崇神天皇(その3)の記事で「倭迹々日百襲姫命が台与である」という考えを書いた。今回はこれについてもう少し考えてみたい。その前提として私の考えとして次の2点を確認しておきたい。1つは、崇神天皇のときに疫病で民の半数以上が死亡し、農民の流浪、反乱などで国内の災いが収まらなかったことが、魏志倭人伝に記される「卑弥呼の死後に男王が立つも国中が服さなかった」との記事に符合するということ、つまりこの男王が崇神天皇であるということ。そしてこの男王が国を治めることができなかったので卑弥呼の宗女である台与が王についた。2つ目は、倭人伝には卑弥呼が女王として共立されたときに男弟(本当の弟という意味かどうか疑わしい)がいたと記されており、この男弟が崇神天皇であるということ。卑弥呼と台与を比定するにあたってこの2点を前提に今一度、魏志倭人伝から関連する部分を抜き出して考えてみる。
其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名日卑弥呼、事鬼道能惑衆、 年已長大、無夫婿、有男弟、佐治國、自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食傳辭出入居處、宮室樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衛
(その国は、元々は男子を王としていた。七、八十年を経た後、倭国は乱れ、互いに攻撃しあうことが何年も続いた。そこで一人の女子を共に立てて王とした。名を卑弥呼という。鬼道の祀りを行い、人々をうまく惑わせた。高齢で夫はいないが、弟がいて国を治めるのを補佐している。王となって以来、会った者はわずかしかいない。侍女千人を自らの側においている。男子が一人いて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所に出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重に設けられ、常に人がいて武器を持って守衛している。)
倭国はもともと男子を王としていたとある。これはおそらく「後漢書東夷伝」の記述「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」にある「帥升」のことであろう。安帝の永初元年とは西暦107年のことである。さらに後漢書は続いて「桓霊間倭国大乱、相攻伐歴年主無」と記す。これは倭人伝の「住七八十年、倭國亂相攻伐歴年」の記述と対応している。倭王帥升の治世から7~80年後、すなわち後漢の桓帝と霊帝の治世の間(146年~189年)に倭国大乱が起こり、主(王)がいなかった、ということだ。この倭国大乱とは朝鮮半島から渡来した素戔嗚尊が伯耆や出雲、越などの日本海沿岸地域を制圧する過程であり、さらにその子の大国主命が国造りを進め、その後に少彦名命が大国主命と袂を分かって大和へ移って邪馬台国を建国する、という争乱を指していると考える。その後、倭国はその少彦名命が建国した邪馬台国の女王卑弥呼を共立してまとまったという。西暦200年前後であろうか。このあと、景初三年(239年)から倭国の魏に対する朝貢の記事が続く。そして正始八年(247年)の次の記事になる。
其八年太守王頎到官、倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和、遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃状
(その八年、太守王頎が着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴國の男王卑弥弓呼と以前から不仲であった。倭の載斯烏越らを帯方郡に遣わし、互いに攻撃しあっている状況を報告させた。)
倭の女王卑弥呼と狗奴国王の卑弥弓呼が不仲であったとしているが、これは倭国と狗奴国が対立していたということだ(あくまで倭国と狗奴国の対立であって邪馬台国と狗奴国の対立ではない)。そして両国がついに交戦状況に陥ったことが記される。この状況は第一部において阿蘇山北側の北九州倭国と狗奴国の国境付近に集中する遺跡群から検証した。太守の王頎は塞曹掾史の張政等を派遣して女王を激励したが結果は首尾よくいかなかったようだ。
卑弥呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者百餘人、更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人、復立卑弥呼宗女壹與年十三為王、國中遂定、政等以檄告喩壹與
(卑弥呼は死んで大きな墓を作った。直径が百余歩で徇葬者のは百余人であった。あらためて男王を擁立したが、国中の混乱は収まらなかった。戦いは続き千余人が死んだ。そこで卑弥呼の宗女である十三才の台与を女王に立てると国中が遂に収まった。政等は檄文を以て台与を激励した。)
卑弥呼は死んだ。「以死」が良からぬ死、非業の死を意味することも第一部で見た。自ら命を絶ったのか、誰かに殺されたのか。 いずれにしても狗奴国との戦争と何らかの関係がありそうだ。おそらく倭国は狗奴国に敗れたか、それに近い状態になったのだろう。そして卑弥呼の墓が築かれた。王であった卑弥呼に代わって男王が立ったが倭国内の混乱が続いたため、卑弥呼の宗女であった台与が13歳で女王となってようやく混乱が収まった、という状況は冒頭で確認した通りである。
魏志倭人伝をもとに卑弥呼から台与に代わる経緯を見てみたが、今一度、事の順序を整理するとこうなる。
倭国大乱→卑弥呼共立→狗奴国と交戦→卑弥呼死去→男王即位→国内の混乱→台与共立→混乱収束
男王を崇神天皇としてこの順序を記紀の記述に照らし合わせると、崇神天皇即位後に巫女としての力を発揮する倭迹々日百襲姫を卑弥呼とすることはできない。やはり崇神天皇即位後、国内が混乱した状況を収束させるために登場した巫女である倭迹々日百襲姫は台与であると考えるのが妥当であろう。ただ、倭迹々日百襲姫は記紀の系譜によれば第7代孝霊天皇の子となっており、13歳で女王として共立されたという倭人伝の記述と年齢的、世代的に合わない。しかし、記紀の系譜は万世一系を演出するために第9代までの神武王朝と第10代からの崇神王朝を無理やりつなげる作為が施されているため、このような矛盾はあり得ると考える。現に崇神天皇を神武王朝につなげるために開化天皇と継母(父である孝元天皇の妃)との間にできた子にするという不自然な作為が見られる。
さらにここで箸墓についても言及しておきたい。日本書紀には「倭迹々日百襲姫命が死んだときに大市の墓に葬った。その墓を箸墓という」というくだりがある。奈良県桜井市箸中にある箸墓古墳である。卑弥呼の古墳であると唱える人が多く、築造時期が3世紀中頃に遡るということが示されて以降、圧倒的に有力な説となってしまった。しかし前述のように私は倭迹々日百襲姫命は台与であると考えるのでその墓を卑弥呼の墓に比定することはできない。さらに言えば、箸墓古墳は前方後円墳であり全長は278m、後円部の直径が150mである。魏志倭人伝にある「径百余歩」に合わない。「径」は円形部の直径を指すと考えるのが自然であるから、歩幅が50cmとすれば50m、歩幅1mとしても100mで、後円部の直径150mに合致しない。したがって、仮に築造時期が卑弥呼が死んだ時期に一致したとしても卑弥呼の墓と考えることができない。第一部の「纏向型前方後円墳と箸墓古墳」にも書いたが、卑弥呼の墓は箸墓の東にあるホケノ山古墳であると考えている。
それではいったい誰を卑弥呼に比定するのが妥当なのだろうか。この点については、現時点において記紀に登場する人物をもって卑弥呼に比定することができなかったというのが正直なところで、継続検討課題としておきたい。
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其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名日卑弥呼、事鬼道能惑衆、 年已長大、無夫婿、有男弟、佐治國、自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食傳辭出入居處、宮室樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衛
(その国は、元々は男子を王としていた。七、八十年を経た後、倭国は乱れ、互いに攻撃しあうことが何年も続いた。そこで一人の女子を共に立てて王とした。名を卑弥呼という。鬼道の祀りを行い、人々をうまく惑わせた。高齢で夫はいないが、弟がいて国を治めるのを補佐している。王となって以来、会った者はわずかしかいない。侍女千人を自らの側においている。男子が一人いて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所に出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重に設けられ、常に人がいて武器を持って守衛している。)
倭国はもともと男子を王としていたとある。これはおそらく「後漢書東夷伝」の記述「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」にある「帥升」のことであろう。安帝の永初元年とは西暦107年のことである。さらに後漢書は続いて「桓霊間倭国大乱、相攻伐歴年主無」と記す。これは倭人伝の「住七八十年、倭國亂相攻伐歴年」の記述と対応している。倭王帥升の治世から7~80年後、すなわち後漢の桓帝と霊帝の治世の間(146年~189年)に倭国大乱が起こり、主(王)がいなかった、ということだ。この倭国大乱とは朝鮮半島から渡来した素戔嗚尊が伯耆や出雲、越などの日本海沿岸地域を制圧する過程であり、さらにその子の大国主命が国造りを進め、その後に少彦名命が大国主命と袂を分かって大和へ移って邪馬台国を建国する、という争乱を指していると考える。その後、倭国はその少彦名命が建国した邪馬台国の女王卑弥呼を共立してまとまったという。西暦200年前後であろうか。このあと、景初三年(239年)から倭国の魏に対する朝貢の記事が続く。そして正始八年(247年)の次の記事になる。
其八年太守王頎到官、倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和、遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃状
(その八年、太守王頎が着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴國の男王卑弥弓呼と以前から不仲であった。倭の載斯烏越らを帯方郡に遣わし、互いに攻撃しあっている状況を報告させた。)
倭の女王卑弥呼と狗奴国王の卑弥弓呼が不仲であったとしているが、これは倭国と狗奴国が対立していたということだ(あくまで倭国と狗奴国の対立であって邪馬台国と狗奴国の対立ではない)。そして両国がついに交戦状況に陥ったことが記される。この状況は第一部において阿蘇山北側の北九州倭国と狗奴国の国境付近に集中する遺跡群から検証した。太守の王頎は塞曹掾史の張政等を派遣して女王を激励したが結果は首尾よくいかなかったようだ。
卑弥呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者百餘人、更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人、復立卑弥呼宗女壹與年十三為王、國中遂定、政等以檄告喩壹與
(卑弥呼は死んで大きな墓を作った。直径が百余歩で徇葬者のは百余人であった。あらためて男王を擁立したが、国中の混乱は収まらなかった。戦いは続き千余人が死んだ。そこで卑弥呼の宗女である十三才の台与を女王に立てると国中が遂に収まった。政等は檄文を以て台与を激励した。)
卑弥呼は死んだ。「以死」が良からぬ死、非業の死を意味することも第一部で見た。自ら命を絶ったのか、誰かに殺されたのか。 いずれにしても狗奴国との戦争と何らかの関係がありそうだ。おそらく倭国は狗奴国に敗れたか、それに近い状態になったのだろう。そして卑弥呼の墓が築かれた。王であった卑弥呼に代わって男王が立ったが倭国内の混乱が続いたため、卑弥呼の宗女であった台与が13歳で女王となってようやく混乱が収まった、という状況は冒頭で確認した通りである。
魏志倭人伝をもとに卑弥呼から台与に代わる経緯を見てみたが、今一度、事の順序を整理するとこうなる。
倭国大乱→卑弥呼共立→狗奴国と交戦→卑弥呼死去→男王即位→国内の混乱→台与共立→混乱収束
男王を崇神天皇としてこの順序を記紀の記述に照らし合わせると、崇神天皇即位後に巫女としての力を発揮する倭迹々日百襲姫を卑弥呼とすることはできない。やはり崇神天皇即位後、国内が混乱した状況を収束させるために登場した巫女である倭迹々日百襲姫は台与であると考えるのが妥当であろう。ただ、倭迹々日百襲姫は記紀の系譜によれば第7代孝霊天皇の子となっており、13歳で女王として共立されたという倭人伝の記述と年齢的、世代的に合わない。しかし、記紀の系譜は万世一系を演出するために第9代までの神武王朝と第10代からの崇神王朝を無理やりつなげる作為が施されているため、このような矛盾はあり得ると考える。現に崇神天皇を神武王朝につなげるために開化天皇と継母(父である孝元天皇の妃)との間にできた子にするという不自然な作為が見られる。
さらにここで箸墓についても言及しておきたい。日本書紀には「倭迹々日百襲姫命が死んだときに大市の墓に葬った。その墓を箸墓という」というくだりがある。奈良県桜井市箸中にある箸墓古墳である。卑弥呼の古墳であると唱える人が多く、築造時期が3世紀中頃に遡るということが示されて以降、圧倒的に有力な説となってしまった。しかし前述のように私は倭迹々日百襲姫命は台与であると考えるのでその墓を卑弥呼の墓に比定することはできない。さらに言えば、箸墓古墳は前方後円墳であり全長は278m、後円部の直径が150mである。魏志倭人伝にある「径百余歩」に合わない。「径」は円形部の直径を指すと考えるのが自然であるから、歩幅が50cmとすれば50m、歩幅1mとしても100mで、後円部の直径150mに合致しない。したがって、仮に築造時期が卑弥呼が死んだ時期に一致したとしても卑弥呼の墓と考えることができない。第一部の「纏向型前方後円墳と箸墓古墳」にも書いたが、卑弥呼の墓は箸墓の東にあるホケノ山古墳であると考えている。
それではいったい誰を卑弥呼に比定するのが妥当なのだろうか。この点については、現時点において記紀に登場する人物をもって卑弥呼に比定することができなかったというのが正直なところで、継続検討課題としておきたい。
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