饒速日命が率いる集団が降臨に際してまず向かった先は大和でも河内でもなく丹後国であった。先に見た勘注系図による饒速日命の降臨ルートの第一歩は「高天原→丹後国の伊去奈子嶽」となっている。勘注系図では饒速日命を天火明命と同一として天孫族と位置付けたため、出発地は必然的に高天原となるが実際は北九州の不弥国であった。饒速日命はその不弥国を脱してまず丹後の伊去奈子嶽に降臨した。山の頂に降臨するのはまさに瓊々杵尊が日向の高千穂の峯に降臨したのと同じ設定であり、これも天孫族であることの演出であろう。この伊去奈子嶽は丹後半島の付け根の真ん中にある標高661mの磯砂山のことで、古代より羽衣伝説が語られ、伊勢神宮外宮に祀られる豊受大神が降臨した山とも伝えられる。日本海を航行する船からも見えるらしい。饒速日命はこの丹後国のど真ん中にある丹後一の山に降り立ったのだ。その後、由良川を遡って本州の最も低い分水嶺である石生を越えて加古川をくだり、瀬戸内海から河内湖へ入って河内国に上陸し、河内で勢力を整えたのちに大和に入って唐古・鍵に落ち着いた。河内に残った勢力はその後の物部本宗家へとつながり、大和で国を構えた勢力は後に日向からやってきた神武勢力に屈することになる。この流れは第一部で書いた通りである。
饒速日命が建国した唐古・鍵王国は奈良盆地の真ん中に位置する。冬至の日、ここから見ると南東方向にある三輪山の山頂から日が昇るという。一年で最も日照時間が短い、すなわち太陽の力が最も衰える冬至の日、彼らは太陽が昇る三輪山に対して、これ以上、太陽の力が衰えないようにと祈ったことであろう。彼らにとって三輪山は祈りの対象、すなわち神奈備であったはずだ。そこから、その神奈備に祖先神をも祀るようになったのではないか。三輪山山頂に祀られるのは大物主神であり、おそらく彼らの祖先神であろう。彼らとは饒速日命の後裔集団である。なお、三輪山には大国主神も祀られているが、大物主神と大国主神は同一神ではないということは第一部の「大己貴神と三輪山」で書いたとおりである。
崇神天皇の時、疫病が流行って国民の半数以上が死亡し、また、農民の流浪や反逆が相次いだときに、天皇の夢に大物主神が現れて「我が子の大田田根子に自分を祀らせればすぐに収まるだろう」と告げた。その大田田根子は茅渟県の陶邑(すえむら)で発見されたという。陶邑は須恵器の窯跡が多数発掘された大阪府堺市南部の丘陵地帯を指すと言われている。この一帯はもとは河内国に属していたが716年に分離されて和泉国となった。また、古事記では河内国の美努村となっていることからも、大田田根子が河内国にいたことは間違いない。河内国と言えば物部氏の本貫地であり、大田田根子もその系譜に属する人物ではなかったか。また、書記では大田田根子は大物主神の子(古事記では四世孫)であり、三輪氏の先祖でもあるとも書かれていることから、第一部「大己貴神と三輪山」では、大物主神は三輪氏が祀る土着の神であるという考えを書いた。さらに記紀ともに大田田根子が大物主神を祀る祭主に任じられたことが記される。大田田根子を介して登場人物の整理をするとこうなる。(赤字は私の考えによる。)
唐古・鍵に進出した饒速日命の後裔集団は三輪山を神奈備として仰ぎ、またそこに祖先神を祀るようになった。その祖先神とは三輪山山頂に祀られる大物主神である。そしてその大物主神の子孫である大田田根子は物部氏の本貫地である河内国の人物であることから物部一族であると考えられる。つまり大物主神は饒速日命の子孫である物部氏が祀る神であったのだ。
饒速日命は大和での最終決戦にて神武天皇に敗れ、葛城を拠点に勢力基盤を築いた神武王朝に組み入れられ、物部氏となって神事を担当するようになった。それが先の大田田根子であり、また物部連の先祖である伊香色雄が神班物者(神に捧げものを分かつ人)に任じられたのもその表れである。
さて、勘注系図によると饒速日命は大和から丹後に戻っている。場所は凡海息津嶋となっており、若狭湾に浮かぶ冠島と沓島と言われる。戻った先が海に浮かぶ島であったかどうかはさておき、とにかく丹後に戻った。丹後から大和へ、その後に再び丹後へ、という経緯については第一部「尾張氏と丹波」「尾張氏と大海氏」に書いた通りである。ただし第一部では丹後国が中国江南に由来する国であることを前提に書いているが、今はそうではないと考えているので、その部分は読み飛ばしていただきたい。それでも大筋の流れは変わらないので。そして饒速日命は最後に丹後の籠宮に落ち着いたのだ。籠宮を含めて丹後国については機会を改めて考えてみたい。
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饒速日命が建国した唐古・鍵王国は奈良盆地の真ん中に位置する。冬至の日、ここから見ると南東方向にある三輪山の山頂から日が昇るという。一年で最も日照時間が短い、すなわち太陽の力が最も衰える冬至の日、彼らは太陽が昇る三輪山に対して、これ以上、太陽の力が衰えないようにと祈ったことであろう。彼らにとって三輪山は祈りの対象、すなわち神奈備であったはずだ。そこから、その神奈備に祖先神をも祀るようになったのではないか。三輪山山頂に祀られるのは大物主神であり、おそらく彼らの祖先神であろう。彼らとは饒速日命の後裔集団である。なお、三輪山には大国主神も祀られているが、大物主神と大国主神は同一神ではないということは第一部の「大己貴神と三輪山」で書いたとおりである。
崇神天皇の時、疫病が流行って国民の半数以上が死亡し、また、農民の流浪や反逆が相次いだときに、天皇の夢に大物主神が現れて「我が子の大田田根子に自分を祀らせればすぐに収まるだろう」と告げた。その大田田根子は茅渟県の陶邑(すえむら)で発見されたという。陶邑は須恵器の窯跡が多数発掘された大阪府堺市南部の丘陵地帯を指すと言われている。この一帯はもとは河内国に属していたが716年に分離されて和泉国となった。また、古事記では河内国の美努村となっていることからも、大田田根子が河内国にいたことは間違いない。河内国と言えば物部氏の本貫地であり、大田田根子もその系譜に属する人物ではなかったか。また、書記では大田田根子は大物主神の子(古事記では四世孫)であり、三輪氏の先祖でもあるとも書かれていることから、第一部「大己貴神と三輪山」では、大物主神は三輪氏が祀る土着の神であるという考えを書いた。さらに記紀ともに大田田根子が大物主神を祀る祭主に任じられたことが記される。大田田根子を介して登場人物の整理をするとこうなる。(赤字は私の考えによる。)
唐古・鍵に進出した饒速日命の後裔集団は三輪山を神奈備として仰ぎ、またそこに祖先神を祀るようになった。その祖先神とは三輪山山頂に祀られる大物主神である。そしてその大物主神の子孫である大田田根子は物部氏の本貫地である河内国の人物であることから物部一族であると考えられる。つまり大物主神は饒速日命の子孫である物部氏が祀る神であったのだ。
饒速日命は大和での最終決戦にて神武天皇に敗れ、葛城を拠点に勢力基盤を築いた神武王朝に組み入れられ、物部氏となって神事を担当するようになった。それが先の大田田根子であり、また物部連の先祖である伊香色雄が神班物者(神に捧げものを分かつ人)に任じられたのもその表れである。
さて、勘注系図によると饒速日命は大和から丹後に戻っている。場所は凡海息津嶋となっており、若狭湾に浮かぶ冠島と沓島と言われる。戻った先が海に浮かぶ島であったかどうかはさておき、とにかく丹後に戻った。丹後から大和へ、その後に再び丹後へ、という経緯については第一部「尾張氏と丹波」「尾張氏と大海氏」に書いた通りである。ただし第一部では丹後国が中国江南に由来する国であることを前提に書いているが、今はそうではないと考えているので、その部分は読み飛ばしていただきたい。それでも大筋の流れは変わらないので。そして饒速日命は最後に丹後の籠宮に落ち着いたのだ。籠宮を含めて丹後国については機会を改めて考えてみたい。
古代丹後王国は、あった―秘宝『海部氏系図』より探る | |
伴 とし子 | |
MBC21京都支局すばる出版 |
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