古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

息長氏の考察③

2019年03月31日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 息長氏の本拠地である琵琶湖東岸の湖北地方には多数の古墳がある。とくに姉川中流の南岸、横山丘陵の北端周辺に位置する長浜古墳群と天野川下流域、横山丘陵の南端周辺に位置する息長古墳群に集中している。
 長浜古墳群には長浜茶臼山古墳をはじめとする数十基の古墳がある。どれも詳しい調査が行われていないため推定の域を出ないようだが、築造時期としては最も早いもので4世紀後半とされるがその最盛期は5世紀と考えられている。丘陵の尾根に築かれた長浜茶臼山古墳は全長が92m、葺石のある二段築成の前方後円墳で築造時期は4世紀後半とも5世紀前葉とも言われる。丘陵の西側1キロほどのところにある丸岡塚古墳は前方部がすでに失われているが全長が130mに復元しうることが明らかになった湖北最大の前方後円墳で5世紀中頃の築造と推定される。また、丘陵東麓には第30代敏達天皇の皇后である息長広媛の陵墓として宮内庁が管理する村居田古墳がある。墳丘の多くが失われているために墳形や規模に諸説あるようだが、全長100mを超える前方後円墳で5世紀中葉から後半の築造と考えられている。さらに丘陵の西麓には応神天皇の皇子である稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)の墓とされる5世紀後半の垣籠古墳がある。全長が50数mで前方後円墳とされていたが、最近になって前方後方墳であることが確認されたという。
 このように長浜古墳群では少なくとも5世紀の100年間に数十mから100mを超える規模の前方後円墳あるいは前方後方墳が継続的に築造されていることがわかる。

 次に息長古墳群を見てみると、こちらは長浜古墳群が最盛期を終えたあとの6世紀に入ってから最盛期を迎える。丘陵南西端の北陸自動車道沿いに位置する後別当古墳は全長が50m余りの帆立貝型の前方後円墳で5世紀後半の築造とされている。その後別当古墳を真南に500mのところにある塚の越古墳は全長が40m余りの前方後円墳で、5世紀末から6世紀初頭の築造とされる。盗掘を受けており、副葬品として鏡1面、金銅製装身具の残片をはじめ、馬具、金環、ガラス製勾玉、管玉、丸玉、切子玉などが確認されている。続いて塚の越古墳の東、丘陵南端の山津照神社境内にある山津照神社古墳は全長63mの前方後円墳で6世紀中葉の築造とされる。明治時代の社殿移設に際する参道拡幅工事で横穴式石室が発見され、3面の鏡のほか、金銅製冠の破片、馬具、鉄刀・鉄剣の残欠、水晶製三輪玉など、塚の越古墳とよく似た副葬品が見つかった。被葬者は息長宿禰王との言い伝えがある。また、山津照神社由緒には「当地に在住の息長氏の崇敬殊に厚く、神功皇后は朝鮮に進出の時祈願され、帰還の際にも奉賽の祭儀をされて朝鮮国王所持の鉞(まさかり)を奉納されました。これは今もなお当社の貴重な宝物として保管してあります」とある。そして後別当古墳の北西、丘陵の南西端の縁にある人塚山古墳は全長58mの前方後円墳で6世紀後半の築造と考えられている。
 なお、塚の越古墳や山津照神社古墳の副葬品として出土した金銅製装身具や馬具などの存在はこの地域の首長が朝鮮半島と交流していたことを示すものと考えられている。また、これらは湖西地方の高島市にある6世紀前半の築造と考えられる前方後円墳である鴨稲荷山古墳の副葬品とも似ている。その副葬品とは、金銅製の広帯二山式冠と沓、金製耳飾り、捩じり環頭大刀・三葉文楕円形杏葉など大変豪華なものであった。

 以上の通り、息長古墳群では長浜古墳群が最盛期を終えたあとの5世紀後半から6世紀後半の100年間にわたり、数十m規模の前方後円墳が継続的に築かれている。のちに近江国坂田郡と呼ばれるようになるこの湖北の地では、5世紀において姉川流域を中心に栄えて長浜古墳群を築いた勢力と、6世紀に入って天野川流域で栄えて息長古墳群を築いた勢力が認められる。これは長浜の勢力が息長に移動あるいは分岐したのか、息長を拠点にしていた勢力が長浜の勢力より優位に立ったのか、いずれであろうか。仮にいずれもが息長氏であるとすると、5世紀に栄えた姉川流域の古墳群を築いたのはまさに神功皇后からすぐあとの応神天皇の時代の息長氏であり、6世紀の息長古墳群は継体天皇時代の息長氏によって築かれたと考えることができるだろう。このあたりは継体天皇を考える機会に掘り下げてみたい。


日本古代国家の成立と息長(オキナガ)氏 (古代史研究選書)
大橋信弥
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今シーズン最後のカニ旅行

2019年03月28日 | 旅行・車中泊
 2019年3月21日から一泊二日で城崎温泉に行ってきました。2日目の3月22日は平日の金曜日でしたが休みを取って連休としました。今回はその行程をレポートします。

 今回の旅行の第1の目的はカニを堪能すること、第2には温泉に浸かってゆっくりすること、です。実は先月の2月2〜3日の越前海岸カニ旅行でもトライした「ランチで贅沢、ホテルは節約」にもう一度トライしたのです。というのも、前回はカニに満足ができなかったので、お気に入りのカニ旅館での再チャレンジの機会をうかがっていたところ、3月22日の平日を組み込んだことで実現することができたのです。

 宿泊はここ→城崎温泉 深山楽亭
 ランチはここ→旬の宿 尾崎屋

 3月21日、午前中は予定が入っていたので13時過ぎに富田林の自宅を車で出発。美原北インターから、阪和道→近畿道→中国道→舞鶴若狭自動車道→北近畿豊岡自動車道と高速を乗り継いで日高神鍋高原インターまで、途中の西宮名塩SAで遅いランチを取っただけで一気に走りました。円山川沿いに豊岡市内を抜けて17時前に城崎温泉に到着、温泉街は春休みに入った若者で溢れていました。



 深山楽亭は賑やかな温泉街を通り抜けた街外れの少し寂しいところに建つ古い旅館でした。お風呂が広くて露天風呂もあるので温泉を楽しむにはいい旅館です。実は翌日のランチで贅沢をするためにこの旅館は素泊りでの予約としました。料金は2人で15,820円、もちろん外湯めぐり券もついています。

 食事がないのは時間に縛られないという利点があるので、それを活かして他の泊り客が食事をしている時間に外湯めぐりに出ました。城崎温泉駅近くのさとの湯、地蔵湯、柳湯と順にめぐり、案の定、ほとんど貸し切り状態でお湯に浸かることができました。お土産屋さんやご飯屋さんを探索しながら温泉街の散策を楽しみましたが、時間の経過とともに街に人が増えてきました。食事を済ませた泊り客が街に繰り出し始めたのです。





 その後、一の湯、御所の湯と入ったところで時刻は21時を回っていました。両方とも広いお風呂なので人が多くても何とか入れましたが、次のまんだら湯は脱衣場もお風呂も狭く、お湯に浸かるのも脱衣するのも順番待ち状態です。次に来るときはまんだら湯はパスしようと決めました。最後の7つ目は鴻の湯。ここは旅館の近く、つまり街の外れにあって時刻もすでに22時を過ぎていたので人も少なく、ゆったりと入ることができました。



 ここまで結局何も食べていなかったので、再び賑やかな通りに戻って、何とファミマに入ることにしました。そして旅館までの帰り道、歩きながらの缶ビールとファミチキで晩ご飯を済ませるという、これはこれでアリかな、ということになりました。要するに、ランチが遅かったのであまりお腹がすいていなかったのです。ファミマで朝ごはんも調達して旅館に戻ると23時になっていました。なんと、5時間以上も浴衣と下駄でぶらぶらしていたのです。最高気温が20度を超える暖かい一日で良かった。想像以上に外湯めぐりと温泉街の散策を堪能することができました。そして最後の楽しみにとっておいた旅館での温泉。広いお風呂を1人で独占し、終了時刻の24時ギリギリに出てくると、脱衣場で掃除のおじちゃんが服を脱いでお風呂に入っていきました。

 翌朝の目覚めは8時でした。尾崎屋での11時半からのランチに備えて朝ごはんはファミマで調達したパンとおにぎりで腹六分目。食後はまたしても貸し切り状態のお風呂を楽しみ、10時にチェックアウト。前日と打って変わって寒風吹きすさぶ寒い朝でした。

 円山川を下って城崎マリンワールドを通り過ぎ、日本海らしい荒波を眺めながら餘部鉄橋を目指して但馬漁火ラインを走ること1時間、餘部温泉にある尾崎屋に到着。入口を入ると懐かしい気持ちになりました。知り合いから、カニを食べるならココと勧められて2014年12月に泊まりでやってきて茹でガニ付きフルコースを堪能したお宿です。小さなお宿ながらも設備が綺麗に保たれていて居心地のいい場所で、四年前と雰囲気が全く変わっていませんでした。出迎えてくれた女将さんも当時のままでした。





 いただいたのはカニ刺し、焼きガニ、カニすき、雑炊のコースでひとり13,500円。ゆでガニの魅力は捨てがたいものの2万円を超えるので我慢したのですが、いただいたコースで十分満足しました。地元で採れた大きな活けガニをひとり二枚分、多分ゆでガニがあったら食べ切れなかったと思う。また来年も来ようと心に誓って女将さんにお礼を伝え、宿を後にしました。時刻は14時を過ぎていたと思います。









 毎年のようにカニを食べに日本海へやって来るのですが、宿を探すときは冷凍ガニとかオホーツク産とかハズレないように出来るだけネットで調べるようにしています。でも、尾崎屋は間違いなく地元の活けガニです。泊りにすると料金がそれなりになるので、ランチがおススメです。ちなみに、宿泊客が多い土日はランチの対応ができないので平日限定となります。

 帰りは香住へ行ってお土産を調達し、そのまま香住インターから高速に乗り、行きと同様に高速が開通していない豊岡市内は下道で抜けて、日高神鍋高原インターから再び高速に。そのまま一気に自宅まで帰ってきました。時間があれば途中で寄りたいところをいくつか考えていたのだけど、カニに時間を使ったのと、とにかく寒かったので、どこにも寄らずにまっすぐ帰ることにしました。

 来年も尾崎屋さんのランチで決定。泊りは車中泊にして、お風呂は城崎の外湯だな。


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息長氏の考察②

2019年03月25日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 「息長」の名が歴史に初めて登場するのが古事記の第9代開化天皇の段である。開化天皇の后妃やその子女が記述される中に「息長水依比売」の名が見える。彼女は近江の御上祝(みかみのはふり)がいつき祀る天之御影神の娘であるとして、開化天皇の子である日子坐王(ひこいますのきみ)の妃となって5人の子女を設けている。この日子坐王はその後裔が丹波とのつながりを強く感じさせる王であり、その後裔から息長氏が起こってくるのである。

 まず、御上祝であるが、これは三上祝、すなわち三上氏を指しており、近江国野洲郡三上郷を拠点とする一族で、彼らもまた製鉄氏族であるとされている。滋賀県野洲市三上、近江富士と呼ばれる三上山の西麓に式内名神大社である御上神社がある。祭神は天之御影命であり、三上氏はこの御上神社の神職家であった。神社由緒によると、第7代孝霊天皇のときに祭神である天之御影神が三上山に降臨して以降、御上祝等が三上山を神霊の鎮まる厳の磐境としていつき定めて祀っているとのことである。本居宣長は古事記伝の中で、天之御影神は天照大神が素戔嗚尊との誓約をしたときに自らが身につける八坂瓊之五百箇御統(やさかにのいおつみすまる)から三番目に生まれた天津彦根命の子である、と説いている。つまり天之御影神は天照大神の孫ということになる。その天之御影神の後裔が息長水依比売ということである。
 御上神社を西に7キロほど行くと草津市穴村町がある。天日槍が来日したときに自ら住みたいところを探すと言って諸国を巡り歩き、宇治川を遡ったところでしばらく滞在した吾名邑である。また、北東に6キロあまり、蒲生郡竜王町鏡にある鏡神社は天日槍に帯同していた陶人(すえひと)が住むところである。御上神社一帯は三上氏の拠点であるとともに天日槍ゆかりの土地でもある。三上氏は天日槍の丹波勢力と息長氏との接点役を果たしたのかも知れない。日子坐王と息長水依比売の第二子に水之穂真若王の名が見え、近淡海の安直の祖となっている。安は野洲であり、息長水依比売と三上氏とのつながりからその後裔が安直としてこの地を治めるようになったのだろう。

 古事記の開化天皇段には息長水依比売に続いて、息長宿禰王、息長帯比売命(神功皇后)、息長日子王の3人の名が登場する。息長宿禰王は日子坐王の三世孫であるが、息長水依比売の系譜ではなく、丸邇臣(和珥氏)の祖である意祁都比売命(おけつひめのみこと)の妹の袁祁津比売命(おけつひめのみこと)との間にできた山代之大筒木真若王の孫である。そして、その息長宿禰王と葛城高額比売との間に生まれた子が息長帯比売命(神功皇后)と息長日子王である。ちなみに、これらの「息長」のうち、書紀に登場するのは息長帯比売命(書紀では気長足姫尊)と息長宿禰王(書紀では気長宿禰王)のみである。神功皇后紀に「神功皇后気長足姫尊は稚日本根子彦大日々天皇(開化天皇)の曾孫、気長宿禰王の女(むすめ)なり、母を葛城高額媛という」との記述がある。

 古事記によると、息長宿禰王は、第9代開化天皇の子である日子坐王、その子である山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)、その子である迦邇米雷王の子、すなわち開化天皇の四世孫である。祖父の山代之大筒木真若王が丹波能阿治佐波毘売(たにわのあじさはびめ)を娶って生まれたのが父の迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)で、その迦邇米雷王は丹波之遠津臣の娘である高杙比売(たかくいひめ)を娶っているから、その子である息長宿禰王にはかなり濃い丹波勢力の血が入っている。つまり、丹波の血を継いだ最初の息長氏ということになる。さらに息長宿禰王は但馬を拠点とする天日槍の後裔である葛城之高額比売を娶っている。この婚姻は丹波・近江連合勢力の象徴ともいえるだろう。さらに、葛城之高額比売の名からも読み取れるようにこの連合勢力には葛城の勢力も加わっていることがわかる。というよりも、そもそも日子坐王は葛城を拠点とした神武王朝最後の天皇である第9代開化天皇の子である。その日子坐王が近江勢力の息長氏とつながり、さらには後裔が丹波勢力とつながることによって神武王朝以降の勢力を維持してきたのである。その意味から考えると、息長宿禰王と葛城之高額比売との婚姻によって葛城・丹波・近江勢力による崇神王朝包囲網が完成したと言ってもいいのかもしれない。そしてその婚姻によって生まれた息長帯比売(神功皇后)が崇神王朝打倒を果たしたのである。
 また、開化天皇の妃である意祁都比売命、日子坐王の妻である袁祁津比売命(意祁都比売命の妹)はいずれも丸邇臣(和珥氏、和邇氏)の祖先である日子国意祁都命の妹であることから、彼女らの後裔にあたる息長宿禰王は和珥氏ともつながっている。和珥氏は奈良盆地北東部一帯、現在の天理市和邇町や櫟本町のあたりを拠点とする豪族で山城から近江にも勢力を持っていた。滋賀県大津市の北部、琵琶湖に面するあたりに和邇中浜、和邇南浜、和邇中など地名に「和邇」を冠する一帯があり、このあたりが和珥氏の本拠であったとする説もある。そして付近には和邇製鉄遺跡群があったことは先に書いた通りである。息長氏は琵琶湖対岸に勢力をもつ製鉄氏族ともつながっていたようだ。和珥氏については機会を改めて考えたい。

 そして息長宿禰王のもうひとりの子である息長日子王は古事記において吉備の品遅君および針間の阿宗君の祖との注釈がある。息長氏は播磨や吉備にも勢力を拡大したのだろう。播磨は天日槍が来日したときに最初に滞在したところであり、その後に自らの居処を定めるために諸国を巡り、近江の吾名邑から若狭を経て但馬に辿り着くのである。播磨国風土記では天日槍が葦原志許乎命や伊和大神と土地の争奪戦を演じている。
 息長氏の勢力範囲ということで言えば、日子坐王と息長水依比売の子である山代之大筒木真若王の名から山城にも勢力を伸ばしていたことがわかる。京都府京田辺市にある朱智神社には山代之大筒木真若王の子である迦邇米雷王が祀られている。

 さて、ここまで開化天皇の子である日子坐王の系譜を中心に息長氏を見てきたが、古事記の景行天皇および応神天皇の段にも息長氏が登場する。つまり別系統の息長氏である。景行天皇の段では倭建命(やまとたけるのみこと)の系譜の記述に、ある妻との間にできた子として息長田別王(おきながたわけのみこ)が、その子として杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)、さらにその子として息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)が出てくる。つまり倭建命の後裔としての息長氏が存在する。さらにこの息長真若中比売が応神天皇の妃となったことが応神天皇の段に記される。つまり、日子坐王の系譜にある息長氏と倭建命の系譜にある息長氏がここでひとつになるのである。そして、応神天皇と息長真若中比売の間にできた若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)の子のひとりである大郎子(おおいらつこ)から継体天皇へとつながる系譜となっていく。但し、書紀では倭建命(日本武尊)の系譜に息長の名は見られない。古事記の記述をもとにここまでの「息長」をとりまく系譜をまとめると次のようになる。



 息長の名を赤字で示したが、日子坐王の後裔を見ていくと「丹波」を冠する名が頻出することから丹波の文字を青字で示した。天日槍の後裔についても「多遅摩」や「多遅麻」を青字にしてみた。こうしてみると息長氏と丹波勢力とのつながりの強さが感じられる。
 なお、日子坐王と息長水依比売の第一子である丹波比古多々須美知能宇斯王(たにわひこたたすみちのうしおう)は書紀では丹波道主命と記され、崇神天皇の時に四道将軍の一人として丹波に派遣された人物であるが、丹波・近江連合勢力側の人物である丹波道主命が敵対する崇神王朝側の人物として自らの勢力地に派遣されることは考えにくいので、丹波道主命が将軍として丹波に派遣された話は創作であろうと考える。


神功皇后と天日矛の伝承
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息長氏の考察①

2019年03月21日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功摂政紀はこのあとも続くのであるが、このあたりで神功皇后、すなわち気長足姫尊を輩出した息長氏について考えてみたい。

 息長氏の本貫地は琵琶湖の北方東岸にあたる近江国坂田郡(現在の滋賀県米原市および長浜市の一部)、天野川と姉川が形成した長浜平野一帯とされる。北へは越前・若狭へ通じ、東ヘは尾張・美濃へ通じる交通の要衝である。伊吹山の南麓、尾張・美濃へ通じる街道は現代においても東海道新幹線、東海道本線、名神高速道路が通過するところである。また、天野川河口の朝妻津は琵琶湖水運における湖北、湖南への結節点でもある。米原市長沢にある長沢御坊の別名を持つ浄土真宗本願寺派の福田寺(ふくでんじ)は天武12年(683年)に息長氏の菩提寺として建立されて息長寺と号した寺で、神功皇后および天日槍が逗留したという伝承が残っている。なお、息長氏の本貫地については河内説や播磨・吉備説があり、たいへん興味深いところであるが、ここでは通説に従っておきたい。

 息長氏を語るときにその名の由来が必ず説かれる。すなわち、なぜ「息長」という名になったのか。主に3つの説、①生命力の長さを表しているという説、②水中で息を長く保つ海人を表しているという説、③鞴(ふいご)で空気を吹き送って火を起こす様を表しているという説に集約される。息長氏が近江国坂田郡を本拠として琵琶湖水運を掌握していたと考えられること、天日槍とのつながりなどからもわかるように息長氏は渡来系であり航海に長けた海洋族と考えられること、などから当初は②ではないかと考えていた。それが調べていくうちに後述するように近江国は畿内最大の製鉄産地であったこと、たたらに風を送る「息吹き」「火吹き」が語源であるとされる伊福氏、伊福部(いおきべ)氏、など製鉄由来の名を冠した豪族が周辺地にいたことなどから、息長氏についても③であると考えるようになった。

 現在、滋賀県下では60カ所以上の製鉄遺跡が見つかっている。財団法人滋賀県文化財保護協会が1996年に発行した紀要に所収された大道和人氏の論文によると、まず滋賀県南部には逢坂山製鉄遺跡群、瀬田丘陵製鉄遺跡群、南郷・田上山製鉄遺跡群の3つの遺跡群に属する17カ所の遺跡がわかっている。次に西部では和邇製鉄遺跡群および比良山製鉄遺跡群に属する12の遺跡がある。北部においては今津製鉄遺跡群、マキノ・西浅井製鉄遺跡群、浅井製鉄遺跡群に属する31カ所がある。このうち浅井製鉄遺跡群は伊吹山の北部、滋賀県と岐阜県の県境に位置する金糞岳から南に延びる鉱床を背景とした遺跡群であるが、大道氏によるとこの遺跡群は遺跡地図等には掲載されていないが、時期や内容は不明ながら製鉄に関わる鉱滓の散布地がみられ、また、近隣地域の調査において集落遺跡から製錬滓と想定される鉄滓が出土する例が見つかってくるようになってきたことから、ほぼ確実に製鉄遺跡の存在が明らかになってきた、としている。金糞岳の名も、鉄鉱石を精錬する時に出る鉄滓、すなわち金屎(かなくそ)が由来であるとする説がある。また、そこから流れ出る草野川を下ったところには鍛冶屋町という地名も残っている。このあたりは近江国浅井郡に属する地域であるがすぐ南が坂田郡である。
 その坂田郡では米原市能登瀬にある能登瀬遺跡からは鉄滓が出土している。また、伊吹山の東麓、岐阜県不破郡垂井町の日守遺跡からも鉄滓が出ており、同町内にある美濃国一之宮である南宮大社は金山彦命を祀っている。この金山彦命は、書紀の神代巻第5段一書(第4)に記される神産みにおいて、伊弉冉尊が火の神である軻遇突智(かぐつち)を産んで火傷を負い、苦しみのあまり吐き出した嘔吐物から化生した神である。金山彦という名はもとより、火の神に苦しんで吐き出された嘔吐物は製鉄炉から流れ出る鉄滓を表しており、この神はまさに製鉄の神であると言えよう。さらに同じく垂井町にある美濃国二之宮の伊富岐神社は製鉄氏族である伊福氏の祖神が祀られている。このように息長氏が本拠地としていた琵琶湖北部東岸から伊吹山の山麓にかけての一帯は広く製鉄が行われていた地域であり、まさに製鉄王国といっても過言ではなかろう。長常真弓氏はその著「古代の鉄と神々」の中で「息長氏は伊吹山の鉄によって大をなした」と述べている。



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神功皇后(その10 角鹿の笥飯大神)

2019年03月18日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功摂政13年、誉田皇太子は武内宿禰とともに角鹿(敦賀)の笥飯大神に参った。越前国一之宮の気比神宮で、主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)である。書紀の本編では笥飯大神に参ったと記されるのみであるが、応神天皇紀の最初に別伝として「皇太子となったときに越国に行き、笥飯大神を参った。そのとき、大神と皇太子は名を交換した。それで大神を名づけて去来紗別神といい、皇太子を誉田別尊と名づけた」と記される。そして、これと同じ話が古事記にもある。皇太子と武内宿禰は禊をしようと近江と若狭を巡り、角鹿で仮宮を設けたところ、その地に鎮座する伊奢沙和気大神之命が皇太子の夢に現れたという。大神が皇太子と名前を交換したいと申し出たところ、皇太子は承諾した。すると翌朝、鼻が傷ついたイルカの大群が浜いっぱいに打ち寄せられていたという。皇太子が食する御食(みけ)を賜ったことからその神を御食大神と名付け、その神が今は気比大神と呼ばれている。
 「垂仁天皇(その9 天日槍の神宝②)」でも触れたのだが、垂仁天皇の時に来日した天日槍が持参した神宝のなかにあった膽狭浅太刀(いささのたち)と伊奢沙別命の音の類似などの連想から、伊奢沙別命は天日槍であるという考えが本居宣長以来説かれているが、私もその蓋然性が高いと考える。つまり、気比神宮に祀られるのは丹波・近江連合勢力の祖とも言える天日槍であり、始祖が祀られるこの敦賀の地は丹波・近江連合勢力にとって聖地とも言える場所ということになる。その天日槍の後裔である神功皇后は仲哀天皇の居所である近江の高穴穂宮をすぐに放棄して敦賀の笥飯宮に移り、ここを起点に三韓征伐を成し遂げ、さらには香坂王・忍熊王を討って大和に入って宮を設けた。これは崇神王朝からの政権交代が成就したことを意味すると考える。そして今、神功皇后の子である誉田皇太子は生まれて初めてこの敦賀にやって来たのであるが、さしずめ始祖である天日槍への政権交代の報告と故郷へのお披露目、顔見世といったところか。また、この聖地において始祖からその名を授けられたということは、その系譜を継ぐ正当な資格を与えられたということを意味すると考えられ、これをもって実質的に応神王朝が成立したと考えてよいだろう。書紀で垂仁紀に記される天日槍の来日譚が古事記においては応神天皇の段に記される理由はここにある。
 この一連の話の中で触れられるイルカが皇太子に献上される話は敦賀の地が天皇家に御食を献上する土地になったことを表しているが、これも応神王朝成立を背景とした説話である。延喜式や平城京跡から出土した木簡などから、若狭が海産物を献上する御食国(みけつくに)であったことがわかっている。

 皇太子と武内宿禰は敦賀から大和に戻ったところ、皇太后が酒宴を開催し、盃を挙げて祝った。そして歌っていうのには「この酒は私だけの酒ではない。神酒の司で常世の国にいる少御神が祝いの言葉を述べながら歌って踊り狂って醸して献上した酒だ。さあ、残さず飲みなさい」と。武内宿禰が皇太子に代わって「この酒を醸した人は鼓を臼のように立てて歌いながら醸したからだろう。この酒のうまいことよ」と返歌を歌った。
 どうしてここに少御神、すなわち少彦名命が登場するのだろうか。歌中では少御神は酒の神であるとなっているが、単に酒の神であるから酒の場面に登場させたのだろうか。そうではない。書紀第8段の一書、国造りの場面に登場する少彦名命は大己貴神(大国主命)とともに国造りを進めてきたものの、その最終段階で仲間割れを起こしたことから常世の国へ行ってしまう。この少彦名命は出雲から大和へやってきた崇神天皇、あるいは崇神につながる一族のリーダーを指しているということを当ブログ第一部の「大己貴神と少彦名命」で書いておいた。そしてこの酒宴は神功皇太后と皇太子、のちの応神天皇が崇神王朝を倒して政権交代を実現したことを祝う宴である。崇神王朝の開祖とも呼ぶべき少彦名命の酒を飲み干すことはそのことを喩えているのだ。歌の意味は「大和の少彦名命が創り、繁栄を謳歌した国を平らげてやったぞ。めでたいことだ。彼らの築いたものを全てわが手に収めよう」ということになろうか。


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学芸員資格を取るための学習を終えました

2019年03月16日 | 学芸員
 昨年4月からスタートした通信制大学での学芸員資格を取得するための学習がついに終わりを迎えました。昨年4月から9月までの春期においては8科目16単位を修得し、10月から3月の秋期においては博物館実習の1科目3単位を残すのみとなっていましたが、実習およびレポートの提出を11月に済ませていたので実質的には11月で学習を終え、3月の成績発表を待つばかりという状況でした。そして3月1日、その実習の成績が発表され無事に「優」をいただくことができました。結果、全9科目19単位の履修を終え、「優」が8個、「良」が1個ということになりました。



 仕事をしながらの学習だったので、1年間で全ての科目を終えることができるかどうか不安でした。さらには事前に調べた限りでは、学生の夏休みである8月に実習受入れを行う博物館ばかりだったので10月からの秋期で実習を受けることができないかもしれない、ということがあったので、1年で履修を終えることを目標にしていたものの、実際は1年半かかるだろうと思っていました。
 春期では空いた時間はすべて課題レポートのために費やしたために古代史の勉強やブログ執筆が滞っていましたが、結果として8科目16単位の修得ができました。そして、秋期に向けて実習を受け入れてくれる博物館を探していたところ、幸運にも大阪府和泉市の「いずみの国歴史館」から承諾の返事をいただくことができました。いろいろとうまく行かないことはあったものの、館の皆さまのご支援のお蔭で無事に実習を終えることができました。その結果「1年で全科目を修得」という目標を果たすことができ、学芸員資格を取得することもできました。あらためて「いずみの国歴史館」の皆さまにお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

 さて、こうして取得できた学芸員の資格ですが、私は今すぐに学芸員になろうと思っているわけではありません。博物館や学芸員のことを知れば知るほど、そのおかれた環境がたいへん厳しいものであることがわかってきました。博物館の価値向上や活性化など、博物館が将来に渡って存続していくために何かお手伝いできることはないだろうか、とぼんやりと考えています。学芸員の資格を使ってというよりも、博物館のさまざまなことを学んだからこそ、何十という博物館を見てきた経験があるからこそ、そしてビジネスや経営の経験があるからこそ、さらには外部の客観的な視点をもって、何かお役に立てないだろうか。ボチボチ考えていきます。

 なお、各科目の履修状況の振り返りについては「【学芸員】博物館学 各科目の履修振り返り」をご覧ください。全9科目のうち、6科目についてレポートを公開しています。

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神功皇后(その9 葛城襲津彦の登場)

2019年03月12日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功摂政5年、新羅王が3人の遣いを派遣して朝貢してきた。その際、先に人質として日本に滞在していた微叱許智伐旱(みしこちはっかん)を取り戻そうとして彼に嘘の証言をさせたところ、皇后はあっさりと帰国を許した。そして帰国にあたっては葛城襲津彦を随行させたのだが、対馬まで来たときに新羅の遣いにだまされて人質を逃してしまう失態を犯した。襲津彦は3人の遣いを殺害したあと、そのまま新羅に攻め入って捕虜を連れて帰国、このときに連行された捕虜は桑原、佐糜(さび)、高宮、忍海の四邑に住む漢人の祖先であるという。
 この新羅の人質を帰国させる話は三国史記にも記される。訥祇麻立干(とつぎまりつかん)2年、すなわち西暦418年の記事に「王弟未斯欣(みしきん)、倭国自り逃げ還る」とあって、これに先立つ実聖尼師今(じっせいにしきん)元年、すなわち西暦402年の記事に「倭国と好みを通じ、奈勿王の子、未斯欣を以って質と為す」とある。麻立干、尼師今ともに国王を表す名称で、未斯欣は書紀にある微叱許智伐旱であると考えられている。

 捕虜を住まわせた四邑であるが、桑原は現在の御所市池之内・玉手あたり、佐糜は御所市東佐味・西佐味、高宮は御所市伏見・高天・北窪・南郷の一帯、忍海は葛城市忍海に比定され、いずれも葛城氏の本拠地にあたる。この地域は豪族居館跡とされる大型建物遺構が出土した極楽寺ヒビキ遺跡、須恵器や韓式系土器などの遺物と祭祀で使われた導水施設とみられる遺構が出土した南郷大東遺跡、鉄製品やガラス製品を製作したと考えられる工房跡が出た南郷角田遺跡、大規模倉庫跡が出土した井戸大田台遺跡など5世紀代を中心とした南郷遺跡群と呼ばれる数多くの遺跡が発見されており、先進的な技術者集団の存在を背景とする繁栄が窺える。襲津彦は先進技術をもった集団を連れ帰って自らの本拠地周辺に住まわせて一族の繁栄の基礎を固めたのだ。
 葛城氏については当ブログ第一部「葛城氏の考察」や「葛城氏の盛衰」などで考察した通り、神武東征で功績のあった八咫烏、すなわち鴨氏から分かれた一族で、奈良盆地南西部の葛城地方を拠点に神武王朝を支えて大きな勢力を築き、襲津彦のときに大いに栄えた氏族であると考える。そして葛城氏が繁栄を謳歌できた理由は、前述の技術者集団の存在に加え、本拠地である葛城地方を南進して紀ノ川へ出て、さらに瀬戸内海、関門海峡を経て朝鮮半島へ通じる航路を統率していたことがあげられる。そしてそれができたのはともに武内宿禰を先祖に持つ兄弟氏族である紀氏の力によるところが大きい。なお、南郷遺跡群は5世紀前半から後半にかけての繁栄が想定され、御所市にある全長238mの前方後円墳である室宮山古墳は5世紀初め頃の築造とされている。神功皇后は4世紀後半から5世紀初めにかけて活躍したと考えられることから、葛城氏の繁栄が神功皇后に仕えた襲津彦を起点としていることと整合がとれている。さらに三国史記の402年および418年の記事とも一致する。


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平林章仁
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神功皇后(その8 神功摂政の誕生)

2019年03月04日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 紀ノ川から大和に入る河川航路を神功皇后が押さえていたと書いたが、この点についてもう少し考えてみたい。紀伊水門は紀ノ川の河口にあたり、近くには神武東征の際に命を落とした五瀬命を葬った竈山があり、名草戸畔という女酋を倒した名草邑がある。この名草戸畔は地元では名草姫と呼ばれ、その死後に代わって紀伊を治めたのが紀氏であると言われている。そう言えば、皇后が小竹宮に滞在したときに常夜行が起こった理由を問うた相手は紀直の先祖である豊耳であった。この豊耳は名草戸畔のあとに紀ノ川流域を押さえた人物の後裔であろう。当ブログ第一部の「難波から熊野へ」で書いたように、私は名草戸畔の死後にこの地を治めたのは神武東征に随行してきた人物であったと考える。大和から大阪湾、さらには瀬戸内海へ通じる水運要衝の地を統治するために神武がこの地に残した腹心の部下が勢力拡大に成功して紀直、すなわち紀氏となった。この腹心の部下は神武一行が日向を発って宇佐に着く前に速水之門で道案内として一行に加えた珍彦(うずひこ)、すなわち椎根津彦(しいねつひこ)であったと考える。
 書紀の景行紀では、景行天皇3年の武内宿禰の誕生の話にも紀直が登場する。神武王朝第8代孝元天皇の血を継ぐ屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)が景行天皇3年に紀伊国に派遣され、紀直の遠祖である菟道彦(うじひこ)の娘の影媛を娶って武内宿禰が生まれ、その武内宿禰が蘇我氏、平群氏、紀氏などの祖になった、と記されている。この菟道彦は珍彦である。菟道彦(=珍彦=椎根津彦)が紀直の遠祖とされていることと、その孫にあたる武内宿禰が紀氏の祖とされていることは整合がとれている。そして小竹宮で神功皇后のそばにいた紀直の先祖である豊耳はその系譜にある人物である。
 以上から、武内宿禰を介して神武王朝と神功皇后のつながりを確認することができるとともに、神功皇后が紀氏を配下に従えて紀ノ川流域を勢力下に置くことができたのは、まさに武内宿禰の影響によるものであることが理解できよう。また、景行3年に天皇が屋主忍男武雄心命を紀伊国に派遣した記事をあらためて読むと、景行天皇は紀伊国に行幸しようとしたが占いの結果がよくなかったので行幸を中止した、とある。紀伊国は神武王朝の勢力下にあったため、敵対する崇神王朝の景行天皇は紀伊国に入れなかったのだ。

 さて、神功皇后は紀伊国で合流した武内宿禰と和邇臣の先祖である武振熊(たけふるくま)に命じて宇治に陣を構える忍熊王を討たせた。このとき、皇后軍は数万の大軍で進攻したにもかかわらず、なんと敵を騙し討ちにする作戦に出たのだ。この作戦にまんまと引っかかった忍熊軍は宇治の陣をあとにして近江の逢坂、栗林、そして瀬田へと敗走を余儀なくされ、ついには全滅することとなった。仲哀天皇崩御から1年8ヶ月、新羅を征討し、香坂王・忍熊王を破った皇后は皇太后として天皇に代わって政治を担う摂政となった。
 実はこの皇后軍と香坂王・忍熊王との戦いは単なる皇位争いではなかった。これまで述べてきた通り、神功皇后は丹波・近江連合勢力が崇神王朝に送り込んだ皇后である。その皇后が香坂王・忍熊王を倒して我が子である誉田別皇子の皇位継承を確実なものにしたということは、丹波・近江連合勢力が崇神王朝を倒して政権を奪取することに成功したことを意味するのだ。さらに言えば、丹波・近江連合勢力はこの戦いによってもともと拠点としていた琵琶湖から若狭、日本海へ抜ける敦賀に加え、琵琶湖から難波へ通じる宇治川から淀川にかけての流域、大和から大阪湾、瀬戸内海へ通じる紀ノ川流域という水運の要衝を支配することになった。畿内あるいは大和から船を使って畿外へ出るルートはこの3つしかない。大和川ルートもあるが最後は河内湖から難波を通過するため、結局は難波を押さえておく必要があるのだ。そしてこれらのルートは海路でそのまま朝鮮半島へつながっているので外交上も非常に重要となってくる。これ以降、朝鮮半島との外交が一気に活況を呈してくるのはこのことと無縁ではない。

 皇后が摂政についた翌年、ようやく仲哀天皇が葬られることとなった。その陵は先に見た通り、河内国長野陵に治定される大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳である。
 そして幼い誉田別皇子を皇太子として次の天皇であることを世に知らしめた。そして神功摂政69年に神功皇太后が崩御したあと、皇子は応神天皇として即位した。私は仲哀天皇崩御後の神功皇后の時代も含めて第25代武烈天皇までを応神王朝と呼ぶこととしたい。

 しかしここでよく考えてみると、神功皇后は仲哀天皇の后となって以降、高穴穂宮で暮らすことはなかったのではないだろうか。書紀によると、仲哀2年1月11日に皇后になって翌2月6日には角鹿(敦賀)へ行幸して笥飯宮(けひのみや)を設けている。皇后は角鹿で滞在中に熊襲の反乱が起こったために角鹿を出て日本海沿岸を航行し、穴門の豊浦宮を経て儺県の橿日宮に入った。そしてそのまま熊襲を討ち、さらには朝鮮半島に渡って新羅を討った。凱旋帰国後は再び穴門豊浦宮に移り、帰京のために瀬戸内海を通過して難波から紀伊へ向かった。そこで香坂王・忍熊王を討って大和に入り、摂政に就任して大和の磐余に若桜宮を設けている。結局は高穴穂宮に戻ることはなかった。そもそも高穴穂宮は崇神王朝の景行天皇がその晩年に丹波・近江連合勢力を牽制するために設けた宮である。だから神功皇后は最初からこの宮に関心はなく、むしろ大和を押さえることにこだわったと考えられる。その磐余若桜宮は奈良県桜井市にある若桜神社または稚桜神社の2カ所が候補地とされている。




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