■二倍年暦について
武内宿禰の考察の最後にあたって、その長寿を考えた際に触れておいた「二倍年暦」なるものについて自分の考えを整理しておきたい。二倍年暦は九州王朝説を主張する古田武彦氏によって広められた説で、古代においては春と秋を区切りとして年が変わる、つまり現代では一年と数える時間の経過を二年と数える方法を用いていた、というものだ。魏志倭人伝よりも少し先に成立した「魏略」という史書があり、倭人伝には次のようにこの魏略を引用した箇所(赤字部分)がある。
其俗 擧事行來 有所云為 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆。其會同坐起 父子男女無別。人性嗜酒。魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀。見大人所敬 但搏手以當跪拝 其人寿考 或百年或八九十年。
倭人は卜骨によって吉凶を占い、立ち居振る舞いなどでは父子や男女の区別はなく、また酒を好む、と倭人の習俗を説明したあとに、魏略から引用した注釈として「その習俗は正歳四節を知らず、ただ春に耕し、秋に収穫することを計って一年とする」という文章が挿入される。さらに「人々は長寿で、百歳あるいは八、九十歳の者もいる」と記される。魏略からの引用をわざわざここに挟んだのは、この百歳という長寿を合理的に説明しようとしたものだろう。つまり、春と秋に2回歳を取るので、実際は50歳あるいは40~45歳ですよと言いたかったとされる。また、「三国志」に死亡時の年齢が書かれている90名についてその年齢を調査したところ、平均が52.5歳で、このうち特に高齢であるため記載された例をのぞくと、その没年齢は30代と40代が最も多かったことから、倭人の年齢を半分と考えれば合理的な説明がつく、という主張もされたようだ。
こういうことが大きな根拠となって二倍年暦なるものが提唱され、これによって記紀における古代天皇の長寿も合理的に説明できるとして支持する人が増えていった。日本書紀に記された天皇で特に高齢のケースをみると、神武127歳、孝昭113歳、孝安137歳、孝霊128歳、孝元116歳、開化111歳、崇神120歳、垂仁140歳、景行106歳、成務107歳、といずれも100歳を越えている。欠史八代が実在しなかったひとつの根拠ともされてきたが、これを二倍年暦の考え方に基づいて年齢を半分にすると途端に現実的な年齢になる。このように初期の天皇の時代は二倍年暦で書かれているとすれば天皇の超高齢問題は解決する。二倍年暦の考えを初めて知った時は「なるほど」と思う一方で、何となく腑に落ちない感覚もあり、それは今日まで持ち続けてきた。
今回、武内宿禰の280歳とも360余歳ともされる長寿を考えるにあたって、仮にこの二倍年暦をあてはめたとしても140歳あるいは180歳となって長寿の問題は解決しないこともあって、複数人説を出したのであるが、そもそも二倍年暦ってどうなのか、という以前からの疑問を考えてみようと思い、あらためて編年体で書かれた日本書紀を見てみた。たとえば、神武天皇の東征から崩御までを日付順に並べると以下のようになる。
其年冬10月 東征に出発
11月9日 筑紫国の岡水門に到着
12月27日 安芸国の埃宮に滞在
翌乙卯年春3月6日 吉備国に高島宮に3年滞在
戊午年春2月11日 難波碕に到着
3月10日 河内国日下邑の白肩津に到着
夏4月9日 五瀬命が長髄彦に討たれる
5月8日 茅渟の山城水門に到着
6月23日 名草邑に到着
秋8月2日 弟猾を討ち、久米歌を詠む
9月5日 宇陀の高倉山で国見をする
冬10月1日 八十梟帥を撃つ
11月7日 磯城彦を攻める
12月4日 饒速日命が帰順する
翌年己未春2月20日 大和の残党を討つ
3月7日 都の造営に着手
庚申秋8月16日 正妃を立てようと決心
9月24日 媛蹈鞴五十鈴媛を正妃にする
辛酉春1月1日 橿原宮で即位
2年春2月2日 論功行賞を実施
4年春2月23日 高皇産霊尊を祀る
31年夏4月1日 巡幸をした
42年春1月3日 神淳名川耳尊を皇太子とする
76年春3月11日 橿原宮で崩御
翌年秋9月12日 畝傍山の東北の陵に葬られる
ここには春夏秋冬の季節とともに何月の出来事であったかが記されているが、これによって春が1月・2月・3月、夏が4月・5月・6月、秋が7月・8月・9月、冬が10月・11月・12月であることがわかる。つまり、1年が12か月という認識をもって書かれていることがわかる。この認識において一年にふたつの歳を重ねるという考え方はできないのではないか。
さらに、ここに記された日付を1日から順に並べてみると、1日~12日、16日、20日、23日、24日となる。同様に第2代の綏靖天皇から第16代仁徳天皇までの具体的な日付が記されたケースを拾ってみると、これに13日~15日、17日、19日、21日、22日、25日、27日、28日が加わる。つまり、1日から30日までで抜けているのが18日、26日、29日、30日の4日間のみである。このことから、ひと月が1日から30日まであるという認識をもって書かれていることがわかる。
また、十干十二支が書かれた箇所がある。吉備国では乙卯の年からの3年間の滞在が記されるが、吉備国を出て難波碕に到着したのが丙辰、丁巳を経た戊午の年の春で、これは3年後にあたる。さらに、夏、秋、冬を経た一年後の春2月が己未の年となっている。十干十二支が一年ごとに割り当てられて60年で一周するという認識をもって書かれている。
今回、武内宿禰の長寿を考えるにあたって、二倍年暦についてごく簡単ながらも前述のように考えた結果、何となく抱いていた違和感の理由がわかり、やはり二倍年暦は採用できないと考えるに至った。とすると、初期の天皇はどうして100歳を越える高齢に設定されているのだろうか。現時点では自分の考えを持ち得ていないので、ひとまず那珂通世が説いた辛酉革命説に従っておきたい。十干十二支が21周する1,260年に一度の辛酉の年に大革命があるとして、推古天皇が斑鳩の地に都を置いた推古9年(601年)がその年に当たり、そこから1,260年さかのぼった紀元前660年に神武天皇が即位したとする説で、この場合、その後の天皇はその帳尻を合わせるために異常なまでの高齢に設定されたと考えられている。私は、二倍年暦説によって書紀に記載の年齢の半分が実年齢とすることによって生じる疑問や矛盾よりも、辛酉革命説によって帳尻合わせで年齢を引き延ばしたと考える方が素直に受け止めることができる。
以上で武内宿禰の考察をいったん終わりとしたい。当初は武内宿禰を祀る神社などについても詳しく調べようと考えていたが、残念ながら時間の関係もあって資料や情報をそろえることができなかったので、また別の機会に考えることとしたい。
(「武内宿禰の考察」おわり)
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武内宿禰の考察の最後にあたって、その長寿を考えた際に触れておいた「二倍年暦」なるものについて自分の考えを整理しておきたい。二倍年暦は九州王朝説を主張する古田武彦氏によって広められた説で、古代においては春と秋を区切りとして年が変わる、つまり現代では一年と数える時間の経過を二年と数える方法を用いていた、というものだ。魏志倭人伝よりも少し先に成立した「魏略」という史書があり、倭人伝には次のようにこの魏略を引用した箇所(赤字部分)がある。
其俗 擧事行來 有所云為 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆。其會同坐起 父子男女無別。人性嗜酒。魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀。見大人所敬 但搏手以當跪拝 其人寿考 或百年或八九十年。
倭人は卜骨によって吉凶を占い、立ち居振る舞いなどでは父子や男女の区別はなく、また酒を好む、と倭人の習俗を説明したあとに、魏略から引用した注釈として「その習俗は正歳四節を知らず、ただ春に耕し、秋に収穫することを計って一年とする」という文章が挿入される。さらに「人々は長寿で、百歳あるいは八、九十歳の者もいる」と記される。魏略からの引用をわざわざここに挟んだのは、この百歳という長寿を合理的に説明しようとしたものだろう。つまり、春と秋に2回歳を取るので、実際は50歳あるいは40~45歳ですよと言いたかったとされる。また、「三国志」に死亡時の年齢が書かれている90名についてその年齢を調査したところ、平均が52.5歳で、このうち特に高齢であるため記載された例をのぞくと、その没年齢は30代と40代が最も多かったことから、倭人の年齢を半分と考えれば合理的な説明がつく、という主張もされたようだ。
こういうことが大きな根拠となって二倍年暦なるものが提唱され、これによって記紀における古代天皇の長寿も合理的に説明できるとして支持する人が増えていった。日本書紀に記された天皇で特に高齢のケースをみると、神武127歳、孝昭113歳、孝安137歳、孝霊128歳、孝元116歳、開化111歳、崇神120歳、垂仁140歳、景行106歳、成務107歳、といずれも100歳を越えている。欠史八代が実在しなかったひとつの根拠ともされてきたが、これを二倍年暦の考え方に基づいて年齢を半分にすると途端に現実的な年齢になる。このように初期の天皇の時代は二倍年暦で書かれているとすれば天皇の超高齢問題は解決する。二倍年暦の考えを初めて知った時は「なるほど」と思う一方で、何となく腑に落ちない感覚もあり、それは今日まで持ち続けてきた。
今回、武内宿禰の280歳とも360余歳ともされる長寿を考えるにあたって、仮にこの二倍年暦をあてはめたとしても140歳あるいは180歳となって長寿の問題は解決しないこともあって、複数人説を出したのであるが、そもそも二倍年暦ってどうなのか、という以前からの疑問を考えてみようと思い、あらためて編年体で書かれた日本書紀を見てみた。たとえば、神武天皇の東征から崩御までを日付順に並べると以下のようになる。
其年冬10月 東征に出発
11月9日 筑紫国の岡水門に到着
12月27日 安芸国の埃宮に滞在
翌乙卯年春3月6日 吉備国に高島宮に3年滞在
戊午年春2月11日 難波碕に到着
3月10日 河内国日下邑の白肩津に到着
夏4月9日 五瀬命が長髄彦に討たれる
5月8日 茅渟の山城水門に到着
6月23日 名草邑に到着
秋8月2日 弟猾を討ち、久米歌を詠む
9月5日 宇陀の高倉山で国見をする
冬10月1日 八十梟帥を撃つ
11月7日 磯城彦を攻める
12月4日 饒速日命が帰順する
翌年己未春2月20日 大和の残党を討つ
3月7日 都の造営に着手
庚申秋8月16日 正妃を立てようと決心
9月24日 媛蹈鞴五十鈴媛を正妃にする
辛酉春1月1日 橿原宮で即位
2年春2月2日 論功行賞を実施
4年春2月23日 高皇産霊尊を祀る
31年夏4月1日 巡幸をした
42年春1月3日 神淳名川耳尊を皇太子とする
76年春3月11日 橿原宮で崩御
翌年秋9月12日 畝傍山の東北の陵に葬られる
ここには春夏秋冬の季節とともに何月の出来事であったかが記されているが、これによって春が1月・2月・3月、夏が4月・5月・6月、秋が7月・8月・9月、冬が10月・11月・12月であることがわかる。つまり、1年が12か月という認識をもって書かれていることがわかる。この認識において一年にふたつの歳を重ねるという考え方はできないのではないか。
さらに、ここに記された日付を1日から順に並べてみると、1日~12日、16日、20日、23日、24日となる。同様に第2代の綏靖天皇から第16代仁徳天皇までの具体的な日付が記されたケースを拾ってみると、これに13日~15日、17日、19日、21日、22日、25日、27日、28日が加わる。つまり、1日から30日までで抜けているのが18日、26日、29日、30日の4日間のみである。このことから、ひと月が1日から30日まであるという認識をもって書かれていることがわかる。
また、十干十二支が書かれた箇所がある。吉備国では乙卯の年からの3年間の滞在が記されるが、吉備国を出て難波碕に到着したのが丙辰、丁巳を経た戊午の年の春で、これは3年後にあたる。さらに、夏、秋、冬を経た一年後の春2月が己未の年となっている。十干十二支が一年ごとに割り当てられて60年で一周するという認識をもって書かれている。
今回、武内宿禰の長寿を考えるにあたって、二倍年暦についてごく簡単ながらも前述のように考えた結果、何となく抱いていた違和感の理由がわかり、やはり二倍年暦は採用できないと考えるに至った。とすると、初期の天皇はどうして100歳を越える高齢に設定されているのだろうか。現時点では自分の考えを持ち得ていないので、ひとまず那珂通世が説いた辛酉革命説に従っておきたい。十干十二支が21周する1,260年に一度の辛酉の年に大革命があるとして、推古天皇が斑鳩の地に都を置いた推古9年(601年)がその年に当たり、そこから1,260年さかのぼった紀元前660年に神武天皇が即位したとする説で、この場合、その後の天皇はその帳尻を合わせるために異常なまでの高齢に設定されたと考えられている。私は、二倍年暦説によって書紀に記載の年齢の半分が実年齢とすることによって生じる疑問や矛盾よりも、辛酉革命説によって帳尻合わせで年齢を引き延ばしたと考える方が素直に受け止めることができる。
以上で武内宿禰の考察をいったん終わりとしたい。当初は武内宿禰を祀る神社などについても詳しく調べようと考えていたが、残念ながら時間の関係もあって資料や情報をそろえることができなかったので、また別の機会に考えることとしたい。
(「武内宿禰の考察」おわり)
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