古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

築山古墳群(続編)

2019年01月10日 | 遺跡・古墳
年末年始に奈良県大和高田市の奥さんの実家に帰った時に築山古墳群を再度探索しました。前回のときに写真を撮り忘れたところや今回新たに訪ねたところを紹介します。

まずは近鉄大阪線の築山駅の前にあるインキ山古墳(前方後円墳)です。

前回は日が暮れてからだったので明るいときに再訪しました。

右手が墳丘で左が駅です。おそらく鉄道や駅の建設のときに墳丘が削られて道路が敷設されたのだと思います。

道路を進んで振り返ったところ。右手が駅で、墳丘上には保育園があります。この駅は築山という駅ですが、もともとこのあたりの地名が築山といいます。まさに古墳を表している地名だと思います。

次にかん山古墳。築山古墳群最大の築山古墳の隣(北側)にある築山児童公園の中にあります。公園の入口はまさに墳丘を登る感じです。


帆立貝型前方後円墳の前方部から。

右手に見える階段を登ると墳丘の頂上です。頂上からの眺めはなかなか素晴らしい。

南側の眼の前に築山古墳。


西を臨めば二上山から葛城・金剛連山。


北側には大谷自然公園。

林のあたりが公園で、公園内にふたつの円墳(大谷1号墳と2号墳)があります。見えないですが、このずっと先に馬見丘陵が広がっています。

東には近畿地方最大の円墳であるコンピラ山古墳と、ずっとむこうの左手に三輪山が見えます。


次は大谷自然公園内にある大谷1号墳。



2号墳。


円墳の肩越しに築山古墳が見えます。

築山古墳の北東すぐのところにある古屋敷古墳。


Wikipediaによると石室が露出しているとなっているのですが、私有地で中に入れないので確認ができませんでした。

築山古墳から南へ進んでJR和歌山線を越えたあたりの池田遺跡に隣接する領家山古墳。

道端にあった町内会の地図には「領家山古墳」と書かれていたのですが、どうやらこの丘陵全体が古墳ということではないようです。この丘陵上に3つほどの古墳があるそうです。

説明板にはたしかに「領家山古墳群」と書かれています。階段を登って天照皇太神社の社殿の裏側にまわると小さな円墳らしき小山がありました。


さらに南へいくと古墳らしきこんもりした空間。

ここには岡崎稲荷神社があり鳥居をくぐって境内の左側に行くと小さな祠がありました。


右側に墳丘が少し削られたと思われる痕跡があります。たぶん古墳と思われるのですが、一度ちゃんと調べてみます。

最後に盟主墳である築山古墳をぐるっと一周しました。

前方部の右隅。


前方部。


前方部左隅。


南側の前方部から後円部にかけて。

前回は北側(右側)しか撮影しなかったので、今回は反対側を撮りました。こちらはくびれ部に造り出しがあるのがわかります。

後円部。(前回の写真)


北側の後円部から前方部にかけて。(前回の写真)


この築山古墳群を含めて馬見丘陵に広がる馬見古墳群は葛城氏の墓域と考えられていますが、葛城氏の本貫地はもう少し南へいった葛城市から御所市にかけてのあたりと考えられるので、少し距離が離れているように感じます。この築山古墳群がぎりぎりのところかもわかりません。今回、ワンコとともに歩き回ってつぶさに観察したことで、この古墳群にたいへん興味を持ったので、あらためて勉強してみたいと思いました。

以上、築山古墳群レポートの続編でした。



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大山古墳(伝仁徳天皇陵)

2019年01月08日 | 遺跡・古墳
 2018年12月、大阪府堺市にある百舌鳥古墳群最大の前方後円墳である大山古墳とその陪塚をいくつか訪ねました。すぐ目の前にある堺市博物館を先に見学して少しインプットしてから時間の許す限り観察しました。といってもあまりに大きいので前方部手前の道路を行ったり来たりしただけに終わったのですが、、、



 大山古墳あるいは大仙陵古墳と一般的に呼ばれるようになったのは最近のことではないでしょうか。大阪に生まれ育った私は子どもの頃から何の疑いもなく仁徳天皇陵と呼んでいたし、学校でもそのように教わりました。しかし被葬者が仁徳天皇と特定できないばかりか、そもそも仁徳天皇は実在しなかったという説もあるくらいなので、仁徳天皇陵という名称はあくまで通称で、遺跡名としての大山古墳あるいは大仙陵古墳を用いるのが適切であるということだと思います。ちなみに宮内庁ではここを仁徳天皇陵に治定するとともに記紀の記述をもとに「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」という呼称を用いています。世界最大の古墳で墳丘の全長は486m、堤や濠まで含めた古墳全体の最大長は840mにもなります。現在の濠は三重になっています。

拝所。撮影場所は第2堤、つまり外側の堤の上で、拝所そのものは第1堤の上です。


 ボランティアガイドの方が近づいてきて「説明しましょうか」と言ってくれたのでお願いすることにしました。大きな話題となった宮内庁と堺市による共同調査が終わったばかりだったので、そのネタから会話が始まりました。ガイドの方のお名前は木内さん。古墳に詳しく私と同様に機会を見つけては全国の古墳を訪ね歩いているそうです。

拝所からすぐそこに見える調査現場。第1堤の一画です。

2月に発掘調査結果の報告と写真パネルによる展示が行われるようです。

 百舌鳥古墳群は南を流れる石津川あるいはその支流の河岸段丘上、もしくは上町台地の南端といった方がいいのでしょうか、いずれにしても平地よりも10mほど高くなったところにあります。この古墳群に限らず多くの古墳群は台地上や段丘上など周囲より一段高いところに造営されることが多く、その理由は諸説あるようですが、ガイドの木内さんのお考えによると、これらの古墳は築造当時は木々はなく葺石で覆われた大きな造営物で、少し見上げるような場所にあると人々に被葬者を崇める気持ちが湧いてくる、だから一段高いところに造るのだとおっしゃいます。一理あるなと思うのですが、私は少し違う考えをしています。というのも、宮崎県にある西都原古墳群や新田原古墳群なども段丘上にあるのですが、いずれも平地との標高差が数十メートルの急坂を上った高台の上に古墳群が広がっており、平地から古墳は見えないのです。とすると、必ずしも下からどう見えるかを意識したのではなく、逆に上から見下ろすことを意識したのではないでしょうか。そしてもうひとつの理由は、低地に造ると河川が氾濫したときに流されてしまうから。だからできるだけ周囲から高いところに設けようとしたのです。古墳時代前期やさらに遡る弥生時代には少し高いどころか、山上や丘陵上に築かれた古墳や墳丘墓がたくさんあります。

古墳右側の濠と前方部の右隅。


古墳左側の濠と前方部の左隅。


前方部前面の濠。左側から。

世界最大とあって一周すると3km近くあるので今回はこのように前方部の前面のみの見学です。そして前方部の手前に並ぶ陪塚も見てきました。

前方部手前のもっとも右側にあるのが収塚(おさめづか)古墳。

5世紀中頃の築造で全長59mの帆立貝形古墳です。


次に大山古墳の軸線上にある孫太夫山(まごだゆうやま)古墳。

これも5世紀中頃築造の帆立貝式古墳で、全長は65mです。


そして竜佐山古墳。


5世紀後半から末の築造とされる全長60mの帆立貝式古墳。


前方部手前の左端にあるのが狐山古墳。

5世紀後半の築造とされる径30mの円墳。


狐山古墳から少しだけ前方部側に寄ったところの銅亀山(どうかめやま)古墳。

5世紀中頃の築造で、一辺26mの方墳。


最後に収塚古墳から少し離れたところにある長塚古墳。


5世紀中頃から後半の築造とされる全長106.4mの前方後円墳。

これは他の陪塚と比べると規模が大きくて墳形も整っていることから、大山古墳の陪塚ではなくて単独の古墳とされ、国史跡になっています。ただ、実際に歩いてみると大山古墳からの距離が他の陪塚とあまり変わらないことや、大きさも確かに100mを越える全長であるものの、孫太夫山古墳の65mと比べると圧倒的に大きいわけではないので、これも陪塚と考えるのが自然なように思いました。

 それから、ガイドの木内さんはこの古墳編年表を見せながら、和泉の百舌鳥古墳群と河内の古市古墳群で交互に古墳が大きくなっていき、この大山古墳を最後にこれよりも大きな古墳が築かれなくなった、ということを説明してくれました。わずか10キロほどの至近距離に同時期に存在したふたつの勢力が競い合っていたということになるのでしょうか。木内さんはこの質問には答えてくれませんでした。

この編年表は近つ飛鳥博物館の前館長の白石太一郎氏によるものです。

 この表を見ていて大きな疑問が湧きました。表中の百舌鳥古墳群にある上石津ミサンザイ古墳は宮内庁が履中天皇陵に治定している古墳です。それが仁徳天皇陵に治定される大仙陵よりも先に築かれたことになっているのです。応神→仁徳→履中→反正→允恭、、、おかしいですね。考古学的にはこの大山古墳は仁徳天皇陵と言えないのかもしれません。そういえば学術的には今城塚古墳が継体天皇陵に治定されるべきなのに、時代が合わない太田茶臼山古墳が継体陵に治定されているというケースもありました。

 それともうひとつ。現在は三重の濠になっているのですが、三重目の濠は明治時代になってから設けられたとのこと。江戸時代の「舳松領絵図(へまつりょうえず)」に三重目の濠の南西角周辺が残存した姿が描かれていたことが根拠とされています。しかし、木内さんの話では、三重目の濠を掘った時に埴輪などの遺物がほとんど出なかったので、やはりもとから二重の濠であったのではないかと言われているそうです。

舳松領絵図(堺市立図書館地域資料デジタルアーカイブより)


 木内さんのおかげで新たな気づきを得ることができ、そして楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。帰り間際に私の本を宣伝しておいたのですが、読んでくれたでしょうか。

この大山古墳の拝所と眼の前にある堺市博物館は、最寄り駅であるJR阪和線の百舌鳥駅から徒歩で数分のところです。


世界遺産に登録されるといいのにな。



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堺市博物館

2019年01月06日 | 博物館
2018年12月、大阪府堺市の大仙公園内、仁徳天皇陵とされる大山古墳の真ん前にある堺市博物館を見学しました。





受付で料金200円を支払って入館。ちょうどシアターでの上映が始まったところだったので、まず最初に10分ほどの動画を見ることにしたのですが、百舌鳥古墳群を紹介するこの映像、なかなかよくできていました。百舌鳥古墳群と同時期に造営された古市古墳群とともに最盛期の様子をCGで再現し、当時の河川の流れもよくわかる。とくに大和川を消した映像がいい。現在の地図ではどうしても大和川が視界に入ってイメージを邪魔してしまう。現在の大和川は江戸時代に付け替えられたもので古代にはここを流れていなかったので、重要な河川は石津川や西除川、石川であるはずだ。それに気づかせてくれる映像でした。

シアターの裏に展示された大山古墳(伝仁徳天皇陵)の写真や絵図。














昔の大山古墳の様子やその変遷がよくわかる。現在は青々と木々が茂っている墳丘ですが、昔は意外にも地肌が見えていたこともあったようです。このあと展示室へ入りました。常設展は展示替えの真っ最中で中世以降のコーナーは閉鎖されていたのが残念だったものの、その分、考古資料をじっくりと堪能することができました。



















世界遺産登録を目指す百舌鳥古墳群のど真ん中だけあって、古墳時代の展示の充実ぶりは流石と思ったものの、逆に縄文や弥生時代の展示に物足りなさを感じずにはおれませんでした。

縄文・弥生の展示はこのパネルだけ。

四ツ池遺跡など重要な遺跡があるにもかかわらず、これはあまりに寂しすぎます。

となりの和泉市にある「いずみの国歴史館」で学芸員実習を受けたことを機に和泉や泉州の古代史を少し勉強したあとだけに、古墳時代につながる弥生時代、さらには縄文時代のことも学べる博物館であってほしいと思いました。

考古資料をじっくり堪能したものの上に掲載した写真がほぼ全てなので1時間ほどで見学を終了。常設展や百舌鳥古墳群に関する図録を購入しようと思ったのですが、いずれも在庫がなく入手できませんでした。仕方なく博物館を出て眼の前の大山古墳や周囲にある陪塚を見学することにしました。



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