ここで今一度、書紀において熊襲を攻めようとする仲哀天皇に対して新羅を攻めよと勧めた神について考えてみたい。神託で示された神の名が天照大神、経津主神、事代主神、住吉大神であるとしておいたが、とくに二番目の神、すなわち尾田吾田節淡郡に居る神については諸説あるとしてひとまず経津主神としてみたが、書紀を読み進めると次のようなことが記されている。
神功皇后が誉田別皇子(応神天皇)を生んだ後、仲哀天皇と大中媛との間にできた麛坂王(以降、香坂王とする)と押熊王が反乱を起こした時、皇后が難波に向かおうとして船が進まない状況に陥ったため、皇后が務古水門(武庫の港)に戻って占ったところ、4人の神が現れて託宣をした。託宣の内容は割愛するが、ひとり目が天照大神、ふたり目が稚日女尊(わかひるめのみこと)、3人目が事代主尊、そして4人目が表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神、すなわち住吉大神である。 それぞれの神の教えのとおりにしたら船は無事に進むことができたと言う。ここに登場する神は新羅を攻めよと告げた4人の神とよく似ている。違うのはふたり目が稚日女尊になっているところだけである。稚日女尊は書紀においては神代巻に登場し、高天原の機殿(はたどの)で神衣を織っていたとき、素戔嗚尊が馬の皮を剥いで部屋の中に投げ込んだため、驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなったとある。稚日女尊は天照大神の妹神あるいは御子神であると言われる。
同じ神宮皇后紀に4人セットで登場する神々のうち、3人が同じでひとりだけが違っていると考えるよりも4人とも同一であると考えるほうが自然ではないだろうか。つまり、尾田吾田節淡郡に居る神とは稚日女尊と考えることができる。「神功皇后(その1 仲哀天皇の最期①)」では粟島坐伊射波神社を現在の伊雑宮であるとして、その祭神は天照坐皇大御神御魂、すなわち天照大神であるからひとりめの伊勢の五十鈴宮の神である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と重複するとしたのだが、よく調べると伊射波神社は三重県鳥羽市安楽島(あらしま)町にあって伊雑宮とは別の神社であった。そしてここの祭神が稚日女尊なのだ。淡郡は粟島のことをいい、粟島が変化して安楽島になったのだ。そうすると、熊襲を攻めようとする仲哀天皇に対して新羅侵攻を勧めた神が、天照大神、稚日女尊、事代主神、住吉大神の神々ということになる。
さて、この4人の神がなぜ仲哀天皇に対して熊襲ではなく新羅を討つように勧めたのだろうか。この課題を考えるにあたっては、このブログで述べてきた古代日本国成立における私の仮説をおおまかに確認しておきたい。
魏志倭人伝にある邪馬台国は出雲から大和の纒向に入った勢力が築いた国で、日本海沿岸から北九州にかけての諸国を倭国としてまとめていた。この国の王は記紀では崇神天皇と呼ばれた。一方、この邪馬台国と対立していた狗奴国は南九州にあって、記紀においては熊襲あるいは隼人と呼ばれ、その王は神武天皇であった。また、邪馬台国が成立するより以前の大和には丹後からやってきた饒速日命が奈良盆地中央部の唐古・鍵に国を築いていた。狗奴国王の神武は南九州から東征して大和に侵攻、饒速日命の国を統合して奈良盆地南西部に勢力基盤を築いて纒向の邪馬台国、すなわち崇神勢力と睨み合った。
葛城を拠点とする勢力が初代天皇の神武から第9代の開化にいたる一族で、私はこれを神武王朝と呼んでいる。一方、纒向を拠点とする第10代の崇神から第14代の仲哀にいたる勢力を崇神王朝とする。記紀においては初代から第14代までの天皇が順番に即位して系譜をつないだように記されているが、私は神武王朝と崇神王朝が並立していたと考えている。これが弥生時代後期にあたる紀元3世紀のことだ。その後、3世紀後半から4世紀にかけて崇神王朝が優勢になり、神武王朝は実質的な終焉を迎えたのである。
以上のような状況の中で神功皇后が登場したのである。神功皇后および子の応神天皇につながる系図を次のようにまとめてみた。
天日槍および彦坐王の系譜については書紀の記述が乏しいために古事記によることにした。また、この系図では開化天皇と伊香色謎命の間に崇神天皇が生まれているが、私の考えではこのつながりは創作ということになる。
これを見ると神功皇后の父である息長宿禰王の系譜をさかのぼると第9代開化天皇につながっていることがわかる。また皇后の母である葛城高額日売命は天日槍にさかのぼることができる。要するに神功皇后は神武王朝の末裔であり、天日槍の末裔でもあるのだ。また父が息長宿禰王であることから、近江を拠点にした息長勢力でもある。神功皇后が丹波・近江連合勢力の後裔として出現したことは「景行天皇(その12 近江遷都)」などで書いた通りであるが、ここではさらに神武王朝ともつながっていることが確認できた。
神武王朝は垂仁天皇から景行天皇の頃に実質的な終焉を迎えた、すなわち崇神王朝に敗北を喫したのだが、その神武王朝の末裔である神功皇后が仲哀天皇を殺害し、崇神から5代続いた崇神王朝にとどめを刺したのだ。まさに神武王朝のリベンジを果たしたと言えよう。
これで4人の神が仲哀天皇に対して熊襲討伐を止めさせようとした理由が推察できよう。熊襲は神武王朝の故郷であり出身一族であったのだ。そしてあらためて4人の神を見ると、4人すべてが神武王朝ゆかりの神であることがわかる。天照大神は神武王朝の祖先神であり、稚日女尊はその妹または子とされる。事代主神は葛城の神で、葛城は神武王朝の大和での勢力基盤の地であった。さらに事代主神は神武・綏靖・安寧の三代の天皇の外戚でもあったのだ。最後の住吉大神は日向の地で伊弉諾尊の禊ぎによって天照大神とともに生まれた神である。
ただし、そう考えたとしても2つの疑問が残る。ひとつは天皇崩御後の神託で4人の神の名を聞き出した後、吉備臣の祖である鴨別を派遣して熊襲を討たせていること。もうひとつは、討伐の相手がなぜ熊襲ではなく新羅だったのか。
まずひとつ目であるが、そもそも仲哀天皇や神功皇后が筑紫にやって来たのは熊襲が謀反を起こしたからである。おそらく熊襲は神功皇后と武内宿禰の作戦に乗っかって謀反を装ったのだろう。景行天皇や日本武尊のときに何度も負かされている崇神王朝を打倒する作戦に乗らないはずがない。そして仲哀天皇が崩御した(殺害された)ことによって作戦はいったん終了であるが、熊襲が謀反を起こしたこと、天皇が熊襲討伐に失敗したことが記されるので、その後の措置として残された皇后が熊襲を平定したことにした。だから鴨別の派遣に対して熊襲は反抗することもなく服従したとされるのだ。
もうひとつの疑問、なぜ新羅を討つように勧めたのか、については少し時間をかけて考えたい。
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神功皇后が誉田別皇子(応神天皇)を生んだ後、仲哀天皇と大中媛との間にできた麛坂王(以降、香坂王とする)と押熊王が反乱を起こした時、皇后が難波に向かおうとして船が進まない状況に陥ったため、皇后が務古水門(武庫の港)に戻って占ったところ、4人の神が現れて託宣をした。託宣の内容は割愛するが、ひとり目が天照大神、ふたり目が稚日女尊(わかひるめのみこと)、3人目が事代主尊、そして4人目が表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神、すなわち住吉大神である。 それぞれの神の教えのとおりにしたら船は無事に進むことができたと言う。ここに登場する神は新羅を攻めよと告げた4人の神とよく似ている。違うのはふたり目が稚日女尊になっているところだけである。稚日女尊は書紀においては神代巻に登場し、高天原の機殿(はたどの)で神衣を織っていたとき、素戔嗚尊が馬の皮を剥いで部屋の中に投げ込んだため、驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなったとある。稚日女尊は天照大神の妹神あるいは御子神であると言われる。
同じ神宮皇后紀に4人セットで登場する神々のうち、3人が同じでひとりだけが違っていると考えるよりも4人とも同一であると考えるほうが自然ではないだろうか。つまり、尾田吾田節淡郡に居る神とは稚日女尊と考えることができる。「神功皇后(その1 仲哀天皇の最期①)」では粟島坐伊射波神社を現在の伊雑宮であるとして、その祭神は天照坐皇大御神御魂、すなわち天照大神であるからひとりめの伊勢の五十鈴宮の神である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と重複するとしたのだが、よく調べると伊射波神社は三重県鳥羽市安楽島(あらしま)町にあって伊雑宮とは別の神社であった。そしてここの祭神が稚日女尊なのだ。淡郡は粟島のことをいい、粟島が変化して安楽島になったのだ。そうすると、熊襲を攻めようとする仲哀天皇に対して新羅侵攻を勧めた神が、天照大神、稚日女尊、事代主神、住吉大神の神々ということになる。
さて、この4人の神がなぜ仲哀天皇に対して熊襲ではなく新羅を討つように勧めたのだろうか。この課題を考えるにあたっては、このブログで述べてきた古代日本国成立における私の仮説をおおまかに確認しておきたい。
魏志倭人伝にある邪馬台国は出雲から大和の纒向に入った勢力が築いた国で、日本海沿岸から北九州にかけての諸国を倭国としてまとめていた。この国の王は記紀では崇神天皇と呼ばれた。一方、この邪馬台国と対立していた狗奴国は南九州にあって、記紀においては熊襲あるいは隼人と呼ばれ、その王は神武天皇であった。また、邪馬台国が成立するより以前の大和には丹後からやってきた饒速日命が奈良盆地中央部の唐古・鍵に国を築いていた。狗奴国王の神武は南九州から東征して大和に侵攻、饒速日命の国を統合して奈良盆地南西部に勢力基盤を築いて纒向の邪馬台国、すなわち崇神勢力と睨み合った。
葛城を拠点とする勢力が初代天皇の神武から第9代の開化にいたる一族で、私はこれを神武王朝と呼んでいる。一方、纒向を拠点とする第10代の崇神から第14代の仲哀にいたる勢力を崇神王朝とする。記紀においては初代から第14代までの天皇が順番に即位して系譜をつないだように記されているが、私は神武王朝と崇神王朝が並立していたと考えている。これが弥生時代後期にあたる紀元3世紀のことだ。その後、3世紀後半から4世紀にかけて崇神王朝が優勢になり、神武王朝は実質的な終焉を迎えたのである。
以上のような状況の中で神功皇后が登場したのである。神功皇后および子の応神天皇につながる系図を次のようにまとめてみた。
天日槍および彦坐王の系譜については書紀の記述が乏しいために古事記によることにした。また、この系図では開化天皇と伊香色謎命の間に崇神天皇が生まれているが、私の考えではこのつながりは創作ということになる。
これを見ると神功皇后の父である息長宿禰王の系譜をさかのぼると第9代開化天皇につながっていることがわかる。また皇后の母である葛城高額日売命は天日槍にさかのぼることができる。要するに神功皇后は神武王朝の末裔であり、天日槍の末裔でもあるのだ。また父が息長宿禰王であることから、近江を拠点にした息長勢力でもある。神功皇后が丹波・近江連合勢力の後裔として出現したことは「景行天皇(その12 近江遷都)」などで書いた通りであるが、ここではさらに神武王朝ともつながっていることが確認できた。
神武王朝は垂仁天皇から景行天皇の頃に実質的な終焉を迎えた、すなわち崇神王朝に敗北を喫したのだが、その神武王朝の末裔である神功皇后が仲哀天皇を殺害し、崇神から5代続いた崇神王朝にとどめを刺したのだ。まさに神武王朝のリベンジを果たしたと言えよう。
これで4人の神が仲哀天皇に対して熊襲討伐を止めさせようとした理由が推察できよう。熊襲は神武王朝の故郷であり出身一族であったのだ。そしてあらためて4人の神を見ると、4人すべてが神武王朝ゆかりの神であることがわかる。天照大神は神武王朝の祖先神であり、稚日女尊はその妹または子とされる。事代主神は葛城の神で、葛城は神武王朝の大和での勢力基盤の地であった。さらに事代主神は神武・綏靖・安寧の三代の天皇の外戚でもあったのだ。最後の住吉大神は日向の地で伊弉諾尊の禊ぎによって天照大神とともに生まれた神である。
ただし、そう考えたとしても2つの疑問が残る。ひとつは天皇崩御後の神託で4人の神の名を聞き出した後、吉備臣の祖である鴨別を派遣して熊襲を討たせていること。もうひとつは、討伐の相手がなぜ熊襲ではなく新羅だったのか。
まずひとつ目であるが、そもそも仲哀天皇や神功皇后が筑紫にやって来たのは熊襲が謀反を起こしたからである。おそらく熊襲は神功皇后と武内宿禰の作戦に乗っかって謀反を装ったのだろう。景行天皇や日本武尊のときに何度も負かされている崇神王朝を打倒する作戦に乗らないはずがない。そして仲哀天皇が崩御した(殺害された)ことによって作戦はいったん終了であるが、熊襲が謀反を起こしたこと、天皇が熊襲討伐に失敗したことが記されるので、その後の措置として残された皇后が熊襲を平定したことにした。だから鴨別の派遣に対して熊襲は反抗することもなく服従したとされるのだ。
もうひとつの疑問、なぜ新羅を討つように勧めたのか、については少し時間をかけて考えたい。
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