古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

武内宿禰の考察⑦(二倍年暦について)

2020年09月16日 | 武内宿禰
■二倍年暦について

武内宿禰の考察の最後にあたって、その長寿を考えた際に触れておいた「二倍年暦」なるものについて自分の考えを整理しておきたい。二倍年暦は九州王朝説を主張する古田武彦氏によって広められた説で、古代においては春と秋を区切りとして年が変わる、つまり現代では一年と数える時間の経過を二年と数える方法を用いていた、というものだ。魏志倭人伝よりも少し先に成立した「魏略」という史書があり、倭人伝には次のようにこの魏略を引用した箇所(赤字部分)がある。

其俗 擧事行來 有所云為 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆。其會同坐起 父子男女無別。人性嗜酒。魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀。見大人所敬 但搏手以當跪拝 其人寿考 或百年或八九十年。

倭人は卜骨によって吉凶を占い、立ち居振る舞いなどでは父子や男女の区別はなく、また酒を好む、と倭人の習俗を説明したあとに、魏略から引用した注釈として「その習俗は正歳四節を知らず、ただ春に耕し、秋に収穫することを計って一年とする」という文章が挿入される。さらに「人々は長寿で、百歳あるいは八、九十歳の者もいる」と記される。魏略からの引用をわざわざここに挟んだのは、この百歳という長寿を合理的に説明しようとしたものだろう。つまり、春と秋に2回歳を取るので、実際は50歳あるいは40~45歳ですよと言いたかったとされる。また、「三国志」に死亡時の年齢が書かれている90名についてその年齢を調査したところ、平均が52.5歳で、このうち特に高齢であるため記載された例をのぞくと、その没年齢は30代と40代が最も多かったことから、倭人の年齢を半分と考えれば合理的な説明がつく、という主張もされたようだ。

こういうことが大きな根拠となって二倍年暦なるものが提唱され、これによって記紀における古代天皇の長寿も合理的に説明できるとして支持する人が増えていった。日本書紀に記された天皇で特に高齢のケースをみると、神武127歳、孝昭113歳、孝安137歳、孝霊128歳、孝元116歳、開化111歳、崇神120歳、垂仁140歳、景行106歳、成務107歳、といずれも100歳を越えている。欠史八代が実在しなかったひとつの根拠ともされてきたが、これを二倍年暦の考え方に基づいて年齢を半分にすると途端に現実的な年齢になる。このように初期の天皇の時代は二倍年暦で書かれているとすれば天皇の超高齢問題は解決する。二倍年暦の考えを初めて知った時は「なるほど」と思う一方で、何となく腑に落ちない感覚もあり、それは今日まで持ち続けてきた。

今回、武内宿禰の280歳とも360余歳ともされる長寿を考えるにあたって、仮にこの二倍年暦をあてはめたとしても140歳あるいは180歳となって長寿の問題は解決しないこともあって、複数人説を出したのであるが、そもそも二倍年暦ってどうなのか、という以前からの疑問を考えてみようと思い、あらためて編年体で書かれた日本書紀を見てみた。たとえば、神武天皇の東征から崩御までを日付順に並べると以下のようになる。

其年冬10月     東征に出発
11月9日      筑紫国の岡水門に到着
12月27日     安芸国の埃宮に滞在
翌乙卯年春3月6日  吉備国に高島宮に3年滞在
戊午年春2月11日  難波碕に到着
3月10日      河内国日下邑の白肩津に到着
夏4月9日      五瀬命が長髄彦に討たれる
5月8日       茅渟の山城水門に到着
6月23日      名草邑に到着
秋8月2日      弟猾を討ち、久米歌を詠む
9月5日       宇陀の高倉山で国見をする
冬10月1日     八十梟帥を撃つ
11月7日      磯城彦を攻める
12月4日      饒速日命が帰順する
翌年己未春2月20日 大和の残党を討つ
3月7日       都の造営に着手
庚申秋8月16日   正妃を立てようと決心
9月24日      媛蹈鞴五十鈴媛を正妃にする
辛酉春1月1日    橿原宮で即位
2年春2月2日    論功行賞を実施
4年春2月23日   高皇産霊尊を祀る
31年夏4月1日   巡幸をした
42年春1月3日   神淳名川耳尊を皇太子とする
76年春3月11日  橿原宮で崩御
翌年秋9月12日   畝傍山の東北の陵に葬られる

ここには春夏秋冬の季節とともに何月の出来事であったかが記されているが、これによって春が1月・2月・3月、夏が4月・5月・6月、秋が7月・8月・9月、冬が10月・11月・12月であることがわかる。つまり、1年が12か月という認識をもって書かれていることがわかる。この認識において一年にふたつの歳を重ねるという考え方はできないのではないか。

さらに、ここに記された日付を1日から順に並べてみると、1日~12日、16日、20日、23日、24日となる。同様に第2代の綏靖天皇から第16代仁徳天皇までの具体的な日付が記されたケースを拾ってみると、これに13日~15日、17日、19日、21日、22日、25日、27日、28日が加わる。つまり、1日から30日までで抜けているのが18日、26日、29日、30日の4日間のみである。このことから、ひと月が1日から30日まであるという認識をもって書かれていることがわかる。
 
また、十干十二支が書かれた箇所がある。吉備国では乙卯の年からの3年間の滞在が記されるが、吉備国を出て難波碕に到着したのが丙辰、丁巳を経た戊午の年の春で、これは3年後にあたる。さらに、夏、秋、冬を経た一年後の春2月が己未の年となっている。十干十二支が一年ごとに割り当てられて60年で一周するという認識をもって書かれている。

今回、武内宿禰の長寿を考えるにあたって、二倍年暦についてごく簡単ながらも前述のように考えた結果、何となく抱いていた違和感の理由がわかり、やはり二倍年暦は採用できないと考えるに至った。とすると、初期の天皇はどうして100歳を越える高齢に設定されているのだろうか。現時点では自分の考えを持ち得ていないので、ひとまず那珂通世が説いた辛酉革命説に従っておきたい。十干十二支が21周する1,260年に一度の辛酉の年に大革命があるとして、推古天皇が斑鳩の地に都を置いた推古9年(601年)がその年に当たり、そこから1,260年さかのぼった紀元前660年に神武天皇が即位したとする説で、この場合、その後の天皇はその帳尻を合わせるために異常なまでの高齢に設定されたと考えられている。私は、二倍年暦説によって書紀に記載の年齢の半分が実年齢とすることによって生じる疑問や矛盾よりも、辛酉革命説によって帳尻合わせで年齢を引き延ばしたと考える方が素直に受け止めることができる。

以上で武内宿禰の考察をいったん終わりとしたい。当初は武内宿禰を祀る神社などについても詳しく調べようと考えていたが、残念ながら時間の関係もあって資料や情報をそろえることができなかったので、また別の機会に考えることとしたい。


(「武内宿禰の考察」おわり)


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武内宿禰の考察⑥(神功皇后と武内宿禰)

2020年09月15日 | 武内宿禰
■神功皇后と武内宿禰

さて、あらためて記紀を読んでみると、神功皇后に対する忠誠ぶりはやはり特筆ものである。そこには臣下という立場を越えた親密さ、あるいは一体感というものが窺える。皇后の指示に従ったというものではなく、むしろ武内宿禰が主導している感さえある。とくに古事記における仲哀天皇崩御の場面はふたりで天皇を殺害したことを想像させるに十分な描写である。このあたりは当ブログ「神功皇后(その2 仲哀天皇の最期②)」などでも触れておいた。ちなみに、ここでの武内宿禰は4人のうちのふたり目、武内宿禰Bである。

大阪の住吉大社には底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后の4柱の神が祀られている。底筒男命、中筒男命、表筒男命を総称して住吉三神と呼ぶ。黄泉の国から戻った伊弉諾尊が禊ぎをしたときに生まれた神である。この住吉大社に伝わる「住吉大社神代記」には大社の由来が記録され、その主要部分は祭神である住吉三神の由来と鎮座について述べられており、主に日本書紀から住吉三神と関係の深い、神代、仲哀天皇、神功皇后の部分を引用した文で構成されているという。この「住吉大社神代記」に、仲哀天皇が崩御した夜に神功皇后が住吉大神と夫婦の密事を行なったことが「是夜天皇忽病發以崩〔之〕於是皇后與大神有密事俗曰夫婦之密事通」と記されている。何とも生々しい描写である。

また一方で、この住吉大神は武内宿禰と同一であるという考えがあり、書紀にはそれを想像しうる場面が記される。筑紫の橿日宮(香椎宮)における熊襲討伐の神託に際して、熊襲ではなく新羅を討つように告げられた仲哀天皇はその託宣に従わずに熊襲を攻めて、その後に病気で命を落とした。その後、皇后は武内宿禰とともに再び神託を行ない、天皇に新羅を討つように告げた神の名を問うたとこと、住吉三神の名が告げられた。古事記でも同様に天皇崩御後に神功皇后と武内宿禰によって行われた神託の場で、この国を治めるのは皇后のお腹にいる子であると告げ、続けてそれは天照大神の御心であり、それを告げたのは住吉三神であると託宣が下った。

さらに住吉大神は、新羅征討を成功させて帰国した神功皇后に対して、自分の荒魂を穴門の山田邑に祀るように告げたのであるが、この場面では住吉大神が新羅征討に従軍したことも記される。その後、皇位継承権を持つ香坂王・忍熊王の反乱に際しては、皇子を連れた武内宿禰を先に送り出したあと、穴門を出た皇后の船が進まなくなったときに神頼みをすると、天照大神や事代主神とともに現れたのが住吉三神で、これらの神々の言うことを聞くと船が進むようになったという。

武内宿禰とともに行う神託の場で必ず現れる住吉大神はいつも皇后にとって都合のいい託宣を告げる。新羅出兵や反乱制圧など皇后の難事を助けるのも住吉大神である。この様子が武内宿禰にぴったりと重なるのだ。そして記紀にはその武内宿禰と神功皇后はいつも互いに寄り添い、一心同体で息がぴったり合っている姿が描かれる。忠心の部下どころではない、まるで夫婦の関係を連想せざるを得ない描写である。住吉大神と重なる武内宿禰、武内宿禰と神功皇后の深い関係を連想させる記紀の記述、そして先述の住吉大社神代紀の密事。その住吉大社には住吉三神と神功皇后が祀られている。仲哀天皇を神託の場で殺害したのも二人かもしれない。状況証拠が揃い過ぎているのではないだろうか。


さて、記紀は結局のところ、武内宿禰をどのような人物として描きたかったのだろうか。長寿の忠臣像を一貫させようとするのであれば、弟の甘美内宿禰の讒言によって応神天皇から嫌疑をかけられた書紀の話は不要だったと思うがどうだろう。探湯で無実が証明されたことによってその忠臣ぶりがさらに際立つようになった、と見ることもできなくはないが。また、神功皇后との関係もここまで露骨に書かなくても、もう少し工夫の余地があっただろう。そのように考えると、あえて一人の人物として書く意図はなく、ある意味でありのままに書いたのかもしれない。それでも総じて見ると長寿の忠臣、天皇家を支える参謀役として高い貢献を果たした、と受け取ることができよう。私は神功皇后も武内宿禰も実在したと考えている。その実在の武内宿禰が記紀編纂当時の豪族たちから高い評価を得ていたからこそ、平群氏も蘇我氏も葛城氏も紀氏も許勢氏も寄ってたかって自らの祖先を彼に求めたのではないだろうか。






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武内宿禰の考察⑤(甘美内宿禰の存在)

2020年09月14日 | 武内宿禰
■甘美内宿禰の存在

ここでは甘美内宿禰について少し見ておきたい。すでに触れておいたことも含めて甘美内宿禰と関連がありそうな情報を整理してみる。

①古事記(孝元段…3世紀か)
第8代孝元天皇の子である比古布都押之信命が尾張連等の祖である意富那毘の妹の葛城高千那毘売を娶って生まれたのが味師内宿禰である。山代内臣の祖である。

②日本書紀(応神紀…4世紀末~5世紀初め頃か)
応神9年、弟の甘美内宿禰は讒言によって兄の武内宿禰を陥れようとしたが探湯で負けた結果、紀直に隷属させられることとなった。

③日本書紀(欽明紀…6世紀中頃か)
欽明14年、百済と新羅の対立が激化する朝鮮半島の混乱期において内臣(有至臣)が百済に派遣された。翌年には再び兵を引き連れて半島に渡り、新羅を攻撃して難攻の函山城を攻め落とした。

④新撰姓氏録(815年成立)
皇別・大和国に孝元天皇皇子彦太忍信命之後也と記される「内臣」が存在する。同じく皇別・大和国には内臣と同祖、味師内宿禰之後也とする「山公」が存在する。

⑤内神社
和妙抄に山城国綴喜郡内郷(現在の京都府八幡市内里)に鎮座と記される式内社。主祭神は山代内臣で相殿として味師内宿禰が祀られる。古伝によると、山代内臣をその住居の地に奉祀したのが創建で、味師内宿禰は山代内臣の祖神であることから、あとになって合祀された。山代内臣は内里郷の始祖とされ、現在の地名の「内」の由来となっている。(京都府八幡市観光協会のサイトを参照)

⑥蘇我石川両氏系図(10世紀以降の成立とされる)
甘美内宿禰は内臣・山公の祖と記される。


この6つの情報を俯瞰して甘美内宿禰の存在を考えてみる。甘美内宿禰は第8代孝元天皇の孫(書紀では曾孫)として誕生した。母親の葛城高千那毘売が葛城を冠することから、甘美内宿禰は母親の出身である大和の葛城で育てられた可能性が高く、紀伊で生まれた武内宿禰と同様に大和国宇智郡を拠点とする内臣(有至臣)との関係が想定される。その後、甘美内宿禰は自らの讒言がもとで紀直の隷属となり、彼自身の事績が残されることはなかったが、その後裔が活躍することとなる。それが新撰姓氏録に記される大和国の内臣であり、この内臣は有至臣と同一であると考えられている。さらに内臣と同祖である山公氏が甘美内宿禰の後裔として並んで記される。これによって内臣が甘美内宿禰の後裔であることが改めて確認できる。時代が下ってからの成立と考えられる蘇我石川両氏系図にも内臣と山公が甘美内宿禰を祖とすることが記されている。この内臣が古事記において山代内臣の祖とされているのは、内臣氏が宇智から山代に拠点を移して以降のことと思われ、その後の活躍をもって土地の始祖と崇められ、祖神として祀るために内神社が創建されたのであろう。書紀の欽明紀には朝鮮半島における百済と新羅の対立が激化する情勢において外交、軍事で活躍する姿が描かれる。

ここまで甘美内宿禰について考察してみたが、讒言で武内宿禰を陥れた甘美内宿禰は結局のところ「甘美」の一面を全く見せることなく悪党のまま歴史から姿を消してしまったのであるが、後裔の内臣(有至臣)によって少しは名誉挽回ができたのであろうか。その内臣や甘美内宿禰が祀られる内神社がある山城は、紀伊にいた武内宿禰が宇治に陣取った忍熊王の軍勢を追って進出したところである。もしかするとこのとき、大和の宇智にいた内臣氏が従軍していたのだろうか。それが大和の宇智から拠点を移すきっかけとなったのかもしれない。







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武内宿禰の考察④(「内」について)

2020年09月13日 | 武内宿禰
■「内」について

「武内宿禰」は一般的には「たけのうちのすくね」と読まれている。記紀には武内宿禰に腹違いの弟(または兄)がいることが記される。書紀では「弟甘美内宿禰」と記されることから弟であることがわかる。応神9年に讒言によって義兄である武内宿禰を排除しようとした人物で、書紀での登場はこの一回のみである。また、古事記では建内宿禰誕生の話の直前に、父の比古布都押之信命が尾張連らの祖である意富那毘の妹の葛城高千那毘売を娶って生まれた子が「味師内宿禰」であり、山代内臣の祖であると記される。ここでは兄とも弟とも記していないが、記述順に従うならば兄ということになる。

武内宿禰(建内宿禰)と甘美内宿禰(味師内宿禰)は腹違いとは言え兄弟であるならば姓は同一と考えられ、それは「内」ということになる。また、記紀がともに記す雁が卵を産む話で、仁徳天皇は武内宿禰に向かって「たまきはる内の朝臣」と呼びかけている。「たまきはる」は「内」にかかる枕詞であるが、この「内の朝臣」はそのまま「内宿禰」という意味で受け取れよう。そして「武(建)」「甘美(味師)」は美称で前者は「勇敢な、猛々しい」という意味で、後者は「良い、立派な」という意味なので、武内宿禰(建内宿禰)は「勇敢な内氏の宿禰」として「たけし・うちのすくね」と読み、甘美内宿禰(味師内宿禰)は「立派な内氏の宿禰」として「うまし・うちのすくね」と読む、とする考えが広く認められる。このことから、「内」あるいは「内宿禰」に対する様々な考察が試みられている。

本居宣長による「古事記伝」では「内」を大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)と解している。宇智郡は北へ行けば大和の葛城、南へ行けば紀ノ川流域、つまり大和国葛城と紀伊国の境界にあたる場所である。先に「武内宿禰の誕生と終焉」のところで武内宿禰と紀伊のつながりを確認したが、この地は葛城氏と紀氏の始祖である武内宿禰の本拠地としてはいかにもありそうだ。この大和国宇智郡を根拠とした豪族に有至臣(内臣)がいる。日本書紀の欽明天皇紀に登場し、朝鮮半島との外交や軍事に従事した豪族であるが、この有至臣(内臣)と関係があるとも言われる。

また、九州南部(鹿児島・宮崎)に「内」という姓が現在でも多く残っていること、同様に「内」のつく地名も多数あることなどから南九州に「内」の勢力の本拠地があったとし、その勢力が西日本一帯に進出したとする考えもある。

さらに、日本書紀編纂を実質的に主導した藤原不比等の父である中臣鎌足(藤原鎌足)が死の直前に就任した内大臣(内臣)の「内」を指すという考えも提唱されている。理想の参謀役である忠臣に自らの父親を投影させたということだ。この場合は「内宿禰=内大臣(内臣)」と解するのだろう。

これと同様に、蘇我氏が権勢を示すために蘇我馬子をモデルとしてその人物像を成立させたとする説もある。この場合は記紀の成立よりも早い段階、具体的には6世紀末から7世紀初め、聖徳太子と蘇我馬子による天皇記・国記編纂のタイミングであろうか。

ユニークな説として、12世紀に朝鮮半島で成立した「三国史記」に登場する于道朱君という倭人をあてる説がある。倭王の命を受けて新羅を攻め、第1等官位である舒弗邯(じょふつかん)の于老を処刑した話が記載されるが、この于道朱君は「うちすくん」と読めること、暦年研究から彼が活躍した年代が神功皇后の活動年代と同時代と見られることなどから、于道朱君とは「内宿禰」であり、武内宿禰と同人であると見る。

私にとって最も魅力的な考えは、内一族が南九州から進出してきたという説である。この説を唱えているのは九州古代史研究会を主宰しておられる内倉武久氏である。氏は7世紀末まで日本を統一していた九州倭(い)政権が大和政権に滅ぼされたと説き、その九州倭政権の中枢にいたのが南九州を地盤とする内一族(氏はこれを熊襲族とする)であると考え、その内一族(熊襲族)の嫡男であった内宿禰が畿内進出を果たしたとする。また、古くから鹿児島や宮崎南部に残る弥五郎どん祭りの主役である巨大な人形は武内宿禰を表しているとも言われ、この地に武内宿禰伝承が残っている証であるとする。九州倭政権が7世紀末まで日本を支配していたという説には与しないが、南九州を本拠地とする熊襲族が畿内へ進出した、それが内一族であったという考えは大いに参考にしたい。

私は南九州を本拠地とする狗奴国が熊襲あるいは隼人であるとして、その王である神武が東征して畿内に政権を確立したと考えている。そしてその後の政権の中枢にいたのが武内宿禰であり、日本書紀ではその母である影媛は紀直の遠祖である菟道彦の娘、古事記では宇豆比古の妹となっている。記紀の記述に相違はあるが、武内宿禰の母方は菟道彦(宇豆比古)一族で、この菟道彦は神武東征の際に速吸之門(豊予海峡)で水先案内人として合流した珍彦(うずひこ)、別名を椎根津彦と同一人物の可能性が高い。このことから、武内宿禰の母方の一族は九州を本拠地とし、その一部が神武に従って九州からやってきたと考える。「内」と「菟道(うじ)」「宇豆(うず)」「珍(うず)」がつながっているのかもしれない。この考えに内倉説の一部を拝借して加えると、武内宿禰の母方は熊襲出身であり、神武天皇と同族であるということになる。

さて一方の甘美内宿禰についてはどのように考えるか。日本書紀においては讒言で兄を陥れ、最終的には探湯による勝負で兄に負け、殺されそうになったところを天皇の計らいで紀直らの祖に授けられることになった。紀直は紀伊国造(紀国造)につながる氏族で紀伊国名草郡(現在の和歌山市あたり)を本拠地とする。その紀直は武内宿禰の母である影媛の父(古事記では兄)の後裔にあたり、甘美内宿禰は武内宿禰と姻戚関係にある紀直に授けられたのだ。命は助かったものの、その後の処遇は推して知るべし。自業自得ということであろうか。なお、紀直は武内宿禰の子である紀角宿禰から始まる紀氏とは別の氏族である。古事記における甘美内宿禰(味師内宿禰)は「山代内臣の祖」と記されるのみで事績の記載はない。








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武内宿禰の考察③(武内宿禰の長寿)

2020年09月12日 | 武内宿禰
■武内宿禰の長寿

武内宿禰の年齢について今一度、見ておきたいが、日本書紀によると、生まれは第13代成務天皇と同じであるので、書紀の記述をもとに成務天皇の年齢を起点にして順に確認していく。成務天皇は景行46年、24歳のときに皇太子となり、景行60年に父である景行天皇が崩御した翌年に即位、そして即位60年に崩御した。ここから計算すると崩御したときに年齢は98歳となるが、書紀には107歳で崩御したと記される。ここでは107歳を採用して武内宿禰も107歳ということにする。

次の仲哀天皇は景行天皇崩御の翌年に即位して8年後の仲哀9年に52歳で崩御。このとき武内宿禰は116歳となる。そして翌年以降、69年間に渡って仲哀后であった神功皇后が摂政として政務にあたる。武内宿禰が117歳から186歳の期間となる。神功皇后が100歳で崩御した翌年に即位した応神天皇は応神41年に110歳で崩御したので、武内宿禰はこのとき227歳となる。その後、3年間の空位期間ののちに仁徳天皇が即位した。武内宿禰の薨去を仁徳55年とするとその時の年齢は285歳。仁徳78年とすると308歳となる。

やはりこの長寿はどう考えてもひとりの人物とは思えない。そもそも天皇や皇后の年齢および在位期間が現実離れして長いということに対して、書紀は二倍年暦を採用しているという説があるが、仮にそうであったとしても、ひとりの臣下が5人の天皇に神功皇后を加えた6人に仕えたということは考えにくいので、やはり複数の臣下の事績を武内宿禰という代名詞に置き換えたもの、と考えるのが妥当ではないだろうか。ここではその前提で書紀の記述を順にみてその取り上げ方を確認してみたい。なお、二倍年暦について私は否定的に捉えているが、あらためて考察することとしたい。

景行紀、成務紀においては天皇の期待に応え忠実に業務を遂行した結果として棟梁之臣、さらには大臣の職に就くことになった。天皇に忠実な臣下の姿が描かれている。ところが、仲哀紀においては天皇と皇后の微妙なすれ違い関係の中、天皇よりもむしろ皇后に従い、天皇崩御後は皇后の絶大な信頼を得て、その後の神功皇后を支え続ける。この状況から景行・成務に仕えた武内宿禰と仲哀・神功の時の武内宿禰は違う人物のように思えてならない。ここでは前者を武内宿禰Aと呼び、後者を武内宿禰Bと呼ぶことにする。

そして応神紀における応神9年の記事はもっとも注目される。武内宿禰は神功皇后のもとで、皇位継承権をもつ香坂王・忍熊王を討つという天皇家に仕える身としては反逆を犯してまで応神天皇即位に尽力した。また敦賀の気比神宮への参拝など、太子時代の天皇と行動を密にしているのであるが、その忠臣に対する天皇の言動は信じられないものだ。武内宿禰の弟である甘美内宿禰による讒言にあっさり引っ掛かった天皇は、誰よりも恩義のある忠臣を殺すように命じるのだ。応神天皇の心変わりとも考えられるが、ここは素直に応神天皇即位の立役者であった武内宿禰Bが別の人物に交代していたと捉えるのが妥当であろう。これを武内宿禰Cと呼ぶ。最後に仁徳紀では応神9年の武内宿禰Cとは別人のごとく吉祥を招く臣下として、互いの子の名を交換するなど、天皇の寵愛を受ける姿が描かれており、ここでも交代が想定されることからこれを武内宿禰Dとする。以上のとおり、あくまで日本書紀に描かれた人物像に対する印象からの推定であるが、武内宿禰として4人の人物の存在が想定される。

仮に武内宿禰が4人の人物だったとして、この4人は全く関係のない間柄だったのであろうか。古事記において押さえておくべき最も重要な記事としておいた武内宿禰の子およびその後裔氏族について、書紀にはその系譜は記されていないものの唯一、仁徳紀において、つまり武内宿禰Dの子として平群臣の先祖である木菟宿禰の存在が記される。この人物は古事記においても武内宿禰の子で平群臣の祖先であると記される。古事記の系譜が武内宿禰Aについて記しているとすれば、武内宿禰Aの子孫と武内宿禰Dの子孫に一致する名があるということになる。そのように考えると、武内宿禰AからDに至る4人の人物は直系の関係にある、つまり親から子、子から孫へと4代にわたって大臣の役割を継承したという想定ができる。つまり「武内宿禰」は代名詞ではなく本来の「姓+役職」を表していることになる。これによって記紀の読み手は4人全てが「武内宿禰」という、あたかもひとりの人物、とてつもない長寿の人物として受け取ってしまうことになるのだ。記紀の編者がそれを意図したかどうかは定かではないが。




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武内宿禰の考察②(武内宿禰の誕生と終焉)

2020年09月11日 | 武内宿禰
■武内宿禰の誕生と終焉

武内宿禰の誕生については記紀の記事で見たとおりであるが、両者には少し違いがある。日本書紀では、孝元天皇と妃である伊香色謎命との間に生まれた彦太忍信命が武内宿禰の祖父とあり、また、景行天皇の時に紀伊国に派遣された屋主忍男武雄心命が紀直の先祖である菟道彦の娘、影媛を娶って生まれたのが武内宿禰である。つまり、系譜としては「孝元天皇→彦太忍信命→屋主忍男武雄心命→武内宿禰」となる。

一方の古事記では、孝元天皇と伊迦賀色許売命(伊香色謎命)の子である比古布都押信命(彦太忍信命)が木國造の祖先である宇豆比古(菟道彦)の妹、山下影日売(影媛)を娶ってできた子が建内宿禰である。系譜は「孝元天皇→比古布都押信命→建内宿禰」となる。要するに、古事記は屋主忍男武雄心命を飛ばして一世代少なく書かれているのだ。現時点でその理由はよくわからない。

次にその生誕の地について見てみる。書紀では、紀伊国に派遣された屋主忍男武雄心命が阿備の柏原で9年間滞在している間に紀直の先祖である菟道彦の娘、影媛を娶って武内宿禰が生まれたとあるので、生誕地は紀伊国である。阿備の柏原は現在の和歌山市松原字柏原とされており、ここには武内神社があって武内宿禰が祀られている。また、境内には武内宿禰の産湯を汲んだとされる武内宿禰誕生井が残されている。一方、古事記では場所の言及はないが、比古布都押信命が木国造の祖先である宇豆比古の妹、山下影日売を娶ってできた子とあり、木国=紀国であることから書紀と同様に紀国で生まれたと解釈してよいだろう。

書紀ではこのほかに武内宿禰と紀伊のつながりが2カ所に出てくる。ひとつは神功摂政前紀の仲哀10年2月の記事である。香坂王・押熊王の兄弟による反乱に際し、皇后はこれを迎え撃つために畿内に戻ろうとするが、忍熊王が待ち構えていることから、武内宿禰に命じて誉田別皇子(のちの応神天皇)を連れて迂回させ、南海から紀伊の水門へ向かわせた、という話。もうひとつは応神紀9年の記事。武内宿禰が筑紫にいた時、弟の甘美内宿禰の讒言によって天皇から命を狙わる身となり、無実を訴えるために筑紫を出て朝廷に向かおうとして、船で南海を回って紀の水門に入った後、無事に朝廷に入ることができた、という話である。

いずれの記事にも登場する紀伊水門(紀水門)は紀ノ川の河口付近であるが、紀ノ川流域を含めて紀氏の本拠地である。この紀ノ川を遡って現在の五條市あたりで上陸して北上すれば大和の葛城に入ることができる。葛城氏の本拠地である。古事記によれば紀氏、葛城氏ともに武内宿禰の直系氏族である。武内宿禰は両氏とのつながりによって紀ノ川流域から大和の葛城にかけての一帯に所縁があったと思われる。そう考えると、その生誕地はやはり紀伊国であると考えるのが妥当ではないだろうか。

ところで、佐賀県に武雄神社がある。ここには武内宿禰と父である武雄心命が祀られていて、ここが武内宿禰の生誕地という説もあるようだ。神社公式サイトによると、創建は神功皇后の三韓征伐のあとで、さらに武内宿禰が祀られるようになったのは天平7年(735年)とされている。創建時から武内宿禰を祀っているのであれば生誕地としての可能性はあるだろうが、記紀編纂後の合祀であるなら後付けであることは否めないので、この神社を生誕地とすることはできない。


次に終焉の地を考えてみたい。記紀ともに武内宿禰の薨去については触れていないが、「因幡国風土記(逸文)」に次のような記述がある。

仁徳天皇55年3月に大臣の武内宿禰は360余歳にして因幡国に下向し、亀金に双履を残してどこかに隠れてしまった。またこのようにも聞いている。因幡国法美郡の宇倍山の麓に神社があり、宇倍神社といい、武内宿禰を祀っている。昔、武内宿禰が東夷を平定して宇倍山に入った後は、その終焉の地を知らない。

日本書紀の仁徳55年の条には残念ながらこれに対応する記事はない。また、原文を確認できていないが、「公卿補任」では薨年未詳で295歳で薨去(一説として仁徳55年に年齢未詳で薨去)、「水鏡」では仁徳55年に280歳で薨去、「帝王編年記」では仁徳78年に年齢未詳(一説として312歳)で薨去、とあるようだ。いずれも仁徳天皇の治世に薨去しており、そのときの年齢は280歳から360余歳の間ということが言える。

さて、先の因幡国風土記(逸文)に登場する宇倍神社は因幡国一之宮で鳥取市国府町に鎮座する。本殿左手の階段を登って裏に回ると武内宿禰が双履を残して姿を隠した霊跡と伝わる双履石があって、文字通りふたつの石が並んでいる。この双履石の下から竪穴式石室が発見され、古墳時代前期末から中期の円墳であることが判明したという。なぜ、縁もゆかりもないはずの因幡の地に武内宿禰が祀られることになったのだろうか。




(いずれも筆者撮影)

もともとは地元の有力氏族である伊福部氏の祖神を祀っていたが、その後に武内宿禰を祀るようになったとされるものの、その理由は定かではない。また、福岡県宗像市にある織幡神社でも祭神である武内宿禰が沓を残して昇天した沓塚があるということだが、この神社ももとは海人族が海の神を祀ったことに由来するようで、武内宿禰を祀るようになったのは後世になってからのようだ。


武内宿禰の墓はどうであろうか。書紀の允恭紀5年の記事には、葛城襲津彦の孫の玉田宿禰は、反正天皇の殯を命じられたが役割を果たさずに酒宴を催していたことが尾張連吾襲(あそ)に知れるところとなったため、吾襲を殺して武内宿禰の墓に逃げ込んだ、とある。現在、反正天皇陵に治定されるのは大阪府堺市の百舌鳥古墳群にある田出井山古墳とされるが、玉田宿禰は葛城氏直系なので、おそらく地の利のある葛城へ逃げたと考えられる。武内宿禰の墓は大和葛城のどこかにあったのだろう。

奈良県御所市にある掖上鑵子塚古墳は全長150mで5世紀後半築造の前方後円墳である。江戸時代に蒲生君平が著した「山陵志」では、五朝に仕えた伝説的廷臣・武内宿禰の墓ではないかとしている。その掖上鑵子塚古墳の近くにある葛城最大の前方後円墳である室宮山古墳は全長が240mもあり、4世紀末から5世紀初頭の築造とされる。これを武内宿禰の墓にあてる説もあったが、最近では葛城襲津彦の墓とするのが有力となっている。また、馬見古墳群が広がる奈良県北葛城郡広陵町にある巣山古墳は全長210mの前方後円墳で古墳時代中期初頭(5世紀初頭)の築造とされるが、これを武内宿禰の墓にあてる説もある。このように武内宿禰の墓と推定されるいずれの古墳も葛城に所在する。仁徳天皇のときに薨去したということであれば5世紀後半の掖上鑵子塚古墳は考えにくいが、巣山古墳の可能性は残る。

終焉の地について考えてみたが、因幡国風土記逸文の信憑性は何とも言えず、武内宿禰が因幡に行く理由も不明である。宇倍神社においても武内宿禰は創建時からの祭神ではなく、いつの頃かわからないが本来の祭神に取って代わったようである。したがって宇倍神社を終焉の地とすることは困難であり、織幡神社についても同様である。一方、墓の場所については大和の葛城にあることが高い確度で想定されるので、終焉の地を大和とすることが妥当ではないだろうか。









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武内宿禰の考察①(武内宿禰の事績)

2020年09月10日 | 武内宿禰
■武内宿禰の事績

古代史の勉強で記紀を読んでいて大いに興味をもった人物、それが武内宿禰である。景行天皇から仁徳天皇までの5人の天皇および神功皇后に仕え、280歳とも360余歳とも言われるあり得ない長寿の人物として描かれていること、特に神功皇后との関係においては臣下の分際を超えた親密な関係が想像されること、などが興味を持った理由。複数の人物の事績をあたかも一人の人物によるものとして描いているとか、実在の人物ではなく大臣の理想像を投影した架空の人物であるとか、様々な考え方が出されている。今般、改めて日本書紀の応神天皇紀を読んでいて武内宿禰の扱いに大きな違和感を持つ場面があったので、この際、自分なりの武内宿禰像を描いてみようと思う。ただし、あくまで自分なりなので、ほとんど想像の話になることをご了承ください。

まず、日本書紀に記される武内宿禰の名が登場するシーン、全部で21カ所を確認してみたい。

第8代孝元天皇紀
孝元7年、天皇と妃の伊香色謎命との間に生まれた彦太忍信命は武内宿禰の祖父である。

第13代景行天皇紀
景行3年、屋主忍男武雄心命を紀伊国に遣わした。武雄心命は阿備の柏原で神祇を祀って9年間滞在し、その間に紀直の先祖である菟道彦の娘、影媛を娶って武内宿禰が生まれた。

景行25年、武内宿禰を遣わして北陸と東方諸国の地形や人民の様子を視察させた。

景行27年、武内宿禰は東国より戻って「東に日高見国がある。男も女も髪を椎のように結い、入墨をしていて勇敢である。すべて蝦夷という。土地は肥沃で広大である。攻略するとよい」と報告した。

景行51年正月、天皇は群卿を招いて数日の宴を催したが、武内宿禰と皇子の稚足彦(のちの成務天皇)は非常時に備えて出席しなかった。天皇はこれを賞賛して特に目をかけた。

景行51年8月、武内宿禰を棟梁之臣に任命した。

第14代成務天皇紀
成務3年、武内宿禰を大臣に任命した。天皇と武内宿禰は同じ誕生日であったので特に可愛がられた。

第15代仲哀天皇紀
仲哀9年2月、神功皇后と大臣である武内宿禰は、橿日宮での新羅討伐の神託に従わずに崩御した天皇の喪を天下に知らせなかった。皇后は武内宿禰に命じて、天皇の遺骸を海路で穴門に移させ、豊浦宮で火を焚かずに仮葬した。その後、武内宿禰は穴門から戻って皇后に報告した。

神功皇后摂政前紀
仲哀9年3月、神功皇后は小山田邑に設けた斎宮で自ら神主となり、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主を審神者(さにわ)として神託を行なった。

仲哀9年4月、神功皇后は新羅出兵に先立つ九州遠征で、神田に水を引こうと溝を掘ったところ、大きな岩が邪魔をした。武内宿禰に命じて、剣と鏡を捧げて神祇に祈って水を通させようとすると、急に雷が激しく鳴って岩を砕いたので水を通すことができた。

仲哀10年2月、神功皇后は香坂王・押熊王の兄弟による反乱に際し、武内宿禰に命じて皇子(のちの応神天皇)を連れて迂回させ、南海から紀伊水門へ向かわせた。

仲哀10年3月、神功皇后は武内宿禰と和邇臣の先祖である武振熊に対し、数万の兵を率いて押熊王を討つように命じた。武内宿禰らは精兵を選んで山城方面に進出して宇治川の北で押熊軍と対峙した。武内宿禰は和睦を装う謀略によって敵を欺き、近江の逢坂まで追い込んで敵を討った。
 
神功皇后摂政紀
神功摂政13年、摂政となった神功皇太后は武内宿禰に命じて、太子(誉田別皇子)を連れて敦賀の気比大神に参らせた。敦賀から戻った太子のための宴席で皇太后と武内宿禰は歌を歌いあった。

神功摂政47年、皇太后と太子は、百済と新羅による朝貢の際に百済の珍しい貢物を奪って入れ替えたという新羅の悪事を暴くために誰を派遣すればよいかを占ったところ、天神は「武内宿禰に諮らせて千熊長彦を派遣すればうまく行く」と応えた。

神功摂政51年、百済からの朝貢に際して皇太后は太子と武内宿禰に語って「親交を結ぶ百済国は天からの賜り物である。見たことのない珍しいものなどをいつも献上してくる。私はこのことを常に喜んでいる。私のあとも後々まで恩恵を与えるように」と言った。

第16代応神天皇紀
応神7年、高麗人・百濟人・任那人・新羅人が来朝した。天皇は武内宿禰に命じてこれらの韓人に池を作らせた。韓人池という。

応神9年、武内宿禰を筑紫に派遣して人民を監察させた。このとき、弟の甘美内宿禰が兄を除こうとして「武内宿禰には天下を狙う心があって、筑紫を割いて取り、三韓を自分に従わせたら天下を取れる、と言っている」と天皇に讒言をした。天皇は武内宿禰を殺そうとして使いを派遣したが武内宿禰は無実を訴えた。このとき、壱岐直の先祖である真根子は武内宿禰に容姿がそっくりであったので身代わりになって自ら命を絶った。武内宿禰は大いに悲しんで密かに筑紫を脱出して朝廷に訴え出た。天皇は兄弟に探湯をさせたところ武内宿禰が勝った。武内宿禰は甘美内宿禰を斬ろうとしたが天皇は弟を許して紀直の先祖に与えた。

第16代仁徳天皇紀
仁徳元年、天皇が生まれたとき、木菟(つく=みみずく)が産屋に飛び込んだ。翌朝、父である応神天皇は大臣の武内宿禰を呼んで「何の兆しか」と問うたところ、大臣は「吉兆です。昨日、自分の妻が出産するときに鷦鷯(さざき=みそさざい)が産屋に飛び込んできましたが、これも不思議なこと」と答えた。天皇は「ふたりの子が同じ日に生まれ、同じような兆しがあったが、これは天のお示しであろう。その鳥の名を取って互いに交換して子どもに名付け、後世の契りとしよう」と言って、鷦鷯の名前を太子に付けて大鷦鷯皇子とした。また木菟の名を大臣の子に付けて木菟宿禰とした。平群臣の先祖である。

仁徳50年、茨田の堤に雁が子を産んだと河内の人が申し出た。天皇は武内宿禰に歌で、雁が子を産むのを聞いたことがあるかと問うたところ、宿禰は聞いたことがないと歌で答えた。

第19代允恭天皇紀
允恭5年、葛城襲津彦の孫の玉田宿禰は、反正天皇の殯を命じられたが役割を果たさずに酒宴を催していたことが尾張連吾襲に知れるところとなったため、吾襲を殺して武内宿禰の墓に逃げ込んだ。

第26代継体天皇紀
継体6年、百済への任那4県の割譲にあたり、物部連麁鹿火の妻が諌めて「住吉大神が高麗、百済、新羅、任那を胎中の応神天皇に授けた。それで神功皇后と大臣の武内宿禰は各国に宮家を設けて我が国の守りとした由来がある。これを他国に与えたら後世にわたって非難されるでしょう」と言った。



以上が日本書紀に記される武内宿禰の名が見えるシーンである。このうち冒頭の孝元紀および最後の允恭紀、継体紀を除く部分が武内宿禰の事績に関する話である。このことから、武内宿禰が景行天皇から仁徳天皇までの5人の天皇および神功皇后に仕えたことがわかる。次に古事記を確認してみる。古事記でその名が登場するシーンは次の通り、全部で9カ所ある。


孝元天皇段
孝元天皇と伊迦賀色許売命の子である比古布都押信命が木國造の祖先である宇豆比古の妹、山下影日売を娶ってできた子が建内宿禰である。建内宿禰の子は男7人、女2人の全部で9人である。波多八代宿禰は波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖先で、許勢小柄宿禰は許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖先である。また、蘇賀石河宿禰は蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣らの祖先である。次に平群都久宿禰は平群臣、佐和良臣、馬御樴連らの祖先である。次に木角宿禰は木臣、都奴臣、坂本臣の祖先である。次に久米能摩伊刀比売、次に怒能伊呂比売、次に葛城長江曾都毘古は玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣らの祖先である。また、若子宿禰は江野財臣の祖先である。

成務天皇段
成務天皇は近江国の志賀の高穴穗宮で天下を統治した。そして建内宿禰を大臣として、大国・小国の国造を定め、国々の境界と大縣・小縣を定めた。

仲哀天皇段
仲哀天皇が筑紫の香椎宮にいて熊曽国を討とうとしたとき、神功皇后が神懸りをしたので、天皇は琴を弾き、建内宿禰大臣は祭場にいて神託を行なった。西方の国を授けようという神のお告げを受け入れようとしない天皇はその場で崩御した。

建内宿禰が再び神託を求めると、神は「この国は皇后の胎内の子が治めるべき」と告げた。建内宿禰はその子が男であることを確認し、神の名を問うと、天照大御神の御心を伝える神は住吉の三大神であると告げた。

建内宿禰は太子(のちの応神天皇)を連れて越前の敦賀に出向いたとき、そこに鎮座する気比大神と太子は名前を交換した。

太子が敦賀から戻ったときに神功皇后は祝いの酒を差し上げて歌った。このとき、建内宿禰が太子に代わって歌を返した。

応神天皇段
太子の大雀命(のちの仁徳天皇)は父が日向から召し上げた髪長比売を欲しいと建内宿禰大臣を通じて願い出たところ、許しが得られた。
 
新羅人が渡来したとき、建内宿禰は渡来人を率いて堤防を設けた百済池を作った。

仁徳天皇段
天皇が日女島にいたときに雁が卵を産んだので建内宿禰を呼び寄せ「雁が卵を産むのを聞いたことがあるとか」と歌で問うたところ、建内宿禰は「聞いたことがない」と歌で答えた。



古事記で特筆すべきは、孝元段の誕生にまつわる話の後段部分で、建内宿禰が波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏など、大和の大豪族たちの始祖であることに触れている点である(江野財臣は越前国江沼郡を本拠地とした江沼氏とされる)。また、これらの氏族から後裔が27氏族に枝分かれしていったことも記される。どこまでが事実であるかわからないが、古事記における建内宿禰にまつわる話でもっとも押さえておくべきことと考える。

そして大雀命が髪長比売を欲する場面を除き、詳細の部分で違いがあるものの、ほぼ同様の、あるいは関連することが日本書紀にも見られる(髪長比売の話についても武内宿禰は登場しないものの、日本書紀に同様の記載がある)。武内宿禰の誕生の話、大臣に任命された話、神託に関わった話、誉田別皇子(のちの応神天皇)を連れて敦賀へ行った話、敦賀から戻った際の酒宴の話、池を作った話、雁が卵を産む話、などである。したがって、以降はより詳しく記されている日本書紀にもとづいて考察を進めていくこととする。









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男50歳からの古代史構想学(15)

2020年09月08日 | 古代史構想学
■古代史でセカンドライフを充実

これまで14回にわたって素人の私が自分なりに古代史を学ぶ様子をお伝えしてきました。最終回の今回は、古代史に取り組み始めたころのことと、古代史を通じてセカンドライフをどう充実させようとしているのか、をご紹介して終わりにしたいと思います。

ビジネスマンとしてのキャリアを店じまいするにあたってセカンドライフをどう過ごそうか、と考えて出した答が「子供の頃からやりたかった古代史をやろう」ということでした。ただ、古代史をやるといっても何をするのか、何をしたら古代史をやったことになるのか、自分は本当に何をしたいのか、、、まずは、とにかく何か形を残していこうと漠然と考えて、本を読んだあとに記憶に留めておきたいことをノートに書き残していくことを始めました。本を読んで線を引き、ノートに書いていく。これはまさに「勉強」でした。勉強が進むにつれて興味の範囲も広がり、読書の量も増え、様々な事象につながりが見えてくるようになりました。それを図や表にしたり、文章にまとめたり。そういうことを続けていた昨年の正月、「年内に本を出そう」という目標が突然浮かんだのです。
 
そう決めたあとは、本を出すといっても何をどうすればいいのか全くわからないままに原稿作成に取り掛かりました。一冊分の目安として12万文字を目標に。しかし、「邪馬台国はここだ」のようにテーマを決めて深掘りしようとしても12万文字も書けるはずがありません。そんなことしてたらいつまでたっても結果にたどりつかない。そう思った私は、「点」としての様々な事実や事象を時間軸や空間軸でつないで「線」や「面」にして、古代を広く浅くでいいから俯瞰してみようと考えました。
 
原稿を書き始めて半年くらい、目標の12万文字にはまだ少し時間が必要だと感じ始める一方で、自分の考えを早く発信したいという思いが日増しに強くなっていきました。そして、書き溜めてきた原稿をブログにして発信していくことにしたのです。それが「古代日本国成立の物語」(当ブログ)です。昨年(2016年)の夏から始めて、当初は書き溜めた原稿もあったので毎日新しい記事をアップすることを目標に続けてきたのですが、最近は滞りがちになっています。それでも毎日数十人(4年経った現在は数百人まで増えました!)の方が読んでいただいているようで、本当に嬉しく、励みになっており、これからも発信し続けようと思っています。

一方で書籍化を諦めたわけではなく、佐々木さんの会社のご協力を得ながら着々と準備をすすめているところで、こちらも大変楽しみにしています。最近は仕事そっちのけで古代史に没頭する日々ですが、これからどんなセカンドライフを過ごそうか。オリジナルの仮説を考えてブログで発信していくこと、それを本にして勉強の成果を形として残すこと、これが柱になるでしょう。そして講演会や大学の公開講座などで専門家の話を聴くことも積極的にやっていきたい。

また、昔からやりたいという思いは強かったものの、その機会を持てなかった遺跡の発掘。大阪や奈良では遺跡発掘のアルバイト募集がたくさんあるので是非やってみたい。
もしかしたら世紀の大発見に携われるかもしれない。さらに、実地踏査で全国各地の遺跡や神社を訪ねること、実はこれが一番の楽しみなのです。
 
私には奥さんがいて、もともと二人で車で旅行することが多く、とくに温泉ツアーにはよく出かけます。時間に余裕のできるセカンドライフでは、車で全国各地の遺跡を訪ね、おいしい料理を食し、温泉に浸かり、二人でゆったりと充実した時間を過ごしたい。奥さんは古代史に興味があるわけではないのですが、私が行くところはいやな顔せずに付き合ってくれます。そうそう、奥さんのほかに小さなワンコも一緒です。次に車を買い替えるときはワンボックスカーにして、そこに布団や着替えを積み込んで、二人と一匹、気の赴くままに遺跡と神社と温泉を目指して日本を一周する。これが今考えている小さな目標なのです。古代史に取り組んだからこそ描くことができた小さな目標ですが、古代史をやっていなかったらこれすら描けていないでしょう。だから、古代史をやって良かったと思っています。

それから、古代史に取り組むことがわずかでもいいので収入につながれば言うことなし、とも思っているですが、それこそ「夢」にしておいて次の段階で考えることにします。

以上で終わります。最後まで読んでいただいた皆さん、ありがとうございました。   <完>

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今回の再掲にあたっての追記です。
「男50歳からの古代史構想学」を寄稿してから現在までの活動はすべて当ブログで書いている通りですが、自費出版ながらも目標としていた書籍化を実現しました。そして岡田さん、佐々木さんと3人で各地の遺跡をめぐる実地踏査ツアーを続けています。また、3年前に車をワンボックスカーに買い替えて、奥さんとワンコと一緒に車中泊で各地を巡って、温泉、グルメ、絶景、そして遺跡や神社の訪問を楽しんでいます。歴史博物館好きが高じて学芸員の資格も取りました。また、その過程で学生に戻った気分で勉強に励み、学生の頃は苦痛だった課題やレポートが初めて楽しく感じられました。古代史の勉強も楽しいです。だから私は「古代史勉強家」と称して、これからも古代史の学びを通じてセカンドライフを楽しもうと思っています。また、同じような考えや取り組みをしておられる方とつながってみたいと思うようになりました。そういう方々のお手伝いもしてみたいと思うようになりました。そして、古代史を通じた人とのつながりやコミュニティへの参加が楽しくなってきました。15回にわたる投稿の再掲でしたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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男50歳からの古代史構想学(14)

2020年09月07日 | 古代史構想学
■ 古代史研究とはパズル合わせとストーリー化

今回は私が考えている日本建国史における仮説の一部を超ダイジェストで紹介したいと思います。
 
私が古代史を考えるにあたっては、正史である日本書紀をもとに、古事記や魏志倭人伝などの他の文献や考古学の知見を掛け合わせ、自分なりに最も納得性の高いシナリオを仮説としてまとめていく、というプロセスをとっています。その前提として、古事記や日本書紀の記述はたいそうな装飾や編集、嘘っぽい創作じみた話、神話など明らかに現実的でない話などが並べられているものの、基本的に何らかの事実や史実、あるいは伝承などに基づくものであると考えています。

さて、日本書紀はまず神代巻で国生み、国譲り、天孫降臨など神様の話が語られます。イザナギとイザナミの夫婦神が日本の国土である大八洲国を作り、続いてたくさんの神々を誕生させました。そのたくさんの神々の中で最も重要な神様はアマテラスとスサノオの二人です。アマテラスは天上の高天原にいて、その孫にあたるニニギノミコトを地上に降臨させ、その子孫たちが天孫族として日本国の建設を始め、のちの天皇家につながっていきます。一方のスサノオは気性が荒くて天下を治めるにふさわしくないとされ、天上界から根の国に追放され、天孫族と対立する一族になっていきます。いずれも天上界からやってきたという点では同じです。
 
縄文時代の終わり頃から弥生時代にかけて、大陸や朝鮮半島から稲作や製鉄など当時の最先端技術を携えて日本列島各地に渡来した様々な集団が土着の縄文人と融合して弥生人になっていった、ということが様々な研究の結果、わかってきました。

中国大陸の江南地方あたりから九州の南部に渡来した集団がアマテラス一族、記紀においては熊襲あるいは隼人と呼ばれる一族になり、魏志倭人伝では狗奴国と記されました。この狗奴国の王(倭人伝では卑弥弓呼)がカムヤマトイワレヒコ、のちの神武天皇です。
 
そして朝鮮半島から山陰地方へ渡来した集団がスサノオ一族で、子孫のオオクニヌシが出雲の国土開発(国造り)を行う一方、一族から分かれたスクナヒコナの集団が大和の纒向へ移り、邪馬台国を建国します。この邪馬台国を建国したのが崇神天皇です。(そうです、私は邪馬台国畿内説です。)
 
大和纒向の邪馬台国はやがてオオクニヌシの出雲(倭人伝では投馬国)や九州北部の各国を従えて倭国という連合国家を形成します。一方の狗奴国は南九州から北上しながら国土開発を続け、ついには北九州の倭国と一戦を交える事態になりました。この戦いを優勢に進めた狗奴国の王イワレヒコは倭国の本丸である邪馬台国への進攻を決意し、九州の日向から瀬戸内海を通過、熊野を経由して大和へ向かいました。これがいわゆる神武東征です。
 
しかし、日本書紀には神武天皇が大和にあった邪馬台国、すなわち崇神天皇と戦った、なんてことは一言も書いていません。同じ天皇家であり、しかも神武は初代天皇で崇人天皇は第10代天皇。この二人が戦うなんて考えられません。そもそも神武が大和で戦ったのはニギハヤヒだったはず。
 
大和をめぐる動きについては、私はこんなことを考えています。弥生時代の早い時期に丹後からやってきたニギハヤヒが大和の地を押さえていた。弥生後期後半、出雲からスクナヒコナがやってきて奈良盆地の東の端っこに邪馬台国を開き、のちに崇神天皇と呼ばれるようになった。さらに九州の日向から狗奴国の神武がやってきて、ニギハヤヒを取り込んで奈良盆地の南西部の隅っこに拠点を設けた。3世紀中頃にあたるこの時点で大和には邪馬台国である崇神天皇の政権と神武天皇の政権が並立する状況になった。こうして二人のハツクニシラススメラノミコト(初めて国を治めた天皇)が誕生することになった。
 
この考えをもとに日本書紀をつぶさに読むと、神武王朝(神武から第9代開化天皇まで)と崇神王朝(崇神から第14代仲哀天皇まで)の間での様々な「せめぎ合い」が見えてくるのです。
 
記紀の神代から続く歴史の初期段階はそれを裏づける証拠がないために、いろんな人がいろんなことを言っています。邪馬台国も同じです。中国の魏志倭人伝に明確に書いてあるにもかかわらず、その所在について確たる物的証拠がないために何とでも言えてしまうのです。でも、だからこそ古代史は面白い。できるだけたくさんの状況証拠を集めてパズルあわせをしていくと思わぬ考えに行き着き、それを上手く組み立てると意外にも筋の通ったストーリーになる。言い方は適切でないかもわかりませんが、このパズルあわせとストーリーの組み立てがこの上なく楽しい。ほかの人が考えついていないストーリーができたときほど満足感が大きい。そのときはたいがい前述のようなトンデモ説になってるんですが(笑)。
 
そんな考えで綴ってきたのが私のブログ「古代日本国成立の物語」です。昨年(2016年)の夏から始めて今日(2017年07月26日)現在までで、第11代垂仁天皇までのストーリーを書いてきました。
 
 さて、これまで14回にわたって私なりの古代史の楽しみ方をお伝えしてきましたが、次回をもっていったん最終回にしたいと思います。最終回は、古代史の勉強を単なる自分の趣味に終わらせず、セカンドライフを充実させるために何かできないか、もやもやと妄想していることを書いて終わりにしようと思います。(最終回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(13)

2020年09月06日 | 古代史構想学
■神武も徐福も熊野へ来た?

今回は神武東征と徐福伝説を訪ねる実地踏査ツアーの最終回。熊野三山をあとにして向かった先が、産田神社、花の窟神社、波田須の徐福の宮、阿古師神社です。
 
まず産田神社から。

  
この神社には主祭神として伊奘冉尊と火の神である軻遇突智が祀られています。日本書紀には「伊奘冉尊は火の神である軻遇突智を産んだ際に焼かれて死に、紀伊国の熊野の有馬村に葬られた」と記されていて、この産田神社は伊奘冉尊が出産して亡くなった場所といわれています。社殿の両側には日本でわずか二ヶ所しか残っていないと言われている古代の神籬の跡がありました。神籬というのは神社という形ができる前に神様を祀る神聖な場所として設けられた区画のことです。これを見ると石を並べて磐座を作ったという印象で、神様が降りてくる場所として相応しいように感じました。



次は、産田神社から車で5分ほどのところにある花の窟神社。


 
ここは亡くなった伊奘冉尊を葬った場所とされ、産田神社と同じく、伊奘冉尊と軻遇突智が主祭神として祀られています。社殿がなく、熊野灘に面した高さ459メートルの大きな岩がご神体となっており、先に見た神倉神社と同様にここでも磐座信仰が見られます。日本書紀には「この土地の人々は神の魂を、花が咲くときに花を捧げて祀り、太鼓を鳴らし、笛を拭き、旗を振って歌い、踊ります」と記されいて、今でも御縄掛け神事というお祭りが行なわれています。



この2つの神社はまさに神話のテーマパークという印象があるのですが、神武東征が史実であったからこそ熊野の地が地元の伝承とともに日本書紀に記され、そしてその後は日本書紀の記述をもとにテーマパーク化していった、と考えられます。
 
次は波田須という小さな村にある徐福の宮を訪ねました。国道をはずれて細い道に入り、不安な気持ちで村の中を進んでいくとやがて行き止まりになり、車を停めた目の前がまさに目的地でした。


 
徐福伝説は日本各地にあって、今回訪れた新宮や熊野はその中でも本場であるといっても過言ではないのですが、ここ波田須の徐福の宮に立つと、本当に徐福がここに来たと思わせる空気がありました。この地にやって来たのが徐福本人であったかどうかは定かではありませんが、その昔、この小さな村に流れ着き、言葉が通じない中でも村の人々に様々な技術を伝え、村の発展に貢献した人がいた、としても不思議ではないと思いました。



徐福というのは、秦の始皇帝の命令で3000人の童男童女と多くの技術者を従えて不老不死の妙薬を捜し求めて大陸から東へ船出した集団のリーダーです。おそらく秦の時代には3000人もの大人数が乗れるような大きな船はなかったでしょう。100人ずつ分けても30隻、50人とすれば60隻、いずれにしても大船団になります。大陸から漕ぎ出した大船団が東シナ海を渡るとき、一隻もはぐれずにまとまって航行できたとは到底思えません。むしろ、風や波の影響、それぞれの船の大きさや構造、荷物の重量の差などもあって、出航後まもなくして船団はバラバラになったことでしょう。バラバラになった船はそれぞれ自力で目的地を目指して航海を続け、結果、日本列島の各地に流れ着くことになったはずです。私はこれが徐福伝説が各地に残る理由だと考えています。
 
さて、子供の頃によく聞いた浦島太郎のお話、これまた日本各地に伝えられています。海の向こうからやってきた見知らぬ男、浦島太郎のモデルは徐福だったのかも知れません。

さあ、いよいよ最後の訪問地である阿古師神社。もともとはこの神社の先にある神武船団が遭難したと言われる楯ケ崎へ行きたかったのですが、時間と体力の関係で手前の阿古師神社で断念しました。国道わきの駐車場から海岸へ降りる遊歩道があるのですが、帰りが大変だと不安になるほどの結構な下り道を2~30分ほど行ったところで到着。


 
三重県神社庁によると阿古師神社の祭神は三毛入野命、天照皇大神、大山祗命、蛭子命、倉稲魂命となっているのですが、日本書紀によると神武の船団はこの海域で暴風雨に見舞われ、神武天皇の二番目の兄の稲飯命と三番目の兄である三毛入野命が入水して嵐を収めようとしました。二人の兄が犠牲になったにもかかわらず、神武の船団は結局ここで難破してしまい、上陸を余儀なくされたのです。二木島湾を挟んだ向こう側には室古神社というのがあって、そこには稲飯命が祀られています。地元の人々が命を落とした二人の亡骸を引き上げて2つの神社に祀ったということです。難破して上陸せざるをえなかった楯ケ崎はこの阿古師神社からさらに30分ほど行く必要があったので断念したのです。



以上で熊野ツアーは終了になるのですが、神武天皇が本当に紀伊半島をぐるりと回って熊野へやってきたのか、中国からの徐福は本当に熊野へやってきたのか、を感じて考えることができました。前者の結論は、神武天皇は熊野へやってきた、後者は、徐福本人かどうかはわからないが大陸からやってきた集団がいた、ということになりました。ただ、この結論は思考の終点ではなくて、あくまで始まりなのです。古代史を解き明かす無数のパーツのいくつかが見つかったにすぎないのです。
 
ここまで、日向、纏向、葛城、熊野と実地踏査のレポートを掲載してきましたが、このほかにも丹後・出雲の遺跡や神社、魏志倭人伝に登場する伊都国や奴国と言われる北九州の遺跡など、少しづつ訪問地が増えてきたので、機会があればこの場で紹介していきたいと思うのですが、ひとまず実地踏査レポートはこのあたりにして、次回は私が古代の日本に対してどんな仮説を考えているかを簡単に紹介させていただこうと思います。(第14回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(12)

2020年09月05日 | 古代史構想学
■ 神武は那智山に来なかった

神武東征と徐福伝説を訪ねる実地踏査ツアーの3回目になります。

勝浦温泉で旅の疲れを癒した3人の2日目は補陀落山寺からスタート。ここは今回のツアー行程に入っていなかったのだけど、極楽浄土を目指して小船で漕ぎ出すという思想に興味があったので立ち寄りました。しかし残念ながら、ここから旅立った人々の名が刻まれた碑を見ても、保存されている実物の渡海船を見ても、本尊の観音さまを拝んでも、その思想は理解も共感もできませんでした。

次はいよいよツアーのメインイベント、熊野那智大社の参詣です。熊野まで来て熊野古道を歩かない訳にはいかないという佐々木さんの強い意向で、大門坂の駐車場に車を停め、歩いて登ることにしました。何度も熊野へ来たことのある私にとっても初体験で、いい思い出になりました。


(大門坂)


(熊野古道)

熊野那智大社は神仏習合が現在もそのまま残されているが如く、境内には西国三十三箇所一番札所の青岸渡寺が隣接して建っています。以前に来た時はお寺で二礼二拍一礼という失態をやらかしてしまったので今回は気をつけました。(由緒ある神社とお寺が並んでいて、しかも先に神社をお参りしたら間違っても仕方ないと思いませんか(笑))
那智大社の主祭神は速玉大社にも祀られていた熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ=イザナミノミコト)です。


(熊野那智大社)


(青岸渡寺)

この那智大社は他の二山と違って、どうも神武東征や古代史とは関係がなさそうです。那智の滝に対する自然崇拝と修験道の拠点としての山岳信仰が融合し、その後に熊野信仰の対象になったという印象です。そういう意味でここは記紀神話をもとにしたテーマパークとも言えます。青岸渡寺には修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)の像が安置されていました。

ここからは再び徒歩で那智の滝に向かいます。那智の大滝をご神体とする飛瀧神社は主祭神として大己貴神を祀っていて、ここも記紀神話テーマパークの一部になっているようです。ちょうど先日9日の日曜日、7月14日に行われる扇祭りのために大滝にかかるしめ縄の張り替えが行われ、ニュースで放映されていました。

さすが日本一の落差。日光の華厳の滝なんかとは比べものにならない迫力と威厳を感じます。別料金を払ってより滝に近づける拝所に上って滝の飛沫を浴びていると心が洗われる気がしました。


(拝所から)

私たちが神社にお参りするとき、お賽銭箱が置かれた拝殿の前で拝みます。そして通常はその拝殿の奥にはご神体が納められている本殿があります。
でも、この飛瀧神社の場合、滝そのものがご神体なので本殿がありません。しかも、ここには拝殿もありませんでした。滝の正面に小さな鳥居があって、その前にお賽銭箱が置かれているだけでした。その意味で、自然崇拝の原始信仰がそのまま残されているように感じました。


ところで、私は「ご神体」というのは神様のことだと思っていたのですが、神社のことを少し勉強してそれが間違いだとわかりました。ご神体というのは神様が天から降りてきたときに宿る依り代なんですね。そんなにわか仕込みのマメ知識を2人に披露しながら那智山を後にしました。

JR那智勝浦駅の近くで美味しいマグロ丼を食べた後はいよいよツアーのフィナーレへ。(第13回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(11)

2020年09月04日 | 古代史構想学
■原始信仰と記紀神話の融合

前回の熊野本宮大社から今回は熊野速玉大社、神倉神社、阿須賀神社を紹介します。
 
熊野速玉大社は新宮川の河口近くにあって、祭神は熊野速玉大神と熊野夫須美大神となっており、これまた聞いたことのない神様ですが、伊邪那岐神と伊邪那美神のことだそうです。神社公式サイトを見ると「熊野の神々はまず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇58年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり「新宮」と称した」となっており、このことが新宮市の名の由来にもなっています。社殿はすべて朱塗りになっているので本宮大社のような趣や歴史を感じることができませんでした。
 

 (熊野速玉大社本殿)
 
この速玉大社を出て少し南に歩いていくと前述の神倉山があり、その中腹に神倉神社があります。油断すると転げ落ちそうな急な石段を五百数十段も登ったところに御神体のゴトビキ岩があり、その前に小さな祠が立っています。この石段は本当に危険で、神社の公式サイトにも「急勾配なので、御年配の方は下の鳥居でご参拝下さい。また、飲酒者や踵の高い靴での登拝は、危険防止上、お止め下さい。」と書かれています。実際に行ってみると、上りよりも下りのほうが怖くて、情けないかな、へっぴり腰にならざるを得ませんでした。
 

 (へっぴり腰の佐々木さんと岡田さん)
 
このゴトビキ岩は神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あまのいわたて)と言われており、日本書紀には「遂越狹野而到熊野神邑、且登天磐盾、仍引軍漸進」と記されています。
 

 (ご神体のゴトビキ岩)
 
2月には御燈祭というのがあって、松明を持った男衆がゴトビキ岩から麓まで急峻な石段を一気に駆け下りるというのです。この石段を経験してみると「駆け下りるなんてとんでもない。死人が出てもおかしくない」と思うのですが、地元出身の友人に聞くと「大丈夫ですよ」とサラリと言われました。

 御燈祭の情報→http://travel.nankikumano.jp/omatsuri/otoumatsuri/
 

神倉神社の次に向かったのが新宮川のさらに河口寄りにある阿須賀神社。主祭神は、事解男命(コトサカノオノミコト)、熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神。事解男命以外はすでに見てきた速玉大社と本宮大社の神様だけど、事解男命はまた初耳の神様です。でも、調べてみると次のような話で日本書紀に登場していることがわかりました。
 
イザナギは亡くなった妻のイザナミに会いたいと思って黄泉の国に行ったとき、その穢れた体を見て引き返そうとした。イザナミは黙って帰らせず 「別れましょう」と言うと、 イザナギは 「負けない!」と言い返した。その時に吐いた唾が神となったのが速玉之男(ハヤタマノオ)、次に穢れを払うと泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)が生まれた。

速玉之男は熊野速玉大社の祭神である熊野速玉大神と言われています。そして泉津事解之男がこの阿須賀神社に祀られる事解男命のことです。
 

 (阿須賀神社)
 
神社の背後には神奈備山の典型と言ってもいいお椀を伏せたような形の蓬莱山があり、境内からは弥生時代の遺跡が出ています。ここでも記紀以前の原始信仰があったことがわかります。
 
また、神社境内には徐福の宮と呼ばれる小さな祠があり、徐福が探し求めた不老不死の妙薬と言われている天台烏薬(てんだいうやく)の木が育っていました。ここ新宮は徐福伝説にあふれる街で、JR新宮駅前は「徐福」という地名で、そこには徐福公園があり、その中には徐福の墓までありました。
 

 (徐福公園。まさにテーマパークだ)
 
熊野の神社を訪ねて感じたことは、それぞれの祭神が記紀に登場する神々に少々強引にこじつけられているな、ということです。熊野のそれぞれの神社にはもともと地元の神様が祀られていたと思うのです。神倉神社なんかはその典型で、原始的な磐座信仰に始まっているのは明らかです。そして3世紀中頃(と私は考えている)に神武東征があって、4世紀から5世紀にかけて大和政権が確立され、8世紀初めにその経緯が古事記、日本書紀に記されました。つまり、古事記や日本書紀は時の政権が編纂した歴史書であり、ここに登場する神様は政府公認の神様と言えるのです。

しかし、出雲や大和の葛城と違って熊野が記紀に登場するのは神武東征の一場面のみで、神様として祀るべき人物もほとんどいません。それでも記紀ゆかりの土地として、有難い記紀の神様にあやかろうとスサノオノミコトやイザナギ・イザナミなどを無理やり持ってきたのではないでしょうか。
 
ちなみに、熊野詣が盛んになるのは記紀編纂からずっとあと、10世紀以降のことと考えられています。記紀が編纂された頃の熊野は住む人もほとんどなく、大和から見ると遥か彼方の僻地でした。だからこそ私は、神武天皇が大和に入るためにわざわざ遠回りしてこの熊野にやって来たのは史実であったと考えるのです。
 
日の皇子である神武天皇は太陽を背にして戦おうと紀伊半島を迂回し、東から大和に入ろうとしました。紀伊半島を迂回して大和の東から、となれば伊勢あたりに上陸することを目指したはずです。ところが、熊野で嵐にあって遭難し、上陸を余儀なくされたのです。神話として創作するのであれば無事に伊勢まで行かせればよくて、わざわざ熊野で遭難させる理由がないと思うのです。だから私は、神武天皇が紀伊半島を迂回して熊野までやってきたこと、ここで遭難して上陸したことを史実と考えるのです。
 
 
次回は、熊野古道を歩いて熊野那智大社を参った様子を紹介します。 (第12回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(10)

2020年09月03日 | 古代史構想学
■熊野はややこしい

今回より実地踏査の舞台を奈良の葛城から和歌山の熊野に移したいと思いますが、ここで奈良の纒向を一緒に回った岡田さんと佐々木さんに再び登場していただきます。
 
昨年2016年の2月、記紀の神武東征説話と徐福伝説を訪ねて、私たち三人は私の自宅がある大阪の富田林を出発地として一泊二日の熊野ツアーに出かけました。熊野へは国道168号線で奈良県十津川村を縦断するルートです。余談になりますが、途中、岡田さんがどうしてもと主張されたので、古代史とは関係ないのだけど、日本一高い吊橋である「谷瀬の吊橋」に立ち寄りました。ここで意外な事実が発覚。佐々木さんが吊橋を渡らないとおっしゃるのです。理由をたずねると、なんと高所恐怖症とのこと。
長いお付き合いなのに初めて知る事実。やむなく二人で渡ることにしました。とは言うものの、私はここには毎年キャンプで来ていて何度も渡った経験があったので、実は岡田さん一人の為であったと言っても過言ではありません。来年には田舎の高松に戻られる岡田さんにとってはいい思い出になったことでしょう。


 (谷瀬の吊橋)
 
車は山の中をひたすら走り続け、熊野本宮大社へ到着。ここでまず、熊野あるいは熊野三山についておさらいをしておきましょう。熊野の地名が日本の歴史に最初に登場するのは720年に完成した日本書紀です。その神代紀に「イザナミが死んだときに熊野の有馬村に葬られた」と記されています。平安時代に浄土教が盛んになると、熊野の地は浄土とみなされて歴代の上皇が御幸(ぎょこう)しました。その信仰は民間にも広がり「蟻の熊野詣」と称されるほどに各地からこぞって熊野へ参詣する人で賑わいました。その参詣のための道が現代によみがえり、熊野古道ともてはやされているのです。熊野にある「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の3つの神社をあわせて熊野三山といいます。熊野は特に平安時代の神仏習合における仏教的な要素が強く残っているために「山」という表現が使われ、さらに熊野の神様も熊野権現と言ったほうが通りがいいようです。
 
ここは全国に三千社ある熊野神社の総本社で、祭神は家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)であり、この神様はスサノオノミコトのことであるとされています。なぜ家津美御子大神がスサノオノミコトのことなのか、私はよくわかっておりません。実は出雲にも熊野大社があって、こちらもスサノオノミコトが祭神になっています。出雲にスサノオノミコトを祀る神社があるのは当たり前と思えるのですが、紀伊の熊野にあるのは理解が難しい。出雲の熊野大社の社伝によると、熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元である、となっているとのこと。熊野本宮大社は全国熊野神社の総本社であると主張し、もう一方の出雲側はその総本社は出雲の熊野大社から勧請されたと主張する。どちらも由緒ある大社だけに「本家はこっちだ」と主張しているように聞こえませんか。おそらく、出雲から熊野に勧請されたのでしょう。そう考えると紀伊の熊野にスサノオノミコトが祭られる理由が理解できます。
 

(熊野本宮大社 本殿)
   
しかし、この熊野本宮大社では主祭神よりも有名なのが日本サッカー協会のシンボルにもなっている三本足の八咫烏です。記紀の神武東征に登場し、熊野から大和まで神武一行を導いた「導きの神鳥」とされています。この八咫烏は賀茂氏(鴨氏)の祖先と言われていますが、これについてはまた機会があれば触れたいと思います。


 (本殿鳥居横に立つ八咫烏のノボリ)
  
本宮大社は現在の本殿から約500メートルのところ、もともと新宮川の中州だったところに元の本殿がありました。明治22年の大水害で何から何まで流された結果、現在のところに再建されました。流された跡地は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、摂社や末社が祀られています。


(大斎原への参道。神々しい)
 
現在の本殿も厳かな空気に包まれた素晴らしい雰囲気があるのですが、この大斎原も神々しくて有難く感じるところです。熊野を訪れた際にはぜひお参りしてください。 
 
この熊野本宮大社では、神武天皇の一行は東征の際に本当にこの熊野までやってきたのか、本当に険しい山中を大和までどのようにして辿りつくことができたのか、という疑問がわいてきました。紀伊半島の海岸沿いに難波から熊野へ回ってきたこと、八咫烏の導きで熊野から大和へ行軍したことを感じ取りたかったのが、逆の気持ちになってしまい頭が少し混乱しました。
 
次は新宮川を河口近くまで下ったところにある熊野速玉大社ですが、ここはさらによくわからないところでした。また次回。 (第11回へつづく)

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男50歳からの古代史構想学(9) 

2020年09月02日 | 古代史構想学
■神話は事実から生まれる

葛城の鴨三社を見た後に向かったのが、高天彦神社(たかまひこじんじゃ)です。高鴨神社を出て葛城山麓バイパスを少しだけ走ったあと、さらに急な坂を金剛山の中腹まで登ります。途中、徒歩による参道が車道から分岐していました。歩いて参拝する人もいるのでしょうか。
 

 
車で登りきったところに神社があります。駐車場から本殿までの参道は並木道になっていて何ともいえない有難い雰囲気に満ちています。上の写真にある参道を登ってくると、この並木道につながっています。
  

   
社務所がなく、今は高鴨神社によって管理されているらしいのですが、境内は綺麗に整備されていました。この神社の祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)であり、天地の初めに天上世界の高天原(たかまがはら)に現れた神様のひとりです。社名の高天彦は高皇産霊神の別名とも言われています。金剛山の中腹、奈良盆地を見下ろす場所に鎮座し、近くには高天原跡地と伝えられるところもあって、いかにもそれらしい雰囲気。記紀神話をもとに作り出されたテーマパークとも言えそうですが、単純にそうとも言い切れない。その昔、天孫族からつながる有力者がこの葛城一帯を支配した事実があるからこそ生まれた神話であり、この神社なのだろうと思うのです。
 

 
いま風に言えばパワースポットということになるのでしょうが、そんな安っぽい言葉では語れない雰囲気が漂ういいところです。ぜひ訪ねてみてください。
 
このあとは葛城一言主神社。祭神は一言主大神で、地元では「いちごんさん」と呼んで親しまれています。 
 
一言主大神は第21代雄略天皇が葛城山で狩をした時に天皇と同じ姿をして現れたといいます。前回に紹介した「事代主神(ことしろぬしのかみ)」は「言代主神」とも言われています。古代には「事」と「言」の区別がなかったためです「言代主神」と「一言主神」、よく似ていると思いませんか。そうなんです、この二人の神様は同一神と言われているのです。
 
事代主神は鴨族の祖先神で、その鴨族(鴨氏)の有力者が枝分かれして葛城氏になった。鴨氏は鴨都波神社に祖先神を祀り、葛城氏はこの一言主神社に祖先神を祀っている。私はそんなふうに考えています。
 

 
葛城氏の祖先神である一言主神が天皇と同じ姿で共に狩をするという話は、葛城氏が天皇と同じくらいの勢力を誇っていたという事実を反映していると言われています。 
  
第三回で紹介した宮崎ツアーの話で仲間のひとりである岡田さんが言った「高千穂は神話のテーマパーク」というのがずっと心に引っかかっていたのですが、全てを神話の後にできたテーマパークで片付けるのはやはり違うな、ということを改めて感じました。何らかの事実があるからこそ後世に伝えられて伝承となり、神話になる。とすれば、その事実があった場所もまた実際に存在する。
 
葛城では鴨三社、高天彦神社、葛城一言主神社の5つの神社以外に孝昭天皇陵、孝安天皇陵、葛城襲津彦の墓と言われる室宮山古墳を訪ねましたが、また別の機会に紹介することにします。(第10回へつづく)

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男50歳からの古代史構想学(8)

2020年09月01日 | 古代史構想学
■古代史と神社

今回は昨年(2016年)の6月に奈良県の葛城一帯を訪ねたときのことを書きます。ちなみに私の自宅は大阪の富田林市にあり、葛城地方とは金剛山地を挟んで向かい側になります。

訪ねたところは順に、孝昭天皇陵→鴨都波神社→葛木御歳神社→高鴨神社→高天彦神社→宮山古墳→葛城一言主神社→孝安天皇陵、です。葛城は古代の大豪族である葛城氏の本拠地であり、鴨氏(賀茂氏)の出身地とも言われています。しかし、ほぼ思いつきの踏査だったために事前の下調べをせず、スマホ片手に回ることになりました。

今回は鴨三社と呼ばれる鴨都波神社、葛木御歳神社、高鴨神社を紹介します。

最初に訪ねたのは下鴨社とも呼ばれる鴨都波神社です。神社由緒によると、創建は崇神天皇のときで、祭神は積羽八重事代主命(つわやえことしろぬしのみこと)と下照姫命(したてるひめのみこと)となっています。小さな神社ですが綺麗に整備されていました。氏子さんたちの敬虔な気持ちの賜物だろうと感じました。この神社の下には弥生時代の遺跡があり、裏手を走る国道24号線を挟んだ西側からは一辺が20メートルほどの方墳が発掘され、三角縁神獣鏡などの副葬品が出ました。この墳墓の主は祭神である事代主命と関係がありそうです。このことから、私は事代主命は鴨氏、葛城氏につながりる神様だと考えるようになりました。



次に中鴨社と呼ばれる葛木御歳神社。祭神は御歳神(みとしのかみ)といって、古事記ではスサノオ命の孫神とされ「お年玉」の語源になったとも言われている神様です。裏手の御歳山をご神体とする小さな神社で、女性の宮司さんが神社の横でサロンカフェを営んでいます。この日も地域の女性が集まって貸切で会合をしていました。
営利目的のカフェではなく、地域のコミュニティを守っていきたいという思いを感じました。お参りしている時に体長が15センチほどの小さなヘビを見つけました。神様が姿を見せてくれたのでしょうか、第五回で紹介した三輪山の大物主神の話を思い出しました。



最後に高鴨神社。御歳神社を出て国道24号線を少し南下したところを右折すると、道路は金剛山に向かって急な坂になります。アクセルをグッと踏み込んで一気に登りました。このあたりにも弥生時代の遺跡があり、神社由緒によると鴨族発祥の地となっています。高鴨神社は京都の上賀茂神社や下鴨神社を含む全国の賀茂社の総本宮で、祭神は阿遅志貴高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)、別命を迦毛之大御神(かものおおみかみ)といいます。鴨族は弥生時代中期に山を降りて鴨都波神社や御歳神社あたりに住むようになったということです。しかし、山を降りたとされるあたりから弥生時代前期の水田跡が検出されています。時代が少しずれていることから私は、神社由緒とは違う考えを持つようになりました。さらに、通説では出雲の神とされる事代主や阿遅志貴高日子根についても「実は葛城の神ではないか」という考えも持っています。



記紀や風土記などを読んで、参考となる書籍を読んで、ネットでもいろいろ調べ、さらに現地を訪ねて地形や景色を確認し、肌で空気を感じることで自分なりの考えが形作られていきました。これが古代史に取り組む醍醐味ではないでしょうか。そしてこの葛城踏査で、古代史の探究に神社の考察が欠かせないことを認識することができました。
(第9回へつづく)


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