古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆不弥国の位置

2016年08月31日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 魏志倭人伝に基づいて対馬国、壱岐国、末盧国、伊都国、奴国まで定説となっている位置を順に見てきたが、倭人伝にはそれに続いて不弥国、投馬国、邪馬台国への道程が記されている。不弥国については「フミ」という音と奴国の東へ百里と記されていることから、その位置を福岡市宇美町に比定する説が有力であるが、伊都国や奴国ほどに定説として定まっていない。まずこの不弥国に触れたあと、投馬国および邪馬台国について詳しく考えてみたい。

 奴国の記述に続いて「東行至不彌國百里(東に百里行けば不彌国に至る)」とある。放射説が成り立たないことは先述の通りなので、ここは素直に「奴国から東に百里で不弥国に至る」と読む。そして方角は「東」を30~90度ずらして奴国を起点に東北東から北方向の範囲と読み替え、距離は百里程度、すなわち伊都国から奴国までと同じくらいの距離に収まる地域となる。不弥国を比定するための要件がもう一つある。それは不弥国の次の投馬国には水行二十日となっていることから不弥国には港があることが想定される。沿岸部もしくは船が航行できるくらいの川沿いということになる。方角、距離ともに合致する遺跡として福岡県飯塚市の立岩遺跡がある。近くを遠賀川が流れていてその下流域は縄文時代には古遠賀潟と呼ばれ、現在の直方あたりまで入り江が入り込んでいたこともあり、船の航行に不都合がなかったと思われる。この地は北と南は遠賀川流域平野として開かれているが、東は関の山、西は三郡山地等に囲まれて盆地を形成しており、江戸時代には長崎街道の要地であり、現在でも北九州市、福岡市、久留米市など四方の都市からの交通の結節点として機能する要衝の地である。
 飯塚市には紀元前後の遺跡が多数見つかっており、これらを総称して立岩遺跡あるいは立岩遺跡群と呼んでいる。その中でも中心となるのは飯塚市中心部の小高い丘陵地にある弥生時代中期後半の立岩堀田遺跡で、1963年から1964年に調査が行われ、甕棺墓43基、貯蔵穴26基などが見つかっている。特に10号甕棺からは一度に6面の前漢鏡が見つかるなど全部で10面の前漢鏡、鉄剣や銅矛、琉球でしか採れないというゴホウラ貝の腕輪、さらには絹などが見つかった。この地の王の墓であることは間違いないと考え、ここを不弥国としたい。

 これで不弥国までの比定ができた。これまで見てきた対馬・壱岐・末盧・伊都・奴・不弥の6ケ国はすべて九州北部にあり、各国までの道程、官吏の名称、戸数、国内の様子などが倭人伝に詳しく記されるほど魏にとっては重要な国であり、同時に先進的な国であった。この6ケ国があった地域を便宜上、まとめて「北九州倭国」と呼びたい。



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◆倭人伝における狗奴国の位置

2016年08月30日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 これまで書いてきた通り、狗奴国は九州中南部一帯に展開するほどの広大な国土をもち、先端技術を駆使して倭国と互角かそれ以上に戦えるだけの国力ある国であると考えるが、その狗奴国の位置について倭人伝には「此女王境界所盡、其南有狗奴國(此れ女王の境界の尽くる所なり、その南に狗奴国あり)」と記載されるのみである。この記述は狗奴国が九州中南部にあることと矛盾しないのであろうか。
 この倭人伝の記述は「女王国境界」ではなく「女王境界」となっているが、倭人伝では「女王」という表現と「女王国」という表現が使い分けられている。「女王国」については「自郡至女王国萬二千余里」や「自女王国以北」にあるように、女王国=邪馬台国と解するのが妥当と思われるが、「女王」については「倭女王(倭の女王)」というように卑弥呼そのものを指す場合のほか、先の「女王境界(女王の境界)」や「不属女王(女王に属さず)」のような場合は、邪馬台国そのものを指すのではなく、女王国である邪馬台国を盟主とする女王国連合、すなわち倭国の代名詞として使用したと考えることができるのではないか。そうすると「女王国連合の境界の南に狗奴国がある」と解することができる。
 
 邪馬台国がどこにあるかにかかわらず北九州にある末盧国、伊都国、奴国、不弥国などは邪馬台国の女王が統治する女王国連合に属しており、狗奴国がこれらの国々から見て「南」を30~90度ずらした方角、すなわち南南東から東の範囲に収まっていることが確認できれば倭人伝の記述と実際の狗奴国の位置に矛盾がないことになる。
 方角についてはどこ(起点)からどこ(終点)を見るかによって変わるものであるが、ここでは北九州女王国連合の中心地と考えられる伊都国を起点とし、もう一方は狗奴国の最終目的地であった阿蘇周辺、ここでは仮に阿蘇山そのものを終点としてみる。すると次の図のような位置関係となり、狗奴国は女王国連合からみて南東の方角にあたる。仮に起点や終点を変えてみたとしても大まかな位置関係は南から東北東くらいの間に収まってくる。つまり、倭人伝の記述は狗奴国の位置を正しく表していると言ってよいだろう。
 
 
 (筆者作成)



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◆無理がある放射説

2016年08月29日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 倭人伝の記述と実際の方角がズレていることを確認したが、この方角のズレを前提に倭人伝を読むと、奴国の次の不弥国については「東行至不彌國百里(東へ百里で不弥国に至る)」とあるのを30~90度ずらして考えれば、奴国の東ではなく東北東から北方向の範囲で百里のところにある、と解することができる。仮に放射説(※)に従うとすれば、不弥国の位置は起点となる伊都国の東北東から北方向の範囲で百里のところ、ということになる。奴国は伊都国の東にあることから、不弥国と奴国の位置関係は伊都国からの距離が同じで、不弥国が奴国よりも北寄りとなる。しかし、奴国の北側には博多湾が迫っており、しかも当時の海岸線は現在よりも手前にあったと考えられることから、奴国と不弥国がほぼ近接することになってしまうため、放射説で読み解くには無理があることになってしまう。

(※)放射説とは榎一雄氏が提唱した説で、伊都国までの行程は連続的に解釈し、その先は伊都国を起点に距離を修正しながら伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国と解釈する。

 さらに「南至投馬國、水行二十日(南へ水行20日で投馬国に至る)」の記述も「南南東から東方向の範囲で水行20日」となり、「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月(南へ水行10日、陸行ひと月で女王の都である邪馬台国に至る)」についても投馬国と同様に「南」ではなく「南南東から東方向の範囲」となる。
 従来から邪馬台国畿内論者は「南」は「東」の間違いである、という苦しい説明をしてきたが、このように考えれば投馬国も邪馬台国も伊都国や不弥国のある北九州から東方面にあることがさほど無理なく説明できる。不弥国、投馬国、邪馬台国の位置を考える前にまず狗奴国の位置を考えてみたい。



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◆魏志倭人伝に記された国々の位置

2016年08月28日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 魏志倭人伝に記載された内容をもとに狗奴国が九州中南部に存在したことの妥当性について考えてみたい。倭人伝には「北」「南」「東」「南北」「東南」など方角の表現が多く見られる。邪馬台国論争においては当初より畿内説論者は「南至邪馬壹國(南に行けば邪馬台国に至る)」の南を東の間違いであるとして論を展開してきた。また一方で、対海国、一大国、末蘆国、伊都国、奴国の5ケ国については九州論者、畿内論者に関わらず次の通り、その場所が通説としてほぼ確定している。これ以外に多くの比定地があるのは承知しているが、ここではこの5ケ国の位置を頼りにして方角について考えてみる。

■対海国
 対海国(対馬国)について魏志倭人伝には、朝鮮半島南端部にあると考えられている狗耶韓国を出発し「始度一海千餘里、至對海國(初めて一海を渡って千余里で對海國に至る)」と記載されている。この記載にある通り、朝鮮半島から初めて海を渡って到着する島が対馬とすることは疑いようがない。2000年、対馬西側の入り江の奥にある峰町で弥生時代前期から後期の大規模な集落跡である三根遺跡が発見された。対馬で初めて発掘された大規模集落跡で、朝鮮半島との交易を想定させる土器の出土もあり、対馬国の拠点集落であったと考えられている。

■一大国
 一大国については対馬国のあと「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國(また南へ一海を渡って千余里、名を瀚海という、一大國に至る)」とある。他の中国史書では一大国ではなく一支国と記載されており、これを「いきこく」と読んで壱岐とするのが通説。対馬からさらに海を渡って到着するのは壱岐であることから、これも異論はない。ここには原の辻遺跡があり、1993年に長崎県教育委員会がここを一支国の跡であると発表したことが話題になった。壱岐島の東南部にあり、島内で唯一と言っていい平野部に築かれた環濠集落で、入り江から川をのぼった集落の入り口に船着き場と考えられる遺構が見つかったのが特徴的である。

■末盧国
 末盧国については一大国のあと「又渡一海、千餘里至末盧國(また一海を渡って千余里で末盧國に至る)」と記載されており、これも通説通りに解して、その位置を松浦半島付近(旧肥前国松浦郡)とする。このあたりには、佐賀県唐津市に菜畑遺跡、松浦川や半田川、宇木川の流域に桜馬場遺跡や宇木汲田遺跡などの重要な遺跡がある。

■伊都国
 伊都国については末蘆国の記述に続いて「東南陸行五百里、到伊都國(末蘆国から東南へ陸路で五百里行くと伊都国に到る)」との記載があり、これも通説に従い、その位置を福岡県糸島市および福岡市西区(旧筑前国怡土郡)付近、糸島半島の付け根あたりに比定することでよいと思う。このあたりには三雲南小路遺跡、平原遺跡、井原鑓溝遺跡などの遺跡がある。

■奴国
 奴国については伊都国のあとに「東南至奴國百里(伊都国から東南に百里で奴国に至る)」と記載。通説によれば奴国の位置は古代より那の津と呼ばれていた博多湾一帯から那珂川流域あたりとされる。このあたりにも板付遺跡や須玖岡本遺跡などの重要な遺跡がある。

 これら5つの国はすべて九州北部に位置するが、これらの国の中心地、いわゆる首都にあたる遺跡を仮に、対馬国=三根遺跡、一大国=原の辻遺跡、末蘆国=宇木汲田遺跡、伊都国=三雲南小路遺跡、奴国=須玖岡本遺跡と比定して、これを実際の地図上にプロットしてみたのが次の図である。
 
 
 (筆者作成)
 
 これら5ケ国間の方角について、倭人伝に記載されている方角と地図から読み取れる方角を比較すると次のようになり、両者はだいたい30~90度のズレがある。

 
 
 一方で倭人伝においてこれらの記述の直前、つまり帯方郡から倭国までの道程については「倭人在帶方東南大海之中(倭人は帯方郡の東南の大海の中にある)」および「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國(帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経て、南へ行ったり東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到る)」となっており、いずれの方角も文字通りに読むことで問題ないとされている。これらの倭人伝の記載から、当時の中国の人々にとって倭国内の方角の認識が実際とずれていたと考えることができる。
 実際に魏から倭国へやってきた人々は太陽や星座の位置、あるいは山などを目印にすることによって進むべき方向(方角ではない)を認識していたはずで、倭国に入った途端にその方向を間違うということは決してなかったはずであるが、太陽や星座の位置は季節によって変化する上に海上では潮に流されながら進むため、方向は誤らないものの方角は今ひとつ明確に認識できなかったのかもしれない。



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◆南九州の古墳群

2016年08月27日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 南九州の縄文遺跡と主に製鉄の痕跡を残す弥生遺跡を見たのに続いて、宮崎県にある2つの古墳群を確認しておく。

■西都原古墳群
 南九州で最も名高い古墳群に西都原古墳群がある。宮崎県のほぼ中央に位置する西都市の西方を南北に走る標高70m程度の洪積層の丘陵上に形成されている日本最大級の古墳群である。魏志倭人伝に記された卑弥呼の時代に重なる3世紀前半ないし3世紀半ばから7世紀前半にかけてのものと推定されており、311基の古墳が現存する。内訳は前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基であるが、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。日本最大の帆立貝型古墳である男狭穂塚(おさほづか、175m)、九州最大の前方後円墳である女狭穂塚(めさほづか、180m)がある。また、170号墳からは舟形埴輪が出土している。艪(とも)と舳(へさき)がかなり反り上がったゴンドラの形をしていて、舳艪の上には上下二段の貫(ぬき)を通し、船腹には波よけの細長い突起がある。西都原の王は外海を航海できる準構造船を持っていたと考えられる。170号墳からはこのほかに全国的に見ても例のない子持家形埴輪と呼ばれる特殊な埴輪が出土している。中心の母屋にあたる大きな入母屋作りの埴輪の前後に、平床様式で入母屋造りの家型埴輪がならび、両側に切妻造りの家型埴輪が付着している。この埴輪の中央の大きな建物は大室屋(おおむろや)と思われ、多くの人々が集まって何らかの信仰的儀礼が行われた場所と考えられている。このように弥生期以降の西都原では大規模古墳を築造し、地下式横穴墓というこの地方特有の埋葬方法とともに独自の信仰方式を持ち、さらには造船や航海の技術を駆使する大きな権力が存在した。

 西都原古墳群を訪れたことがあるが、広大な台地の上に大小さまざまな古墳が所狭しと並び、その一番奥まったところに最も大きな女狭穂塚と男狭穂塚が隣り合わせに存在する様子は圧巻で、強大な権力を持った王家一族の代々の聖地であることに疑問を挟む余地は無かった。

■生目古墳群
 また、同じく宮崎県の大淀川右岸に位置する標高25mほどの台地上に、古墳時代前期としては九州地方最大の古墳群と言われる生目(いきめ)古墳群がある。3世紀後半ないし4世紀前半頃から古墳の築造が始まったとされているが、西都原よりも時代がさかのぼる可能性があるとも言われている。51基の古墳のほか、西都原同様に南九州特有の地下式横穴墓が36基、ほかに土坑墓49基、円形周溝墓3基が確認されている。とくに3号墳は当古墳群最大であり、九州でも西都原の女狭穂塚、男狭穂塚に次いで3番目の大きさである。

 この生目古墳群にも行ってみた。規模では西都原に及ばないが、内容では決して劣っていない。たとえば、前方後円墳である7号墳では後円部に設けられた地下式横穴墓が埋葬主体になっており、全国でも非常に珍しい埋葬方式が採用されている。

 西都原や生目はあくまで古墳群であり、集落跡などが発掘されていないが、これだけの大規模古墳群が存在する以上、大きな権力を持った王のもとで大規模な集落が営まれたことは疑いようがなく、たまたまそれに該当する遺跡が見つかっていないだけである。鹿児島の曽於地方から太平洋側に出て宮崎の生目や西都原の周辺に定住する大規模な集団があったはずだ。先に見た宮崎市瓜生野の笠置山もこの一帯に含まれる。

 ここまでで縄文・弥生の遺跡と古墳群を整理したが、南九州においては縄文時代から集団で定住生活を始め、その後に大陸江南からの渡来人が持ち込んだ稲作や製鉄技術を駆使して国土開発が続けられた。そしてその過程で狗奴国の王とも言える権力者が現れ、その一族も含めて何世代にもわたって巨大な古墳を築くほどの繁栄を謳歌したことが想定されよう。



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◆南九州の遺跡

2016年08月26日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 南九州から北上して阿蘇山周辺まで領土拡大を果たした狗奴国であるが、その繁栄を考古学の視点から確認してみたい。まずは縄文時代の集落遺跡を見てみる。

■上野原遺跡
 上野原遺跡は鹿児島県霧島市にある縄文時代早期から中世にかけての複合遺跡で、1986年に国分市(現霧島市)における工業団地の造成中に発見された。約9500年前の2条の道路とともに発見された52軒の竪穴式住居群や調理施設とされる集石遺構と連穴遺構などは九州南部地域における定住化初期の様相を示す集落跡である。さらに約7500年前の地層から見つかった一対の壺型式土器や土偶、耳飾り、異形石器などの多彩な出土品は縄文文化がいち早く開花した九州南部の特色を示すものとして注目されている。
 上野原遺跡は発見当時において日本最古の集落跡で、縄文文化は青森県の三内丸山遺跡などがある東日本で栄え、西日本では低調であったという常識に疑問を呈する遺跡ともなった。次の掃除山遺跡とともにこのあたりには縄文時代の早くから定住生活を始める多くの集団がいたことの表れである。

■掃除山遺跡
 鹿児島市内谷山地区の台地上に広がる縄文早期の遺跡。1990年の県道路建設に伴う発掘調査の結果、住居跡、煙道付炉穴、舟形配石炉、集石炉などの遺構のほか、細石核、細石刃、隆帯文土器などが検出された。住居跡は北風を避けるために南斜面に建てるなど、移動を前提とした生活と異なり、一カ所で長期間住む定住生活を始めたことがわかるという点で全国的にも重要な遺跡である。

 次に弥生時代の製鉄の痕跡を残す遺跡を確認する。

■向原遺跡
 都城盆地底に展開する一万城扇状地のほぼ中央、都城市と三股町の市境に広がる遺跡が向原(むこうばる)遺跡である。1989年、2005年、2008年に大学や店舗の建設に伴う発掘調査が実施された結果、住居・土坑・溝などからなる弥生時代中期から後期の集落遺跡であることがわかった。谷に面した扇状地面の端部に形成されており、第1遺跡3号住居跡からは台石や砥石が出土し、床には焼けた小さな鉄片が散乱していたことから、鍛冶工房跡と考えられている。

■王子遺跡
 王子遺跡は鹿児島県の笠之原台地西端に位置する鹿屋市王子町にある弥生時代中期末から後期にかけての南九州における最大規模の集落跡である。発掘の結果、竪穴式住居跡27基、堀立柱建物跡14基と多数の石器にまじって槍鉋(やりがんな)・刀子・鉄滓などの鉄製品の出土があった。槍鉋は鉋が出現する前の大工道具の一つである。また、鉄の加工技術を持っていたことを示す鍛冶滓も出土している。

■沢目遺跡
 鹿児島県の志布志湾岸に沿って形成された砂丘地帯の黒色土層内に所在する遺跡。民間の行う砂採取事業により、厚さ約3~5mの砂丘下の黒色土層から多量の土器や石器類が出土し、平成11年に砂採取計画地内での約1500㎡について本調査を実施した。弥生時代中期と弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけての遺物・遺構が発見された。砥石、凹石、敲石などの中には大型のものも多く、砥石や凹石としての複数の用途を兼ね備えている。特に砥石は多く出土し、竪穴住居跡で出土した鉄斧片をはじめとする鉄製品との関係を示唆するものと考えられている。そのほか、軽石への穿孔や刻み込みなどの加工を施したものが出土し、中には舟を模した形態がはっきりしているものもある。
           
■堂園遺跡B地点
 南九州市川辺町、万之瀬川と神殿川とに挟まれた標高110mから140m の細長い台地中央部の北西端に位置する弥生時代後期末から古墳時代前期の遺跡である。25軒の竪穴住居跡の内、12軒から鍛冶関連資料が出土している。特に20号竪穴住居跡からは三角形状鉄片や棒状・微小鉄片が出土している。これらの遺物について報告者である八木澤氏は「これらの一連の遺構・遺物がセットで発見されたことは、鉄片を用いた最終加工を住居内で行ったことを明瞭に示す県内初の確認事例」と報告している。 

■高橋貝塚
 薩摩半島西側の南さつま市にある玉手神社境内に1962年、1963年の発掘調査による弥生前期のものとされる高橋貝塚がある。籾痕のついた土器や大陸系石器等が発掘され、この地で約2300年前には稲作が行われていたことが窺われるとともに、日本最古と言われる鉄器も出土した。

 以上のように鹿児島県や宮崎県南部の弥生時代の遺跡からは鉄器や鉄片、鍛冶関連遺構などが多数出土していることから、このあたりを中心とした南九州では少なくとも弥生時代には鉄の加工が行われていたことが裏づけられる。残念ながらこれらの遺跡において製鉄炉跡が発見されていないという現実がある中で安易な結論は避けるべきところではあるが、直接法による製鉄は最後に炉を破壊しなければならないために炉跡が残りにくいということ、考古学における製鉄の研究は比較的新しい分野であり過去の発掘において必ずしも十分な検討がなされたとはいえない可能性があること(※)、その一方で、先に見たように日高祥氏の活動の成果として宮崎県笠置山の周辺では製鉄炉跡やその破片と思われる遺物が多数出ていること、などの状況から考えると弥生時代において南九州一帯では褐鉄鉱あるいは砂鉄を原料とする直接法による製鉄が広く行われていた、と考えて問題ないように思う。

(※)東京工業大学名誉教授であった故飯田賢一氏は「古代日本製鉄技術考」の中で「製鉄址の発掘にさいし、生産の場である以上鉱滓や炉壁部分が出土することは当然あっても、生活の場でなければ土器が判出することはまれである。つまり生産遺跡の場合、土器編年にかわる自然科学的・工学的手法がもっと開発されないと考古学研究の妙味にとぼしく、その意味で古代製鉄技術の歴史的研究はまだほとんど未開拓のままといってよい。」と書かれている。1980年の発表で少し古いが少なくともそれ以前の発掘においてはそのような状況であったことが読み取れる。また、鹿児島県における古代鍛冶遺構について研究をされている川口雅之氏によると、鹿児島県で鉄器生産に関わる遺構群の詳細が明らかになった調査例が少なく、特に鍛冶炉の形態については不明な点が多いと指摘し、その原因として、鍛冶炉に対する認識が低いこと、過去の調査事例が整理されていないこと、などをあげている。



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古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋浩毅
日比谷出版社
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◆狗奴国の繁栄と領土拡大

2016年08月25日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 ここまでで九州中南部と大陸江南地方との間につながりがあることがわかった。そして、大陸江南地方から東シナ海を渡ってきた民は九州中南部に定住し、土着の縄文人と融合して弥生人となり、魏志倭人伝に記される狗奴国を建設したと考え、さらにはその狗奴国は日本書紀に記された熊襲であり隼人であった、と発想した。狗奴国(熊襲・隼人)は江南地方同様に稲作技術、農具を含む各種道具類の製作技術、建築技術、紡織技術、高温焼成技術、造船技術、製鉄技術など高度な技術を持つ先進地域であったと考えられる。次にこの狗奴国の繁栄について考えてみる。

 大陸を脱出した江南地方の人々が最初に流れ着いた南九州という地方は北東から南西に細長く延びた日本列島の一方のドン詰まりであり、北側には阿蘇や霧島を含む九州山地、東西および南の三方には東シナ海や太平洋、と四方を山と海に囲まれた狭隘な地域であり、平野部が少なくしかも火山灰が積もったシラス台地が広がり、稲作など農耕に不向きな痩せた土地である。その地域に大陸からどんどん人が押し寄せてくる。彼らは高度な製鉄技術や農耕技術を持っているため、痩せた土地ながらも農耕の生産性は飛躍的に高まり食料供給力が大幅にアップしていった。しかし、結果としてそのことがさらに人口を増加させ、ついには新たな土地が必要となった。そこで彼らは九州南部から中部を経て北九州方面への領土拡大を画策したということが想像される。
 静岡県立大学学長の鬼頭宏氏による古代の地域別推定人口によると、紀元前900年の時点で北九州3000人、南九州3300人とほぼ同数であった人口が紀元200年になると、北九州が13.5倍の40500人、南九州が19.6倍の64600人に増加しており、特に南九州において人口増加が顕著であった。
 
 領土拡大のもうひとつの理由として南九州における製鉄原料の不足が考えられる。農耕の生産性をあげるためには大量の鉄製農具が欠かせない。彼らは製鉄の原料となる褐鉄鉱や砂鉄を採取し続け、ついにはそれらが枯渇する状況に至ったのではないか。その結果、鉄資源を求めて北上せざるを得なくなった。現在で言うと、鹿児島県および熊本・宮崎両県の南部を起点として北上を開始した。九州の西側では球磨地方から球磨川沿いに八代へ出て熊本平野を北上、東側では曽於地方から宮崎へ出て宮崎平野を北上、九州山地を避ける形で東西2つのルートを経由して阿蘇山あたりまで領土拡大を進めたのではないかと想像する。
 阿蘇山周辺は阿蘇黄土と呼ばれる良質の褐鉄鉱が産出される地域であり、太平洋戦争のときには鉄鉱石の代替として八幡製鉄所(現・新日鉄住金株式会社八幡製鉄所)に運ばれた。現在でも阿蘇に本社工場を置く株式会社日本リモナイトはここで採取される褐鉄鉱を様々な製品に加工して出荷している(「リモナイト」は褐鉄鉱の別名である)。このあたりで良質な褐鉄鉱が産出される理由は阿蘇山の噴火と関係がある。阿蘇山は、30万年前、15万年前、9万年前と大噴火があり、これらの噴火により阿蘇山と外輪山との間に大きな火口湖ができたといわれている。水中に含まれる豊富な鉄分は次第に湖底に沈殿し、また火口湖もやがて干上がって大きなカルデラとなったが、沈殿した鉄成分はそのまま地層となって残ることとなった。これが現在でも産出される阿蘇黄土、すなわちリモナイトである。(株式会社日本リモナイトのホームページを参照した。)

 南から北上してきた狗奴国は肥沃な熊本平野や宮崎平野を手に入れ、さらには阿蘇で良質な褐鉄鉱も手に入れることができた。狗奴国の領土拡大作戦はここで一段落を迎えることになるはずだった。



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◆熊襲と隼人

2016年08月24日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 Wikipediaによると「熊襲とは、日本の記紀神話に登場する九州南部に本拠地を構えヤマト王権に抵抗したとされる人々で、また地域名を意味するとされる語である。古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。肥後国球磨郡(現熊本県人吉市周辺、球磨川上流域)から大隅国贈於郡(現鹿児島県霧島市周辺、現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族とされる」とある。
 人吉盆地を中心とする球磨地方、鹿児島県霧島の曽於地方から宮崎南部にかけての地域の独自性や先進性については既に見てきたとおりであり、熊襲は北部九州一帯とは一線を画す文化を持った民族であったことがわかる。そして魏志倭人伝においては倭人あるいは倭国と一線を画して戦った一族が狗奴国であった。

 同様にWikipediaによると「隼人とは、古代日本において薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に居住した人々。『はやひと(はやびと)』、『はいと』とも呼ばれ『隼(はやぶさ)のような人」の形容とも方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す『鳥隼』の『隼』の字によって名付けられたとも。風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。兵部省の被官、隼人司に属した。百官名のひとつとなり、東百官には、隼人助(はやとのすけ)がある」とある。さらに「古く熊襲と呼ばれた人々と同じといわれるが、『熊襲』という言葉は日本書紀の日本武尊物語などの伝説的記録に現れるのに対し、『隼人』は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。熊襲が反抗的に描かれるのに対し、隼人は仁徳紀には、天皇や王子の近習であったと早くから記されている」とあり、まつろわぬ熊襲が政権に取り込まれてのちに隼人と呼ばれるようになった、と考えられている。
 大和政権による支配云々はひとまずおいておき、ここで重要なのは熊襲と隼人が同族であるとされていることだ。



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◆中国江南とつながる南九州

2016年08月23日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 北部九州や山陰を中心とする倭国が中国華北とつながっていたことは先に書いた。それに対して南部九州は中国江南と深くつながっていたと言ってもいいだろう。南部九州と江南の関係についてもう少し見ていく。

■免田式土器
 熊本県を中心に九州中南部の各地で出土する「免田式土器」という弥生式土器がある。大正7年(1918年)、熊本県の人吉盆地中央部、球磨郡免田町で畑を水田にする地下げ工事中に多くの重孤文土器が出土した。その地名から免田式土器と呼ばれているが、人吉盆地は球磨の中枢、のちの熊襲の地であることから「熊襲の土器」とも呼ばれた。この土器は全国150ヶ所で発掘されているが、熊本県はそのうち95ヶ所を占める。特に球磨・人吉では30ヶ所を数え、免田式土器の本場であることが推定される。
 形状は、胴部はそろばん玉の形、やや開き気味に上にのびた長頸をもち、胴部の上半に重弧文や鋸歯紋などが描かれている。弥生時代後期から古墳時代初期のものとされ、その優美なシルエットは気品に溢れ、最も秀逸な弥生式土器と呼ばれた。その洗練された技術は中国の銅ふく(煮炊き用の鍋のような器具)を模倣したものとして、その起源は大陸にあるともいわれる。免田式土器は沖縄などでも出土していることから、東シナ海を通じた中国江南地方とのつながりを想起させる。

■才園古墳
 免田式土器が発見されたのと同じ免田町内で1938年、公民館の建設中に6世紀初めの「才園(さいぞん)古墳」が発見された。この古墳の横穴式石室から刀剣、馬具、鋏、玉類とともに舶載の流金鏡が出土した。43文字の銘文が刻まれた神獣鏡であった。「流金」とは金メッキが施されたもので、流金鏡の出土例は日本では福岡と岐阜を加えて僅か3例しかなく、精緻な画文帯神獣鏡はこの鏡のみであった。そしてこの鏡が3世紀頃の中国の江南地方で鋳造されたものであるとされた。免田式土器が発掘された同じ地域に流金鏡を伝えた民は江南からの渡来民であった可能性が高いと言えよう。

■呉の太伯
 熊襲の曽於の地と考えられる鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)に、もと官幣大社で大隅国一之宮の鹿児島神宮がある。主祭神は海幸山幸の弟の方であり神武天皇の祖父にあたる山幸彦の天津日高彦穂々出見尊(あまつひたかひこほほでみのみこと)であるが、相殿神として「句呉」の祖である太伯を祀る。句呉はのちに国名を呉と改めるが、現在の中国蘇州周辺を支配した春秋時代の国の1つであり、鹿児島神宮はこの句呉を建国した太伯を祀る国内で唯一の神社である。
 また、宮崎県の諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて死後に葬られたという伝承がある。その場所は宮崎県北部の東臼杵群諸塚村と西臼杵郡高千穂町の境界。古くから神山として信仰の対象となっていた山で、山頂に塚がたくさんあることから「諸塚山」と呼ばれ、さらに太伯の伝承から「太伯山(だいはくさん)」とも呼ばれている。
 句呉は紀元前12世紀の建国から紀元前473年まで続き、夫差王のときに越の勾践により滅ぼされ、さらに北方の漢民族に追われて人民は海に逃れたとされる。彼らは南九州に漂着して生き残り、その後、南九州の地で縄文の民と融合して弥生人となっていった。その民族としての記憶が鹿児島に祖国の建国の王を祀り、宮崎にその生死の伝承を残させた、と言えよう。
   
■九州中南部にあった狗奴国
 さらに想像を逞しくしてみよう。句呉の人である句人を狗人と考えて日本書紀の海幸山幸のくだりの一書(第二)をみると、兄の海幸彦は俳人(わざひと)として弟の山幸彦に仕えることになったとあり、この俳人は別伝によると狗人(いぬひと)であるとされている。それで海幸彦である火闌降命(ほすそりのみこと)の後裔である隼人たちは今に至るまで天皇の宮垣のそばを離れないで吠える犬の役で警護の任にあたっているという。このことから、江南の呉(句呉)から渡来した集団(句人=狗人)の後裔が隼人であると考えることができるのではないか。さらに「狗」の字から類推することで、この渡来集団による国(狗人の国)が魏志倭人伝にある狗奴国であり、狗奴国は隼人の祖先の国であったと考えることはできないだろうか。
 そして、筑紫(九州)の国にあって大和政権に服従しない熊襲と呼ばれていた民が後に制圧されて隼人と呼ばれるようになったと考えると、中国江南の呉(句呉)に由来する狗奴国は熊襲の国であったとも言えよう。つまり、熊襲・隼人が居住していたと言われる球磨や曽於を中心とする九州中南部の地がまさに狗奴国であったと考えることができる。逆に言うと、九州中南部にあった狗奴国は中国江南の流れを汲む国であった。

 狗奴国が熊襲の国であることについては内藤湖南、津田左右吉、井上光貞らの先人が既に説いている。また、森浩一は考古学の視点から、免田式土器は熊襲文化圏によって生み出されたものではないかと考察している。



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◆古代の製鉄

2016年08月22日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 次に古代の製鉄について考えてみる。一般的に製鉄方法には直接製鉄法と間接製鉄法の2つの方法がある。直接製鉄法は塊錬鉄製鉄法とも言われ、鉄鉱石や砂鉄などを比較的低い温度で加熱、溶かさずに半溶融状態のまま還元して得られる海綿状の鉄や鉄塊を再度加熱して製錬、鍛造し、不純物を搾り出すとともに炭素量も調整して強靭な鋼を得る方法であり、日本のたたら製鉄がこれにあたる。もう一方の間接製鉄法は溶融銑鉄製鉄法と言われ、鉄鉱石を高温に加熱、鉱石を溶融しながら還元して鉄を得る。このとき、高温のために鉄は大量の炭素を吸って脆い銑鉄となる。この銑鉄を再度加熱溶融し、銑鉄に含まれる炭素を燃やして炭素量を調整して強靭な鋼を得る。現代の製鉄法である。

 愛媛大学の村上恭通教授によるとアジアの製鉄は次のように変遷した。世界史における製鉄技術の起源は古代ヒッタイト帝国にあると言われ、紀元前2000年頃のヒッタイトの遺跡から製錬された鉄が発見されている。ヒッタイトはこの鉄器によりオリエントを制したと言われているが、このときの製鉄法は塊錬鉄製鉄法であった。紀元前12世紀頃、ヒッタイトが滅亡するとこの製鉄技術が四方へ伝播し、紀元前9世紀には中国に伝わった。
 中国では伝来当初は塊錬鉄製鉄法であったが、華北地方では紀元前15世紀頃から始まった銅精錬と製陶技術を応用して鋳鉄製造が早くに始まった。当時の製陶においては1280℃の高温を得ることができたことから、1200℃を越える製錬温度で溶融銑鉄を製錬する間接製鉄法が発達した。春秋戦国時代には製錬炉で溶融銑鉄を撹拌脱炭して効率的に鋼ができるようになり、漢の時代には間接法による製鉄技術がほぼ完成されることとなる。
 一方、江南地方ではオリエントやインドからの伝播と思われる海綿鉄の直接製鉄法が発達したことにより、紀元前後(日本における弥生時代中期の終わり頃)、広大な中国大陸では華北では間接法、江南では直接法という具合に2つの製鉄法が並立することとなった。

■日本における製鉄
 さて、日本における製鉄の状況はどうであったろうか。日立金属株式会社のWebサイトを見ると「広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどから、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われる」となっている。しかし、平成2年から平成4年に発掘調査がなされた広島県三原市八幡町の小丸遺跡はこれまでの学説を根本からひっくり返すものであった。ここの製鉄炉は3世紀のものであることがわかり、これにより日本国内の製鉄は弥生時代後期から開始されていたことが明らかになったのである。
 しかしながら、これらはあくまで製鉄炉跡の確認をもって製鉄があったとみなしているのであって、直接法による場合は鉄塊を取り出す際に炉を破壊する必要があるため炉跡が残らないのが通常である。よって炉跡が発見されていないからといって製鉄がなかったということにはならない。むしろ各地の弥生時代後期以前の遺跡からは数多くの鉄器とともに製鉄段階で発生する鉄塊や銑鉄の鉄滓などが遺物として発見されていることから弥生後期以前より製鉄が行われていたと考えるほうが自然である。

■九州南部における製鉄
 九州南部における製鉄の状況はどうだったであろうか。言わずもがな、製鉄には鉄鉱石や砂鉄などの原料とそれを製錬するための炉、そして直接法の場合は鍛冶道具などが必要となる。九州南部での鉄の原料は何であったろうか。おそらく砂鉄もしくは褐鉄鉱であったと考えられる。というのも先に見たとおり、この地は大陸の江南の人々が流れ着いた場所である。その江南地方における製鉄は直接法によるものであった。しかし当時の技術としては鉄鉱石を溶融させるだけの高温を得ることができなかったため、製鉄の原料としては容易に採取ができ、かつ比較的低い温度で溶融可能な砂鉄もしくは褐鉄鉱を用いた、と考えたい。九州火山帯が走るこの地域の岩石は鉱物が豊富に含まれる。風化したり川底を転がって粉砕された結果として岩から剥離した磁鉄鉱が砂鉄となって川を下って海岸へ流れ込み、波によって砂とともに打ち寄せられる。鹿児島の薩摩半島南端にある頴娃(えい)町の海岸では昔から良質な砂鉄が採取できるらしい。また、大隅半島西部の山ノ口遺跡は昭和33年に民間企業による砂鉄採掘作業で発見された遺跡であり、このあたりでは今の時代においても海岸で砂鉄を採取している。褐鉄鉱の採取や製鉄炉、鍛冶道具については宮崎市上北方にお住いの日高祥氏の活動を参考にしたい。

 日高祥氏の活動について、翻訳家の大地舜氏のブログをもとに紹介したい。この日高祥氏は不動産業を営む傍ら古代史に多大な関心をもち、平成8年に宮崎市瓜生野地区柏田の変電所裏の小山が人工的に作られた巨大な墳丘墓であることを発見した。古来、「笠置山(かさごやま)」と呼ばれ、大正時代には宮崎市によって史跡として認定されている場所であったが、周辺の開発が進むとともに史跡は破壊されるのを待つ状況にあった。氏は並々ならぬ情熱をもってその周辺の調査を続け、墳丘墓周辺で見つけた庄内式土器の破片などは2世紀後半から3世紀中頃のものである可能性が出てきた。そのほか、土壙墓に収められた祭祀土器や鉄剣、鉄鏃類、大量の石鏃、ガラス玉、さらにはたたら製鉄の炉跡まで発見、周辺からは大量の炉片や鍛冶道具である金床石なども採取された。さらに付近を流れる大淀川支流の五十鈴川では容易に褐鉄鉱が採取できるらしく、氏は採取したそれらを自宅に大量に保管しているという。この地では褐鉄鉱を原料に直接法である原始たたら製鉄によって様々な鉄器が製作されていたと考えられ、氏はこれらの活動をもとに「史上最大級の遺跡―日向神話再発見の日録」という書を著している。

 さて、それではこの時代に砂鉄や褐鉄鉱を原料に原始たたら、すなわち直接法で鉄を生産することが本当に可能だったのだろうか。これについては百瀬高子氏がその著書「御柱祭・火と鉄と神と」において自身による製鉄実験結果を記している。褐鉄鉱の粉末と炭を45cm高の土器で6時間の送風加熱をした結果、半溶解の多数の鉄滓の中に大豆ほどの鉄粒が出来たとしている。この時の推定温度を約400度と記している。縄文土器の焼成は800度を4時間以上必要としたことから、製鉄に必要な条件は十分に満たしているという。また、縄文中期の円筒埴輪や朝顔型埴輪が明治初期のキューポラ(鋳物炉)に酷似している事実を指摘して、製鉄が行われていた証明にほかならないとしている。

 以上見てきたように南九州では弥生時代後期には砂鉄や褐鉄鉱を原料とした直接法による製鉄が行われていたと考えて間違いなさそうである。これはまさに江南地方から伝わった製鉄技術そのものである。


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◆大陸と南九州のつながり

2016年08月21日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 これまで朝鮮半島あるいは中国華北と北部九州・山陰とのつながりを見てきたが、次に大陸と南九州のつながりについて少し詳しく見て行きたい。

 まず、稲作伝播について九州中南部と大陸江南地方、あるいは揚子江流域とのつながりを考える。江南とは長江(揚子江)の南側一帯を指し、紀元前5000年頃から河姆渡(かぼと)文化や馬家浜(ばかほう)文化、良渚(りょうしょう)文化など、中国文明の中心地である黄河流域とは違った独自の文化が形成されていた。
 1973年に上海の南で発見された河姆渡遺跡では紀元前5000年の地層から稲籾とわら束が大量に発見され、その膨大な量から他の地域から運ばれたものではなく、明らかにこの地で栽培されたものであることがわかった。これは世界で最も古い稲栽培の例とされている。これらの稲は野生種ではなく、日本の縄文時代におそらくは焼き畑で栽培されていたと思われている熱帯ジャポニカと同じものであることを静岡大学の佐藤洋一郎氏が証明した。また、これは日本の弥生時代の遺跡でも多数確認されている。さらに遺跡からは栽培の元になった野生稲である「ルフィポゴン」という野生種も見つかったことから、ここが稲の栽培源流地であることがほぼ確定したと言われている。
 稲作は一般的には朝鮮半島を経由して伝播したと考えらえているが、佐藤氏によると、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分かり、このことは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になるという。すなわち、稲作技術を携えた人々が種籾を持って江南地方から東シナ海を渡ってやってきたと考えるのが最も合理的であるということだ。

 次の図は中国から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」のようす。日本の各所に点在するRM1-b遺伝子について、中国で90品種を調べた結果、61品種にRM1-b遺伝子を持つ稲が見つかったが、朝鮮半島では55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見つからなかったという。
   
   出典 佐藤洋一郎氏「DNAが語る稲作文明」


 河姆渡遺跡からは稲作を裏付ける遺物のほか、干欄式建築(日本で言う高床式建物)が数多く発見されている。また木製の柄のついた肩甲骨製の鍬や刀、銛、弓矢、紡錘や針など大量の紡織用の道具、骨でできた笛や木の太鼓、さらには中国国内では最古の漆器も発見された。陶器は黒陶、紅陶、紅灰陶など1000度前後の比較的高い温度で焼いたものが見られる。幾何学模様や植物紋、縄文などが刻まれており、中には人頭をかたどったものや船をかたどった土器もあるという。
 河姆渡文化と同様に馬家浜文化においても米を栽培していたことがわかっており、草鞋山(そうあいさん)遺跡では田の跡が発見されている。またヒスイなどによる装飾品や比較的高い温度で焼いた紅陶、衣服の繊維なども発見されている。
 稲作技術、農具や煮炊具の製作技術、高床式の木造建築技術、紡織技術、高温焼成技術、さらには土器からの推測ではあるが造船の技術など、江南地方の各遺跡の発掘結果はこの一帯の文化が数千年前から相当に高度な技術的水準をもっていたことを示している。

 稲作にとどまらないこれらの高度な技術を持った江南あるいは揚子江流域の人々が東シナ海を渡って日本列島へやってきたと考えることができるが、船を漕ぎ出す江南地方と日本列島の位置関係、海流や偏西風などの自然条件などを考慮すると、東シナ海へ漕ぎ出した船は九州の中部、西部、南部あたりに漂着する可能性が最も高いと言えよう。古代の九州中南部地方は先進的な文化をもった江南地方と同様、日本列島における先進地域であったと考えることができるのではないだろうか。



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◆中国華北とつながる倭国

2016年08月20日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 北部九州から山陰にかけての日本海沿岸諸国は朝鮮半島文化の影響を大きく受けた地域であったと同時に、半島経由で中国王朝に朝貢することでその政治的な影響を受けていた地域である。魏志倭人伝によると弥生時代後期、日本列島には女王卑弥呼が統治する連合国家倭国が成立し、その倭国は魏に朝貢し、さらには狗奴国との戦いにおいて魏に支援を求めるほどに強い関係にあった。
 さらにさかのぼって考えてみると、古来より戦乱を逃れて朝鮮半島を経由して列島にやってきた人々は大陸のどのあたりからやってきたのだろうか。おそらく、魏のお膝元であり最も戦乱の激しかったであろう中原、すなわち華北平原あたりではないだろうか。華北からの人々が朝鮮半島を通って対馬海峡や日本海を渡って北九州や山陰に土着する縄文人と結びついて弥生人となっていった。そしてこれによって人口が大きく増加することとなった。このことは倭国を構成する国々のうち少なくとも北九州や山陰にある国の人々は朝鮮半島あるいは華北地方の血が混じった人種がかなりの割合を占めていたと言えるだろう。おそらく弥生時代後期における倭国連合の大部分は人種的には華北や朝鮮半島と似かよった状況にあったのではないだろうか。このことが倭国が自らの意思で魏との結びつきを求め、それを後ろ盾にしようとした本質的な理由であったろう。



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◆朝鮮半島と日本海沿岸とのつながり

2016年08月19日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 大陸と日本列島が最も接近しているところが対馬海峡を挟んだ九州北部と朝鮮半島である。戦乱による大陸からの逃亡のみならず、古くから朝鮮半島と北九州あるいは山陰地方各地の間では人の往来が盛んに行われていたことが各地の遺跡や出土物、あるいは中国側の史書に書かれた内容からわかっている。

■遺跡・遺物から
 対馬海峡を挟んだ九州北部と朝鮮半島には7000年前の縄文前期の頃より、朝鮮半島沿岸から九州西岸にかけて回遊魚を追って移動生活を送っていた海洋漁撈民がいた。朝鮮半島の南海岸や島嶼部からは縄文土器が、対馬や壱岐、九州北部の沿岸部からは朝鮮半島の新石器時代の土器である櫛目文土器が見つかっている。また、長崎県平戸市付近から福岡県糸島平野にかけての玄界灘沿岸地域では前10世紀頃の朝鮮半島の墓制である支石墓が多く見つかっている。
 弥生時代の中期に入ると福岡市の吉武高木遺跡などにみられるように、朝鮮半島の鏡や青銅製武器が玄界灘沿岸地域の有力者の墓に副葬品として納められるようになる。さらに朝鮮半島南部における前4世紀から後2世紀にかけての遺跡で弥生土器が次々と見つかった。その遺跡の数はなんと30以上になるという。たとえば、前2世紀の蔚山市達川遺跡は初期鉄器時代の鉄鉱石採掘場が見つかった遺跡で、甕だけでなく壺や高坏など弥生土器がセットで出土した。また、慶南の勒島(ヌクト)遺跡でも前2~後1世紀中頃に比定される須玖Ⅱ式土器が大量に見つかった。
 このように縄文時代から弥生時代にかけて朝鮮半島南部、九州北部沿岸部のいずれにおいても双方の交流を示す遺跡や遺物が多数見つかっている。(以上は藤尾慎一郎氏「弥生時代の歴史」を参照した。)

 次に朝鮮半島と山陰地方のつながりはどうであったろうか。島根半島の日本海に面する鹿島町にある古浦砂丘遺跡は弥生時代前期から中期にかけての遺跡で昭和30年代を中心に発掘調査が行われ、朝鮮半島でみられる松菊里系土器が見つかるとともに埋葬遺跡であることが判明した。しかも埋葬されていた約60体の人骨は縄文人とは明らかに異なる特徴を持っていて、朝鮮半島から渡来した人々の流れを汲む弥生人と断定された。
 また、出雲市の山持(ざんもち)遺跡は弥生時代から江戸時代にかけての大規模集落遺跡であるが、平成21年の調査で縄文時代から弥生時代後期の遺物を含む砂礫層から朝鮮半島北部で製作された楽浪土器が出土した。同じく出雲市大社町の原山遺跡では朝鮮系無紋土器が見つかっている。ほかにも出雲市の矢野遺跡、山陰を代表する弥生時代の集落遺跡である松江市の西川津遺跡などから半島の粘土帯土器が出土している。

■中国史書から
 「漢書地理志」に「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見伝(楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す、歳時を以って来たりて献見すと云う)」とある。紀元前1世紀、倭にはまだ統一国家がなく百余りの国に分かれていた。その一部の国が朝鮮半島にある漢の出先機関であった楽浪郡に定期的に来ていたという。その国は「後漢書東夷伝」に登場する奴国であったかもしれない。
 「後漢書東夷伝」には「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬、安帝永初元年倭国王帥升等獻生口百六十人願請見(建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界也。光武、賜ふに印綬を以ってす。安帝永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う)」とある。有名な金印授受のくだりである。江戸時代に博多湾の志賀島で発見された金印には「漢委奴国王」と刻印されおり、子供のころに習った読み方は「漢の倭の奴の国王」であり、当時はそれが一般的であったと思うが、「倭」ではなく「委」であったために「漢の委奴国の王」として奴国ではなく伊都国とする説もある。いずれにしても紀元57年に倭のいずれかの国の王が朝貢して光武帝より金印を賜った。その国は倭の最南端にあるという。また、紀元107年、安帝のときに倭国王の帥升が160人の奴隷を献上した、とあり、この頃には帥升という王が倭国を統治していたことがわかる。
 「魏志倭人伝」の対馬国のくだりでは「有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴(千余戸あり、良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す)」とあり、対馬の住民は漁撈に従事して北の朝鮮半島や南の九州へ出かけて物々交換による交易を行っていたことがわかる。さらに倭人伝は単なる人々の往来だけでなく倭国と帯方郡の使者の往来が何カ所にも記述されている。たとえば伊都国のくだりで「郡使往来常所駐(郡使の往来、常に駐まる所なり)」とある。さらには「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天使朝獻(景初二年六月、倭の女王、大夫難升米らを遣わし郡に送り、天使に詣りて朝献せんことを求む)」ともある。
 これら中国の史書によると少なくとも紀元前100年頃から継続的に日本側の使いが朝鮮半島の楽浪郡や帯方郡へ出向いている事実が確認できる。また魏志倭人伝では中国側の使者が帯方郡から朝鮮半島を経由して北九州へやってきている事実も記載されている。 

 以上のように北九州や山陰各地および朝鮮半島南部の遺跡や遺物からは縄文時代晩期から弥生時代にかけての両地域間の一般住民の交流や交易の様子が確認でき、中国の史書からは弥生時代中期からの国家レベルでの外交のための往来が継続的にあったことがわかる。



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◆中国からの人口流入

2016年08月18日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 中国は古来、戦乱の絶えない国である。黄河中流域の中原とよばれる地域に殷(あるいは夏)が国家として成立して以降、数千年のあいだに何度も何度も政権国家が交代した。また国家として統一されずに分裂状態が続くことも珍しくなく、中国の歴史は戦乱の歴史そのものであり、民衆はその戦乱に翻弄され続けた。
 中国では秦の時代以降に戸籍が整備されたため、おおよその人口動態の把握が可能である。それによると前漢末期の西暦2年に約6000万人であった人口が「王莽の乱」を経て後漢が始まったばかりの37年には1500万人まで激減したことがわかっている。また、その120年後の157年に約5600万人まで回復したものの、「黄巾の乱」を経て三国時代に突入した263年には十分の一以下の530万人にまで減った。
 これは戦乱による死亡だけでは説明ができないほどの人口減である。伝染病の蔓延や火山噴火などの大規模災害が起こった形跡や記録がないのでそれらの要因ではないとすれば、大量の人民が戦乱を逃れて四方の国外に逃亡したということしか考えられない。そして、逃亡者達が逃亡先で生きながらえて生活するためには少人数では不可能である。少人数の場合、逃亡先においてよそ者として追い出されたり、死に至らしめられたり、十分な食料が獲得できずに餓死したり、生きていくことがままならない状態に陥ることは明白である。生きていく為には集団生活を維持することが必要条件であった。したがって、家族単位などではなく集落あるいは部族単位で国外へ脱出したものと考えられる。
 北の山岳地帯へ向かった一族、西の砂漠地帯へ逃げた一族、南に逃れた一族、東の沿岸部から脱出した一族、朝鮮半島を経由して海を渡った一族などが多数存在したことは容易に想像できる。現代においてもシリア内戦を逃れてヨーロッパを目指して地中海へ漕ぎ出すボートピープルが後を絶たない状況があるが、その10倍以上の規模の難民が国外へ流出し続けた。
 朝鮮半島経由で日本海を渡った一族の多くは対馬や壱岐を含む九州北部の日本海沿岸の各地、対馬海流に乗って山陰地方や北陸地方の各地に漂着したと考えられる。そもそも北九州をはじめとする西日本の日本海沿岸地域は朝鮮半島と交流あるいは交易が行われていたことから、そのルートに乗っかってきた集団も多かったことだろう。
 一方で大陸沿岸部から東シナ海に漕ぎ出した集団は、対馬海流に乗って日本海に流れていったり、南西諸島から九州中南部へ流れ着いたり、また黒潮に乗って日本列島の太平洋沿岸部へ漂着したり、西日本の各地に辿り着いたことだろう。中にはどこにも辿りつかずに海の藻屑となった集団が多数存在したことも容易に想像できる。

 静岡県立大学学長の鬼頭宏氏による日本列島における人口推移データによると、縄文時代末期に8万人程度であった日本列島の人口は約1000年後の弥生時代には59万人と7倍以上に増加、さらに約500年後の725年には450万人にまで増加したことを示している。人口爆発とも言える人口増大の最大要因は大陸や朝鮮半島から大量の人の流入があったこと、および彼らが稲作や製鉄技術を始めとする様々な先進技術を持ち込んだことで生活の安定化が進み、その結果さらに人口が増加するという循環につながっていったということであろう。
 もともと日本列島に居住していた縄文人と、戦乱を逃れて大陸や朝鮮半島を脱出して様々なルートで日本列島に辿りついた数えきれない集団が次第に融合して弥生人になっていった。縄文人から弥生人へ、縄文文化から弥生文化へ、この移り変わりは大陸や朝鮮半島などからやってきた大量の移民によって成し遂げられたことは既に多くの方々が論じられている通りである。



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◆正史としての「日本書紀」

2016年08月17日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 古事記のあと720年に完成した日本書紀は天武天皇が自らの皇統の正当性を明確にするために正史として編纂を命じた。その意味においては古事記の編纂も同様であったろう。古事記が存在するにもかかわらず日本書紀を編纂させた目的は次の2点ではないか。
 1点目は、壬申の乱など皇位継承の争いがあったとはいえ、天皇家は神武天皇から脈々と続く万世一系の正当な血筋であることを明確に示そうとしたこと。古事記においてもその目的は果たされているが、古事記は推古天皇までの記述であったので、その後の天武天皇自身を含む系譜が必要であった。加えて、古来、女性皇族は日本建国に中心的な役割を果たしており、天武の後、編纂事業を引き継いだ持統天皇も同様であることを世に知らしめようとした。
 2点目は、上記のことを漢文で記して日本国の正史とし、それを中国向けに発信しようとしたこと。これにより、中国に対しては従来の朝貢外交ではなく由緒ある正当な国家として対等な付き合いをしようとしたことである。そして、日本書紀が正史として編纂された結果、古事記は天皇家の私的文書のような扱いとなり、天皇家あるいは国家にとってあまり重要視されなくなったであろう。

 天武天皇は編纂途中で崩御したが持統天皇が編纂事業を受け継いだ。神代から持統天皇までの事象を対象として編年体で記述され、720年に完成した日本書紀は先に完成していた古事記をもとに編纂されたと考えて差し支えないだろう。そして編纂期に政権最大の実力者となっていた藤原不比等はこの機会を利用して蘇我氏を貶め、藤原氏の権威を高めることを作為した。加えて、天武朝成立に功績があったその他の氏族についても藤原氏よりも格下ながらもその功績を称えてバランスを取ろうとした。また、敗者となった氏族も決して歴史から抹殺したり粗末な扱いをしなかった。
 日本書紀と古事記の最大の違いは、日本書紀が編年体、古事記が紀伝体であるということ以外に、日本書紀は「一書曰(あるふみにいわく)」という形で異伝、異説を併記していることである。各氏族の持つ帝紀・旧辞に書かれた内容に相違があったり、あるいは日本書紀よりも先に完成した古事記をみて「ここに書かれた内容は事実(自分たちが語り継いできた話)と少し違う」と言って陳情をしてきた氏族があったかもしれない。本編は天皇家や藤原氏に都合のいい話にしたものの、他の氏族の伝承などを無視できない場合にこの手法を用いたのではないだろうか。こういった手法も含めて、全ての氏族が天皇家を支える国家体制、天皇家を頂点とする中央集権体制の確立を国内外に向けて明確に示そうとしたのである。

 以上を念頭に日本書紀を読み解けば真実が見えてくるとの考えに立ち、古事記を参考にしつつ日本書紀をベースに古代史の謎に臨みたい。また、神話として語られている神代巻においても全く根拠の無いデタラメが書かれているわけではなく、記紀編纂当時において過去より語り継がれてきた伝承や何らかの事象をもとに書かれたものと考え、その奥底にある事実を読み取ることが必要であろう。日本書紀を中心とする日本の史書、魏志倭人伝を中心とする中国史書、そしてこれまでに発掘された各地の遺跡や遺物などの考古学の知見、この3つの整合がはかられ、もっとも合理的に説明が可能となる「古代日本国成立の物語」を考えてみたい。


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