古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

神功皇后(その5 新羅征討②)

2018年01月30日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 書紀においては神功皇后の祖先である天日槍は新羅から来日したとなっている。その天日槍の来日は垂仁天皇3年のときである。垂仁3年は3世紀半ばから後半にかけての時代と考えるが、先に見たように3世紀においては新羅という国はまだ成立しておらず、その地域が辰韓と呼ばれていた頃である。天日槍が新羅から来たと書紀が記しているのは、書紀編纂時に新羅国であった地域、すなわち辰韓地域からやって来たことを表しているに過ぎない。

 魏志韓伝(辰韓伝)によると、辰韓は始め6ケ国であったが徐々に分かれて12ケ国になった、弁辰もまた12ケ国である、として辰韓、弁辰それぞれの小国の名を列挙している。合わせて24ケ国としながらも並んでいる国を合計すると全部で26ケ国になり重複があるようだ。さらに魏志韓伝(弁辰伝)によると、弁辰は辰韓と雑居する、衣服や住居は辰韓と同じで言語や法俗も似ている、とある。弁辰と辰韓が雑居していることから先の国名の列挙も順番が入り混ざっているものと考えられる。弁辰と辰韓は境界を明確に定めずに互いの地域に入り込んで生活していて、衣服や住居も同じで言語も似ていることなども含めて考えると、魏志韓伝の編者である陳寿の認識は「弁韓は辰韓の一部」あるいは「似たような国」という程度であったのかもしれない。そうすると、新羅国の王子とされる天日槍は弁辰または辰韓のいずれかの小国の王子であった、という程度で考えたほうがよさそうだ。
 したがって神功皇后が祖先の祖国を討ったと大げさに考える必要はなさそうだが、その対象が新羅とされていることには意味がありそうだ。先述したように三国史記には当時の倭人あるいは倭国が何度も辰韓あるいは新羅の地に攻め入った事実が記される。その事実と書紀編纂当時における日本と新羅の関係性を掛け合わせた結果が神功皇后による新羅征討の説話になった、と考えたい。私は、神功皇后は実在の人物であり、当時の新羅に侵攻したことも史実であったと考えており、神功皇后による新羅征討は書紀編纂当時の新羅との関係をもとに創作された話であるという説や、そもそも神功皇后は実在しなかったという説には与(くみ)しない。では、書紀編纂当時の日本と新羅の関係性とはどういうことか。先に見たように日本と百済は百済建国の4世紀以来、一貫して近しい関係にあった。その百済の視点から5世紀以降の朝鮮半島の歴史を確認してみよう。

 5世紀後半、高句麗は本格的に朝鮮半島方面への経営に乗り出して百済に対する圧力を強め、百済への侵攻が繰り返された。財力、戦力を使い果たした百済は475年に蓋鹵(がいろ)王が殺害されて実質的に滅亡することとなった。この状況は三国史記や日本書紀の雄略紀にも記されている。しかし、479年に東城(とうじょう)王が即位すると百済は復興へ向けて舵を切り、次の武寧(ぶねい)王のときに勢力拡張を図って朝鮮半島南西部での支配を確立すると東進して伽耶地方の中枢に迫った。武寧王はこの時期に対外活動を活発に行い、倭国へは軍事支援と引き換えに五経博士を派遣し始め、これ以降、倭国への軍事支援要請と技術者の派遣は百済の継続的な対倭政策となっていく。

 伽耶地方では西側から勢力を広げた百済と東方から勢力を拡張していた新羅との間で緊張が生じた。また北側では高句麗と全面的な衝突に入り百済の情勢は極めて悪化した。この時期に倭国に向けて軍事支援を求める使者が矢継ぎ早に派遣されたことが日本書紀に見える。百済の聖(せい)王は新羅に対抗するため倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国へ先進文物を提供する一方で見返りとしてより一層の軍事支援を求めた。

 その後、中国では589年に隋が南北朝時代を終わらせて中国を統一、さらに618年には唐が隋に替わって中国を支配することとなる。7世紀半ば、百済、新羅、高句麗、そして倭においても権力の集中が進む中、百済は高句麗と協同して新羅への侵攻を続けた。新羅からの援軍要請を受けた唐は、勢力拡大を危惧していた高句麗の同盟国となっていた百済を倒して高句麗の背後を抑えようとの意図から660年に水陸合わせて13万とされる大軍を百済に差し向け、新羅もこれに呼応して数万人規模の出兵をした結果、百済は降伏を余儀なくされて滅亡した。

 しかしその後、鬼室福信(きしつふくしん)などの百済遺臣が反乱をおこし、また百済滅亡を知った倭国でも朝鮮半島からの様々な文化の輸入が途絶することに対する懸念や百済への勢力拡張の目論見などから百済復興を全面的に支援することとし、人質として滞在していた百済王子の扶余豊璋(ふよほうしょう)を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣した。倭国は最終的には過去最大規模の軍勢を朝鮮半島へ派兵し、663年に白村江(現在の錦江河口付近)で唐・新羅連合軍との決戦に挑んだ(白村江の戦い)がこれに大敗を喫することとなる。こうして百済は完全に滅亡し、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることとなった。この結果、朝鮮半島は唐の支配下に置かれることになるが、これに新羅が反発、また唐も西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都である長安までもが危険に晒される状態となり、朝鮮半島支配を放棄せざるを得なくなった。そして675年に新羅が半島を統一することとなった。


 天武天皇が日本書紀編纂の詔を出したのが681年である。そのわずか18年前の663年、朝鮮半島の白村江で唐・新羅連合軍と戦った倭国・百済の連合軍が敗北を喫し、その建国以来、友好国として支援を続けてきた百済が消滅した。唐・新羅の対抗勢力であった高句麗も滅亡し、朝鮮半島は新羅の支配下に入ることとなった。唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は防衛強化に取り組み、対馬や北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海沿いの西日本各地に朝鮮式古代山城の砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。さらに667年に都を難波から内陸の近江京へ移した。こういう時代背景の中にあって天皇家を始めとする為政者たちが新羅のことを快く思うはずがなく、その意識は当然のごとく書紀の編纂者たちにも反映される。その結果、日本書紀は親百済、反新羅のスタンスが貫かれることとなった。もちろん、神功皇后の活躍した4世紀において親百済、反新羅であった事実に基づいていることも忘れてはならない。次にあらためてその事実を確認しておきたい。

 神功皇后が新羅に侵攻したことが史実であったと先述したが、新羅本紀に記される4世紀における倭と新羅が直接的に関係し合う記事を拾ってみる。 

 300年  倭国と交聘(こうへい)す
 312年  倭国王、使を遣わし、子の為に婚を求む
 344年  倭国、使を遣わし婚を請えり
 345年  倭王、移書して交を絶つ
 346年  倭兵、猝(にわ)かに風島に至り、辺戸を抄掠(しょうりゃく)す
 364年  倭兵、大いに至る
 364年  倭人、衆を恃(たの)み、直進す
 364年  倭人、大いに敗走す
 393年  倭人、来りて金城を囲む
  
 これによると4世紀前半においては「交聘」とあるように互いに往来があり、倭の王子は新羅から妃を迎えていたようだ。ただし、ここに出てくる倭国王が当時の大和政権の王、すなわち天皇であったかどうかは定かではない。312年のときに辰韓は倭の要請に応えて婚姻相手を差し出しているにも関わらず、344年に再度の要請が来たためにこれを断った。すると翌年、倭は国交断絶の書を送りつけたのだ。これを機に4世紀半ば以降、両国間の緊張が一気に高まることになる。そしてこの4世紀半ば以降の状況がまさに神功皇后による新羅征討説話に反映されているのだ。
 新羅本紀はこれに続いて5世紀における17回もの倭による侵攻記事を載せる。一方、同じ三国史記の百済本紀による同時期の倭と百済の関係記事を並べてみる。

 397年  王、倭国と好(よしみ)を結び、太子腆支(てんし)を以って質と為す
 402年  使を倭国に遣わして、大珠を求めしむ
 403年  倭国の使者、至る

 これらの記事に先立つ346年に近肖古王が百済を建国しており、また369年には百済が倭に対して七支刀を贈っている。4世紀後半から5世紀にかけて、倭は新羅と敵対関係にあった一方で、百済とは友好関係にあったことが理解されよう。日本書紀の編纂スタンスはまさにこの状況を反映していると考えることができる。

 先述の新羅本紀の記事、そしてこの百済本紀、さらには七支刀の銘文などから4~5世紀の朝鮮半島と日本(倭)の関係が読み取れるが、さらにこれに続くのがすでに触れておいた好太王碑文である。これらの史料は互いに矛盾することなく当時の状況を物語る。そして日本書紀においてもある程度の整合性が見出されることから、神功皇后の時代、すなわち4世紀半ばから後半にかけて倭が新羅に侵攻したことは史実であると考えてよいだろう。ちなみに、古事記においてもわずかであるが神功皇后による新羅征討の記事が記される。


-----<参考文献>-------------------------------------------------------

三国史記倭人伝 他六篇―朝鮮正史日本伝〈1〉 (岩波文庫)
佐伯有清編訳
岩波書店



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神功皇后(その4 新羅征討①)

2018年01月28日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功皇后は天日槍の子孫である。その天日槍は書紀によると新羅の王子であるという。新羅の王子の子孫である神功皇后が夫の仲哀天皇に新羅を討たせようとしたことになる。それどころか、仲哀天皇が新羅でなく熊襲を討とうとして崩御したあと、皇后自ら指揮をとって新羅征伐のために半島に渡っている。神功皇后は祖先の祖国と戦って敗北させたことになるのだが、これはどういうことだろうか。それを考えるにあたってまず紀元前後から3~4世紀の中国および朝鮮半島の情勢について確認しておきたい。

 中国では漢が前202年に中国を統一した。その後、前195年にその漢の支配のもとにあった燕から亡命した衛満が朝鮮半島を支配して王として衛氏朝鮮を建国した。しかし前109年に漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、翌年にはその領土であったところに楽浪郡、臨屯郡、玄菟郡、真番郡の四郡を設けて朝鮮半島を実質的な支配下に置いた。しかしその後、この地方の住民による抵抗が大きくなって秩序が乱れてきたために、漢はこれらの郡を維持することを放棄し、前82年には真番郡と臨屯郡を廃止、さらに前75年には玄菟郡を中国東北地方の遼東郡に吸収することになる。そして中国の勢力が弱まったことを受けて高句麗が勢力を拡大し、前37年の建国に至った。一方、朝鮮半島南部においてはいまだ統一国家の形成には至っていなかったが地域住民による部族連合国家への胎動が始まっていた。

 西暦8年に王莽が漢を倒して新を建国したが、そのわずか15年後の23年、光武帝が新を滅ぼして25年に即位、後漢を建てた。44年になると朝鮮半島南部の国家形成が進展し楽浪郡に朝貢する部族が現れた。そして57年、倭の奴国が後漢から金印を授与されるのである。しかし後漢は朝鮮半島支配にさほど関心を示さず、むしろ遼東郡による高句麗や扶余あるいは北方の匈奴に対する牽制に注力した。その後、2世紀後半になって黄巾の乱や五斗米道の乱など民衆の反乱が相次いだ後漢は衰亡の途をたどり、遼東郡の支配を事実上放棄した。そしてこの隙をついて公孫氏が遼東郡の支配権を確立したのだ。公孫度(こうそんたく)は楽浪郡を復興し、さらにその南方に帯方郡を置いて朝鮮半島南部を支配した。時はあたかも3世紀前半、中国では後漢が滅び、魏・呉・蜀が鼎立する三国時代に突入しようとしていた。公孫度あるいは子の公孫淵(えん)は後漢最後の皇帝である献帝から禅譲を受けた魏に忠誠を示しながらも南方の呉と国交を開くなど両属政策をとった。呉が公孫氏と組んで東方から魏を牽制したことは魏にとって大きな脅威であったため、魏は238年に公孫氏を討ち滅ぼした。このとき魏は公孫淵を南方から攻めようとして楽浪・帯方の二郡をおさえたのだ。こうして遼東郡から公孫氏の影響が排除され、朝鮮半島は楽浪郡・帯方郡をおさえた魏の勢力下におかれることになった。その結果、邪馬台国の卑弥呼は魏に対する朝貢を開始し、親魏倭王の称号を下賜されることになるのだが、それが翌年の239年のことである。

 魏志韓伝によると、3世紀の朝鮮半島の状況を「韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある」とし、韓には馬韓、弁韓、辰韓の三韓勢力が鼎立していること、さらに韓が倭と接していることを記している。さらに同じ魏志の倭人伝は「(帯方)郡より倭に至るは、海岸に循(したが)ひて水行し、韓の国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、其の北岸の狗邪韓国に到り」とある。朝鮮半島の南端には倭に属する、つまり倭人が居住する狗邪韓国があった。
 265年に魏を滅ぼした晋(西晋)が中国を統一すると馬韓、辰韓地方には晋に朝貢する国が出てきた。この地域における国家形成への胎動と言えよう。そして3世紀末から4世紀にかけて高句麗や鮮卑、匈奴が勢力を増し遼東地域が大きな混乱状態になった結果、313年に楽浪郡が、続いて314年に帯方郡が滅亡することになり、このことが朝鮮半島の国家形成を大きく促進することとなった。

 そして4世紀にはいると三韓それぞれの地域で活発な動きが見られるようになる。まず馬韓地域では少なくとも4世紀前半頃までには馬韓諸国のなかの伯済国が周囲の小国を統合して、漢城(現在のソウル)を中心として百済国を成立させていたと考えられている。百済・新羅・高句麗の歴史が記される「三国史記」は現存する朝鮮半島最古の歴史書であるが、その「百済本紀」には百済の建国が紀元前18年と記される。しかし第13代王である近肖古王より以前の記録は伝説あるいは神話として後世に創作された話であるとされ、この近肖古王が即位した346年を百済建国の年とする考えが定着している。その百済の名が中国の史書に初めて見られるのは「晋書」帝紀威安2年(372年)の近肖古王による東晋への朝貢記事である。その結果、近肖古王は鎮東将軍領楽浪太守の号を授かったとある。この近肖古王は日本書紀では照古王の名で登場する。百済が東晋に朝貢したほぼ同時期に倭との通交も始まり、七支刀(ななつさやのたち)と呼ばれる剣が倭へ贈られたことが日本書紀の神功皇后紀に見える。この刀は石上神宮に現存しており、銘文の分析から369年に作成されたと考えられている。

 次に辰韓地域を見ると、3世紀には12か国が分立している状況にあったのだが、この中の斯蘆(しろ)国が基盤となり、周辺の小国を併せて新羅国へと発展していったと考えられている。斯盧国は280年、281年、286年の3度にわたって西晋に朝貢しているが辰韓諸国を代表しての朝貢であった。そして新羅の名が初めて中国史書に表れるのが377年である。356年に即位した第17代奈勿(なこつ)王が高句麗とともに前秦に朝貢している。三国史記の「新羅本紀」は新羅の建国を前57年とし、辰韓の斯盧国の時代から一貫して新羅の歴史としているが史実性があるのはこの奈勿王以後であり、それ以前の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。

 中国では265年に魏を滅ぼし、続いて280年に呉を滅亡へと追いやった西晋が三国時代に終止符を打って中国を100年ぶりに統一した。しかし八王の乱が起こるなど国内が大きく乱れた結果、316年に滅亡する。その後、遺臣が江南へ移って東晋を建てることになるが、中国北部は異民族の武力抗争が続く五胡十六国の時代に入る。そしてこの混乱の中で台頭してきたのが高句麗である。
 高句麗は312年に楽浪郡を占拠し、この地にいた漢人や他国の亡命者を積極的に登用し、国家形態を整備し軍事力を拡大して東北地方の強国となっていった。しかし、故国原王のときに遼西に建国した燕と激しい攻防を続けた結果、最終的には355年に征東大将軍営州刺史楽浪公高句麗王の称号を与えられて冊封を受けることになる。さらに371年には国力を充実させた百済の近肖古王からの激しい攻撃を受けて王が戦死する危機に面し、国力を低下させてしまう。しかしその20年後の広開土王(391年~412年)のときに高句麗は最盛期を迎える。この広開土王の活躍は没後2年後に建てられた墓碑(好太王碑)に記されるのであるが、当時の三韓地域や倭との攻防が次のように記録されている。「もともと百済・新羅は高句麗に朝貢していた。そこへ倭が海を渡ってやってきて両国を破って従えた。そして百済は高句麗との約束を破って倭と和通したので広開土王は百済を討とうとした。一方の新羅は高句麗に救援を求めてきたので大軍を派遣して倭を退却させようとしたが逆を突かれて新羅の王都を占拠されてしまった。その後、倭が帯方郡に侵入してきたのでこれを討って大敗させた

 この碑文によると、百済は高句麗と対抗するために倭との関係構築を目論んだことがわかる。三国史記の百済本紀においても、397年に百済は倭国に太子を人質として供し、402年には遣使を送り、その翌年に倭国使者の来訪を歓迎した記事が見られる。一方の新羅はその百済や倭への対抗上、高句麗との関係を求めた。新羅本紀によれば、紀元前後からたびたび倭人の侵攻を受けていることがわかる。2世紀には講和の記事も見られるが、3世紀に入ると一転して倭人が一方的に攻撃する状況になる。4世紀になってすぐに倭国による遣使の記事があるが、345年の断交以降はほぼ敵対関係にあったことが窺える。5世紀において倭人、あるいは倭国が新羅に侵入した記録がなんと17回にわたって記されるのだ。ただし、新羅本紀に表れる倭あるいは倭人はとくに3世紀までの記事においては朝鮮半島南端すなわち狗邪韓国に居住する倭人を指す場合もあるので注意を要する。

 最後に弁韓の状況も見ておこう。先に魏志韓伝と魏志倭人伝の記事を合わせて確認したが、両書に矛盾がないとすれば3世紀の朝鮮半島南部は西に馬韓、東に辰韓、その間の南側に弁韓、さらにその南の半島南端に倭人の居住する狗邪韓国があったことになる。魏志韓伝は弁韓が12ケ国に分かれていたことを記し、その中に弁辰狗邪国という国名が見えるが、これは狗邪韓国のことではないだろうか。その後、弁韓地域では3世紀末から4世紀半ば頃、洛東江下流域の伽耶(加羅)が優勢になったとされるが、百済や新羅のように統一国家の形成には至らなかった。この「伽耶(かや)」と「狗邪(くや)」は音が似ていることから、弁辰狗邪国あるいは狗邪韓国が伽耶に発展したとする考えもあり、わたしもそのように考える。また、この地域は任那とも呼ばれ、神功皇后紀以降の日本書紀にも再三登場し、先述の好太王碑文にも「任那加羅」と記されている。魏志倭人伝にある帯方郡から邪馬台国までのルートにおいて朝鮮半島から九州に渡るときの起点になっていることからもわかるように、対馬の対岸にあり、倭人の居住地ということもあって倭はこの伽耶あるいは加羅を足掛かりに朝鮮半島との交易を行ってきた。また、この伽耶の地は古代からの鉄の産地でもあった。魏志韓伝には「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように鉄を用いる。また、楽浪、帯方の二郡にも供給している」とある。

 少し長くなったが神功皇后の新羅征討を考えるにあたって、当時の朝鮮半島の歴史を概観した。



-----<参考文献>-------------------------------------------------------

古代朝鮮 (講談社学術文庫)
井上秀雄
講談社



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車中泊の旅(金沢)

2018年01月25日 | 旅行・車中泊
2018年1月は正月休みが明けてすぐの6日から8日までが三連休だったので7日・8日、思い立って一泊二日の金沢カニ食べ放題の車中泊ツアーに行ってきました。

12月に尾道ツアーに行ったときのレポートをアップしていますが、本当はこのときに金沢に行く予定にしていました。それが前日の天気予報で金沢方面に雪の予報が出たので急きょ行先を尾道に変更した経緯があったので、カニを食べるお店は決めており、温泉と車中泊する場所も数カ所の目途をつけていたので、お店の予約さえ取れればすぐにでも出発できる状況でした。それと、三連休初日の6日はもともと車のディーラーを予約しており、スタッドレスタイヤに履き替える予定だったので、雪道でも問題なしでした。

6日の午前、カニのお店に電話を入れると8日のランチタイムならかろうじて空いています、と言われたので8日11時に予約を入れました。その後、ディーラーに行って新車購入後の最初の点検とタイヤの履き替えをやってもらい、帰宅後には車中泊の準備を済ませて二日間の作戦を考えました。その結果、次のようなツアーになりましたのでご覧ください。そうそう、もちろんいつもの通り、ワンコも一緒です。


7日朝8:30に自宅を出発。昼過ぎには金沢に着きたいと思い、高速道路を利用。美原北インターから乗って阪和道→近畿道→第二京阪→京滋バイパス→名神→北陸道と乗り継いで金沢西インターで降り、そのまま金沢市内へ。渋滞もなくほぼ予定通りの12時40分に到着。到着したのは前日の作戦会議で決めた近江町市場。

市場裏の駐車場に車を停めてワンコを残し、まずは何を食べようかと市場をさまよう。三連休の中日で昼過ぎの時間、おそらくピークは午前中だったのだろう、思ったほど人通りがなく、たくさんある海鮮のお店も残念ながらその場で食べられる食材はあまり残っていませんでした。


最初に口にしたのがこれ。

行列ができていた近江町コロッケで、甘えびコロッケとたこコロッケ。それなりに美味しかったけど揚げたてでなかったのが残念。

さらにランチをどこで食べようかとウロウロ。海鮮のお店はどこも行列。どうせ並ぶのなら、と前日に第一候補に決めていたここに並ぶことにしました。


何を食べようか悩んだ結果、夫婦二人ともこれにしました。

海鮮丼、3000円ナリ。ご飯は酢飯で海鮮はどれも新鮮でうまかった。見た目も美しい。並んだ甲斐がありました。

食後に再び市場をウロウロ。最初から狙っていた帆立3つで500円、後悔したくなかったのでその場で立ち食い。甘くて美味い!
さらに次はこれ。じろ飴を使ったソフトクリーム。これまた甘い!



甘さを癒そうと入ったのがここ。ドリップコーヒー、セルフサービスで200円。


近江町市場は以上。海鮮があまり残っていなかったのが残念でした。時刻は15時半。このあと、ワンコを連れて茶屋街を散策しようと車を移動。
観光地として有名な東山のひがし茶屋街へ行く前に、同じく茶屋街の主計(かずえ)町を散策。こちらは観光客がほとんどいないのでゆっくり見て回ることができました。



そのままひがし茶屋街へ。こちらはやはり観光客でいっぱいでした。


散策を終えて車に戻ったのが17時前。少し早いけど、陽が暮れて寒くなって来たので温泉に行くことにしました。
湯湧温泉という温泉地にある日帰り温泉の「湯の川温泉 湯楽」まで車で30分ほど。それほど広くないのだけど、掛け流しの天然温泉で露天風呂もある。何と言っても390円という安さがうれしい。お湯に浸かってほっこりしたあとは寝るだけ。

宿泊場所として選んだのは北陸道の徳光PA。高速のパーキングといってもここは一般道から入れる駐車場があってPAのトイレや飲食店が利用できる。高速を走る車の音もさほど気にならず、しばらく車内でテレビを見て過ごしたものの23時前には就寝。翌時は11時にカニを食べに行くこと以外は何も決めていなかったので朝の始動は8時半になってしまった。

まずはトイレと歯磨き。徳光PAはトレイまで少し距離があり、雨が降って来たので別のところに行くことにして、向かったのは道の駅内灘サンセットパーク。まだお店は開いていなかったけどトイレと歯磨きを済ませて、カニまでにはまだ時間があるので、千里浜なぎさドライブウェイを走れるところまで走ってみようと北へ向かいました。

千里浜なぎさドライブウェイ。ドライブウェイとはいうものの道路はなくて砂浜を走るのです。


ずっと先まで走りたかったけどカニに間に合わなくなるのでほどほどで引き返しました。途中でガソリンを入れてカニのお店に到着したのが予約した11時に15分ほど前。時間つぶしのためにすぐ近くの日吉神社に参りました。


滋賀県にある日吉神社の総本社からの勧請(分祀)で創建されたそれなりに由緒ある神社です。まっすぐの登り参道は美しく感じます。そしてその先にある本殿は雪から守るために養生がされていました。

さあ、いよいよメインイベントのカニです。金沢市大野町にある「弁吉」というお店。


芸能人もたくさん訪れているようで、サインと写真が並んでいました。

お店は結構広いのですが予約客でいっぱい。食べている途中に予約なしでくるお客さんが何組もあって恨めしそうに帰っていきました。

私たちが選んだのが「ゆでがに食べ放題+焼きがにコース」で6800円。


ランチタイムは11時から14時までの3時間。夫婦それぞれでゆでがにを3杯ずつと、焼きがにを二人で1杯。これにご飯とみそ汁、漬物がついて、さらにホームページにあるクーポンを使ってデザートも。お腹は満タンです。あとは温泉に入って帰るだけ。

選んだ温泉は福井市真栗町にある福井県が運営する生きがい交流センターの中にある温泉施設「健康の森温泉」。料金は610円と少々お高いが、お客さんはお年寄りと小さな子供連れが多く、逆に若いやかましいのがいなかったのでゆっくりお湯を楽しむことができました。

このあとは自宅に帰るだけだったので、このまま一般道を走って帰ろうかとも思ったものの、翌日から仕事もあり雨も降り続けていたので鯖江インターから高速に乗ることにしました。結果、帰宅したのが21時半。すでにお風呂も済ませていたし、お腹にはまだカニが残っているので晩ご飯はいらないし、テレビを見ながらゆったりした夜長を過ごしました。


さて、このツアーから帰ってきた2日後、大寒波が到来して北陸地方は一気に雪国になりました。金沢は何と7年ぶりの大雪だとか。高速道路は通行止め、あちらこちらで動けなくなった車で渋滞、道路が凍って冬タイヤの車が進めない状態。何とも絶妙なタイミングで行ってきたもんです。

今回の走行距離は780キロ、高速料金12,130円、カニと海鮮丼20,688円、温泉2,000円、駐車場850円、ガソリン代が5,000円くらい、このほか食べ歩きとコンビニでの買い物もあったので、合計がおそらく45000円ほど。往復とも高速を使ったので少し高くついたけど、食事と温泉を堪能してこれなら十分OKだ。

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川部・高森古墳群(北九州実地踏査ツアー No.23)

2018年01月23日 | 実地踏査・古代史旅
宇佐神宮を出て向かった先はいよいよツアーの最終目的地である川部・高森古墳群。大分県宇佐市大字高森字京塚にある古墳群で、宇佐市を南から北に流れる駅館川右岸の台地に位置し、6基の前方後円墳を中心として周辺に約120基の円墳や周溝墓が集積した古墳群である。大分県内では最大、九州全体でも宮崎県の西都原古墳群に次ぐ規模を有する。

例によってまずは隣接する大分県立歴史博物館で見学前の情報収集。あまり期待せずに入ったが古墳群の出土品や埋葬施設の復元など思った以上に良い展示だった。ただ、古墳群に関するものよりも磨崖仏や宇佐八幡など中世から近世にかけての仏教文化に関する展示が充実していた。

古墳群を含む宇佐風土記の丘の全体図。(JAおおいたのサイトより)


博物館の前にあった説明板。


博物館のバルコニーから古墳群をのぞむ。



これらの古墳の被葬者は古墳時代に宇佐地方を支配していた首長、おそらくは宇佐国造家の一族ではないかと考えられ、周囲の古墳や周溝墓はその一族や臣下の墓と推測されている。3世紀から6世紀の間に同じ地域に継続して古墳が築造されていることから、長期にわたって安定した支配が行われていたことがうかがわれる。

この中で最も注目されるのが上図の右上にある赤塚古墳。全長57・5メートル、高さ約5メートルで、大きさはさほどではないが、築造は邪馬台国の時代と重なる3世紀末と考えられ、九州で最も古い時期のものだ。調査の結果、中国製の鏡のほかに管玉、鉄刀、鉄斧や土器片を伴っていることが分かった。鏡のうち四面の三角縁神獣鏡が京都府の椿井大塚山古墳などから出土した銅鏡と同じ鋳型で作られたものだったことが判明し、古墳の墳形から極めて初期の前方後円墳であることもわかった。

このことから大和と宇佐の関係を考える必要が出てきた。端的に言うと邪馬台国と宇佐の関係だ。初期の前方後円墳は大和の纏向が発祥と考えられ、その初期前方後円墳が宇佐に造られた。そしてその時期はまさに纏向遺跡が栄えた3世紀末だ。私はこの纏向を邪馬台国と考えているので、宇佐の勢力は邪馬台国とつながっていたと考えるべきなのだろうか。宇佐は神武天皇の狗奴国と同盟関係にあったという仮説は見直すべきなのだろうか。もう少し時間をかけて考えたい。

赤塚古墳。墳丘に登ることができる。



前方部の裾が広がっていないことから初期の墳形だと言える。

赤塚古墳の周囲にある方形周溝墓群。

赤塚古墳の被葬者の近親者の墓であろうか。竪穴石棺であるがその大きさから子供が埋葬されていたのではないかと思われる。


免ヶ平古墳(めんがひらこふん)は、現状は直径30.5メートル、高さ4メートルの円墳の形状をしているが、元来は全長約50メートルの前方後円墳であったと推測される。4世紀、赤塚古墳に続いて築造されたと考えられる。墳丘の周りには空濠が掘られている。後円部中央に安山岩で造られた竪穴式石室には、割竹形木棺が納められ、副葬品として、斜縁二神二獣鏡、三角縁三神三獣鏡、硬玉製勾玉、鉄剣、鉄槍、斧、刀子などが出土している。また、後円部南寄りに収められた箱式石棺からは、若い女性の人骨、斜縁二神二獣鏡、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、石釧、刀子などが出土している。




墳丘上にある埋葬施設を保存する設備と思われる。鍵が閉まっていて開けることはできなかった。

博物館にあった免ヶ平古墳の発掘時の写真。

上の大小ふたつの保存施設の下にそれぞれ埋葬主体があることがわかる。

同じく免ヶ平古墳の出土品。


本当は6つの前方後円墳を全部見て回りたかったのだが、時間的に厳しかったのと寒さが一段と厳しくなってきたこともあって、赤塚古墳と免ヶ平古墳の2つだけにして残りはあきらめた。かなり心残りであったが、大分空港までの時間を考えるとやむを得なかった。

以上で3日間の実地踏査ツアーは終了。このあとは大分空港までまっしぐら、というわけには行かず、途中で道を間違えて少し無駄な時間を費やしてしまったが、それでも飛行機出発の1時間ほど前に到着し、空港で慰労会ができた。3日間で22ケ所を踏査するという、かなりの強行軍となりましたが、そのぶん充実したツアーになったことと思います。岡田さん、佐々木さん、どうもお疲れ様でした。ありがとうございました。

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宇佐神宮(北九州実地踏査ツアー No.22)

2018年01月21日 | 実地踏査・古代史旅
青の洞門で少し観光気分に浸ったあと、三人はそのまま宇佐神宮を目指した。ここは岡田さんが以前から行きたいと言っていたところ。宇佐神宮は大分県宇佐市にあるのだが、そもそも大分県に来ることはまずないだろうし、来たとしても別府や湯布院という温泉地へいくだけだろうから岡田さんにとっては人生最初で最後の宇佐神宮参拝の機会になったと思う。それは佐々木さんにとっても同じかもしれない。ちなみに私は二度目の参拝である。

宇佐神宮は豊前国一之宮で宇佐八幡とも呼ばれ、全国に約46,000社あるとされる八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮とともに日本三大八幡宮の一つでもある。

表参道。参道の左手に大きな駐車場、右手はお土産屋さんが軒を連ねる商店街。(前回訪問時の写真)


隣接する駐車場に車を停めて歩いた参道の先にある鳥居。


神橋。(前回訪問時の写真)


神橋を渡った先にある大鳥居。


宇佐神宮は上宮と下宮があり、そのいずれにも三神が祀られている。下宮は嵯峨天皇の弘仁年間(810年代)に勅願によって創建され、上宮の分神を祀った。よって「下宮参らにゃ片参り」と云われるそうだ。

下宮へ向かう鳥居。(前回訪問時の写真)


下宮。(前回訪問時の写真)


神社公式サイトによると、祭神は八幡大神(応神天皇)、比売大神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命の宗像三女神)、神功皇后で、それぞれ一之御殿、二之御殿、三之御殿に祀られている。八幡大神は応神天皇の神霊で、欽明天皇の571年に初めて宇佐の地に示顕になったといわれ、725年に現在の地に御殿を造立し、八幡神が祀られることとなった。これが一之御殿の前身であり、これをもって宇佐神宮の創建とされている。

さらに公式サイトを見ると、神代に比売大神が宇佐嶋に降臨したと「日本書紀」に記されていることから比売大神は八幡大神が現われる以前からの古い神、地主神として祀られ崇敬されてきたことから、八幡神が祀られた6年後の731年に神託により二之御殿が造立され比売大神が祀られた。さらにその後、神託により三之御殿が823年に建立された、とある。

ちなみに祭神が祀られる御殿は左から順に、一之御殿、二之御殿、三之御殿とならんでいる。すなわち、二之御殿が真ん中にあるということだ。八幡宮の総本社であるのに八幡大神がなぜ真ん中に祀られていないのだろうか。なぜ比売大神は真ん中に祀られて主神の扱い受けているのだろうか。

上宮への参道。(前回訪問時の写真)

上宮は亀山という山の頂上にあるため、この階段を登っていくことになる。作家の高木彬光は宇佐を邪馬台国に、この亀山を卑弥呼の墓に比定している。この亀山は正面からだらだらと階段を登っていくとそれほど高さを感じないが、裏側にある南大門からの階段の傾斜をみると相当な高さを感じる。その高さといい、山の大きさ(直径)といい、径百余歩の塚とは言い難い。

南大門からの階段。登ったところが上宮の境内。(前回訪問時の写真)

前回訪問したときに、わざわざこの階段をいちど下まで降りて撮った写真。実はここから参拝する時にはモノレールで登ることができるのだ。

上宮境内に入る手前の鳥居で宇佐鳥居というらしい。この先の門が西大門でその先に社殿がある。


上宮。手前から一之御殿、二之御殿、三之御殿。国宝です。


二之御殿を正面から。


実は、神社の南にそびえる御許山(おもとやま)の山頂には奥宮として3つの巨石を祀る大元神社がある。この古来の磐座信仰に渡来系の辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込んで重ね合わせたと考えられている。つまり、三柱の祭神のなかでも比売大神がもっとも古い神であるので真ん中に祀られているのだ。

上宮本殿前にある遥拝所。(前回訪問時の写真)


遥拝所から眺めた御許山。(前回訪問時の写真)


さて、比売大神が真ん中に祀られている理由がわかったとしても、この比売大神がなぜ宗像三女神であると言えるのか。たしかに、日本書紀神代巻の天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)の場面における第三の一書(あるふみ)には三女神が葦原中国の宇佐嶋に降りたと書いてあるが、それが比売大神であるとは書いていないのだ。日本書紀編纂者が何らかの意図をもって宗像三女神を宇佐に降臨させたことで、その後は比売大神と宗像三女神が一体となったのだろうか。ではその編纂者の意図とは何であったのだろうか。

さらに、比売大神と三女神の関係性が仮にわかったとしても、ここに応神天皇(八幡神)が降臨した理由がよくわからない。誰かが何らかの目的をもって八幡神を降臨させた(そういう話を創った)のだろうか。何となく神仏習合と関係がありそうと思うが、詳しいことはよくわからない。宇佐神宮は朝鮮半島の土俗的な仏教の影響の下、6世紀末には既に神宮寺を建立したとされている。6世紀末といえば八幡神が降臨した直後にあたる。

「八幡宇佐宮御託宣集」によると八幡神が降臨した際に「我は誉田天皇廣幡八幡麻呂、護国霊験の大菩薩」と言ったという。このときの神職は大神比義(おおがのひぎ)であり、大神氏は宇佐の地を押さえる豪族でもあった。大神氏は大和の大神氏(おおみわし)に由来する氏族とも言われている。この大神氏がこの宇佐の地で八幡信仰を起こしたのかもしれない。

八幡神が降臨したとされる菱形池。(前回訪問時の写真)


しかし同じく「八幡宇佐宮御託宣集」には筥崎宮の神託を引いて「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、福岡県飯塚市の大分八幡宮が宇佐神宮の本宮であるとしている。筥崎宮の元宮が大分八幡宮であるというのは筥崎宮の由緒から理解できた。しかし、なぜ宇佐神宮の本宮が大分八幡宮でなければならないのだろうか。残念ながら宇佐神宮の由緒はそれに触れていない。大神氏が応神天皇を宇佐に降臨させた571年の時点ですでに大分八幡宮には応神天皇が祀られていたのだろうか。しかし大分八幡宮の創建は726年で、八幡神が宇佐神宮の一之御殿に祀られた翌年である。うーん、わからない。大分八幡宮が神社として創建されたのは726年だが、それ以前より応神天皇ゆかりの地であった、たとえば応神天皇が生まれたのは本当はこの大分八幡宮の地であった、とか。ひとまずそういう仮説としておこう。


さて、上述の参拝ルートは我々一般庶民が参拝する際のルートですが、この宇佐神宮は宇佐八幡宮神託事件でご存知の通り勅祭社である。したがって天皇の使いである勅使が参向する際はこのルートではなく西参道あるいは勅使街道と呼ばれる別の参道を使った。

勅使が参る際に通る勅使街道の鳥居。

ここにはもともと鉄製の鳥居が立っていたが戦時中に没収されて現在は普通の鳥居になっている。

これはその鉄製鳥居がたっていた跡。


この鳥居の先にある呉橋。

呉の国の人が掛けたとされることからついた名。この橋を使うことはできず、通常はこの横にある普通の神橋を渡ることになる。


この宇佐の地は日本書紀の神武東征のくだりにも登場する。神武天皇が日向から東征に出発したあと最初に立ち寄ったのが宇佐である。このとき、宇佐国造である宇佐津彦と宇佐津姫が足一騰宮(あしひとつあがりのみや)という仮宮を設けて神武天皇一行を歓迎した。

これがその足一騰宮の跡地。



宇佐神宮は神仏習合を早くから取り入れた神社で、境内に神宮寺である弥勒寺を建立し、宇佐八幡宮弥勒寺と呼ばれた。

弥勒寺の跡地。



以上、今回は長い記事となりました。宇佐神宮が神話を含めて様々な経緯を経て存在しており、それが複雑に絡み合っていることから未だ解明されていないことが多く、本当に難解な神社であることから、いろいろと書いてしまいました。
広い境内をゆっくり参拝したので駐車場に向かうときには陽が西に傾き、風が強くなり、気温が急激に下がって来た。寒さのあまり、参道沿いのお店で甘酒(アルコールは入っていません)を買って体を温めました。

さあ、いよいよこのツアーの最終目的地である川部・高森古墳群のある宇佐風土記の丘へ。


以下、おまけ。

昨年6月にひとりで訪ねたときは大分空港から空港バスで宇佐神宮まできた。帰りは路線バスでJR日豊本線の宇佐駅に出て、宇佐駅からソニック号で大分駅へ向かった。

宇佐駅。よく見ると宇佐神宮の上宮をイメージしているように思う。


行先案内。

真ん中のイラストは宇佐神宮の上宮をデフォルメしているのだが、宇佐=USAの連想からアメリカ国旗をイメージしているのは明らか。

宇佐神宮は本当にややこしい。八幡信仰や渡来人についてまだまだ勉強が足りないことを痛感した。それと、神武天皇が東征の際に立ち寄って歓待されたことから、これまで宇佐の勢力は神武勢力と同盟関係にあったと考えていたのだけど、今回の実地踏査で筑紫平野から日田を経て宇佐へ至るルートを走ったことから、この3つの地域は古代から強い関係性があったのではないかと考えるようになってきた。つまり、宇佐が神武の本拠地である日向と関係があったとする自分の仮説を修正したほうがいいのかな、と少し思い始めている。
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小迫辻原遺跡(北九州実地踏査ツアー No.21)

2018年01月19日 | 実地踏査・古代史旅
平塚川添遺跡をあとにして再び大分自動車道を走り、次の目的地である小迫辻原遺跡(おざこつじばるいせき)に向かいました。日田インターを降りて10分ほどで到着。遺跡が高速沿いにあるのは事前の情報収集でわかっていたものの、本当にここで合っているのかと疑いたくなるようなところでした。細い坂道を上がって最後は高速下のトンネルをくぐって左折、さらに坂道を上るとだだっ広いところに出るのですが、そこがまさに遺跡の場所でした。

小迫辻原遺跡は大分県日田市にあって日田盆地北部の通称辻原と呼ばれる標高120メートルほどの台地上に広がる旧石器時代から中世までの広範囲の年代にわたる複合遺跡である。ここまで坂道を上ってきたので確かに台地の上にあることが実感できた。台地の上はまっ平らな土地で前述のように広い空き地が広がっており、遺跡はすでに埋め戻されて一部が田畑になっていました。大分自動車道の建設に先立って大分県教育委員会によって1985年から行なわれた発掘調査で、弥生時代から古墳時代にかけての住居跡や墳墓などが発掘された。なかでも3基の環壕居館の遺構は出土した土器から3世紀末から4世紀初頭のものと推定され、日本最古の豪族居館跡と考えられている。


黄色の点線で囲ったところが遺跡の位置。北(写真左側)から南にせり出した山地の端っこにできた台地の上。白い線は古代にはおそらくここを川が流れていたであろうと思って加筆してみた。

ここは北部九州のど真ん中にあたり筑後川水運の要衝の地です。先に訪ねた高良大社や平塚川添遺跡から豊前、豊後へ抜けるときの中継点になり、また逆のコースで言えば瀬戸内海から豊前、豊後に上陸して筑後川を使って有明海へ抜ける、あるいは福岡平野へ向かうときの中継点ということなる。畿内や山陰系の土器が多数出土していることから、大和や出雲との交流が盛んに行なわれたことが窺え、大和政権の出先機関があったのではないかという説もある。

とにかく広くて何もない。


遺跡の説明とか全体図とか、出土品のこととか、通常ならそういう案内板が立っているのだけど、ここを訪れたときにそれを見つけることができなかった。見たのはただひとつ、意味なくでっかい看板。高速道路からも見えないし、空から見るわけでもないし、誰のために立てたのだろうか。



しかし、この記事を書くにあたってあらためてGoogleMapの航空写真をよく見てみると、遺跡の端っこの高速道路に沿った道に案内板があるのを発見してしまった。

GoogleMapのストリートビューのキャプチャー。

行ったときにはこれはなかったような気がするなあ。


細い矢印が車で遺跡にやってきたときの進入経路。その上の太い点線が上述の大きな看板の位置。写真下のふたつの線が今回わかった案内板の位置。この案内板、実は私たちに背を向けるように立っていたようだ。いや、本当に立っていたのだろうか。

とにかくここでは何も見ることができなかった。しかし、この遺跡が日田盆地を見下ろす台地の上にあることだけはしっかりと確認することができた。写真を撮って5分ほどで退却だ。

ここからは国道212号線を走って宇佐へ向かう。よくよく考えるとこの日のルートは、博多から筑紫平野に抜け、筑紫平野の中心地にある高良大社から筑後川をさかのぼって平塚川添遺跡へ、そしてさらに中継点である日田の小迫辻原遺跡を経て豊前国の宇佐へ向かうという古代においても重要幹線であったと考えられるルートを通っているのだ。
そして途中、紅葉が盛りの耶馬溪を通過する。このルートを組んだ時点で必ず寄りたいと思っていた場所が「青の洞門」だった。小学三年の時に国語の授業で菊池寛の「恩讐の彼方に」を習って以来、一度見てみたいと思っていたところだ。









手掘りのトンネルは川面からほんの少し高いところだが、トンネルが掘られる前はこの断崖絶壁の上を歩いていたのだろうか。通行人が時々落ちて亡くなったというのだからそういうことなんだろう。まさかトンネルの高さからは落ちても亡くなることはないだろうから。そんな説明はどこにもなかったが。それと、何もこんな断崖絶壁を通らなくともこの川を船で行けばいいだろうし、対岸は平地だから船で対岸へ渡るという手もあっただろうに。行ってみたいと思い続けて40数年、いざ来てみるとそんな疑問だけが残ってしまった。禅海和尚が30年もかけて掘ったトンネルも車だとわずか数秒で通過してしまった。
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平塚川添遺跡(北九州実地踏査ツアー No.20)

2018年01月17日 | 実地踏査・古代史旅
高良大社をあとにして次に向かったのが福岡県朝倉市平塚にある平塚川添遺跡。朝倉市は2006年に甘木市・朝倉町・杷木町が合併して朝倉市になったのだが、邪馬台国マニアにとって甘木・朝倉という地名は誰もが知るところではないだろうか。安本美典氏はこのあたりを邪馬台国の所在地として比定し、さらにここを中心とした北九州の地名と大和の地名が驚くほど酷似していて、その相対的な位置関係もほとんど同じであることから、この甘木・朝倉にあった邪馬台国が大和に東遷したといういわゆる「邪馬台国東遷説」を唱えている。このことを知らない邪馬台国マニアはいないであろう。



遺跡は平成6年(1994年)に国の史跡に指定され、平成13年(2001年)に「平塚川添遺跡公園」として開園された。到着していつも通りに見学前の情報収集と思って入り口にある体験学習館に入ったが閑散としており、出土品の展示などもなかった。廊下に貼られた数枚の資料だけが遺跡であることを物語っていた。職員の方が事務所から出てきたので説明をしてもらおうかと思っていると、最近赴任してきたばかりで説明ができないという。しかも説明ができるガイドは体験学習に訪れた子供たちの対応で出払っていて、話を聞ける人は誰もおらず、有益な話は何一つ聞けなかった。





この平塚川添遺跡は弥生時代中期から古墳時代初頭の環濠集落遺跡で、筑紫平野の東端近く、朝倉市域西部の沖積平野に位置している。筑後川支流の小石原川の氾濫原、標高20メートル程度の微高地にある。



遺構としては約17ヘクタールの範囲に多重の環濠、竪穴式住居跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認されている。中央部に内濠に囲まれた約2ヘクタールの楕円形の「中央集落」と称する集落があり、住居のほか、中央部と北東隅に大型の掘立柱建物跡が検出されている。中央集落の外側には複雑な環濠に囲まれた「別区小集落」と称する複数の小集落の跡が検出されている。別区小集落には木器や玉などの遺物が集中する場所があり、住居とは別の区域に工房が存在したと推定されている。遺物は生活土器のほかに銅矛・銅鏃・鏡片・貨泉などの青銅製品や、農具・建築部材・漁具などの木製品が出土しているが、鉄製品は出土していない。

遺跡全体の復元図。

この説明板は見ての通り、塗りが剥げ落ちていてボロボロだ。

全体図にGoogleマップの航空写真を並べてみる。

「中央集落」の真ん中に大型建物4棟が並んでいて、その左側(北東)にも大型建物1棟が確認できる。(破線楕円部分)

4棟の大型建物のうち、2棟が復元されている。

これは祭殿を想定してるらしい。どうみても大型倉庫だ。

北東隅の1棟の大型建物。

こちらは首長の館ということだ。高床式ではない住居として復元されていて、少し違和感を感じた。

復元された高床式倉庫や竪穴式住居。


水が湛えられた環濠。


この朝倉市は昨年の北九州豪雨で甚大な被害が発生したところだ。前述の赴任したばかりの職員の方によると、この事務所におられる職員の方々も総出で被害からの復旧にあたってこられたそうだ。遺跡にある竪穴住居の中も水深30センチほど水が溜まっていた。
佐々木さんはここを訪ねる前から何かの形で支援したいと言ってきたのだが、旅行者の私たちができることと言えば買い物や飲食でお金を使うことだと思ってやってきた。ところが、大分自動車道を甘木インターで降りて遺跡に来てみると、田畑と工業団地に囲まれた中にあって飲食や買い物をするところはなく、残念だったけど何もできずに遺跡をあとにすることにした。
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高良大社(北九州実地踏査ツアー No.19)

2018年01月15日 | 実地踏査・古代史旅
香椎宮を出て九州自動車道に乗り、向かった先は福岡県久留米市の高良(こうら)山にある筑後国一之宮の高良大社。私も初めて訪れる神社だ。久留米インターを降りて15分ほど、大鳥居をくぐって紅葉で染まる高良山をぐるぐると登った先の景色のいい駐車場に車を停めた。
途中、山を登る道路わきに「神籠石」と書かれた案内板を見かけ、あの神籠石か!? と思ったものの車を停める所もなく、予備知識もほとんどない状況では見学しても仕方ないか、と思ってそのまま通過した。
 
駐車場前のこの階段を上った先が境内。
 
階段わきにある社標。
 
階段を登りきって振り返ると筑紫平野が目の前に広がる。
筑紫平野の向こうに筑後山地、さらにその先は玄界灘、対馬海峡、朝鮮半島とつながる。
 
祭神と由緒。
 
祭神は高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)、八幡大神、住吉大神。
高良玉垂命は記紀に登場する神ではないことから祭神に関しては古くから論争がある。武内宿禰説、藤大臣説、彦火火出見尊説、水沼祖神説、景行天皇説、物部祖神説、饒速日命説、香春同神説、新羅神説、高麗神説などなど、非常に多くの説が唱えられ、筑後における古代史最大の謎と言われているが、中でも武内宿禰説がもっとも有力とされている。しかし、住吉大神の正体が武内宿禰であるという説もあって、この二柱の神が別の神として祀られている以上、ふたつの説は両立することはない。
 
由緒には「高良の大神は、悠久の昔から筑後川の流域に生活してきた人々が、その生活守護の大神様として奉持して参りました筑後国一の宮であります。御社殿御創建は履中天皇元年で西暦四〇〇年と伝えています。また、朝廷の御尊崇も篤く国幣大社に列せられ、古くは式内明神大社として勅使の御参向を得て祭礼が行なわれた。勅諚によって御神幸も始められました。」と書かれている。これを見る限り、由緒にも記紀の痕跡はない。
 
神社公式サイトの由緒には次のように少し違うことが書かれている。「大社に伝わる『絹本著色高良大社縁起』(福岡県指定文化財)によれば、今から1600年前、仲哀天皇の御世、異国の兵が筑紫(九州)に攻め込んできました。西に下った神功皇后が追い返し、筑前国四王子嶺に登って神仏に助けを祈られた時、高良玉垂命という神が住吉の神と共に初めてご出現されたと伝わります。
 
これによって高良玉垂命と住吉大神が祀られているのは理解できるとしても、八幡大神が祀られる理由がどこにも書かれていないのだ。おそらく八幡信仰が広まった後、神功皇后ゆかりのこの神社にも八幡大神が祀られることになったのだろう。
 
 
中門。
 
本殿。
 
筑紫平野に突き出た耳納(みのう)山地の先端にある高良山は交通、軍事の要衝の地だ。眼下の筑紫平野を北へ向かえば福岡平野から博多湾へ通じ、筑後川を下れば有明海へ、筑後川を遡れば日田へ出て、さらに山越えで宇佐へ通じる。筑後川を挟んだ西側には吉野ヶ里遺跡がある。そしてこの高良の地が邪馬台国という説もある。
 
高良玉垂命といい、神社由緒と言い、高良大社は謎が多い。今回のツアーでも直前にルートに組み込んだために事前学習が不足していたことは否めない。少し時間をかけて勉強する必要を感じた。
 
さあ、次は来た道を少し戻って朝倉市(旧甘木市)平塚川添遺跡へ。
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香椎宮(北九州実地踏査ツアー No.18)

2018年01月13日 | 実地踏査・古代史旅
筥崎宮から15分ほどで香椎宮に到着。ここも9月に来たばかりで、そのときはJR香椎駅から徒歩で参拝した。(前回訪問時の記事はこちら

香椎宮は福岡市東区香椎にあって、主祭神は仲哀天皇と神功皇后で、応神天皇と住吉大神を配祀する。少し長くなるが、神社公式サイトから由緒、起源、由来を転載する。

由緒
香椎宮は仲哀天皇九年(200)、神功皇后躬ら祠を建て、仲哀天皇の神霊を祀給うたのが起源であります。
神功皇后の宮は元正天皇の養老七年(723)に皇后御自身の御神託により、朝廷が九州に詔して社殿の造営を創め聖武天皇の神亀元年(724)に竣工したもので、此の両宮を併せて香椎廟と称しました。
明治以来には官幣大社香椎宮、戦後は香椎宮と称しております。

起源
当宮の起源を申しますと、おおよそ西暦200年、今から1800年前にさかのぼります。
当宮御祭神である仲哀天皇(足仲彦天皇 タラシナカツヒコスメラミコト 14代)は、熊襲の反乱を鎮めるべく、神功皇后共々この香椎の地(筑紫 橿日宮)におこしになられました(仲哀天皇8年 199年)。しかし、志なかば仲哀天皇はこの香椎の地にて崩御されました(住吉大神の御神託)。
その後、神功皇后(気長足姫尊 オキナガタラシヒメノミコト)は神のお告げを受けて、海を渡り新羅を平定され、凱旋後、仲哀天皇様の御霊をしずめるべく神功皇后自らお祭されたのが香椎宮の起源となります。

由来
神功皇后は凱旋後、宇美にて皇子、後の八幡大明神・15代応神天皇様(誉田別命ホムタワケノミコト)をお産みになられます。八幡信仰は、後に源氏の氏神・戦神として全国広く信仰されるわけですが、そのため当宮は八幡様の親神様といわれております。
また当宮は古くは「香椎廟」と呼ばれ、朝廷より特別な待遇を受けておりました。そのため、延喜式神名帳には記載されておりません。正式に「香椎宮」となったのは明治以後でございます。

 本朝四所  伊勢神宮 石清水八幡宮 香椎宮 気比神宮

また、「続日本紀」天平九年(737)夏四月乙巳朔条に「使を伊勢神宮・大神社・筑紫の住吉・八幡二社(宇佐)・及び香椎宮に遣わし、幣を奉り新羅無礼の状を告げしむ」とある。
当初、当宮は現在の古宮に仲哀天皇・現在の本殿の地に神功皇后をお祭りしていたのですが、大正4年11月10日より、この本殿にて仲哀天皇・神功皇后を主祭神として、皇子の八幡様・応神天皇・新羅遠征にご功績あった住吉大神を併せ祀っています。


翻訳、整理するとこうなる。
第14代仲哀天皇は熊襲征伐のためにこの香椎の地にやってきて后の神功皇后と合流した。しかし神功皇后に新羅を討てと言う神のお告げがあった。天皇はこのお告げに従わずに熊襲を討とうとして亡くなった。その後、皇后は朝鮮半島へ渡って新羅を征伐して凱旋帰国、この地に亡き天皇を祀る祠(古宮)を建てた。そして皇后は近くの宇美の地でのちに八幡神となる応神天皇を産んだ。その後、時代が下って元正天皇の723年、この地に自らを祀る社殿を建てるように神功皇后のお告げがあり、聖武天皇が即位した翌724年に竣工した。神功皇后が建てた仲哀天皇を祀る古宮と聖武天皇の時に建てられた神功皇后を祀る宮(現在の本殿の地)を合わせて香椎廟と呼んでいたが、大正4年になって神功皇后を祀る本殿地(香椎宮)に仲哀天皇を遷座、合祀し、あわせて八幡神である応神天皇と新羅征討に従軍した住吉大神を祀った。


この香椎の地は仲哀天皇が崩御した地である一方、八幡神である応神天皇誕生の地でもあり、さらには神功皇后による新羅征伐の大本営が置かれた地である。また、これら一連の出来事において、主役の神功皇后のそばにたえず仕えていたのが側近の武内宿禰である。神功皇后と武内宿禰、そして応神天皇はこの地で古代史の大転換点を作ったのだ。配祀される住吉大神は武内宿禰であるという説もある。

この鳥居の先が境内。(前回訪問時の写真)

西鉄香椎宮前駅から1分、JR香椎駅から6分のところにある頓宮前から続く約1キロの参道を勅使道といい、その勅使道の終点がこの鳥居だ。勅使道はその昔、天皇の使いである勅使が参向するときと神幸式(神霊の御幸)のときだけ使用されたという。道の両側には大楠の並木が続いている。大分八幡宮、筥崎宮に続いてここ香椎宮でも大楠が登場した。

楼門。(上は前回訪問時の写真)


楼門の扉には菊の御紋。

武内宿禰の像。(前回訪問時の写真)


綾杉。

楼門をくぐった正面に立つ神木。「綾杉」の名は杉の葉が交互に生える様を綾に例えたことによる。神功皇后が三韓征伐から帰国した際、剣・鉾・杖の三種宝を埋め、鎧の袖に挿していた杉枝を植えたものという。それくらいの樹齢を感じさせるほどの老木だった。

拝殿。


本殿を横から。(前回訪問時の写真)


境内を出てすぐのところにある古宮。


仲哀天皇大本営御旧跡。


古宮からさらに数分のところには武内宿禰がこの地に駐留しているときに住んだ屋敷跡とされるところがある。そこには不老水と呼ばれる霊泉がある。武内宿禰がこの水によって300歳をこえる寿命を得たことによる。

ここには仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武内宿禰の痕跡が認められる、というかそれらがそろい過ぎている。香椎宮の本殿の創建が724年、すなわち記紀が奏上された後であることから記紀の説話をもとにしたテーマパークと言えないこともない。しかし、古宮の存在がそれを否定しているのではないだろうか。実際に訪れてこの地を自らの脚で歩き、五感で雰囲気を感じると、古代史の大転換点の舞台であったことを感じざるを得ない。

次の訪問地も神功皇后、応神天皇、武内宿禰にゆかりのある高良大社だ。
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筥崎宮(北九州実地踏査ツアー No.17)

2018年01月11日 | 実地踏査・古代史旅
いよいよツアー最終日。この日は前日の大分八幡宮に続いて、筥崎宮、香椎宮、高良大社、宇佐神宮と、応神天皇や神宮皇后ゆかりの神社を訪ねる予定だ。また、平塚川添遺跡、小迫辻原遺跡といった邪馬台国を考える上で重要な遺跡にも行く。さらには今回のツアーと主旨は違うが、踏査ルート上にある耶馬溪の「青の洞門」にも立ち寄ることにしている。

朝7時半にロビーに集合し、ホテル前のコンビニで朝ごはんを買って出発。まずは車で15分ほどの筥崎宮。ここは9月に来たばかり。長くて広い参道を佐々木さんと岡田さんにも歩いてもらいたくて神社から少し離れたところの駐車場に車を停めた。

筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水とともに日本三大八幡宮に数えられ、応神天皇、神功皇后、玉依姫命(神武天皇の母)を祭神とする。神社公式サイトの由緒によると、平安時代中頃である延喜21年(921年)、醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923年)に筑前の大分宮(穂波宮)より遷座したことになっている。筑前の大分宮とは大分八幡宮のことである。これをもって大分八幡宮が筥崎宮の元宮とされるのだ。

醍醐天皇はなぜ大分宮から筥崎宮へ遷座させたのだろうか。921年の神勅の少し前の907年、中国では唐が滅亡して五代十国の分裂時代に入る。また、9世紀以降、新羅が何度も北九州へ侵攻してきていた。さらに朝鮮半島では892年に南西部に後百済が、901年には北部に後高句麗が建国されて後三国時代に入った。9世紀から10世紀にかけての中国および朝鮮半島は動乱の時代であった。そんな状況下において醍醐天皇はその昔に三韓を征伐した神功皇后とその子である応神天皇(八幡神)を祀る八幡宮を博多湾に面する要衝の地に遷し、敵国降伏の宸筆を下賜したのだ。大分宮から筥崎宮への遷座は混乱する東アジアにおける日本国の国威発揚が目的であった。

ここで参道の中間地点くらい。


これは参道入り口の鳥居。でっかい。(前回訪問時の写真)


この鳥居をくぐると境内。


境内。(前回訪問時の写真)


神木「筥松」。(前回訪問時の写真)

楼門の右手の朱の玉垣で囲まれる松の木。神功皇后が応神天皇を出産した際、胞衣を箱に入れてこの地に納め、印として植えられたのがこの「筥松」と言われる。「筥崎(箱崎)」の名称はこの胞衣を納めた箱に由来する。

楼門に掲げられた「敵国降伏」の扁額。(前回訪問時の写真)

敵国降伏の宸筆について神社公式サイトには「本宮に伝存する第一の神宝であり紺紙に金泥で鮮やかに書かれています。 縦横約18センチで全部で三十七葉あります。社記には醍醐天皇の御宸筆と伝わり、以後の天皇も納めれられた記録があります。特に文永11年(西暦1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山上皇が納められた事跡は有名で、文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時に、亀山上皇の御宸筆を謹写拡大したものが掲げられています。」と書かれている。

楼門の中にある本殿。中には入れない。(前回訪問時の写真)


境内に入ってすぐのところにある大楠の樹。

樹齢800年とされる。そういえば大分八幡宮にも大楠の樹があった。

ほかにも境内には「蒙古軍船の碇石」「亀山上皇の御尊像」「千利休奉納の石燈籠」などの見どころがあるが、このツアーの主旨とは関係がないので割愛して次に進もう。次の訪問地は香椎宮で、ここも9月に訪問したばかりだ。

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新原・奴山古墳群(北九州実地踏査ツアー No.16)

2018年01月09日 | 実地踏査・古代史旅
宗像大社を出た後、この日の最終目的地である新原・奴山古墳群に向かう途中、中津宮のある大島を見たいと考えて海岸へ出ようと試みた。カーナビを見ながらできるだけ海に近づこうと進んでいくと港の駐車場に突き当たった。ところが、高い堤防があって海が見えない。当然、島も見えない。堤防にかけられた梯子にのぼってようやく眺めることができた。

玄界灘の荒波に浮かぶ大島。


どうにかこうにか大島を眺めることができ、プチ満足感をもって新原・奴山古墳群へ向かった。途中、重く垂れこめた雲間から指し込む幾筋もの光。今にも神様が降りてきそうな荘厳な風景でした。


10分と少しで到着。古墳群を見渡す高台に駐車場があり、小さな簡易ハウスが事務所になっている。私たちがいくとお爺さんがパンフレットをもって出てきて、説明板を前に説明を始めてくれた。

高台から古墳群を臨む。

古墳群の右手に見えるのが大島だ。ここから見えるのならさっき無理して行かなくてもよかったのに。

上の写真と同じ景色をもとにした古墳の説明。


新原・奴山古墳群は福岡県福津市の対馬見山系にある古墳群。沖ノ島祭祀を行った宗像氏の墳墓群で5世紀後半~6世紀後半の古墳時代中期後半に造営された。優れた航海術を持ち、対外交流に従事した宗像氏は、5~6世紀にかけて入海に面した台地上に墳墓群を築いた。東西800メートルの丘陵地上に前方後円墳5基、円墳35基、方墳1基の計41基が現存する。この他、過去の記録や発掘調査・地形測量により、周囲の田圃開削により失われた古墳が18基あったことが確認されている。

2017年、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして世界遺産に登録されたが、これは古墳が世界遺産に登録された国内最初の例である。

この高台から眺めると、三女神を祀る玄界灘を臨むこの地に幾世代にもわたって築かれた古墳群が宗像一族の墓域であることを確信させる。

記憶が定かではないのだけどお爺さんの説明にこんなくだりがあった。「朝鮮半島から三人の機織り女が連れらてきたときに宗像の王が一人の女を欲しいと言ってかこってしまった。その家があのあたりにある。」 お爺さんは高台から見て右手の山麓の村を指差した。そんな話あったかな、と思って聞き流したものの、帰宅してから日本書紀を読んでいると応神天皇紀の最後にこんな話が記載されていた。「阿知使主(あちのおみ)らが呉から筑紫に着いた。そのときに宗像大神が工女らを欲しいと言われ、兄媛を大神に奉った。これがいま筑紫国にある御使君(みのかいのきみ)の先祖である。」 お爺さんの話はおそらくこのことを言っているのだろう。


夕方になって風が一段と強くなり、寒さが身に沁みてきた。もう少し暖かければ高台を下りて古墳群の中を歩いてみようと思ったけど、おじさん三人組には少し酷な状況であった。これにてこの日の踏査を終了し、博多に向かうこととした。

途中、光の道で有名な宮地嶽神社の前を通過。折しも時刻は夕暮れ前。雲の間から時折太陽が顔を出す。おそらく30分ほどで日没を迎えるであろうが、これだけ雲が垂れ込めている状況では光の道を拝める可能性はかなり低い。疲れもピークで身体も冷えている。ということで、おじさん三人組は合理的判断に基づいてそのまま博多に向かうことにした。

この日の宿泊は博多駅近くのカプセルホテル。観光客で混んでいるのか、それとも何かイベントでもあるのか、この日は手頃なホテルがどこもいっぱいだったのでカプセルホテルの個室を予約。チェックインを済ませ、おでんを食べようと中洲の屋台へ繰り出した。



屋台は開店準備中のお店が多く、開店しているお店はすでに満席で行列ができ始めている。残念ながら屋台は見学だけにして中洲のど真ん中にあるおでん屋さんで身体をあたためることに。



さあ、明日はツアー最終日、大分空港までの長距離ドライブだ。カプセルホテルの大浴場には露天風呂もある。ゆっくり身体を休めよう。
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宗像大社(北九州実地踏査ツアー No.15)

2018年01月07日 | 実地踏査・古代史旅
立岩遺跡を出たあと、1時間もかからずに宗像大社に到着。ここは4ケ月前の7月にひとりで訪ねている。
福岡県宗像市にある神社で、日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社。昨年、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして世界遺産に登録された。

以下は宗像大社の公式サイトにある由緒。
ここ宗像の地は、中国大陸や朝鮮半島に最も近く、外国との貿易や進んだ文化を受け入れる窓口として、重要な位置にありました。 日本最古の歴史書といわれる「日本書紀」には、「歴代天皇のまつりごとを助け、丁重な祭祀を受けられよ」との 神勅(しんちょく)(天照大神のお言葉)により、三女神がこの宗像の地に降りられ、おまつりされるようになったことが記されています。

日本書紀の本文およびふたつの一書(あるふみ=別伝)には次のように記されている。

日本書紀本文
  又勅曰「其十握劒者、是素戔鳴尊物也。故、此三女神、悉是爾兒」便授之素戔鳴尊、此則筑紫胸肩君等所祭神是也

日本書紀一書
  乃以日神所生三女神、令降於筑紫洲、因教之曰「汝三神、宜降居道中、奉助天孫而爲天孫所祭也」

日本書紀一書
  卽以日神所生三女神者、使隆居于葦原中国之宇佐嶋矣、今在海北道中、號曰道主貴、此筑紫水沼君等祭神是也


祭神の説明。

以下は宗像大社の公式サイトより。
宗像大社は天照大神の三柱の御子神をおまつりしています。三女神のお名前は 田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)と申し上げ、田心姫神は 沖津宮(おきつぐう)、湍津姫神は 中津宮(なかつぐう)、市杵島姫神は 辺津宮 (へつぐう)におまつりされており、この三宮を総称して「宗像大社」と申します。


広大な駐車場に車を停めて境内に向かうと、鳥居の脇に「西日本菊花大会」の看板。ないほうがいいのに、と思いながら撮影。


前回訪問時に撮った写真。看板がないほうがいいでしょ。


鳥居をくぐって境内に入ると手水舎や祓舎の周囲に所狭しと菊花が並べれらている。そして気がつくと岡田さんが横道にそれて観菊にふけっている。「目的が違うよ」と佐々木さんに声を掛けられて戻ってきた岡田さんが「スマンスマン、ついつい観に行ってしまった」と。

神門をくぐるとすぐに拝殿。ここにも菊が。


神門の扉には菊の御紋。これは菊花大会とは関係ない。


拝殿。(上の写真は前回訪問時のもの)



日本書紀に記される「奉助天孫而爲天孫所祭」の額が掛けられている。

本殿。(前回訪問時の写真)


拝殿と本殿の全景。美しい。(前回訪問時の写真)


社殿を取り巻くように22の末社が並ぶ。末社の社殿も立派だ。



本殿を参拝したあと高宮祭場に向かうのだが、この高宮祭場がこのツアー2日目のメインイベントだ。宗像三女神の降臨地と伝えられ、沖ノ島と並び我が国の祈りの原形を今に伝える全国でも数少ない古代祭場。

と、その前にここを拝んでおかなければ。それは第二宮、第三宮だ。それぞれ「ていにぐう」「ていさんぐう」と読む。第二宮には沖津宮の田心姫神を、第三宮に中津宮の湍津姫神を祀っているので、さっき参拝した本殿(辺津宮)の市杵島姫神と合わせて海の向こうの沖ノ島や大島へ渡らずとも三女神を拝んだことになると言われる。
この第二宮、第三宮は伊勢神宮の第60回式年遷宮(昭和48年)に際し、特別に下賜された別宮の古殿を移築再建したもの。7月に来たときにはそれ以来42年ぶりの修復作業中で参拝できなかったが今回はその修復が完了し、新しくなった拝殿で参拝することができた。

第二宮。


第三宮。



そしてここが高宮祭場。静かな空気、厳かな雰囲気、話す声が思わず小声になる。






高宮祭場を参拝した後、沖ノ島から発掘された8万点の出土品を展示する神宝館へ。

神宝館入り口の掲示。


入館料は800円。入館するとまずビデオで宗像信仰や沖ノ島の神事について学習してから展示室へ。館内展示物はすべて撮影禁止なのだが、こっそりカシャッとやってみたら隣で観覧していたおじさんに叱られてしまった。スイマセン。

この一帯を支配した宗像氏は海洋族で、朝鮮半島と九州を行き来する航海を取り仕切る一族であった。古来、日本が朝鮮半島を通じて中国との交易を行うためには半島と九州の間に流れる対馬海峡を無事に渡ることが必須要件であった。沖ノ島はその航海の往路においては渡航の無事を神に祈り、復路においては無事の帰国を神に感謝する神事の場であった。当初は宗像氏の私的な神事として行われていたが、大和政権成立の過程で国家神事として取り込まれていったのだ。古代から現代においても島への上陸は制限され、その結果、沖ノ島は古代の姿をそのままに残し、海の正倉院と呼ばれるほどに貴重な財物が自然のままに保存されることとなった。

この神宝館にも掲げられた天照大神の神勅。



8万点の国宝を堪能して神宝館をあとにした。
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立岩遺跡・飯塚市歴史資料館(北九州実地踏査ツアー No.14)

2018年01月05日 | 実地踏査・古代史旅
うどんの松田屋を出て車で10分ほどで飯塚市歴史資料館に到着。立岩遺跡の出土品を始め、飯塚市の古代から近世までの史料を展示する資料館であるが、何といっても甕棺の展示は圧倒的な迫力があった。

資料館の入り口。


駐車場わきに移築されたカクメ石古墳の石室。カクメ石古墳は資料館近くにあった円墳。

このほか、資料館の周囲には石棺の天井石など地元で出土した遺物が並べられていた。

立岩遺跡出土品収蔵展示室入り口。


立岩遺跡というのは飯塚市の立岩丘陵上にある弥生時代の遺跡群を総称した呼称である。昭和8(1933)年に市営グランド造成工事中に発見された(立岩運動場遺跡)。昭和38(1963)年から昭和40(1965)年にかけては遺跡群の中心とされる堀田遺跡の調査が行われ、前漢鏡10面をはじめとする多くの副葬品を有する43基の甕棺墓が発見された。

特に10号甕棺には前漢式銅鏡6面、細形銅矛1本、鉄剣1本が副葬され、この地域を支配していた王墓と考えられる。ゴホウラ貝の腕輪を着けた男性の遺体も一見の価値あり。ゴホウラ貝は琉球でしか採れないため、この時代に立岩と琉球が交易で繋がっていた証である。

ゴホウラ貝で作られた腕輪。


腕輪をつけたまま埋葬された男性。レプリカです。



立岩は上質の石包丁産生地で、遺跡周囲から笠置山の輝緑凝灰岩を材料にした未完成の石包丁が多数出土している。立岩の石包丁は福岡県内をはじめ佐賀県や大分県まで広く分布しており、これがこの国の財源の基盤となったと考えられる。

発掘された石包丁。


立岩産石包丁の出土分布。


大きな甕棺の展示は来場者を圧倒する。










ツアー初日から各遺跡でいやと言うほど甕棺を見てきたが、ずっと疑問だったことがある。甕棺はほとんどの場合、上下とも同じような大きさの甕を使っているのだが、遺体を収める下の甕をもう少し大きくして、蓋となる上の甕を小さくする、さらに言えば鍋蓋のようにすれば接合もしやすくなるし、遺体を収めやすく埋葬もしやすくなるだろう、と思っていた。そしてようやくこの立岩遺跡でそんな甕棺に出会った。しかし、この立岩でもそういう甕棺は決して一般的ではなかった。甕の重さが問題なのだろうか。

資料館を出て車で数分、村の中の狭い道を通って坂道を登っていったところに立岩堀田遺跡がある。

この階段の上。


丘の上に立つ碑。


説明板。


私はこの立岩遺跡を魏志倭人伝に記された不弥国と考えている。その理由は第一部の「不弥国の位置」に書いたのでご覧いただきたい。そして、これで末盧国、伊都国、奴国、不弥国と魏志倭人伝に従って邪馬台国につながる北九州の国々を順に訪ねてきたことなる。倭人伝にはこの不弥国の次に投馬国を経て邪馬台国へ至るルートが記される。不弥国から遠賀川を下って響灘へ出て日本海を東へ航行すると出雲に至る。ここが投馬国。さらに水路と陸路により邪馬台国に到着。そこは大和の纒向。これが私の考えです。

さて、次の訪問地は世界遺産に登録されたばかりの宗像大社。境内にある神宝館には宗像大社沖津宮のある沖ノ島で見つかった8万点にも及ぶ出土品の数々が展示され、これらは全て国宝に指定されている。この宗像大社訪問は佐々木さんの強い希望でもある。
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大分八幡宮(北九州実地踏査ツアー No.13)

2018年01月03日 | 実地踏査・古代史旅
須玖岡本遺跡の次の訪問地は大分(だいぶ)八幡宮。ツアーを企画した最初の時点では予定に入っていなかった。というよりも大分八幡宮の存在を知らず、須玖岡本遺跡の次は福岡県飯塚市にある立岩遺跡へ行く計画を立てていた。ところが、9月に大阪で受講した公開講座でこの大分八幡宮の存在を知ったのだ。三大八幡宮のひとつである筥崎宮の元宮であり、宇佐八幡宮の本宮でもあるという。

宇佐神宮(宇佐八幡宮)の公式サイトによると「全国約11万の神社の うち、八幡さまが最も多く、4万600社あまりのお社(やしろ)があります。宇佐神宮は4万社あまりある八幡さまの総本宮です。」とある。宇佐八幡宮は全国の八幡宮の総本社だという。だとすると、その総本社の本宮である大分八幡宮こそが本当の総元締めということになるではないか。

いずれにしても、応神天皇と神功皇后の痕跡を訪ねるこのツアーとしては、八幡神である応神天皇を祀る八幡宮の総元締めに行かないわけにはいかない。調べてみると、なんと立岩遺跡に行くほぼルート上にあるではないか。9月の公開講座に行ってなければ知らないままだったと思うとラッキー、というよりも後で知ったとするとえらい後悔しただろうな。

正面から。

前面の道路を左手から右手に通過して境内右手の駐車場に入るというのが正解なのですが、ナビの案内に従うと神社手前を左折して神社の裏手にまわってしまった。つきあたりにはおそらく宮司さんのご自宅だろう、新しい立派な家が建っていました。

狛犬。


左(写真上)の狛犬は後ろ脚で、右(写真下)のは前脚で二足立ち。なかなかかわいい。

由緒。

神亀3年(726年)に創建されたとある。記紀が奏上されたあとということだ。

応神天皇産湯の井戸。

この井戸の水を応神天皇の産湯に使ったという。応神天皇が生まれたとされる宇美はここから西へ山越えで十数キロ。八幡宮の総元締めだからこその伝承だ。

大楠の樹。

神功皇后が三韓征伐から帰国の際に持ち帰った3本の楠の内の1本の子孫であると云われている。推定樹齢は約350年、胴回りの径は約9メートルで福岡県指定天然記念物。

社殿。



拝殿、本殿とも平成7年(1995)に改築されたものらしい。

旧社殿跡地。

創建当時の社殿は現社殿後方にあるこの丘陵上にあったという。戦国時代に戦乱のため消失、天正5年(1577)に現在地に再建された。この丘陵地は全国でも珍しい皇室古墳埋蔵推定地「仲哀天皇陵」として考古学者の学問的期待をかけている聖地だという。登ってみたかったが、雨でぬかるんでいたのと、宗像大社見学の時間確保のために断念して車に戻った。

社殿左手に建っていた碑。

1億円の奉納だって! 宮司さんの家、新築っぽかったなあ。

この大分八幡宮は趣のある神社でした。なぜここが八幡さん発祥の地とされるのか、八幡信仰の成立について調べなければ。


次は立岩遺跡、私が不弥国と考えるところだ。

途中、内住川の堤防上の県道60号線沿いにあるうどん屋さん「松田屋」でランチ。乳飲み子を背負って接客する若いお母さんががんばるお店。安くておいしかったです。
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本を出版しました(邪馬台国vs狗奴国の真実)

2018年01月01日 | 雑感
新年、あけましておめでとうございます。

このブログを始めて1年と5ケ月、2回目の正月を迎えることになりました。読んでいただいている皆さま、本当にありがとうございます。毎日のアクセス数を見ていると、訪問いただいている方の数が1年前と比べて2倍くらいになっていて、書き続ける励みになっています。

ここのところ、北九州実地踏査ツアーのレポートを綴っていますが、実はこのツアーに一緒に行った古代史研究仲間の佐々木さんと岡田さんのご協力とご支援を得て、このたび、本を出版することができました。

本のタイトルはブログタイトルと同じ「古代日本国成立の物語」で、サブタイトルを「邪馬台国vs狗奴国の真実」としました。内容は当ブログの「古代日本国成立の物語(第一部)」に少し手を加えたもので、300ページの作品になりました。



この表紙に使用した写真は3月に佐々木さん、岡田さんとともに行った「古代出雲歴史博物館」で自ら撮影したものなのですが、古代出雲歴史博物館には「個人が撮影した写真を営利目的でなくとも出版物に使用する場合は当博物館の承諾が必要」という決まりがあり、担当の方と何度もやり取りをして承諾を得た結果、ようやく掲載することができました。


一昨年のお正月、それまで興味の赴くままに古代史を勉強していた私は「自分の考えを形にしたい」と考え「年内に本を出そう」という目標を立てました。年内という目標は果たせず、結果として2年かかってしまいましたが、ようやく形にすることができました。ご支援いただいた佐々木さん、岡田さんには感謝の気持ちでいっぱいです。
また、車中泊ツアーの記事にも書いていますが、旅行やドライブに出かけた際に遺跡や古墳、神社に立ち寄ることがたびたびあります。それに嫌がらずにつきあってくれる奥さんにはいちばん感謝の意を表したいと思います。
実際に印刷が終わったのは12月下旬でしたが、発行日は2017年11月1日、30回目の結婚記念日を発行日としました。

当ブログは現在「古代日本国成立の物語」の第二部として記事を連載しています。もう少し書き進めたあたりで「続編」として2冊目に挑戦しようと思っています。今回は自分のために作った本なので印刷冊数はごくわずかにしましたが、次はもう少し思い切ってみようかな、とも。

それでは本年も発信を続けますので、ぜひとも読んでいただけますよう、よろしくお願いいたします。


※私の本に興味をお持ちいただいた方は himiko239ru@yahoo.co.jp までご連絡ください。
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