古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

室生寺・室生龍穴神社奥宮・大神神社

2023年12月16日 | 神社・仏閣
2023年11月12日、奥さんの友人がふたり、関東からやって来たので紅葉を見ようとお連れしたのが室生寺。まだ時期が早かったのか、それとも遅かったのか、思ったほどの紅葉が見られなかった。それに、今年は灼熱の真夏がなかなか終わらなかったからか、葉っぱにツヤがないですね。






それにしても、この五重塔の姿はいつ見ても心に染み入る。紅葉がダメでもこの姿を見るだけで満足です。





ここから少しだけ足を延ばして室生龍穴神社の奥宮に行きました。



なめらかな岩盤の上を細長く白い水がすべるように流れる様子はまるで龍のよう。水の流れを聴きながら佇んでいると、この龍が向こう岸の穴の中にいると思えてきます。





お昼を過ぎていたのでどこかでランチを、と思いながら車を走らせます。次は大神神社に行くことになったので、三輪そうめんを食べることにしました。私は親子丼とにゅう麺のセットです。



天候がすぐれず、ついに雨が降り出したこともあって境内には人の姿がほとんど見られません。何度も来ているけど、こんなに人がいないのは初めてです。




少し歩いて狭井神社も参拝しました。




10年くらい前、ここから三輪山に足を踏み入れて登拝しました。



帰りの参道です。境内はどこもこんな感じで人がほとんどいません。




まもなく境内が人でいっぱいになるお正月がやってきますが、この日のように静かで落ち着いた空気の中を参拝するのがいいですね。

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薬師寺

2021年02月20日 | 神社・仏閣
2021年2月某日、好天に誘われて薬師寺に行ってきました。約10年前から始まった東塔の解体修理が完了し、ちょうど竣工式が行われたあとでした。実は数年前、仕事の関係で解体修理中の現場を見学する機会に恵まれました。東塔が解体されて一本の心柱がまっすぐに立っている様を見たときは鳥肌ものでした。本来なら昨年春に修理を終えて落慶法要が営まれる予定でしたが、コロナのために法要は延期になったままです。

南門の受付で入山料800円を払って境内に入ります。





この中門をくぐると右に真ん中に金堂、右に東塔、左に西塔という伽藍が広がっています。



冬の空にそびえる東塔は見後に修理が施され、その荘厳な出で立ちはまさに「凍れる音楽」。いつまでも眺めていられます。





東塔の向かい側に立つ西塔。初めて薬師寺を訪ねたのは中学の遠足の時だったか、そのときはこの西塔は立っていませんでしたが、その後、昭和56年に再建されて金堂の両脇に二つの塔がそびえることになりました。西塔には風鐸が吊られていて、風に揺れてカランカランと優しい音を奏でていました。





金堂には薬師如来、日光菩薩、月光菩薩の薬師三尊が祀られています。それぞれに手を合わせてきました。







大講堂、さらには食堂の裏にある梅のつぼみがほころんでいい感じに咲き始めていました。







北門を抜けてまっすぐに行くと唐招提寺に至ります。入山料が1000円と少しお高めだったので、外から眺めるだけにしました。





薬師寺に引き返す途中、「よしむら」という蕎麦屋さんで蕎麦パフェをいただきました。これまで食べたことのないパフェは絶品でした。





3月1日から東塔初層の特別開扉が行われるので、3月に入ってから訪ねてもよかったのですが、思い立ったが吉日で、心が洗われる心地よい一日となりました。









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女人高野「室生寺」

2021年02月07日 | 神社・仏閣
2021年2月6日、奈良県宇陀市にある女人高野と呼ばれる室生寺を訪ねました。とあることがきっかけで始まった35年前の記憶をたどる旅シリーズの第三弾です。(ちなみに、第一弾は談山神社、第二弾は壺阪寺でした。)

自宅を出たのが12時前と少しゆっくりしたスタートでした。途中、渋滞があったのとランチをとったりしたので室生寺に到着したのが15時前になってしまいました。

赤い欄干の太鼓橋を渡ると境内です。






入山料を払うところで「16時に閉山するので奥之院に参るのなら先に行ってください」と言われました。往復でどれくらい時間がかかるかを訪ねると、1時間ほどだというのでこの時点では五重塔さえ観れれば良いと思い、奥之院の参拝をあきらめていました。

山門をくぐって階段を登ると金堂が建っています。




さらに階段を登ると本堂です。


山の斜面に伽藍がある室生寺は階段だらけ。本堂左側の階段の上には今回の目的だった五重塔が建っています。











まっすぐに伸びた杉の大木に囲まれて建つ五重塔が35年前の姿そのままに見えました。記憶がよみがえり、懐かしい気持ちがこみ上げてきました。

五重塔の先を進むと奥之院です。閉山までに戻ってこれそうにない時刻でしたが、他の参拝の方々が進んでいくのを見て私たちも行けるところまで行ってみることにしました。

急峻な斜面に立つ杉の大木の太い根は土に潜ることなく、大きな岩にしがみつくようにして大木を支えています。そしてその先には急な階段が延々と続いています。





途中で3度ほど休憩をしてたどりついたところが奥之院です。すでにお堂は閉まっていましたが、お堂の裏に回って眺める景色は最高でした。







35年前に来た時もちょうど今頃の季節で、なんと雪が積もる中での参拝でしたが、この日は気温が高くて、奥之院への参拝で汗びっしょりとなりました。結局、奥之院も含めて境内を一巡して戻ってきたのが16時ちょうどでした。

最後に、売店のおばちゃんと話をした際に驚きの事実を知ることになりました(単に忘れていただけですが)。おばちゃんに「今日は35年ぶりの参拝なんです」と話しかけると、「じゃあ、五重塔は変わっていますね」と言われてしまいました。いやいや、今観てきたばかりだけど、何も変わっていなかったと思いながら「何か変わったのですか」と聞くと、20年前に建て替えられたというのです。その瞬間に、台風で壊滅的な被害を受けたというニュースを思い出したのです。そのときの写真を見せてもらいましたが、それは衝撃の絵でした。

でも、わずか20年前に再建されたばかりなのに、数百年も前からそこに建っていたかのような風格と佇まいで、五重の屋根に苔がむして何とも言えぬ趣を感じる。35年前と同じものを観たわけではないけど、たしかに35年前の記憶を確認できた一日となりました。








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丹生川上神社上社

2021年01月24日 | 神社・仏閣
2021年1月4日、自粛を続けた年末年始の最終日、あまりにも穏やかな一日だったのでのんびりした一日を過ごそうと、車で奥吉野にあるホテル杉の湯の日帰り入浴に出かけました。自宅のある富田林を出て水越峠を越え(水越トンネルを抜け)、葛城最大の室宮山古墳を右手に見ながら吉野を目指します。

途中、吉野川の大滝ダムに立ち寄りました。吉野川は奈良県一帯に上水を供給する奈良県民にとって貴重な水資源です。そしてこの大滝ダムは住民の激しい反対運動が続き、長期化ダム事業の代表例として「東の八ツ場、西の大滝」という言葉も生まれたそうです。

大滝ダムから杉の湯まではすぐそこです。そして丹生川上神社上社は杉の湯の向かい側の山の中腹にあるので、先に参拝することにしました。この神社はダム建設によって湖底に沈むために1998年、現在の地に遷座させられました。祭神が高龗神(たかおかみのかみ)といい、伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれた神様で、京都の貴船神社の祭神でもあります。相殿神として大山祇神と大雷神が祀られています。









丹生川上神社にはこの上社のほか、中社、下社があって、明治以来の論争が興味深い。以下、Wikipediaからの転載です。

明治初年までは高龗神社という小規模な祠で、その由緒も不詳であるが、大滝ダム建設に伴う境内の発掘調査により宮の平遺跡が発見され、本殿跡の真下から平安時代後半(11世紀末)以前に遡る自然石を敷き並べた祭壇跡が出土し、また付近からは、縄文時代中期末から後期初め(約4000年前)にかけての祭祀遺跡と見られる、立石を伴う環状配石遺構が出土したため、途中奈良・古墳時代にかけての断絶が認められるものの、当神社の祭祀空間としての機能は縄文時代にまで遡る可能性が出てきた。

明治6年(1873年)に郷社に列したが、当時の官幣大社丹生川上神社(現在の下社)少宮司江藤正澄が、下社の鎮座地は寛平7年(895年)の太政官符(『類聚三代格』所収)に記す丹生川上神社の四至境域に合致しないことを指摘して当神社を式内丹生川上神社に比定し、翌明治7年には当神社を下社所轄の神社とするとともに、下社を「口の宮」、当神社を「奥の宮」と称した。その後江藤説が認められて、明治29年(1896年)に「口の宮」を「丹生川上下社」、当神社を「同上社」と改称し、2社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」となった。

だが、大正(1915)4年 、現・中社のある東吉野村出身の森口奈良吉が『丹生川上神社考』を著して、「蟻通神社(現丹生川上神社・中社)=丹生川上社説」を唱え、これが受け入れられたため、同11年(1922年)10月12日内務省告示で「郷社丹生川上神社、奈良県吉野郡小川村鎮座、祭神罔象女神。右官幣大社丹生川上神社中社ト定メラルル旨被仰出」とされ、上社・下社は中社に包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされた。その際、上社の祭神は罔象女神から郷社時代と同じ高龗神に再び戻された。


遷座の際に見つかった平安時代の祭祀場跡が移転、復元されています。











近いうちに中社、下社も訪ねてみたいと思います。


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野間神社

2018年05月27日 | 神社・仏閣
2018年5月25日の南九州実地踏査の続編。向こうに見える島の対岸を目指して進みます。


野間半島から戻って平地に出たところで車を停めて野間神社の場所をGoogleマップで調べてみると、すこし距離がありそうだったのであきらめて当初から考えていた場所「瓊瓊杵尊駐蹕之地」へ向かうことにした。しばらく走ると左手の山に登っていく道の入口に「野間神社2km」の案内板が見えた。なんだ2キロか、近いやん。寄り道しても問題ないと思ってハンドルを左に切って山道に入った。ほとんど車が走っていないのだろう、道路は小枝や葉っぱに埋もれている。それでも2キロだから大丈夫だ。

ところが、走れど走れど神社は見えない。すでに2キロ以上走っている。ずっと登っていた道がいつの間にか下りになっている。これは絶対に間違っているぞ。でも、途中で道が分かれているところはなかったし。2キロと思ってナビをセットしなかったのが間違いだった。あらためてナビをセットすると、やはり間違っていた。ほぼ180度の角度で枝分かれした道があり、それを曲がらなければいけなかった。曲がると言うよりもほぼUターンだけど。そこまで戻らなければいけないのだけど、これまたUターンする場所がない。しかたなく狭い道で何度も切り返しをしてようやく逆戻り。ここでもC-HRを用意したレンタカー屋さんを恨んだ。野間半島に続いて不安増大。でも野間岬と同じで、ここまで来たら引き返せない。行くところまで行こう。


※この記事を書きながら枝分かれした道のところをGoogleストリートビューで確認すると、大変なことがわかりました。

これがストリートビューの画像で2013年11月撮影となっている。

左から走ってきて、ここを鋭角に曲がって上の道へ入らないといけなかったのです。

拡大すると、、、

なんと、野間神社の矢印があるではないですか。実際に行ったときにはこの標示はなくなっていて、左の白いのが倒れていました。そもそも、この道には気づいていたものの、まさか車が通れる道だとは思わずに真っ直ぐに進んだのです。それでも、この正しいと思われる道は少し細くない? C-HRで大丈夫? ますます不安が増大して束の間の躊躇。それでも行くしかない。

とにかく、ようやく正しいルートに戻って山を登っていく。しかし、だ。ナビを見ると目的地まで4.7kmと出ている。おかしい。野間神社までは2キロのはずだ。ここまでですでに何キロも走っている。ルートをみると野間神社までは野間岳をぐるりと周りながら登っていくようだ。そうか、2キロというのは歩いて、つまり登山道で2キロということなんだろう。どっちにしても野間神社って野間岳の上にあるんだ。そこで初めてわかった。

※ここでもGoogleストリートビューで確認すると、またまた大変なことがわかりました。

これが上と同じく2013年11月に撮影されたストリートビューの画像で実際に見たのと同じ案内板です。ここを左に曲がって山道に入ったのです。野間神社まで2kmとなっています。


これはクリック一回分だけストリートビューを進めてみたときの画像。なんと、12kmとなっています。この撮影は2012年1月となっています。


2012年1月以降のどこかで「1」が剥落したのです。たぶん、12kmだったら行かなかったと思う。でも、苦労はしたけど行って良かったので結果オーライです。

それでようやく到着した野間神社。立派な由緒ある神社の予感。


創建がわからないんだ。軽四のおじさんは伊勢神宮より古いって言ってたけど何を根拠に。

瓊瓊杵尊・木花開耶姫の夫婦と、火蘭降尊・彦火々出見尊・火照尊の三人の子どもたち、つまり天孫一家を祀っているのです。もともと野間岳の頂上にあったものをこの八合目に遷したとのこと。

石標も苔むしてよく読めない。


拝殿を正面から。


裏に本殿が見えます。


境内から野間岳山頂を目指す登山ルートがあります。

往復で1時間なので時間があれば登ってみたかった。

車で登れるのはここまで。わずか2キロと思って来てみたらとんでもない高いところまで来てしまった。


帰りは途中から東へ降りる違うルートがあることがわかったので、そちらで下山。向かう先は上の写真にある「宮ノ山」で、ここは「神代聖蹟 瓊瓊杵尊駐蹕之地」とされる遺跡があるところだ。

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香椎宮

2017年11月17日 | 神社・仏閣
 2017年9月、福岡県福岡市東区香椎にある香椎宮を参拝。勅祭社であり、旧社格は官幣大社。主祭神は仲哀天皇と神功皇后で、応神天皇と住吉大神を配祀する。現在も勅祭社として10年に一度、天皇からの勅使の参向を受ける神社である。
 博多駅からJR鹿児島本線で北へ向かい4つ目の香椎駅で下車。香椎宮の最寄駅はこの香椎駅から香椎線に乗り換えて1つめの香椎神宮駅であるが、勅使道と呼ばれる参道を歩いてみたかったので香椎駅で改札を出た。

勅使道のスタート。この右手にある小さな丘の上に頓宮がある。頓宮は神幸式のときの神輿の仮宮であるので、普段はここに神様はいない。神幸式(神幸祭ともいう)とは神霊の御幸(ぎょこう)が行われる神社の祭礼のことで、多くの場合は神霊が宿った神体や依り代などを神輿に移して氏子地域内に御幸したり、御旅所や元宮に渡御したりする。

この奥が頓宮。


勅使道は古くは神の道として、勅使参向ならびに神幸式の時のみに使用されたという。直近の勅祭は平成27年10月9日に斎行された。


両側に楠の並木が続く1キロほどの勅使道のゴールは香椎宮の入り口。



香椎宮とその周辺は見どころがいっぱい。日本古代史の最大の転換点となった場所、というのは言い過ぎかな。


荘厳な楼門。


楼門をくぐって右手にある勅使館。


さらにその奥には武内宿禰の像がある。


綾杉。楼門をくぐった正面の広場に立つ神木。「綾杉」の名は杉の葉が交互に生える様を綾に例えたことによるらしい。神功皇后が三韓征伐から帰国した際、剣・鉾・杖の三種宝を埋め、鎧の袖に挿していた杉枝を本朝鎮護祈願で植えたものという。そうだとしたら樹齢は1600年以上か。


中門をくぐるとすぐに拝殿。


本殿は横から撮影。この構造はここだけのもので日本唯一の「香椎造」と言うらしい。


境内を出て少し歩いたところにある古宮。仲哀天皇が熊襲征伐の際に設けた仮宮「橿日宮(訶志比宮)」の伝承地。大正4年(1915年)までは仲哀天皇を祀る祠が存在したが同年に本殿に合祀されたという。



仲哀天皇の棺を掛けたという神木「香椎」。棺掛椎(かんかけのしい)という。


歩を進めた突き当たりにある「仲哀天皇大本営御旧蹟」の碑。



仲哀天皇は熊襲を討とうとこの地へやってきたが、后である神功皇后に憑いた神が西の新羅を討つことを勧める。天皇はその神の教えを聞かなかったために崩御する。日本書紀では熊襲の矢に当たって死んだとも、病で倒れたとも。古事記では神託の場で琴を弾いていた天皇はそのまま息絶えたという。その現場にいたのは天皇のほかに神功皇后と武内宿禰のみ。記紀ともにこのシーンはいかにも意味深に描かれている。このあと、神功皇后は朝鮮半島へ渡って新羅との戦に勝利。凱旋帰国して応神天皇を生んだ。

古宮から歩いて5分ほどのところにある不老水。仲哀天皇・神功皇后に仕えた武内宿禰がこの泉の水を汲んで食事・酒を調えて300歳以上という長寿を保ったことによるという。


この一帯は天皇・皇后に随行した武内宿禰が居住した地として「武内屋敷跡」と呼ばれる。


「武内」の表札がかかっているのは、現在ここに住んでおられる方が武内さんなのか、それとも武内屋敷跡を示す案内板なのか。

途中から降りだした雨のせいもかもしれないが、香椎宮境内と古宮から武内屋敷跡にかけての一帯は千数百年まえに起こった事件を感じさせる空気だった。
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日前神宮・國懸神宮

2017年08月21日 | 神社・仏閣
 2017年8月18日、紀伊半島半周ツアーの最後の訪問地は日前神宮(ひのくまじんぐう)と國懸神宮(くにかかすじんぐう)。2つの神社が1つの境内にあり、いずれも紀伊国一之宮である。




神社に到着したのが16時50分。参拝は17時までとされ、まもなく閉めるのでもう入らないで、という感じ。
ちなみに上の正面からの写真は参拝後に撮ったために柵が閉められています。


入口からの参道が突き当たったところ。向かって左に日前神宮、右に國懸神宮がある。
10分で参拝しなければならないので境内を駆け足。


まずは日前神宮。拝殿と本殿。



 主祭神は日前大神で日像鏡(ひがたのかがみ)をご神体とする。相殿神として思兼命(おもいかねのみこと)と石凝姥命(いしこりどめのみこと)を祀る。

次に國懸神宮の拝殿と本殿。



 主祭神は國懸大神で日矛鏡(ひぼこのかがみ)をご神体とする。相殿神として玉祖命(たまのやのみこと)、明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)、鈿女命(うづめのみこと)を祀る。


 以下に神社公式サイトから由緒の一部を転載(一部修正)します。

神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命を治工とし、天香山から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡を鋳造しました。その初度に鋳造された天照大御神の御鏡前霊(さきみたま)が、日前國懸両神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊國造に任命し、二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています。
 
 1つ目の文章はたしかに日本書紀神代巻第七段の一書に、天岩屋に閉じこもった天照大神を引き出すために思兼神が「天照大神の形を映すものを造って招き出そう」と考え「以石凝姥爲冶工採天香山之金以作日矛(中略)是卽紀伊國所坐日前神也」と記されているのですが、第2・第3の文にあるようなことは書紀に記述がない。第2の文章は古語拾遺に「於是從思兼神議令石凝姥神鑄日像之鏡初度所鑄少不合意(是紀伊國日前神也)」とあるので、ここからの引用かと思う。そして第3の文章はどうやら先代旧事本紀や紀伊続風土記、紀伊国造系図によるものと思われる。
 古来、この地を治めていた紀氏一族は日前神宮・國懸神宮の祭祀も担っていた。その紀氏が自らの伝承と記紀を結び付けて一族の由緒、両神宮の由緒として語り継いできたのであろう。順序としては、紀氏の伝承を書紀が一書として取り入れ、古語拾遺や先代旧事本紀がそれに編集を加えた。紀氏はこれらをもとに自らの伝承を盛ることにした。それが紀伊続風土記や紀伊国造系図に反映され、そして現在の由緒ができあがった。あくまで私の想像です。

 Wikipediaによると両神宮は以下のように丁重な扱いを受けています。それにも関わらず、その由緒が記紀の記述をベースに構成されていないことに大きな違和感を抱いてしまいます。

 ご神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされている。八咫鏡は伊勢神宮で天照大神のご神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ、準皇祖神の扱いをうけていたという。日神(天照大神)に対する日前神という名称からも特別な神であると考えられ、また、伊勢が大和への東の出口に対して、当社は西の出口にあるため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたともいわれている。また、日前神宮のご祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。

 もう少し踏み込んで調べてみたい。
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竈山神社

2017年08月20日 | 神社・仏閣
 2017年8月18日、一泊旅行の2日目。和歌山市和田にある竈山(かまやま)神社を参拝。祭神は神武天皇の長兄である彦五瀬命。

 記紀によると、日向を出て瀬戸内海を東征してきた神武軍は難波に上陸、孔舎衛坂での長髄彦の軍と一戦を交えることになったが、この戦いで五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。その後、一時退却した一行が雄水門(男之水門)を経て紀国に進軍中に五瀬命は崩御したため、この竈山の地に葬られたという。

 彦五瀬命の墓は、現在は宮内庁によって竈山神社後背にある古墳「竈山墓(かまやまのはか)」に治定(じじょう)されている。紀伊続風土記ではこの地が「竈山墓」にあたるとし、墓の造営後直ちに神霊を奉斎したがために墓と祠が一所にあるとしている。 
 竈山墓は神社裏手の高さ9メートルの丘の上に設けられた直径6メートル、高さ1メートルの円墳とされる。また、神社は明治初期までは小さな社であったが、戦前の国家神道の発展に伴って最高の社格である官幣大社に位置づけられ、さらに社殿等が整備されて現在に至っているという。




参道から神門。


本当に立派な拝殿。


拝殿右側にならぶ境内摂社と拝殿裏手の本殿。この本殿はよく見ると二棟が縦に並んでいるようだ。


拝殿左側には本殿に通じる通路が。左手に見える階段は竈山墓に通じているように思える。



 竈山神社の神職は明治まで代々鵜飼家(うがいけ)が世襲した。鵜飼家は記紀において吉野川で漁をしていたとされる贄持之子(苞苴擔之子)、すなわち阿陀之鵜飼の祖(阿太養鸕部の祖)に始まるとされる。五瀬命の話だけでは記紀神話のテーマパークとも言えなくもないが、神職の家が記紀の記述との強い関連が想定される鵜飼家であったということで、より信憑性が高まる。

 ただ、配祀されている神々を列挙すると、稲飯命、御毛入沼命、神日本磐余彦命(神武天皇)、可美眞手命、天日方竒日方命、天種子命、天富命、道臣命、椎根津彦命、頭八咫烏命、となっており、さながら神武東征御一行様の様相である。ここまで並べれらると、これらの神々が配祀されたのは記紀編纂後のことであることは明らかだ。

 また、古墳と神社が一体になっているのは出雲の神原神社でも見た。やはり古墳の被葬者と神社の祭神は同一人物と考えるのが妥当であるとの思いを強くした。それにしても、想像していた以上に立派な神社だった。
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丹生都比売神社

2017年08月19日 | 神社・仏閣
 2017年8月17~18日、紀伊半島の西側を半周するドライブ旅行に行ってきました。17日の11時頃に富田林の自宅を出発、丹生都比売神社と高野山を参拝し、そのまま高野龍神スカイラインを走って龍神温泉で一泊。2日目は紀伊半島をさらに南下して奇絶峡を観て田辺市へ。田辺からは国道42号線を北上して白崎海岸に立ち寄り、再び42号線へ戻ってそのまま和歌山市内に入って竈山神社と国前神社・國懸神社を参拝、少し時間が遅くなったので阪和道を走って自宅へ戻りました。今回のお宿「旅館さかい」はペットと宿泊できる旅館だったので、初めてワンコを連れての旅行となりました。

 ここでは和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある丹生都比売神社を紹介します。紀伊国一之宮、旧官幣大社ということもあってか、秋篠宮ご夫妻も参拝され、記念の植樹がされていました。

駐車場に車を停めてまず目に入ったのが、立派な朱塗りの輪橋。


一の鳥居の奥に輪橋。


ワンコも一緒に橋を渡りました。


橋を渡ると奥に社殿が見えます。


予想以上に立派な拝殿にびっくり。


拝殿の裏手に4棟の本殿が並ぶ。右から第一殿、第二殿、第三殿、第四殿。


それぞれのご祭神。


第一殿の丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)は通称「丹生明神」と呼ばれ、古くより祀られていた神様。
第二殿の高野御子大神(たかのみこのおおかみ)は通称「狩場明神」と呼ばれ、高野山開創と関係する神様。
第三殿の大食津比売大神 (おおげつひめのおおかみ)は通称「気比明神」と呼ばれ、承元2年(1208年)に福井県敦賀市の気比神宮から勧請されたと伝えられている。
第四殿の市杵島比売大神 (いちきしまひめのおおかみ)は通称「厳島明神」と呼ばれ、第三殿と同年に厳島神社から勧請されたと伝えられている。

以下に神社公式サイトによる由緒を転載します。(一部変更しています)
 
紀ノ川より紀伊山地に入り標高四五〇メートルの盆地天野に当社が創建されたのは古く、今から千七百年前のことと伝えられます。天平時代に書かれた祝詞である『丹生大明神祝詞(にうだいみょうじんのりと)』によれば、丹生都比売大神は天照大御神の御妹神さまで稚日女命(わかひるめのみこと)とも申し上げ、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されました。
 
また、『播磨国風土記』によれば、神功皇后(じんぐうこうごう)の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとあります。
 
ご祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、『魏志倭人伝 ぎしわじんでん』には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。全国にある丹生神社は八十八社、丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、当社は、その総本社であります。
 
丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。これ以降、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されてゆきました。中世、当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ、明治の神仏分離まで当社は五十六人の神主と僧侶で守られてきました。
 
また、高野山参詣の表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社境内の入口で、まず当社に参拝した後に高野山に登ることが慣習でした。鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿が北条政子により寄進され、本殿が四殿となり、このころから舞楽法会が明治のはじめまで盛んに行われます。現存する本殿は、室町時代に復興され、朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されています。
 
尚、平成十六年七月「紀伊山地の霊場と参詣道」の丹生都比売神社境内として世界遺産へ登録されました。



 高野山へ登る途中の山深い山村にひっそり佇む神社で、しかも主祭神と考えられる第一殿の丹生都比売大神は記紀に登場しない神様。紀伊国一之宮とされることに違和感を持ったのですが、この由緒を読むと少し納得かな。




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比売許曽神社

2017年07月15日 | 神社・仏閣
 ちょうど天日槍を考えている最中の2017年7月10日、朝から本社で会議を済ませて別のオフィスへ移動する途中、ふと思い出して立ち寄った。場所は大阪市東成区、鶴橋駅の近くである。
 


 
 日本書紀では垂仁天皇紀の都怒我阿羅斯等(大加羅国の王子)の話に、古事記では応神天皇段の天之日矛(新羅の王子)の話に登場する。都怒我阿羅斯等は白い石が変身した童女を追っていくと日本までやってきて、童女は難波で比売語曽社の神となった。一方の天之日矛は赤い玉が変身した妻を罵ったところ「祖国に帰ります」と言って逃げていき、難波にたどり着いた。この女神は難波の比売碁曽社にいる阿加流比売である。
 

 
 この難波の比売語曽社、あるいは比売碁曽社がここであろう、と思ってやって来たのだ。当然、ここの祭神は阿加流比売かと思いきや、全然違った。
 


 主祭神は下照比売命で、相殿神として速素盞嗚命・味耜高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命・橘豊日命を祀っているという。神社縁起をみても前述の記紀の話は関係がなさそうだ。あとで調べてみると、阿加流比売命を祀るのは赤留比売神社で、それは大阪市平野区にあるという。なんと以前に住んでいた場所の近くだ。こんなことなら先に調べればよかったと思ってもあとの祭り。
 祭りと言えば、この比売許曽神社、ちょうど夏祭りの準備の真っ最中でした。



 それでも何か収穫は無いものかと思って神社の周囲をぐるりと歩き回り、狭い境内を隅から隅まで眺めて、そして発見。




 本殿の横にある稲荷社の提灯に「白玉稲荷大神」の文字。これぞ都怒我阿羅斯等が追いかけてきた童女の元の姿である白石と関係あるのではないか。そう思って帰宅後に調べてみると、どうも関係がなさそうだった。白玉稲荷は全国のどこにでもあるようだ。

 実地踏査にあたっては事前準備が必要であることを改めて認識した一日となりました。
コメント (2)
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厳島神社

2016年11月07日 | 神社・仏閣
2015年11月3日、道後温泉を出発、しまなみ海道で瀬戸内海を渡り、広島県廿日市にある安芸国一の宮、厳島神社へ。公式表記は「嚴島神社」、祭神は宗像三女神である市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の三柱。

以下は神社ホームページにある由緒。

当社の御祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)と素盞鳴尊(すさのおのみこと)が高天原(たかまのはら)で剣玉の御誓(うけい)をされた時に御出現になった神々で、御皇室の安泰や国家鎮護、また海上の守護神として古くから崇信を受けられた。
宮島に御鎮座地を探されるにあたり、この島を治める佐伯鞍職(さえきのくらもと)に神勅が下った。鞍職は大神様が高天原から連れてきた神鴉(ごからす)の先導のもと、御祭神と共に島の浦々を巡り、海水の差し引きする現在地を選んで御社殿を建てたのは、推古天皇御即位の年(593年)であると伝えられる。
その後安芸守となった平清盛(たいらのきよもり)が当社を篤く崇敬し、仁安3年(1168年)に寝殿造の様式を取り入れた御社殿に修造した。清盛の官位が上がるにつれ平家一門のみならず、承安4年(1174年)に、後白河(ごしらかわ)法皇の御幸(ごこう)、治承4年(1180)3月と9月に高倉上皇の御幸(ごこう)があるなど、多くの皇族・貴族が参詣され、都の文化がもたらされた。
当社に対する崇敬は、平家から源氏の世になっても変わることなく、又時代が移り室町時代の足利尊氏や義満、戦国時代の大内家、毛利家などからも崇拝された。



宮島口桟橋からフェリーで対岸の宮島桟橋へ。


普段は海の中にある大鳥居も干潮時はこの通り。


近くで見れば大迫力。


海側から見た扁額と神社側から見た扁額の表記が違うと聞いていたので確認。
海側がこれ。

神社がこれ。


東回廊からの大鳥居。


鏡の池。清水が湧き出ていて、干潮時に現れて手鏡ように見えることからこの名がついたという。


なぜこの地に宗像三女神が祀られるようになったのか、神社ホームページの由緒からはうかがい知れない。日本書紀には神武天皇が東征の際に安芸に立ち寄って埃宮を設けたことが記されていることから安芸は神武の味方集団が居住する地であったと思われる。一方で宗像三女神は出雲の素戔嗚尊とつながる北九州の神、すなわち天照大神からつながる天孫族である神武王朝と敵対する集団の神である。天孫族の味方集団の地に敵集団の神が祀られるのはどうしてだろうか。その違和感からかもしれないが、この神社には何か作為的な信仰を感じてしまった。
今回は諸般の事情で行程に入れなかった磐座のある弥山、安芸の埃宮と考える境外摂社の大元神社。宮島再訪の機会があれば必ず訪れたい。



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大山祇神社

2016年10月26日 | 神社・仏閣
2015年11月2日、四国へ旅行して「しまなみ海道」を走ったときに立ち寄った大山祇神社。愛媛県今治市大三島町宮浦にある伊予国一宮で、全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。祭神は大山積神。日本総鎮守の社号をもち、初代総理大臣の伊藤博文、旧帝国海軍連合艦隊司令長官の山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの参拝があった。現在でも海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝があるとのこと。

以下は、今治地方観光協会のサイトより。
今からおよそ2600年くらい前、神武天皇御東征(南九州地方より奈良地方へ御東征したと伝えられています。)にさきがけて、御祭神、大山積大神の子孫小千命が先駆者として伊予二名国(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司どっていたとき芸予海峡の要衡である御島(大三島)を神地と定め鎮祭したことにはじまると伝えられます。御祭神は、大山積大神で天照大神の兄神に当り、天孫瓊々杵尊御降臨に際し御子女神木花開耶姫命を皇妃として国を奉られたわが国建国の大神で、山幸神(山林・鉱山の神)、和多志神(航海の神)、大水上神(地水、稲作の神)、塩筒神(陸上・海上交通の知識神)、事勝国勝長狭神(戦勝の神)が祀られ御神徳のある由緒ある神社です。本殿、拝殿、宝篋印塔は重要文化財に指定され、隣接する宝物館には国宝を含む数多くの重要文化財を収蔵しています。


二の鳥居。

日本総鎮守の扁額。


由緒。


総門。2010年に再建されたばかり。総ヒノキ造りで高さは12m。


これをくぐれば本殿。


樹齢2600年ともいわれる大楠。


能因法師雨乞いの樟。伝承樹齢3000年。かつて日本最古の楠と言われた。Wikipediaによると、18世紀に枯死し腐朽がかなり進行しているが、1990年頃の調査でも胸高幹周10mの大木である。名称は1066年の大干ばつの際、能因法師がこの木に幣帛を掛け雨乞いを行ったことに由来する。


神社から海辺までは歩いてもすぐ。


神社の前のお店。新鮮な海鮮がメチャ安。神社参拝に行かれるときは必ずここでご飯を食べるべし。名前を書いて順番を待つ間に参拝を。



現地へ行けば山の要素は全く感じない。この神社はどう考えても海の神社である。大山祇神は海の神である。このあたりは中世の村上水軍の本拠地であり、古代より瀬戸内海を制する集団の拠点であった。



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葛城一言主神社

2016年10月16日 | 神社・仏閣
2016年6月18日、葛木神社めぐりの最後は奈良県御所市森脇にある葛城一言主神社。葛城山麓バイパスの少し西側、まさに葛城山の麓にある。すなおにバイパスを北上して行けばよかったのだが、地図をみるとバイパスを左折する交差点がなかったのでカーナビを頼りに村の中の細い道を進んだところ、神社に通じる参道入り口まではいくのだけど、そこには一の鳥居が立っていた。鳥居の下は階段と燈籠のために車は通れない。鳥居の横には軽四なら通れそうな細い道。両側の石壁や鳥居の柱に車をこすってしまうリスクを取れずに右往左往。あたりを少し回っても車を停めておく場所もなく、やむを得ずに鳥居横の道へ突入し、両側ギリギリセーフで無事に通過。帰りにわかったことだが、バイパスを北上してきた場合は、いったん右折してぐるっと回り込んでバイパスの下をくぐれば参道に出ることができたのだ。

この神社、祭神は一言主大神と幼武尊(雄略天皇)であるが、以下は、葛城一言主神社パンフレット「いちごんさん」より、と書かれた御所市の観光ホームページから。

本社に鎮まります一言主大神は、第二十一代雄略天皇(幼武尊)が葛城山に狩をされた時に、顕現されました。
一言主大神は天皇と同じ姿で葛城山に顕現され、雄略天皇はそれが大神であることを知り、大御刀・弓矢・百官どもの衣服を奉献したと伝えられています。天皇はこの一言主大神を深く崇敬され、大いに御神徳を得られたのであります。この大神が顕現された「神降(かみたち)」と伝える地に、一言主大神と幼武尊(雄略天皇)をお祀りするのが当神社であります。そして、『古事記』が伝えるところによると、一言主大神は自ら「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」と、その神としての神力をお示しになられております。そのためか、この神様を「一言(いちごん)さん」という親愛の情を込めた呼び方でお呼び申し、一言の願いであれば何ごとでもお聴き下さる神様として、里びとはもちろんのこと、古く全国各地からの信仰を集めております。
当社は全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本社であり、全国各地には当社に参拝するための講があり、現代にも篤い信仰を集めています。


二の鳥居。冒頭に書いたように一の鳥居は写真を撮る余裕がなかったため、二の鳥居からスタート。


参道脇の蜘蛛塚。神武天皇が葛城の高尾張邑の土蜘蛛を倒して埋めた場所と伝わる。


この階段を上がったところに拝殿。


拝殿。



拝殿前のイチョウの古木(乳銀杏)。樹齢1200年ともいわれ神木とされている。倒伏寸前のため強風の際には近づかないよう注意書きがされていた。たしかにこのつっかえ棒をはずしたらすぐにでも倒れそう。


祭神と由緒の説明。



古事記によれば一言主神は悪事も善事もひと言で言い放つ神。それが現在、ひと言なら願い事を叶えてくれる神ということになっている。昔の人は都合よく解釈したもんだ。





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葛木御歳神社

2016年10月15日 | 神社・仏閣
2016年6月18日、高鴨神社、鴨都波神社についで鴨三社の3番目、奈良県御所市東持田にある葛木御歳神社。国道24号線を少し東に入ったところ。御神体である御歳山の麓にひっそりと佇む小さな神社。

主祭神として御歳神、相殿神として大年神と高照姫命の3柱を祀る。
神社サイトにある由緒は以下の通り。

御祭神はご本社の背後の美しい御歳山に お鎮まりになって、金剛山の扇状地にひらけた稲田を御守護された神であります。
古くは神奈備(かむなび-神の鎮座する山や森)の御歳山に自然石の磐座(いわくら)をたて、神を迎えてお祀りするという古式の形式だったと思われます。
現在の本殿は、春日大社の本殿第一殿を移築したものであります。
御神名の「トシ」は穀物特に稲、またはそのみのりをさす古語で、稲の神、五穀豊穣をもたらす神として古くから尊崇されています。
また「トシ」は年に一度の収穫を基準とした時の単位であることから、事を始める時にお祈りするとよいとされています。
古来より朝廷で 豊作祈願のために行われた年頭の祈年祭(としごひのまつり)には、まず本社の御歳神の名が読みあげられました。
古書の記録では、仁寿二年(八五二年)には、大和国で本社だけが最高の正二位の神位を授かる程篤く尊崇され、後に従一位に昇格され、延喜の制では、名神大社に列した神社として尊ばれた古社であります。
また、水害の度に奉幣された記録もあり、風雨を司る神としても神力を示され、尊信されたものと思われます。 
私たちが正月に祭り親しんでいる年神様(としがみさま)は、この大年神、御歳神、若年神といわれています。
鏡餅は御歳神へのお供え物であり、このおさがりのお餅には御歳神の魂がこめられており、これを 「御歳魂(おとしだま)」と呼んでいたものが今の「お年玉」の起源であります。
本社は、鴨氏の名社で、御所市にある高鴨神社(上鴨-かみがも社)、鴨都波神社(下鴨-しもがも社)とともに中鴨社(なかがもしゃ)として親しまれています。
古事記には須佐之男命(スサノヲノミコト)と神大市比売命の御子が大年神で、大年神と香用比売命の御子が御歳神であると記されています。
相殿の高照姫命は大国主神の娘神で八重事代主神の妹神であります。一説には高照姫命は下照姫命(拠-古事記に高比売命=高照姫、別名下照姫命とある)、加夜奈留美命(拠-五郡神社記)、阿加流姫命と同一神とも云われています。



一の鳥居。

この鳥居、参道の端っこに建てられている上に、正面に電柱や古木があって実際は使われていない。人も車も鳥居の横を通らなければならない。

二の鳥居。


拝殿。


本殿。


祭神と由緒。


一の鳥居の横を過ぎたところにある駐車場からの眺め。

右が葛城山、左が金剛山で、その間が水越峠。葛城は意外にも交通の要衝である。この水越峠を越えれば河内に出る。また、この御歳神社をさらに南下して風の森峠を越えれば紀ノ川に出る。紀ノ川を下れば大阪湾から瀬戸内海へ、逆に紀ノ川を遡れば吉野へ出て、吉野からは熊野にも、伊勢にも通じる。この地を押さえて古代の一時期に栄えたのが葛城氏だった。



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鴨都波神社

2016年10月14日 | 神社・仏閣
2016年6月18日、高鴨神社に次いで奈良県御所市宮前町にある鴨都波神社。高天彦神社、高鴨神社は標高の高い山麓にあったが、ここは山を下って奈良盆地を縦貫する国道24号線沿いにある。

祭神は積羽八重事代主命と下照比売命。神社のサイトにある説明をそのまま記載する。

 鴨都波神社が御鎮座されたのは、飛鳥時代よりもさらに古い第10代崇神天皇の時代であり、奈良県桜井市に御鎮座されている「大神神社」の別宮とも称されています。
 おまつりされている神様は、「積羽八重事代主命」(つわやえことしろぬしのみこと)と申され、大神神社におまつりされている「大国主命」(おおくにぬしのみこと)の子どもにあたる神様です。国を守る農耕の神様として大変崇められ、宮中におまつりされている八つの神様の一神でもあります。
 また、一般的には「えびす神」という呼称で、商売繁盛の神様としても有名です。
 そもそもこの葛城の地には、「鴨族」と呼ばれる古代豪族が弥生時代の中頃から大きな勢力を持ち始めました。
 当初は、「高鴨神社」付近を本拠としていましたが、水稲農耕に適した本社付近に本拠を移し、大規模な集落を形成するようになりました。そのことは、本社一帯が「鴨都波遺跡」として数多くの遺跡発掘によって明らかになっています。
 彼らは、先進的な優れた能力を発揮して、朝廷から厚く召し抱えられました。そのような「鴨族」とのかかわりの中から誕生した本社は、平安時代には名神大社という最高位に列せられた由緒ある名社であります。


この説明にあるように、この神社は弥生時代の遺跡の上に乗っかっている。この鴨都波遺跡は古代の葛城を語るうえでたいへん重要な遺跡であるが、詳しくは神武東征のくだりであらためて書きたい。
国道24号線を南下し近鉄御所駅を少し行ったところ、神社の手前の小さな交差点を左折、神社をぐるっと回り込んだところに駐車場がある。現在のメインストリートである国道からみると裏通りに神社の入り口がある。

一の鳥居(たぶん)。
駐車場からそのまま神社に入るとこの鳥居はくぐらない。それどころか鳥居の存在もわからない。神社を背にして参道らしき道を少し行ったところで鳥居発見。鳥居の奥に見える緑が本殿のあるところ。


拝殿。


拝殿裏手に本殿。


祭神と由緒。


高鴨神社と比べると小ぶりで寂れた感もあるが、こちらの方が歴史を感じた。



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