古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

大田区立郷土博物館・久ケ原遺跡

2020年06月27日 | 遺跡・古墳
2020年6月27日、緊急事態宣言が解除されたものの、まだまだ注意をしながら自主的な自粛生活を続ける中、気分転換と運動を兼ねて出かけました。行き先は大田区立郷土博物館と久ケ原遺跡です。なるべく人ごみを回避するために自宅のある北品川から五反田まで歩き、都営浅草線に乗って西馬込で下車、徒歩数分で到着です。



ここは2回目。1回目は2年前、学芸員の資格を取るために通信制大学で勉強をしていた時にレポートの題材にしようとやってきました。大田区は都内で古代遺跡が最も多いところです。それもあってか区立博物館なのに考古資料の充実ぶりはたいしたもんです。











近代の資料はあまり興味がないのだけどせっかく来たのだからと思って3Fの展示室に上がってみた。おっ! 展示が変わっている。







前に来たときは羽田空港の発展、町工場を中心に発展した大田区の歴史に関するパネルや写真がたくさんあったのに、今回は穴守稲荷や松竹の蒲田撮影所の展示に変わっていました。展示替えが行われたようです。で、肝心の考古資料の展示室。このあと久ケ原遺跡に行くことにしていたのでこれをチェックしました。







3週間前に訪ねた多摩川台古墳群に関する資料もたくさん展示されていました。現地を知ったうえで展示を見るのもいいな。博物館で情報収集してから現地を訪ねるのがいつものパターンだったので、逆もアリ、ということです。

さて、1時間半ほど見学して博物館を出ました。ここから久ケ原遺跡までは歩くのが一番早いので30分ほど歩くことにしました。久ケ原遺跡は武蔵野台地の南端にある久が原台地上に広がる弥生時代後期を中心とした関東地方最大の集落遺跡で、南関東地方後期土器編年基準の「久ヶ原式土器」の標式遺跡です。第二京浜からはずれて久が原に近づくと急に坂道が始まります。遺跡が台地上にあるのがよくわかります。



そして到着したのが久が原南台児童公園。台地上に広がる広大な遺跡のごく一部ですが、遺跡を感じることができる唯一の場所だと思います。





似てるなあと思ったらやっぱり久ヶ原式土器を模したイス。



公園の出入り口にはこんなレリーフも。久ケ原遺跡から銅鐸は出ていないはずだけど。







この自転車止めのフェンスも久ヶ原式土器かな。



そして児童公園からすぐ近くの久ケ原遺跡(久が原六丁目11番6号地点)。ここは平成24年に調査されたとのことなので、おそらくこの2軒のお宅が建つときの事前調査だったのでしょう。3基の方形周溝墓と管玉、石器(敲石)、甕型土器、壺型土器などが出土しています。







次に久ケ原遺跡(久が原六丁目13番地点)。ここは六丁目13番というところまでしかわからないので場所を特定できませんでした。





久が原台地は武蔵野台地が南に突き出した舌状台地なので東側、南側、西側はすべて坂道になっています。東側から坂道を上がってきて、帰りは南側を下って東急池上線の千鳥町駅へ出ました。台地上は平坦できれいに区画整理がされていて豪邸が建ち並んでいましたが、そもそもこの区画整理の時に遺跡が発見されたそうです。大阪人の私はこの地が田園調布とならぶ高級住宅地だとは知りませんでした。久ケ原遺跡は古代から現代に至るまで住宅地として栄えた場所だったことがわかりました。


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田園調布古墳群・野毛古墳群

2020年06月10日 | 遺跡・古墳
2020年6月6日、約2カ月のステイホーム生活から少しずつ脱却しようと思って、以前より訪ねようと決めていた多摩川沿いの古墳群を見学してきました。出発時の考えでは自宅から五反田まで歩いて浅草線に乗り、西馬込駅で降りて大田区立郷土博物館を見学、そこから徒歩で久ケ原遺跡を通り抜けて下丸子駅から東急多摩川線で多摩川駅へ行く予定にしていました。ところが、五反田に着いたときに、東急に乗って途中で乗り換えればそのまま多摩川へ行けるではないか、と気がついた。ということで、予定変更して東京池上線に乗車。



まずは多摩川台公園にある古墳展示室を見学。








受付横に貼ってあった古墳散策マップ。

これに従って歩こうと決めました。少し遠いけど、ゴールは野毛大塚古墳だ。では順に紹介します。

浅間神社古墳。5世紀末から6世紀初頭の前方後円墳。



浅間神社は後円部墳丘上に建つ神社。前方部は社殿の裏ですが、東急東横線の工事で破壊されました。

境内からの眺望。晴れていれば富士山が見えます。

古墳築造時の眺望も大きな違いはなかったでしょう。

亀甲山古墳。4世紀後半の前方後円墳。






亀甲山古墳から北に向かって並ぶ8基の古墳は多摩川台古墳群と呼ばれ、6世紀前半から7世紀中頃にかけて築かれました。


1号墳。


2号墳。


3号墳。


4号墳。


5号墳。


6号墳。


7号墳。


8号墳。


8号墳から少し離れた公園の北端に宝莱山古墳。4世紀前半の前方後円墳。

宅地造成に伴って後円部の大半が破壊されました。

前方部への階段。


後円部はこの向こうで途切れています。


ここからは公園を出て田園調布古墳群を歩きます。ただし、この古墳群はほとんどすべてが破壊されて高級住宅地に生まれ変わっていました。多摩川沿いの台地の縁に並ぶ豪邸の隙間や急坂から見える多摩川の眺望は何とも贅沢なものでした。




次に目指したのは5世紀末の帆立貝式古墳である八幡塚古墳。しばらく歩くと現れたのは宇佐神社。八幡塚古墳はこの神社の境内にあるはず、と思って境内に足を踏み入れました。

全国の神社の半数を占めるとも言われる八幡宮。そうです、普通は八幡神社とか八幡宮とか呼ばれるのに、そのものズバリの宇佐神社はあまり見ないですね。


社殿の右奥が墳丘です。

社殿左手にある墳丘に通じていそうな道は立入禁止。反対側の社務所右手に道があったので行ってみるとここからも立入禁止。

奥の方に墳丘に登る階段が見えます。

墳丘にはどうしても行けそうにないので、ぐるっとまわって裏の駐車場に出てみると墳丘はすぐそこに。

でも、柵に囲まれて入れません。残念。

宇佐神社からさらに歩いて狐塚古墳に到着。5世紀後半の円墳です。

祠が建っていた名残りがあります。




高台の上のさらに高い墳丘からの眺めは最高です。

そのまま西へ進んで御岳山古墳へ向かいます。ここまでの道中で写真に収めたくなる豪邸がたくさんあったのだけど、きりがないと思って一枚も撮っていませんでした。でも、こちらのお宅は思わずパシャッと。


御岳山古墳はこのお宅のすぐそばで、5世紀後半の帆立貝式古墳。



残念ながらここも入れず。

さて、残すは野毛大塚古墳のみですが、目黒通りの反対側にある等々力不動尊に寄ってみました。

山門の横に立つ説明で初めて知った等々力渓谷の存在。東京23区にこんなところがあるなんて。ここを歩いて行けばいいやん。







少し進むと7世紀に造られたとされる等々力渓谷横穴墓群がありました。3号墓が保存されています。




そしてついに野毛大塚古墳。5世紀初頭の帆立貝式古墳で、きれいに復元整備されています。







帆立貝式特有の短い前方部の左側に大きな造り出し部がある珍しい構造。




埋葬施設が4基も見つかりました。

八幡塚古墳からこの野毛大塚古墳までの野毛古墳群は首長墓と考えられる大きな古墳は帆立貝式古墳が主流でした。一方の田園調布古墳群の大型古墳は前方後円墳がメインです。これはふたつの古墳群が別々の一族による墓域ということの表れかもしれない。

以上で本日の見学は終了です。ここから等々力駅まで歩いて東急大井町線で大井町へ出て、北品川の自宅まで歩いて帰ってきました。iPhoneの計測で全部で約21,000歩と少し、もっと歩いたように感じるのですが、いずれにしてもよく歩きました。


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