古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

今さらの魏志倭人伝

2020年12月22日 | 雑感
しばらく記事を書いていなかったので、いろいろと確認中や考え中のことを備忘録としてあげておきます。いま何を考えているかというと、魏志倭人伝のことです。今さら、というくらいに基本的なところです。

倭人伝の冒頭に「倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 旧百余国 漢時有朝見者 今使訳所通三十国」とあります。「旧百余国」の「旧」はいつのことでしょうか。これは1世紀頃に書かれた漢書地理志にある「楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見云」から引用していると思われるので、前漢時代のBC1世紀頃のことで、「漢時有朝見者」は「以歳時来献見云」のことを指しているのでしょう。

次に倭人伝の中ほどに「其国本亦以男子為王 住七八十年 倭国乱相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼」という文章があります。ここに出てくる「其国」はどこを指すのでしょうか。其国にはもともと男子の王がいたとあり、これは後漢書にある「安帝永初元年 倭国王帥升等献生口百六十人 願請見」に登場する倭国王の帥升とするのが通説です。したがって「其国」はこの後漢書にある「倭国」を指すと考えられます。帥升王が統治していた国々をまとめて「倭国」と呼んだのでしょう。逆に言えば、帥升王が統治していなかった国々もあったはずで、それらは倭国に含まれていません。ちなみに、安帝永初元年は西暦107年です。でも、後漢書の成立は魏志倭人伝よりもあとのことで、陳寿は倭国王帥升の情報をどこから得たのでしょうか。

そして、その帥升王から7~80年を経て倭国に乱が発生します。後漢書には「桓霊間 倭国大乱 更相攻伐」とあり、桓帝と霊帝の間(146年~189年)に倭国大乱が起こったことになっています。帥升が後漢に朝見したのが107年で、そこから7~80年後は180年代になるので、辻褄はあっています。

その倭国大乱が歴年(数年?)続いたあとに卑弥呼が共立されたので、彼女が女王になったのは190年頃ということになります。中国はまだ後漢の時代ですね。そして220年に魏が成立し、238年に遼東地域を支配していた公孫氏が滅んで、魏への通行が容易になった翌年(景初3年)に卑弥呼を共立した連合国は魏に遣使します。これが冒頭の「今使訳所通三十国」を指すのでしょう。つまり、卑弥呼が統治していた連合国が30カ国あったということです。

さて、この倭国大乱の「倭国」は卑弥呼を共立した国々、つまり卑弥呼が統治していた30カ国を指すのか、それとも共立に参加しなかった国も含めるのか。倭国大乱に参戦した全部の国がまとまって卑弥呼を共立したかどうかはわかりません。卑弥呼と不仲であった狗奴国のような国も倭国大乱に参戦したとも考えられるので、卑弥呼を共立した国々と反卑弥呼の国々があったと考えるのが自然ですが、どうでしょうか。倭人伝には次の通り、ほかに「倭国」が2カ所に出てきます。

①王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国皆臨津捜露
②太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭国拝仮倭王

①は「王が使いを京都や帯方郡、諸韓国に遣わし、及び帯方郡使が倭国に来た時、みな津で臨検する」という意味で、この津は伊都国の港を指すのでここでの「倭国」は卑弥呼が統治した連合国を指します。
②は「帯方郡から派遣された梯儁が詔書や印綬をもって倭国へ赴いて倭王に授けた」という意味で、倭王が卑弥呼なので「倭国」はここでも卑弥呼が統治した連合国を指します。
そうすると「倭国乱相攻伐歴年」の「倭国」も卑弥呼が統治した連合国、すなわち卑弥呼共立に参加した30カ国のことなのだろうか。

倭人伝には「倭国」のほかに「倭」「倭人」「倭水人」「倭種」「倭地」「倭王」「倭女王」などの単語が登場します。「倭王」や「倭女王」明らかに卑弥呼を指していると考えられるので、この場合の「倭」は卑弥呼を共立した国々という意味に限定した使い方になります。「倭」が単独で使われている場合も同様です。つまり「倭=卑弥呼が統治した連合国」です。一方、「倭人」「倭水人」「倭種」「倭地」などは当時の魏が認識していた日本国全体を表しているように思えます。

ところで、倭人伝を読んでいると「邪馬台国」というのは1カ所にしか登場しません。それに対して「女王国」は5カ所、「女王」が8カ所に登場します。このことについて少し考えておきたいと思います。邪馬台国は「女王之所都」とあるので、卑弥呼の宮があった国です。

「女王国」は以下の5カ所です。

①世有王皆統属女王国郡使往来常所駐
②自女王国以北其戸数道里可得略載其余旁国遠絶不可得詳
③自郡至女王国万二千余里
④自女王国以北特置一大率検察
女王国東渡海千余里復有国

どれも「邪馬台国」に置き換えて問題なさそうですが、あえて言えば⑤については邪馬台国そのものよりも「卑弥呼が統治していた連合国」として広い範囲で捉える方がいいかもしれません。

それよりもここで気になったのは①の文です。この前の部分も合わせると「東南陸行 五百里 到伊都国 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千余戸 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐」となります。これは伊都国に関する記述として「伊都国には代々に王がいて皆が女王国に属していた」と解されていますが、「世有王」なのに「代々」と解することに違和感を覚えますが、これは次の「皆」という単語で複数の王がいたことを表しているので「代々」と解さざるを得ない、ということです。

しかし、卑弥呼が共立されたのが190年頃で、魏が滅亡したのが265年なので、この70~80年の間に交代した王は多くみても3人程度でしょう。それを「代々」と解することもどうかと思い、調べてみるとこんな説がありました。

伊都国に関する記述は「有千余戸」で切れて、次の「世有王」からは新しい文となり、この「世」は世の中と解する。そうすると「世の中には王がいて、皆が女王国に属していた」と読むことができる。つまり、伊都国を含む30カ国のすべてに王がいて女王国に属していた、ということです。これはなるほど、と思ったものの、そのあとの記述が奴国、不弥国、投馬国と続くので、今度はこの文章をここに挟んだことに違和感を覚えてしまったのです。いったん棚上げです。

次に「女王」について考えます。「女王」は次の8カ所です・

①南至邪馬台国女王之所都
②次有烏奴国次有奴国此女王境界所尽
③其南有狗奴国男子為王其官有狗古智卑狗不属女王
④皆臨津捜露伝送文書賜遺之物詣女王不得差錯
⑤去女王四千余里又有裸国黒歯国
⑥景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡
⑦其年十二月詔書報倭女王
⑧倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和

①④⑥⑦⑧は「女王」を「卑弥呼」と読み替えても問題なさそうですが、②③⑤についてはどうも違うようです。⑤は「女王国」つまり「邪馬台国」と読み替えても意味が通じますが、この記述の前には先に見た「女王国東渡海千余里復有国」の一文が出てくるので、ここでも同様に邪馬台国そのものとするよりも「卑弥呼が統治していた連合国」と少し大きな範囲で捉えるのがいいと思います。とくにこちらは四千里も先の国のことを言っているのでその方が腹落ちします。

②は戸数も距離も詳しくわからないその他の傍国の名称を並べた最後の一文なので「邪馬台国の境界が尽きる所」ではなく「女王が統治する国々の境界が尽きる所」とするべきでしょう。③は「卑弥呼」でも意味が通りそうですが、狗奴国を説明している文と考えれば「狗奴国は女王が統治する国々に属さない」とする方がよい。

このように「女王」は「卑弥呼」あるいは「卑弥呼が統治する連合国」のふたつの意味があると考えられます。陳寿は同じ「女王」という単語を意志を持って使い分けているように感じました。

そして今回の最後に「倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状」をあげておきます。倭人伝の最後の部分に出てくる記述です。これをもって「邪馬台国と狗奴国が戦った」と解される場合が往々にしてありますが、邪馬台国と狗奴国が戦ったとはどこにも書いていません。「倭の女王である卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼はもともと和することがない。倭は載斯烏越等を派遣して帯方郡に至り、互いに攻撃し合う状況を説明した」ということなので、卑弥呼が統治する連合国と狗奴国が戦った、と解するのが妥当と思います。










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ウワナベ古墳・コナベ古墳・ヒシアゲ古墳

2020年12月01日 | 遺跡・古墳
2020年11月22日、奈良県と京都府の境界の近くまで行く用事があって車で出かけたので、ついでに近くの佐紀盾列古墳群を見学してきました。車をどこに停めようかと悩んだ結果、平城宮跡遺構展示館の駐車場に停めて歩くことにしました。この駐車場は無料です。

歩いて10分足らずでコナベ古墳の前方部左手の周堤上に到着です。下の写真の左が後円部で右側が前方部です。



徒歩での見学なので効率的に見て回ろうと思って、コナベ古墳はいったんやり過ごしてウワナベ古墳に向かいました。上の写真の右に向かって歩き、前方部右手から下の写真を撮影しました。左側が前方部で右奥が後円部です。





この案内を右に進んで、コナベ古墳とウワナベ古墳の間にある航空自衛隊の施設の前を通過してすぐにウワナベ古墳が見えました。左が後円部で右が前方部です。



よく見ると、墳丘表面の土が剥がされて葺石らしきものが見えています。





さらに周濠に沿って歩いていると、空き地に立てたテントに人が何人か立っています。なんと、そのテントの下のテーブルには土器片が並べられているではありませんか。見せてもらっていいですかと聞くと、どうぞ、という返事。少し興奮してきました。土器片やパネルを見ながら係の人から説明を聞きました。すると、ウワナベ古墳はちょうど調査をしているところで、昨日今日の2日間は現地見学会をしているというではありませんか。そうやった、古代史サロンのメンバーが投稿してくれてたのがこれやったんか。何と間抜けなことです。ウワナベ古墳を見学しようと決めたときにはその投稿を読んでいたのに、話がまったくつながっていなかった。そういえばさっき見た葺石も調査中の場所やったんや。



















見学会は事前申込制なので入れないけど、外から眺めることができるというのでさっそく行ってみました。後円部を中心に調査区域が設定されています。下の写真の右側になります。



陵墓参考地の発掘を見学できる機会なんて滅多にないので、外から眺めるだけでも十分だけど、できることなら入って見たかったなあ。













後ろ髪を引かれながら見学場所をあとにしてさらに周濠を巡ってみると、ほかの区域でも調査が行われていました。この調査は崩れつつある墳丘裾部に護岸工事を施すために裾部を確定すべく行われているもので、結果としてこれまで考えられていた255mよりも少し長い270m~280mの長さがあることがことがわかりました。これは結構大きなニュースになったのですが、さっきの土器片展示のところの係の方の話では「このあたりの周濠のある古墳は調査をすればおそらくどれも長くなるでしょう。だからこの古墳だけ取り立てて言うのはあまり意味がないです。」ということでした。そういうものなんだ。ちなみに、この古墳は5世紀前半の築造とされ、もとは元明天皇陵に治定されていたけど、元明陵は違う古墳になったので、現在は被葬者は特定されずに「宇和奈辺陵墓参考地」として宮内庁の管理になっています。



さて、ウワナベ古墳をあとにして、もう一度コナベ古墳に戻ります。今度は古墳の東側を周濠に沿って歩きます。



後円部のあたりで道が分かれます。コナベ古墳を一周するまえに近くのヒシアゲ古墳に行くことにしました。ヒシアゲ古墳は「平城坂上陵(ならさかのえのみささぎ)」として第16代仁徳天皇皇后の磐之媛命の陵に治定されています。全長219mの前方後円墳で、築造時期は5世紀中葉~後半とされています。









後円部に行くと外堤上に並べられていたとされる埴輪列がそのままの位置に復元されていました。





近くに「飛地ほ号」という陪塚がありました。





ウワナベ古墳、コナベ古墳、ヒシアゲ古墳の位置関係はこうなっています。



来た道を引き返してコナベ古墳の続きを歩きます。





これでコナベ古墳も一周し、佐紀盾列古墳群の東地区にある3つの古墳を見学したことになります。ちなみに最後のコナベ古墳は全長が204mで、こちらも「小奈辺陵墓参考地」として宮内庁が管理しています。

このあとは車に戻って、古墳群西側にある成務天皇陵に治定される佐紀石塚山古墳、垂仁天皇妃の日葉酢媛陵に治定される佐紀陵山古墳、孝謙・称徳天皇陵に治定される佐紀高塚古墳、さらには少し北に行ったところにある神功皇后陵に治定される五社神古墳(ごさしこふん)などを見ようと車で向かいました。事前に駐車できそうな場所を調べていたのでナビをセットして向かったのですが、近くまで行くとあまりに道が細くて車を擦るのが嫌だったのであきらめることにしました。また機会を作って来ようと思います。

それで少し時間があったので、遺構展示館にもどって見学することにしました。これは平城宮の内裏の遺構ですが、このように発掘調査時のままの遺構を保存して展示する方式は私がもっとも好きな博物館の展示形態です。







ここもゆっくり見たいのであらためて来ることにしました。平城宮跡はこのような施設以外は広大な公園としてピクニック気分で時間を過ごすことができる場所です。と知ったかぶって言いますが、実はここにやってきたのは約30年ぶりです。前回来たのは結婚した翌年で、その年に開催された「なら・シルクロード博覧会」の会場になっていました。それ以来です。

この日は急な用事で奈良に来ることになったにもかかわらず、天気も良くて充実の時間を過ごすことができました。とくにウワナベ古墳はあまりの偶然というか幸運な機会に恵まれ貴重な経験となりました。


↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



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