、鴨稲荷山古墳。ここも5年前の日暮れ時に来ました。築造時期は田中王塚古墳よりもあとの6世紀前半と考えられ、ここ高島の地で生まれたとされる第26代継体天皇を支えた三尾君(三尾氏)の首長墓と推定されています。冠・沓などの豪華な副葬品から朝鮮半島との強い交流が見られる古墳です。墳丘長約50mの前方後円墳と推定されていますが、墳丘が完全に失われて石棺がそのままの位置に建屋で覆って保存されています。













このあと、本当ならすぐ近くの高島歴史民俗資料館へ行って鴨稲荷山古墳から出た豪華な副葬品の復元品を見たかったのですが、なんと残念なことに今年3月をもって閉館になってました。5年越しの希望が叶わず、まことに残念。


(つづく)


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近江・越前への実地踏査ツアー④

2024年08月06日 | 実地踏査・古代史旅
2024年7月27日、舟津神社を出て車を東に走らせます。北陸道の下をくぐって浅水川を渡ってすぐ、採石のために大きくえぐられた山が見えます。大正時代、採石作業中に銅鐸が発見されました。高さ51.7センチの突線紐式銅鐸で、現在は東京国立博物館で所蔵されているようです。由来はわかりませんが「新銅鐸」と呼ばれています。突線紐式なので弥生時代後期ということになりますが、この山の尾根上には10数基の古墳が見つかっているとのこと。



実はこのあと、佐々木さんの生家のすぐ近くにある弁財天古墳群へ行く予定にしていたのですが、朝から酷暑の中での山上の古墳見学が続いて、3人とも電池切れ寸前。残念ながら弁財天古墳群をパスすることにしました。

そして時刻はそろそろランチタイム。岡太神社の手前にある森六という蕎麦屋さんに入りました。越前おろし蕎麦の大盛をいただいたのですが、大根おろしが辛いのなんのって、むせるくらいに辛い。麺も太目でいつもの蕎麦を食べるようなわけにはいかない。でも美味い。ごちそうさまでした。



というわけで、食後すぐに岡太神社に到着。このあたりは継体天皇潜流地といって、即位前の継体天皇(男大迹王)が暮らしていたと言われるところです。そのため、継体天皇ゆかりのスポットがたくさんあります。岡太神社もそのひとつ。







社伝によると、この地の水害を煩慮して水路を穿ち、九頭竜・足羽・日野の三川を開いた男大迹王が、建角身命・国挟槌尊・大己貴命の三柱をこの地に奉祀して岡太神社と号したということです。「岡太」は「おかふと」とも「おかもと」とも読みます。

岡太神社から歩いて数分のところ、六角形の玉垣に囲まれた皇子ケ池は継体天皇のふたりの皇子(のちの安閑天皇・宣化天皇)がこの池の水を産湯に使ったとされます。今は水が枯れていますが、果たして本当にこの池の水を産湯に使ったのでしょうか。そもそも、、、





このたりは越前和紙で有名なところ。この辺りを流れる岡本川の上流に美しい姫が現れて村人に紙漉きの技術を伝えとの伝承があり、その伝説の姫を和紙の神様・紙祖神「川上御前」として祀ったのが、次に行く大瀧神社/岡本神社。その前に紙の勉強ということで「紙の文化博物館」へ。



でも、紙の文化というほどには紙のことが勉強できる展示ではありませんでした。ということで早々に退出して大瀧神社/岡太神社に向かいました。



この神社、そもそもなぜふたつの名前が併記されるのか。少し長くなりますが、Wikiより抜粋して転記します。

上宮(奥の院)には大瀧・岡太両神社の本殿が並んで建つが、下宮(里宮)の本殿・拝殿は両神社の共有となっていることから、2つの神社の名前が併記される。伝承によれば、養老3年(719年)、この地を訪れた泰澄が、国常立尊・伊弉諾尊を主祭神とし、十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建し、大瀧兒(おおちご)権現を建立したという。後に明治時代の神仏分離令により、現在の大瀧神社となった。岡太神社については、約1500年前、大滝町の岡本川上流に美しい姫が現れ、村人に紙漉きの技術を伝えたのが始まりとされている。この伝説の姫『川上御前』を、和紙の神様・紙祖神として祀ったのが岡太神社である 。延元2年(1337年)の足利軍の兵火で社殿が失われ、岡太神社の祭神を大瀧神社の相殿に祭った。さらに天正3年(1575年)、織田信長の一向一揆攻略の際、大瀧寺一山が兵火に遭い消失。再建時に大瀧神社の摂社として境内に祀られるようになった。大正12年(1923年)、大蔵省印刷局抄紙部に川上御前の分霊が奉祀され、岡太神社は名実共に全国紙業界の総鎮守となった。神社の格としては大瀧神社の方が上であるが、住民達が崇拝してきたのは川上御前であったため「大瀧神社・岡太神社」と並記していると考えられている。

ということです。先に行った岡太神社とは別物です。この神社の本殿、立派で荘厳で美しく、見ていて飽きない。こんな本殿は初めてです。素晴らしい。










 
次は味真野神社。継体天皇をはじめ全部で八柱が祀られ、境内は男大迹王の宮(鞍谷御所)の跡と言われています。しかし、もとは式内社の須波阿須疑神社三座であったが、その後に分離、さらに多くの神社を合祀して明治41年に現在地に遷って味真野神社と改称したというから、継体天皇とのつながりは不明。宮跡というのもあやしい。







それでもここは、継体天皇をモデルに世阿弥が著した謡曲「花筐」発祥の地とされ、神社に隣接する「万葉の里 味真野苑」には花筐に登場する継体大王と照日の像があり、恋のパワースポットとして人気があるらしい。





このあとは継体天皇の第2皇子(のちの第28代宣化天皇)ゆかりの地を訪ね、さらに五皇神社を参拝しました。





五皇神社は越前市の東南、浅水川に沿った谷あいにひっそり佇む風情のある神社でしたが、楼門や本殿は立派で荘厳な建物でした。五皇とは、誉田別皇子(応神天皇)、稚野毛二派皇子、太郎子、汗斯王子、彦主人王子の5人で、継体天皇を5世代遡った直系の5人の皇子(ひとりは天皇)です。











さて、これで継体天皇潜流地の踏査は終了です。このあと高速で敦賀まで走って、気比神宮、常宮神社と周ります。

越前国一之宮で北陸総鎮守の気比神宮の主祭神は伊奢沙別命。別名が気比大神あるいは御食津大神。ほかに仲哀天皇と神功皇后、日本武尊、応神天皇、玉姫命、武内宿禰命が祀られます。鳥居の深い赤色が美しい。









この日最後の踏査地は常宮神社。古くは気比神宮の奥宮あるいは摂社とされた神社で、祭神は天八百萬比咩命のほかは気比神宮の仲哀天皇以下の六座と同じです。ここは神功皇后が三韓征伐へと向かった出発地です。敦賀半島の中ほど、敦賀湾に面する海辺に鎮座。なかなか景色のよいところです。









この日はこれで8つの神社を参拝したことになります。まだ太陽が高い位置にありますが、この日の踏査はこれにて終了です。敦賀駅まで戻ってルートイン敦賀駅前にチェックインした後、食事に出て福井名物ソースカツ丼で疲れを癒しました。






(つづく)


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近江・越前への実地踏査ツアー③

2024年08月05日 | 実地踏査・古代史旅
2024年7月27日、近江・越前ツアーの2日目です。宿泊したプリンスホテルタケフを7時半に出発。まずは福井市内の足羽山にある足羽神社を参拝し、有名な継体天皇像を拝みに行きました。







足羽神社の祭神はもちろん継体天皇。こんなことを書くと地元の人に叱られるかもですが、そもそも越前における継体天皇にまつわる数々の伝承や所縁の地はどうもあやしい。文献として残っているものがないので基本的にすべて口伝。『古事記』にも越前のことは出てこないし、『日本書紀』でも幼少時に父を亡くして母の振媛が越前に連れ帰ったことが記されるのみです。このあたりの不思議は「継体天皇(越前における伝承1)」「(同2)」として当ブログに書いたのでご覧ください。



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次は越国最古の四隅突出型墳丘墓、小羽山30号墓です。清水きららの森公園に車を停めて夏草が茂る丘陵に踏み込みます。茂みを掻き分け、少し迷いながらも進んでいくとありました。最後はイノシシ除けの電線をまたいだ少し先に念願の小羽山30号墓。





小羽山墳墓群は弥生後期中頃から後半の墳墓群で8基の四隅が見つかっています。そのうち30号墓は墳丘長が27m、長さ3.7mの箱型木棺に碧玉製管玉103点を始めとする副葬品が出土しています。築造は出雲の西谷3号墓とほぼ同じ弥生後期中頃で北陸地方で最も古い四隅突出型墳丘墓です。



このあとは鯖江市にもどって長泉寺山古墳群へ。ここで前日会食した佐々木さんのご友人と再会です。このご友人は鯖江市のご出身で数々の有名企業の要職を歴任してこられ、現在は福井と東京の二拠点生活で主に福井県の郷土史の掘り起こしと町おこしなどに取り組んでおられます。この方が、長泉寺山古墳に行くのならご一緒したいと希望され、朝8時半に鯖江市役所にて待ち合わせをした次第です。

長泉寺山一帯の尾根づたいに80基ほどの墳墓や古墳が確認されていて、その中でも山頂にあって唯一の明確な前方後円墳である長泉寺山67号墳が目的地です。ご友人が地元のツテで聞いてくれていた市役所裏手の登り口から70mの山頂まで登りました。



途中、道が分かれるところで少し迷いながら、そして蜘蛛の巣と戦いながらようやく到着。最後は知らないうちに古墳の上を歩いていました。







ご友人にご満足いただけたかどうかわかりませんが、道中で語ってくれたこのあたりの地形や歴史の話をたいへん興味深く伺いました。そうそう、市役所にはこんな横断幕が掲げられていました。そういえば鯖江は体操が盛んな町でした。ご友人とはここでお別れです。



次は王山古墳群。標高15~30mの鯖江台地南端の王山と呼ばれる丘陵上に弥生中期から古墳時代中期の54基の方形周溝墓や古墳が並びます。





尾根上に方形周溝墓というのはちょっと違和感。通常は尾根を方形に切り出して台状墓にすると思うのだけど、わたしの思い込みかな。切り出すよりも周溝を掘って区画するほうが楽チンだったからかな。











尾根の高い方から低い方へ整然と並んでいる様子から、この地の首長一族の代々の墓が高い所から順に累々と造られたと思えたのですが、調べてみると上からとか下からとか関係なく、3世紀の方形周溝墓と4世紀の方墳が順不同で造られたようです。

最後のはいちばん高い所にあるこの墓域最大の40号墓で、台状部の高さから方墳と思いきや、なんと弥生中期末の方形周溝墓だとか。いやあ、これは明らかに方墳もしくは台状墓でしょ。いずれにしても古墳群最大なので一族が最も栄えた頃のリーダーの墓なんでしょう。



これは何号墓だったか忘れたのだけど、ちょっと四隅突出墓な感じです。周溝が隅の部分で切れているケースで、周溝の掘り残しなのか台状部へ渡る通路なのか。これまで方形周溝墓を勉強してきて、台状部が削平されて地面と水平になっている例ばかり見てきたのですが、このように墓壙を含めて台状部がそのまま残っていてその台状部へ渡る、あるいは登るような形で隅の部分が残っているケースは初めてです。これを見る限りは台状部へ登るために設けた通路のように見えますね。

このケースのように、実際にこの眼で見たときに、それまで頭の中で考えたことと違っているとちょっと残念な気持ちになります。でも、それが現実なのだから仕方ないと言えば仕方ないと思いながら王山を下山しました。


方形周溝墓の勉強は面白いよ。
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王山古墳群のあとは王山の東麓にある舟津神社を参拝。祭神は崇神朝の四道将軍のひとり、大彦命です。



『舟津社記』によれば、大彦命が淡海(近江)から角鹿(敦賀)を経て八田(丹生郡越前町八田か)から船に乗って深江(鯖江市深江町)に舟を着けたので舟津というらしい。敦賀から山越えで八田に進み、その後は船で日野川を下ったということでしょうか。







北陸一の古社だそうです。大彦命が祭神となっていますが、この本殿の裏山が王山ということを考えると、もともとは王山に眠る一族の誰かを、あるいはその祖先を祀る場所だった可能性が高いと考えます。


(つづく)


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近江・越前への実地踏査ツアー②

2024年08月04日 | 実地踏査・古代史旅
2024年7月26日、午後の部は「近江富士」の別名をもつ三上山の山麓に鎮座する御上神社からスタート。御上神社の主祭神、天之御影命は天津彦根命の子で天照大神の孫にあたります。天之御影命が三上山の山頂に降臨したので、神主の御上祝(はふり)が三上山をご神体として祀ったのに始まると伝えられます。











写真左の本殿が国宝に指定されています。拝殿から見てほぼ真東にある三上山をご神体として祀っているはずなのに、本殿を拝む方向はほぼ真北。つまり90度ずれているのですが、その理由は定かではありません。

この記事を書くにあたって復習していてわかったことが、境内の前に昭和天皇即位時の大嘗祭に供える献上米の栽培地として指定された悠紀斎田があったということ。それ以来、毎年5月に御田植祭が行われているそうです。

次は通称、銅鐸博物館と呼ばれる野洲市歴史民俗博物館へ。近くの大岩山から24個もの銅鐸が出たことは良く知られています。24個のなかのひとつは高さが134センチもあり、日本最大の銅鐸であり、実物は東京国立博物館に展示されています。







この展示によると中国の馬鈴が原型となって朝鮮半島の朝鮮式小銅鐸に発展し、それが日本に伝わって小銅鐸となった、と解釈できます。わたしが数年前に勉強したときには、原型は中国の銅鈴で、それが朝鮮半島に伝わって朝鮮式小銅鐸となり、さらに日本に伝わって小銅鐸となり、その後、小銅鐸のまま利用されるケースと、大型化に向かうケースの2つの系統に分かれた、と整理しました。



上の写真、いずれもレプリカですが、日本最大銅鐸と日本最小銅鐸のいずれもが滋賀県で出土している事実はなかなか興味深かった。大岩山出土銅鐸や滋賀県の他のところから出た銅鐸の展示はどれもレプリカながら、なかなか見応えがありました。

わたしはこの本で銅鐸を勉強しました。
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次の踏査地は冨波古墳。墳丘が削平されてしまった埋没古墳ですが、3世紀後半の全長42mの前方後方墳です。大岩山古墳群の中で最も早くに造られた古墳で、この地域を治めた最初の首長の墓と考えられます。すぐ隣に円形周溝墓と考えられる遺構が見つかっています。









今回のツアーの行程を組んだのがちょうど前方後方墳の勉強をしている時だったので、行程に入れました。近江は前方後方墳発祥の地との説があり、わたしもそのように考えています。詳しくは「前方後方墳の考察①~⑭」をご覧ください。

次の踏査地も以前から行ってみたいと思っていた鏡神社です。『日本書紀』には、垂仁天皇3年に新羅から来日した天日槍が、播磨国から菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらく滞在し、その後、若狭国から但馬国に至って居住地を定めた、近江国鏡村の陶人は天日槍の従者である、と記されます。その鏡村にある鏡神社の祭神はもちろん天日槍です。









思っていた以上に整備されていました。でも、このあたりは天日槍よりも源義経の元服の地として有名のようです。知らなかった。

次は結果的にこの日の最後となった乎加神社と神郷亀塚古墳です。乎加神社の前に車を停めて、まずは神社を参拝します。この神社はちょっとイメージと違った。実際に来るまではもっと小さな神社かと思っていたけど、境内は綺麗に整備され、拝殿、本殿とも立派なものでした。本殿は明治22年の伊勢神宮遷宮時に譲り受けたもので、伊勢神宮の譲り受けはこの時が最後だそうです。









祭神は豊遠迦比売命となっていますが、これは社歴略掲にあるとおり、五穀の神なので豊受大神あるいは豊宇気毘売神のことを指します。

神郷亀塚古墳はこの本殿の裏側にあるので、そのまま歩いて向かいます。途中、地元のおばあさんが田んぼの草刈りか何かをしていたので挨拶をして通り過ぎました。このあたりと思って歩いていると説明板が目にとまりました。



立っている場所はこの図の左下あたりです。墳丘がこんな感じで見えます。と言ってもよくわからんか。



前方部正面へ周ってみます。発掘調査のあと、完全に埋め戻されて一面が家庭菜園になっています。ハートの上半分のように見える奥の木の手前、少し薄い緑のこんもりしたところが後方部です。わずかに左側だけ残された前方部が手前に少し延びているのがわかるでしょうか。



反対側から近づいてみました。残された墳丘の形が少しわかるようになりました。



家庭菜園で作業をしている人がいたので、これ以上近づくことができませんでした。帰りに後方部に向かう小径があるのに気がついて進んでみると、後方部の後ろ側すぐのところまで接近できました。



神郷亀塚古墳に興味のある方には是非読んでもらいたい一冊
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帰り道、さっきのおばあさんが「亀山さんを見てきたんか」と声をかけてくれました。この古墳、地元の方は亀山さんと呼んでいる、と上の本に書いてあったのを思い出しました。これぞ実地踏査の醍醐味と妙に興奮。

この古墳は乎加神社の本殿の裏にあるので、神社はもともと古墳の被葬者を祀っていて、拝殿は古墳を向いて建っていると思って確認したのですが、少しずれていました。車に戻ると、すぐ近くに両者の位置関係がわかる説明板が立っていました。





さて、時刻は17時を少し回ったところ。最後に米原市の朝妻湊跡に行く予定にしていましたが、この日の夜は宿泊地の越前市で佐々木さんの同郷のご友人と会食の予定にしていたので、約束の時間に遅れないよう、朝妻湊をパスすることにしました。これにて一日目が終了です。

(つづく)


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近江・越前への実地踏査ツアー①

2024年08月03日 | 実地踏査・古代史旅
2024年7月26日~28日、いつもの古代史仲間の岡田さん、佐々木さんとともに2泊3日の古代史実地踏査ツアーに行ってきました。12回目となる今回は近江・越前を巡って主に継体天皇ゆかりの地を訪れました。順に紹介したいと思います。

2024年7月26日午前8時、大阪のOCATに集合してレンタカーで出発、最初の踏査地である滋賀県守山市の伊勢遺跡を目指します。伊勢遺跡は最近になって史跡公園として整備されたばかりです。



伊勢遺跡は、東西約700m、南北約450m、面積約30haにおよぶ大規模な遺跡で、弥生時代後期の集落遺跡としては、国内最大級の遺跡です。伊勢遺跡で発見された大型建物群は、琵琶湖南部地域で形成されたクニの政治や祭祀を執り行う重要な施設だったと推定されており、我が国の形成過程を考えるうえで重要な位置を占める遺跡です。(伊勢遺跡史跡公園パフレットより抜粋)

祭殿と考えられる大型建物跡を覆うように建てられた展示施設はスマートなフォルムでなかなかいい感じですが、内部の空間は少しもったいない使い方。もう少し展示物があってもいいのに。この遺跡の発掘に携わったとおっしゃる職員の方が遺跡の概要を解説してくれました。











伊勢遺跡の次は同じく守山市にある下之郷遺跡です。こちらも10年ほど前に史跡公園として整備されました。弥生時代中期の大規模な多重環濠集落で、東西330m、南北260mにわたって幅の広い3重の環濠が巡らされています。







建物から手前にかけて地面の色が濃くなった部分が環濠跡です。これが建物の中に延びて下の写真のように発掘時の状態が復元されています。



しがらみ状遺構と言われる木製の杭は環濠に水を溜めたり水位を調整するための水利施設と考えられています。建物の裏に出ると水を湛えた3重の環濠が復元されています。







次はこれまた守山市内の服部遺跡。と言っても、服部遺跡は野洲川放水路の完成とともに消滅して今は何も見るものがないので、すぐ近くの守山市埋蔵文化財センターへ。方形周溝墓のことを勉強した際に出てきた遺跡で、当初はこの旅の行程に入れてなかったものの、伊勢遺跡、下之郷遺跡と順に見学してみると、どうしても行きたくなったので急きょ追加しました。



わたし達が入館すると職員の方が出てきて冷房のスイッチを入れてくれました。もっと服部遺跡にフォーカスした展示を期待していたのですが、ちょっと期待外れ。伊勢遺跡や下之郷遺跡など、守山市の遺跡や出土遺物を網羅的に紹介する解説と展示でした。







時刻は12時半。次の御上神社に向かう途中のラーメン屋さんでランチをとりました。


(つづく)


邪馬台国近江説が気になる方にはこの本がおススメ。
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