古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆仮説「古代日本国成立」年表

2016年12月23日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 さて、「古代日本国成立の物語」もいよいよ大詰めにきた。記紀を始めとする日本の史料、魏志倭人伝などの中国の史料、そして考古学の成果として明らかになっていること、これら3つの材料をもとに最も無理なく合理的に説明ができ、加えて自ら現地を訪問して見て聴いて感じたことがその説明に納得感を与えるような答を導き出す、という考え方で取り組んで神武王朝の時代まで論証を進めてきた。まだまだ解明すべき課題がたくさん残っているが、中国大陸や朝鮮半島からやって来たいくつもの渡来人集団が主役となって様々な紆余曲折を経ながら、この日本列島をひとつのまとまりある形にしようとする、その入り口までやってきた。ここまで、それなりに筋道の通った物語として成り立たせることができたのではないか、と考える。
 日本書紀では神武王朝のあとに崇神王朝が成立したことになっているが、私の考えでは出雲から大和にやってきた少彦名命が纒向で崇神王朝(邪馬台国)を成立させた後、日向から東征してきた神日本磐余彦尊(狗奴国王の卑弥狗呼)が大和で饒速日命の勢力を取り込み、葛城で神武天皇として神武王朝を成立させ、この2つの王朝が並立、対立する状況(邪馬台国vs狗奴国)になった。そのため、神武も崇神も「ハツクニシラススメラノミコト」と呼ばれることになった。神武王朝は中国大陸の江南から渡来した集団に由来する政権であり、崇神王朝は朝鮮半島から渡来した集団に由来する政権であったが、記紀編纂を命じた天武天皇は神武王朝と同様に中国江南系であったために、万世一系を演出する記紀においては神武天皇が天皇家の開祖として先に王朝を成立させたことになった。神武王朝は大和で勢力基盤を整えて崇神王朝に対して攻勢をしかけるも、四道将軍の派遣や熊襲征伐などを敢行した崇神王朝の勢力に押し返され、神武王朝と同系の応神天皇が登場するまで忍耐を余儀なくされた。このあたりについては機会をあらためて「古代日本国成立の物語(第二部)」として発信していきたい。

 最後に私の仮説をもとに中国史書(主に魏志倭人伝)と日本の史書(主に日本書紀)を合体させた年表を示して締め括りとしたい。

<仮説「古代日本国成立」年表>
 
 
 黒字:中国史書より、青字:日本史書より、赤字:私の仮説




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◆神武王朝の勢力拡大

2016年12月22日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 天皇が皇后や妃を娶るということはその皇后や妃の出身氏族と姻戚関係になることであり、自身の勢力の後ろ盾を得ることである。また、他者の勢力基盤がある地に自身の兄弟や子女を派遣してその地を抑えることは、その地の氏族を自身の勢力に取り込むことである。神武王朝の各天皇が娶った后妃の出身氏族をまとめると次のようになる。進出地域は既にみた宮や陵墓の場所、あるいは后妃の出自などから勢力範囲と想定される地域を記した。カッコ内は一書に記された記事とそれをもとに想定される進出地域である。
 
 
 

 第5代孝昭天皇までは事代主神を祖先神とする鴨氏から后を迎えて関係構築に取り組んだことは、その皇居や陵墓が奈良盆地南部の磐余や南西部の葛城にあったのと呼応している。尾張氏も本貫地が葛城の高尾張であると考えられるので同様である。さらに、一書では磯城県主や十市県主などから后を迎えたことになっているが、磯城県主は神武東征の論功行賞として弟磯城が授かった地位である。磯城の地はおそらく現在の奈良県磯城郡あたりであろう。そのすぐ南には橿原市十市町があるので、磯城と十市はほぼ同一地域を指すと考えられる。奈良県磯城郡には唐古・鍵遺跡があり、饒速日命の勢力域である。神武王朝は葛城や磐余を拠点にしながら饒速日命の後裔勢力の力をも必要としていたのだろう。また、孝昭天皇の子である天足彦国押人命が和珥氏の祖になっていることは既に見たが、それは彼を奈良盆地北部に派遣したと考えられ、それが功を奏したからか、第9代開化天皇は当地へ進出することが可能となったのではないだろうか。第7代孝霊天皇のときに吉備氏とつながっているがもともと吉備は神武東征の際に同盟国として神武に協力をした勢力であった。さらに第9代開化天皇が妃を迎えた丹波は饒速日命の祖国であり、尾張氏、丹波氏、海部氏のつながりはすでに見てきた通りである。

 このように神武天皇および欠史八代、すなわち神武王朝における書紀の記述は、各々の天皇が天皇として実在したかどうかは別にして、神武が東征を果たして大和に入った後の状況をある程度推測することが可能である。前半は饒速日命の後裔勢力の力も借りながら奈良盆地南部あるいは南西部の葛城地方で勢力基盤を整え、後半に入って奈良盆地中部から北部へ徐々に進出し、さらにその後、畿外にも同盟国の輪を拡大していった。その一方で、奈良盆地東部の纏向にあった邪馬台国との対立関係は続いていた。まさに魏志倭人伝に記された時代と重なってくる。


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◆神武王朝の皇居・陵墓

2016年12月21日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 私は初代神武天皇から第9代開化天皇までを神武王朝と呼んでいるが、この神武王朝9人の天皇の皇居(宮)および陵墓の場所を地図上にプロットしてみた。左が皇居の場所(カッコ内数字は天皇の代位を表わす)、右が陵墓の場所(マル内数字は天皇の代位を表わす)である。
 

 

■皇居の場所
 第6代孝安天皇までは奈良盆地南西部の葛城地方に宮を置いていることがよくわかる。吉野や宇陀から大和に入った神武天皇は饒速日命を従えたあと、邪馬台国のあった纏向に直ちに進出することを避け、邪馬台国と対峙するかたちで鴨氏の力を借りながら勢力基盤を整えていったと考える。その後、第7代の孝霊天皇が饒速日命の拠点であった唐古・鍵遺跡のある奈良盆地中央部へ、第9代開化天皇が奈良盆地北部へ進出し、纏向の邪馬台国を取り囲むように勢力を伸ばしていった。

■陵墓の場所
 皇居の場所と同様に第6代孝安天皇までは奈良盆地南部あるいは南西部に陵墓が築かれていることがよくわかる。特に畝傍山の麓に陵墓が集まっており、初代の神武天皇が宮を開き、崩御後に葬られた場所として神聖視されていたのだろう、その後の3人の天皇もこの地に陵墓が設けてられている。第7代孝霊天皇と第9代開化天皇は葛城を出て奈良盆地中心部あるいは北部へ進出したために陵墓もそれにあわせた場所になっている。ただ、孝霊天皇の陵墓が宮から少し離れていることについてはよくわからない。



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◆孝霊天皇~開化天皇

2016年12月18日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
最後に、第7代の孝霊天皇から第9代の開化天皇までを見てみる。

■孝霊天皇(第7代)


 神武に仕えた饒速日命が建国した唐古・鍵に近い黒田に宮を置いたことは、いよいよ敵対する邪馬台国のすぐ近くに進出して拠点を設けたことを表していると思われる。また、吉備と関係する二人の子がいる。隼人系海洋族である吉備との関係強化に動いたと考えられ、畿内の外へ出て勢力基盤を整えようとしたのだろう。彦五十狭芹彦命は後に崇神天皇の命で四道将軍の一人として吉備へ派遣されることになるが、何らかの理由で崇神王朝に取り込まれてしまったか、あるいは神武王朝と崇神王朝を無理なくつなげる作為のために本来は崇神王朝に属する人物を神武王朝に入れたのだろうか。
 また、妃である倭国香媛は古事記では意富夜麻登玖邇阿礼比売命となっているが、「阿礼」は神霊の出現の縁となるものを指し、綾絹や鈴で飾られるもので、巫女であることを示唆する。この倭国香媛が産んだ倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼であるとも言われている。

■孝元天皇(第8代)


 穂積氏が后を、物部氏が妃を出しており、両氏の勢力拡大のきっかけがこのときに作られた。また、埴安媛が妃になっていることは河内地域へ勢力を拡大したことを示す。さらに書紀には大彦命が崇神天皇のときに四道将軍として北陸に派遣されたことが記されている。埼玉県行田市のさきたま古墳群にある稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた意富比コ(「コ」は「つちへんに危」)は大彦命を示すと言われており、実在の可能性が高いと考えられている。彼も彦五十狭芹彦命と同様に系譜を作為した結果としてここに登場することになったのだろうか。
 また、彦太忍信命は武内宿禰の祖父であり葛城氏、蘇我氏などの有力豪族の遠祖である。武埴安彦命は崇神の時代に謀反により殺害されている。こうして見ると、孝元天皇紀としての事績は記されていないものの、後の事象につながる人物が多く登場しており、事実に基づいた記載である可能性が高いと考えることができる。また、この時期に政権基盤が整いつつあったと考えることもできそうだ。

■開化天皇(第9代)


 饒速日命の故郷である丹波から妃を迎えており、これもまた畿外における勢力基盤強化の一環である。また、奈良盆地北部(現在の奈良市)に宮をおいたということは奈良盆地一帯を勢力下においたことを示唆するとともに、木津川から淀川、あるいは琵琶湖へ通じる水運を掌握したことの表れとも考えられる。孝元・孝霊・開化の3人はいずれも諡号に日本根子が含まれているが日本根子は「大和の中心」の意であり、この開化天皇の時代に邪馬台国、すなわち崇神王朝を上回る勢力を持つに至ったのではないだろうか。


 以上、初代の神武天皇とそれに続く欠史八代の計9名の天皇について書紀に記載された内容を整理して概観した。次は宮や陵墓の場所、氏族との関係などを俯瞰してみたい。



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◆懿徳天皇~孝安天皇

2016年12月17日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
次に、第4代の懿徳天皇から第6代の孝安天皇までを見てみる。

■懿徳天皇(第4代)


 中世の『古今和歌集序聞書三流抄』に、懿徳天皇が出雲に行幸して素戔嗚尊に出会うという逸話がある。出雲へ行幸したとは考えにくいが、出雲の流れをくむ邪馬台国との関係強化があったことの示唆であろうか。この懿徳天皇以降は次の孝昭天皇を除き「日本」や「倭」を諡号に持つことになる。

■孝昭天皇(第5代)


 子である天足彦国押人命は古事記においては和珥氏のみならず春日氏・小野氏・大宅氏・粟田氏・柿本氏など多くの氏族の祖となっている。特に和珥氏・春日氏の本拠地は現在の天理市で邪馬台国の近くである。孝安天皇は子を邪馬台国付近に進出、定着させて勢力を拡大したと思われる。天理市は纏向遺跡の北にあり、纏向を挟み撃ちにする形にもなっている。皇居がある掖上の近くには神武・綏靖・安寧の后の祖神である事代主神を祀る鴨都波神社があり、鴨氏とのつながりが見える。また、后である世襲足媛の系譜から尾張氏とのつながりも想定される。

■孝安天皇(第6代)


 皇居のおかれた「秋津嶋」は秋津洲、蜻蛉嶋など、のちに日本全体の呼称にもなる地名であるが、もともとはこの宮がおかれた奈良盆地南西部の葛城地方を指す地名であったと考えられる。この室秋津嶋宮は葛城襲津彦の墓と言われる宮山古墳と接する場所が跡地に比定されており、鴨氏から派生した葛城氏との関係の強さが伺われる。


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◆神武天皇~安寧天皇

2016年12月16日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
まず、初代神武天皇から第3代安寧天皇までを整理してみた。

■神武天皇(初代)


 皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命は書紀では事代主神の娘となっている。事代主神は大国主神の子で国譲りの際に大国主に代わって承諾の意を伝えたとされるが、もともとは出雲ではなく葛城の神であり、一言主神と同一神として託宣を司った。后の名前に「蹈鞴(たたら)」を含んでいることから出雲のたたら製鉄を想起し、これによって神武が出雲から后を迎えたと考えられているが、事代主神が葛城の神であるので神武を出雲とつなげるのは妥当ではなかろう。むしろ神武が葛城にほど近い橿原で即位して葛城の娘を娶って鴨氏、あるいは後の葛城氏との関係を強化したと考えるのが自然である。

■綏靖天皇(第2代)


 皇后の五十鈴依媛命は事代主神の娘で、神武の后である媛蹈鞴五十鈴媛命の妹である。神武に続いて綏靖も事代主神である鴨氏から后を迎えた。葛城高丘宮は葛城一言主神社のすぐ近くにあり、鴨氏は外戚としてのみならず天皇の側近として仕えるようになっていたのであろう。


■安寧天皇(第3代)


 事代主神の孫である鴨王の娘を娶っており、ここでも先のふたりと同様に鴨氏から后を迎えている。三代続けて天皇家に后を送り込んだ鴨氏は外戚としての地位を盤石にした。天皇家も鴨氏の力を借りて葛城を拠点に大和での勢力を拡大していった。しかし、一書によると磯城県主の葉江の娘、川津媛が后であるとされ、自らの諡号である磯城津彦玉手看尊や異伝で子とされる磯城津彦命とともに磯城との関係も垣間見える。



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◆欠史八代

2016年12月15日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀には初代天皇である神武天皇の治世のあと、第10代の崇神天皇までに綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇の8名の天皇のことが記されている。いわゆる欠史八代といわれ、これまでの歴史学においてはこの8名の天皇は実在しなかったという説が有力であったが、最近では実在説も提唱されるようになっている。非実在説の主な根拠は次のようなものである。

-中国の革命思想である辛酉革命の考えをもとに神武天皇の即位を紀元前660年(辛酉の年)にさかのぼらせて皇室の起源の古さと権威を示すためにこれら八代の天皇を偽作した。
-日本書紀における初代神武天皇の称号「始馭天下之天皇」と、10代崇神天皇の称号である「御肇國天皇」はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読め、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。本来は崇神が初代天皇であったがそれより以前の神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられた。
-この八代の天皇の記述は他と違って主に系譜のみで事跡の記述がほとんどないことから、系図だけが創作された。

 非実在説は天皇の実在性のみならず、記された内容そのものを否定していると思えるが、私は天皇の実在性とともに、そこに記された事象そのものをどう扱うかが重要であると考える。本書の冒頭で述べたように、そもそも日本書紀は編纂当時の政権にとって都合のいい内容になるような様々な装飾や編集が施されているものの、記述されていることそのものは残された記録や伝承、あるいは人々の記憶など何らかの根拠に基づいていると考える。したがって、神話の部分でさえ全くのデタラメではなく、デフォルメの度合いが極端に大きくなっているだけであると考えて、その奥底に潜む事実を読み取ろうとしてきた。同様に欠史八代に記された内容も歴史上の事実を少なからず反映していると考える。次にこの欠史八代に書かれた内容を紐解いてみたい。


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◆神武天皇の即位と論功行賞

2016年12月14日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀によると、南九州の日向を出てから6年、苦難の末に饒速日命を従えた神日本磐余彦は橿原の地で初代天皇として即位し、その翌年に東征の論功行賞が以下の通りに行われた。

 ・道臣命(大伴氏の祖)     築坂邑の土地、宅地
 ・大来目(久米氏の祖)     来目邑の土地 
 ・椎根津彦(珍彦)       倭国造に任命
 ・弟猾(菟田主水部の祖)    猛田県主に任命
 ・弟磯城(黒速)        磯城県主に任命
 ・剣根             葛城国造に任命
 ・八咫烏(葛野主殿県主部の祖) 不明
  
 道臣命に対してはその功績が大きかったので特に目をかけた。熊野から大和まで八咫烏の先導により大来目を率いて菟田(宇陀)まで一行を導いた。道臣の名はそのときに神武から賜ったものだ。また、兄猾が神武に罠を仕掛けた際、道臣は兄猾に向かって「おまえが作った屋敷には自分で入るがよい」と言って剣を構え、弓をつがえて追い込み、兄猾を死に追いやった。国見丘では神武の命に従い、大来目部を率いて八十梟帥の残党を討ち取った。その前には、神武自らが高皇産霊尊を斎き祀るときにその斎主に任じられ「厳媛(いづひめ)」の号を授けられた(道臣命は男性であるが、媛という女性の名をつけたのは神を祀る役は女性であったことの名残であろう)。このように道臣は戦闘や祭祀で大活躍をみせた。築坂邑は大和国高市郡築坂邑のことで現在の橿原市鳥屋町がその伝承地と言われている。

 大来目はその道臣に従って戦闘に参加した集団で、大来目が賜った来目邑(現在の橿原市久米町)は築坂邑のすぐ隣である。神武東征時のみならず、書紀の一書では大伴氏の遠祖の天忍日命が来目部(久米部=久米氏)の遠祖である天クシ津大来目を率いて瓊々杵尊を先導して天降ったと記されていることからも、久米氏は大伴氏の配下にあって軍事的役割を担っていたと考えられ、そのことから両氏は隣村に居住することになった。

 椎根津彦は神武が東征を開始して宇佐に到着する前に一行に加わり、航行の先導役を担った珍彦であり、倭直の始祖である。論功行賞として倭国造に任じられたことによるものだ。また、武内宿禰を生んだ影媛の父親である菟道彦(うじひこ)と同一人物であると考える。椎根津彦は大和での戦闘においても、神武が見た夢のお告げを実行するために老人に変装して敵陣の中を通り抜けて香久山の赤土を採りに向かったり、その赤土で作った御神酒甕を丹生川に沈めて魚を浮かせるという占いのようなことをしたり、兄磯城を討つために立てた作戦が見事に的中したりと、祭祀や戦闘において道臣命に引けを取らない功績があった。このことから倭国造という大役に任じられることになった。

 弟猾は兄猾とともに菟田の地(現在の奈良県宇陀市)を治めていた土着の豪族であったが、兄猾を裏切って神武側について神武を勝利に導いた。その功績から猛田邑を与えられ、猛田の県主に任命された。この猛田邑の場所は今一つ定かではないが、弟猾が菟田主水部(うだのもひとりべ)の遠祖であるとされていることから弟猾が住んだ猛田邑は菟田のどこかの一帯を指すと考えられる。主水部とは飲み水や氷を調達する役割を担った集団である。宇陀の芳野川沿いには宇太水分神社があり、天水分神(あめのみくまりのかみ)、速秋津比古神(はやあきつひこのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)が祭神として祀られている。いずれも水に関わりのある神である。この神社があるあたりが猛田邑であろうか。

 弟磯城は兄磯城とともに磯城の地(現在の奈良県桜井市)を治めていた土着の豪族であった。弟猾と同様に神武側について勝利に貢献したために賞に与かり、磯城の県主として引き続き磯城の地を治めることを認められた。兄猾・弟猾の話、兄磯城・弟磯城の話のいずれもが兄ではなく弟が功績をあげて新しい役割を担うことになっているが、これは神武を含めてその後に続く天皇の後継が長子以外の子であることの正当性を主張していると言われている。

 書紀は続いて剣根を葛城国造に任命したと記しているが、剣根なる人物についてまったく触れることがない。また、葛城氏に関する記載の中にも葛城国造は登場しない。葛城氏、葛城国造とも同じ葛城の地を拠点にしていたはずなので、何らかの関係があったと思われるが残念ながらそれを検証する術がない。

 最後に八咫烏も賞をもらったとあるが、その内容については書かれていない。「八咫烏と日臣命」のところでも書いたが、「新撰姓氏録」の記録などから八咫烏は賀茂建角身命(鴨建角身命)であり、賀茂県主(鴨県主)の先祖である。したがってここで八咫烏の子孫であるとされる葛野主殿県主は賀茂県主(鴨県主)と考えられる。葛城に出自を持つ鴨氏はその後に山城国に移って賀茂氏を名乗った。八咫烏が授かった賞の内容を明示せずに葛野主殿県主が子孫であると触れるにとどめたのは神武即位時には勢力範囲に入っていなかった山城を拠点とする賀茂氏が山城国を治める正当性を暗にほのめかそうとしたのではないか。



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◆銅鐸の考察

2016年12月13日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 唐古・鍵遺跡では銅鐸片や銅鐸の鋳型など銅鐸鋳造関連遺物が出土したことから、銅鐸の製造や銅鐸による祭祀が行われていたことが推定される。銅鐸の使途はまだ定説がないが、農耕に関わる祭器であったとする説が有力である。当初は音を鳴らす楽器として用いられたらしいが、終末期には大型化して見せるためのものに変わっていったようである。
 銅鐸の原型についても様々な説がある。朝鮮半島の小銅鐸という説や「魏志韓伝」に「大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神につかえる」という一文があり、この「鈴」が原型であるという説、あるいは中国の鐸という楽器であるという説もある。銅鐸の材料となる鉛の同位体比を分析することにより鉛の原産地が特定できるが、それによると前期の銅鐸は朝鮮半島産の鉛を使っており、それが後期になると中国華北産を使うようになったことが判明している。このことからその原型が何であるにせよ、朝鮮半島や中国から伝わったものであることは間違いないと思われる。また、銅鐸製造には、炉の構築、精巧な鋳型の製作、高温による銅の溶融など様々な技術力と朝鮮半島や中国から材料となる銅や鉛を調達する交易力が必要となることから渡来人が関与していたことは間違いない。つまり、銅鐸を製造していた集落は渡来人が居住する集落である、ということだ。その証拠として唐古・鍵遺跡の人骨があげられる。
 また、様々な技術力を駆使して製造された銅鐸は極めて貴重なものであり、これを保有する集落はその地域の有力な集落であると言える。さらに豊穣を祈る農耕祭祀に使用されるとともに貴重な財宝であるとも言えるので、集落の首長の統治権力の象徴にもなっていたと思われる。

 銅鐸は全国で約500個が発見されており、その大半が畿内を中心とするいわゆる銅鐸文化圏内である。紀元前2世紀から2世紀までの約400年にわたって製造、使用されたとされるが、唐古・鍵遺跡においても弥生後期にはその痕跡が見られなくなる。これは九州などの銅鐸文化圏の外からやってきた集団の影響により祭祀形式の変更を余儀なくされた可能性が高いと言われる。九州からやってきた神武勢力が畿内の饒速日命の勢力を押さえたことと符合し、その時期は弥生時代後期のことであると考えられる。神武と饒速日命はともに江南の地を故郷に持つ同系集団であったが、一方は南九州の地で文化を育み、もう一方は日本海側の丹後から畿内を拠点に文化を育んだ。南九州において銅鐸が製造されることはなかったのだ。



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◆唐古・鍵遺跡

2016年12月12日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 ここで私が饒速日命の大和での拠点であると考える唐古・鍵遺跡について確認しておこう。唐古・鍵遺跡は奈良盆地の中央部にあたる奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵にある弥生時代の環濠集落遺跡である。現段階で確認されている遺跡面積は約30万平方メートルで、規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、また、全国から翡翠や土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落と考えられている。現地で聞いたボランティアガイドの話も含めて以下に遺跡の変遷を追ってみる。

<弥生時代前期>
-遺跡北部・西部・南部の小高い丘(標高48m前後)に居住域が形成される。この頃には古代奈良湖は湿地帯になり、微高地では人が住める状況になっていた。
-各居住区から多数の鍬や鋤などの農耕具、斧の柄などの工具、高杯や鉢など容器類の各種未製品の木製品が多数検出された。また、原石から完成品までの製作過程の石包丁が出土し、この石材は遺跡南方6キロにある耳成山の流紋岩であることが確認されている。このようなことから、集落の形成時期から様々な道具を作り、その周辺の地域に供給する集落であったと推定される。
-弥生時代としてはもっとも古い総柱の大形建物跡が検出された。この建物は西地区の中枢建物と推定される。
-稲穂の束や炭化米が出土し、多数の農耕具の出土と合わせて考えると遺跡周辺で稲作が行われていたことが推定される。ただし、水田跡は検出されていない。
-弥生前期末のものと考えられる木棺墓から検出された人骨が渡来系弥生人であることが確認された。放射性炭素分析による人骨の年代測定も弥生前期末葉という結果であったという。

<弥生時代中期>
-中期初頭に3か所の居住域周辺に環濠が巡らされる。
-西部居住域で大型建物が建築される。6m×13.7mの長方形の建物で床面積は82.2㎡。柱列は建物中央と東西両側の3列に並び、中央柱列は6本、東西両側の柱列は基本的に7本の柱がある。
-中期中葉に3か所の居住域の周りに大環濠を掘削し、一つの居住域に統合する。長径約500m、短径約400mの不整円形の環濠である。幅8m以上の大環濠とそれを囲むように4~5重に環濠が巡らされる多重環濠となっているが、どの環濠も深さはなく防御用ではなさそうである。
-集落の西南部に河内、近江、紀伊、伊勢など各地からの搬入土器が多く出土し、市的な場所があったと考えられる。
-南部で銅鐸片や銅鐸の鋳型外枠、銅鏃・銅剣などの鋳型、銅塊、銅滓、送風管など青銅器鋳造関連遺物や炉跡が出土し、周辺に青銅器の供給を行っていたことと、銅鐸による祭祀が行われていたことが想定される。
-北部では二上山産出のサヌカイト原石や剥片がまとまって出土した。
-これらにより、集落内には各種工人の居住場所あるいは工房跡があったと推定される。 

<弥生時代中期後半>
-楼閣などの建物・動物・人物が描かれた多数の土器が検出され、土器に絵を描く風習があったことが確認される。(全国の絵画土器片の1/3がここで出土している。) 加えて、それぞれの絵が想像で描かれたとは考えにくいので、楼閣などが実際に存在したと思われる。
-中期後半から末にかけての洪水により環濠が埋没。

<弥生時代後期>
-洪水後に環濠再掘削が行われ、環濠帯の広さも最大規模となる。洪水で埋没したにもかかわらず、この期に再建された。
-吉備の大型器台が発見され、吉備との交流が想定される。

<古墳時代以降>
-大環濠が消滅する。
-3か所の居住遺構や井戸が減少していることから居住域が縮小された。
-古墳時代中期に前方後円墳が築かれた。
-唐古氏、唐古南氏、唐古東氏の居館が築かれ、周辺が現在の鍵集落として発展する。

 この遺跡を訪ねたときに現在の周囲の景色を取り払って唐古・鍵が最も栄えた弥生時代中期に身を置いてみた。ここは奈良盆地のど真ん中にあたり南東の方に三輪山が見える。弥生後期に入るとその麓に纒向の都市が誕生する。距離にして数キロ。今なら歩いてもすぐに到着する近隣地である。しかし弥生の当時、この周辺は奈良湖が干上がったあとの湿地帯であり、行く手をさえぎる幾筋もの川が流れていた。現代の感覚で隣り町のような捉え方をしないほうがいいと感じた。
 石原博信氏はこの唐古・鍵の住民が弥生後期に纒向に移動したと書いているが、私は否定的に考える。奈良盆地のど真ん中で繁栄する都を捨ててわざわざ山沿いへ移る理由が今一つわからないのである。町が手狭になったとしても周囲に広げていけばいいだろうし、仮に移ったとしても以前の町を捨てる必要はないと思う。隣り町の感覚でいかにも両遺跡の住民が同族であったと考えるのは少し違うように感じた。纒向遺跡の所在地は奈良県桜井市、唐古・鍵遺跡は奈良県磯城郡田原本町であり、現在でも行政区域が異なっている。
 唐古・鍵と纒向は別の一族の国であり、前者は丹後からやって来た饒速日命一族、後者は出雲からやってきた崇神一族。すでに書いたが、これが私の考えである。


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◆饒速日命の服従

2016年12月11日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 話を最終決戦に戻そう。書紀では、饒速日命は神武が持っていた天羽々矢と歩靫を見ただけで忠義の意を表わしたが、それでも戦おうとした長髄彦を饒速日命が斬ったとある。しかし、神武と饒速日命が戦った形跡は見られない。本当に剣を交えなかったのだろうか。神武は東征を開始する時点でこの大和に饒速日命がいることを知っていた。さらに自身の祖先同様に大陸から渡ってきた渡来集団のリーダーであることも知っていた。ただし、饒速日命が同じ江南の一族であることまではわかっていなかったのかもしれない。兄の五瀬命を討たれ、さらには稲飯命や三毛入野命を立て続けに失ったこともあって、最初は戦う意思を強く持っていたものの、いざ対峙してみると互いに同郷の集団であることがわかった。さらには饒速日命が恭順の意を表し、自身の部下を斬り捨てた。やはり二人は剣を交えることがなかったと考えるのが自然であろう。

 さて、ここで饒速日命に関する大きな疑問が頭をもたげる。それは、記紀は神武に服従したあとの饒速日命に触れていないことである。勘注系図では大和から再び丹波に戻っている。本紀によると大和で亡くなったとだけ書かれている。これはどういうことであろうか。饒速日命には子がいた。書紀によると長髄彦の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って可美眞手命を設けた、とある。古事記ではその名が宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)となっているが、この人物が物部氏の系譜につながっていく。本紀においてはそれに加えて、天道日女命を妃として天香語山命を設けたとある。天香語山命は別名として高倉下命を名乗り、神武の熊野上陸後に登場する。勘注系図では高倉下は天香語山命の子、すなわち饒速日命の孫となっているが、この高倉下がのちの尾張氏や海部氏につながるとされている。
 尾張氏を考えるくだりのところでも書いたが、饒速日命一族は神武に服従して大和の葛城に定着することになり、そこで尾張氏や鴨氏らとともに神武王朝の執政を支えたのであろう。饒速日命自身は葛城の地で亡くなったであろうが、その後裔が丹後の地を治める役割を担って故郷へ戻ることになったと考える。それが勘注系図の記事であり、また本紀の丹後国造の記事につながっている。

 ここまで饒速日命の足跡を追ってきたが、中国江南の地から集団を率いて丹後に漂着し、丹後の地を治めた後に河内、そして大和へ赴いて大和で「美し国」を築いたものの、日向からやってきた神武に屈する、という過程は長い時間を要する。これは饒速日命という一人の人物が成し遂げた事績ではないだろう。饒速日命はこれを成し遂げた集団の代々のリーダーを表す代名詞ではないだろうか。最初のリーダーが江南から丹後に渡り、第2のリーダーが弥生時代前期に大和に入って唐古・鍵地域を開発し、第3のリーダーが弥生前期末にその唐古・鍵で葬られた渡来系弥生人、その後何代かを経て最後のリーダーが神武に敗れた饒速日命だ。弥生前期から後期までの数百年間に存在した複数のリーダーをまとめて饒速日命と称した。



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◆饒速日命の降臨

2016年12月10日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀では饒速日命が降臨した場所が具体的に記述されず、東の美し国に飛び降りたとあるだけである。本紀では先述の通り河内国の河上の哮峯に天降ったとなっている。一方、勘注系図では降臨した場所やその後の移動が詳しく記されているので順に見てみよう。ただし、勘注系図において火明命となっているのは本来は饒速日命であるので読み替える。

 饒速日命は高天原で大己貴神の娘の天道日女命(あめのみちひめ)を娶って天香語山命が生まれた。その後、天に昇って御祖のもとに行ったのち、丹後国の伊去奈子嶽(いさなごだけ)に降りた。さらにその後、天祖より2つの神宝とともに受けた命により高天原から丹波国の凡海息津嶋(おおしあまのおきつしま)に降りた。それから由良之水門(ゆらのみなと)に遷った時に子の香語山命に神宝の1つを分け与え、さらに天磐船に乗って虚空に登り、凡河内国に降りた。そのあと大和国鳥見白辻山に遷って、登美屋彦の妹の登美屋姫を娶って可美真手命が生まれる。その後、再び天に昇って丹波国に遷って凡海息津嶋に留まる。そして高天原で娶った佐手依姫命とともに養老三年に籠宮に天降った。
 移動経路を整理すると「高天原→丹後国の伊去奈子嶽→高天原→丹波国の凡海息津嶋→由良之水門→凡河内国→大和国鳥見白辻山→丹波国の凡海息津嶋→籠宮」となる。高天原の地は瓊々杵尊の出発地と同様に日本列島以外の地を指すと考える。そして書紀は饒速日命が天神であることを明かしているので、その出発地は瓊々杵尊同様に中国江南の地であったと考える。江南を出て東シナ海を渡って南九州の薩摩半島に漂着したのが瓊々杵尊で、対馬海流に乗って日本海に入り、丹後の地に漂着したのが饒速日命である。古事記における饒速日命の登場シーンで「天津神の御子である瓊々杵尊が天降ったと聞いたので私も後を追って天降って来た」と記しているのは、その出発地が同じであったことの表れであろう。そして饒速日命が漂着(降臨)したところが丹後の凡海息津嶋(京都府舞鶴市の若狭湾内にある冠島)であった。最初に伊去奈子嶽(京丹後市、兵庫県との県境近くの磯砂山か)に降臨したように記述しているのは、まさに瓊々杵尊が薩摩半島に漂着したことを日向の高千穂の峯に降臨したと記述するする記紀と同じ設定である。
 その次の由良之水門であるが、現在の由良川河口あたりと考えるのが妥当であろう。ここには湊十二社という神社があり由緒は不明であるが、江戸時代には北前船の基地にもなっており、古くから航海の安全を祈願する神社で、今でも船の模型が数多く奉納されている。また、由良川を上れば福知山や綾部へとつながっており、この地は海運のみならず由良川を利用した内陸部への輸送路の基地にもなっていたと考えられる。由良川は福知山から綾部につながるが、福知山から分岐する土師川、さらには竹田川を上ると兵庫県丹波市氷上町の石生(いそう)に至るが、ここは本州で最も低い分水嶺にあたり標高は95mしかない。石生を越えれば加古川となって瀬戸内海へ出ることができる。饒速日命はこのルートを経由して難波の河内湖から河内国に入ったと考えられる。

 本紀には河内国の河上の哮峯に降りたとある。この「哮峯」は2通りの読み方がされており、1つは「たけるがみね」、もう1つは「いかるがみね」である。比定地としては「天の磐船」と呼ばれる巨石がご神体となっている大阪府交野市私市にある磐船神社、あるいは731年成立の「住吉大社神代記」にも記される生駒山北嶺の饒速日山など、いずれも神武が長髄彦と初戦を交えた孔舍衞坂からほど近いところであり、このあたりは長髄彦の勢力地ともされている。さらには次の降臨地である大和国鳥見白辻山は現在の奈良県生駒市白庭台あたりとされ、まさに長髄彦の本貫地と考えられるところである。私はここに少なからず違和感を覚える。長髄彦は神武がこの地で一敗地にまみれ、兄の五瀬命を失うほど苦汁を飲んだ相手であるにも関わらず、饒速日命はいきなり長髄彦の勢力範囲に乗り込み、戦闘の形跡すらない中で長髄彦を従えることに成功したことになる。相当な財物を提供して和議に持ち込んだのであろうか。それとも、饒速日命の河内への降臨地は本当に磐船神社あるいは饒速日山のあたりだったのだろうか。
 書紀にある通り饒速日命は物部氏の祖で、その物部氏の本貫は現在の大阪府八尾市渋川町あたりである。現在の大阪府では河内を北・中・南の3地区に分けて呼ぶことがあるが、交野は北河内、八尾は中河内に属していて別の地区として扱われる。物部氏が中河内の八尾市を本貫としているのは祖先がその地に留まって勢力を蓄え、繁栄を築いてきたからであろう。そう考えると祖先である饒速日命は難波から河内湖に入って南下し、現在の八尾あたりで上陸して拠点をおいた、とするのが妥当ではないだろうか。

 私は「哮峯」を「いかるがみね」と読みたい。饒速日命が上陸した八尾のあたりで峯に該当する山を探せば、八尾市渋川あたりからほぼ真東に高安山が見える。高安山は大阪府と奈良県との境に位置する標高488mの山で生駒山地の南端で最も高い山である。7世紀後半、白村江で唐・新羅軍に敗れたあと、大和国防衛の拠点として高安城が築かれている。そして八尾から大和川を少し遡って大和に入ったところが現在の奈良県生駒郡斑鳩町である。この斑鳩からはほぼ真西に信貴山が見える。信貴山は高安山のすぐ東にある標高437mの山である。その名は聖徳太子が物部守屋を攻めたときにこの山で毘沙門天が現れ、太子が「信ずべし貴ぶべし」といったことに由来すると伝わる。古来より霊験ある山と崇められてきたことによる逸話と言えよう。この斑鳩の地名は「哮峯」に由来すると考えるのは想像が過ぎるだろうか。

 大和川をさらに遡って奈良盆地の中心部に入ると弥生時代の環濠集落である唐古・鍵遺跡がある。唐古・鍵遺跡については後で詳しく触れるが、奈良盆地の代表的な弥生時代の遺跡で弥生中期に最盛期を迎えた。大型建物や楼閣、木製品や石器の工房、銅鐸などの青銅器鋳造設備に加え、吉備や紀伊、伊勢、尾張など各地の土器が出土するなど、非常に先進性を備えた集落であった。また、弥生時代前期末のものと考えられる木棺墓からは渡来系弥生人の人骨が検出されている。饒速日命は河内に本拠を置きながらも、四方を青い山に囲まれた大和の地を「美し国」として統治する野望を抱き、ここを拠点に大陸から持ち込んだ高度な技術を背景に勢力を整え、時間をかけて長髄彦をはじめとする周囲の土着民を取り込んでいったと考えたい。
 とはいえ勘注系図では凡河内国の次は大和国鳥見白辻山へ遷ったことになっている。この鳥見白辻山こそ長髄彦の本拠地であり、現在の生駒山の東麓、奈良盆地の北西部一帯であると言われるが、饒速日命がここに移り住んだわけではないだろう。長髄彦を取り込んだことで自身の勢力範囲をそこまで広げたということだ。これにより奈良盆地の北半分を勢力下におくことになり、しかも大和川の水運も押さえたことで大変大きな影響力を持つこととなった。
 実はこの時期、奈良盆地の南半分を押さえていたのが鴨一族である。秋津遺跡、中西遺跡、鴨都波遺跡など先に確認した通り、弥生前期より葛城地域に繁栄を築いていた。神武軍はこの鴨一族の勢力を後ろ盾として饒速日命と対峙することになった。



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◆先代旧事本紀と勘注系図

2016年12月09日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 まず本紀によると、饒速日命は天神の御祖神の命令で天の磐船に乗り、河内国の河上の哮峯(いかるがみね、または、たけるがみね)に天降ったとある。天神の御祖神を天照大神と解すれば饒速日命は瓊々杵尊同様に高天原の天照大神の命で天降ったことになる。そして降臨後に大倭国(大和国)の鳥見の白庭山に遷り、長髓彦の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って妃とした。そしてその御炊屋姫は妊娠したが、まだ子が生まれないうちに饒速日命は亡くなった。饒速日命が降臨するとき、天神の御祖神は天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授け、高皇産霊尊は、32人の勇者と5人の従者、5人の供領(とものみやつこ)、25人の物部一族、船長や舵取りら6人といった大規模な護衛を付き添わせた、とも記されている。しかし、この降臨時の様子や饒速日命の死のことは書紀では語られていない。
 さらに本紀では、饒速日命の名前を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」とし、加えて別名として「天火明命」「天照国照彦天火明尊」「胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)」をあげている。すなわち饒速日命と火明命が同一人物であるとしている。また、天押穂耳尊と、高皇産霊尊の娘の万幡豊秋津師姫命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)、別名が栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)の間に産まれた子であり、弟に「天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと)」すなわち瓊々杵尊がいるとも記し、饒速日命と瓊々杵尊が兄弟であるとしているのだ。古事記においても火明命と瓊々杵尊は兄弟ということになっているが、書紀では火明命は瓊々杵尊の子であり、尾張氏の始祖となっている。(ただし、一書においては瓊々杵尊の兄で尾張連の遠祖であるとしている。)

 次に勘注系図を見ると、海部氏の始祖は彦火明命であるとして、そのまたの名を「饒速日命」「神饒速日命」「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」「膽杵磯丹杵穂命(にぎしにぎほのみこと)」と記されている。また、本紀と同様に彦火明命(饒速日命)と瓊々杵尊が兄弟であるとされている。記紀においては、火明命と瓊々杵尊は兄弟あるいは親子という相違はあるものの二人の関係性が明示されている一方で、火明命と饒速日命の関係については一言も触れられていない。このことから記紀においては饒速日命は天神であるが天孫ではない、つまり天照大神の系譜にないということが言えよう。ではなぜ本紀、勘注系図では火明命と饒速日命が同一人物とされているのだろうか。

 本紀の成立については、807年に成立した「古語拾遺」からの引用があること、藤原春海による「先代旧事本紀」論が承平(931年~938年)の日本紀講筵私紀に引用されていることから藤原春海による「日本書紀」講書の際(904年~906年)には本紀が存在したと推定されること、などからその成立は807年以降で904年以前と考えられている。神代本紀から国造本紀までの十巻から成り、記紀からの引用や流用、さらには物部氏や尾張氏に関する系譜に加えて独自の伝承説話が多く、編者は物部氏系の人物であろうとされている。蘇我氏との戦いに敗れて没落した物部氏の権威を取り戻すべく、書紀で物部氏の遠祖とされた饒速日命を天孫である瓊々杵尊の兄弟である火明命と結びつけて物部氏が天孫系であることを主張した書である。
 一方の勘注系図は、京都府宮津市に鎮座する籠神社の社家である海部氏が「籠名神社祝部氏係図」とともに代々伝えてきた「籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記」のことを指し、現存のものは江戸時代初期の写本であるが原本は仁和年中(885年~889年)に編纂された「丹波国造海部直等氏之本記」であると伝えられる。始祖である火明命から第34世までが記され、当主の兄弟やそこから発した傍系を記す箇所もあり「記紀」は勿論、本紀などにも見られない独自の伝承を記している。書紀にて火明命を祖とする尾張氏と海部氏のつながりが系譜に表わされている。その尾張氏は本紀でも詳しく記される。

 記紀、本紀、勘注系図の成立順番は、記紀→本紀→勘注系図とするのが妥当であろう。したがって勘注系図にて火明命と饒速日命が同一とされているのは本紀を参照してのことと思われる。自らの祖先が天孫族であるという由緒ある系譜であることは海部氏にとっては肯定こそすれ否定する必要のないことであった。このことから、本紀、勘注系図とも饒速日命と火明命を同一としていることに大きな恣意性を感じざるを得ない。いずれも記紀以降の成立であり本紀においては物部氏、勘注系図においては海部氏が自らの系譜の権威を高めるために仕組んだことと考えるのが妥当であろう。したがって、饒速日命の降臨について本紀、勘注系図を参照することが可能であるが、饒速日命が火明命と同一人物であったことについては考慮しないこととしたい。



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◆饒速日命の登場

2016年12月08日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀には饒速日命が登場する場面が3カ所ある。1ケ所目は神武が東征を決意した場面。神武は塩土老翁から「東の美し国に天磐船に乗って飛んで降りた者がいる」と聞いた。そして「その土地は天下に威光を輝かせるに相応しい場所で国の中心となるだろうから、その土地へ行って都にしようではないか。その土地に飛び降りた者は饒速日である。」と兄や子供たちに説いたのである。2カ所目は神武東征の最終場面。長髄彦が神武に使者を派遣して「自分は天神の子である櫛玉饒速日命に仕えているが、天神の子がなぜ二人いるのか?あなたは偽物ではないか」と問うた。互いに天神の子である表物(しるし)を見せ合って本物であることを確認したが、長髄彦が戦う意思を変えなかったため饒速日命は長髄彦を殺してしまった。書紀はこの記述に続いて饒速日命が物部氏の祖先であることを記している。そして3カ所目は神武が即位して31年目。国内を見て回った天皇が「なんと良い国を得たのだろう」と言い、この国の様々な呼称を紹介する中で、饒速日命は天磐船に乗って大空を廻り、この国を「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」と言った、とある。
 つまり書紀は、饒速日命が神武よりも先に奈良盆地に降臨した天神であることを明かしている。これは3つのことを意味しており、第1には饒速日命は神武よりも先に奈良盆地を治めていたということ、第2に饒速日命は天神、つまり神武同様に大陸から日本列島にやってきた渡来人であること、そして第3に、本来は敵であり同じ天神である饒速日命の存在を明かす必要がないにも関わらず登場させたのは、書紀編纂当時、編纂を指示した天武天皇あるいはそれを受け継いだ持統天皇をもってしても隠しようのない事実であったこと、この3点だ。二人の天神は表物である天羽々矢と歩靫(かちゆき)を見せ合ったところ、神武のそれが勝っていたからであろう、饒速日命は神武に降伏したという。饒速日命はいったいどこから来たのであろうか。

 古事記においては「邇藝速日命」と記されるが、登場シーンは神武東征の最終場面のみである。「邇藝速日命が神武に対して、天津神の御子が天降ったと聞いたので私も後を追って天降って来た、と言って天津神の印である宝物を神武に献上した」となっており、書紀と少し違う表現であるが、これ以上のことは記されていない。高倉下のところで参照した「先代旧事本紀(以降、本紀と記す)」および「海部氏勘注系図(以降、勘注系図と記す)」をここでも見てみよう。



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◆神武東征最終決戦

2016年12月07日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 八咫烏の話から鴨氏、葛城氏、蘇我氏の考察で大きく回り道をしたが、話を神武東征に戻そう。八咫烏の道案内で無事に大和に入った神武は宇陀で兄猾・弟猾と対峙した。神武は弟猾を味方に引き込んで道臣命を遣わして兄猾を討った。その後、吉野へ出向いて吉野首の先祖である井光(いひか)、吉野国栖の始祖である磐押別(いわおしわく)の子、阿太の養鵜部(うかいら)の始祖である苞苴担(にえもつ)の子など吉野の先住民達と出会った。再び宇陀に戻った神武はいよいよ饒速日命率いる大和軍との全面戦争に挑む。神武軍は神武を総大将として道臣命(大伴氏)、多来目部(久米氏)、椎根津彦(紀氏)、高倉下・兄倉下・弟倉下(いずれも尾張氏)、八咫烏(鴨氏)に加え、味方にした弟猾、さらに磯城で味方に引き込んだ弟磯城らの軍勢である。対する大和軍は饒速日命のもと、長髄彦を総大将に各地の族長(八十梟帥)が要所要所を守備していた。神武軍はあの手この手で勝利を重ね、ついには総大将の長髄彦と向き合うことになった。

 長髄彦は大和に土着する一族の長であったと考える。神武が難波から大和に入ろうしたときに生駒西麓の孔舍衞坂で待ち伏せをして五瀬命に致命傷を与えた人物である。書紀には「長髄はもともと邑の名であり、それで人の名とした」とある。「ナガスネ」あるいは「ナカスネ」という地名を奈良盆地周辺に見つけることはできないが、書紀には神武がまさに孔舍衞坂で長髄彦と初戦を交える直前の記述に「乃還更欲東踰膽駒山而入中洲(そこで引き返して東の生駒山から中洲に入ろうとした)」とある。この「中洲(ナカス)」を充て、「長髄=中洲根」とする地名研究家である池田末則氏の考えに賛同する。「根」は敬称あるいは発音しやすくするための接尾語ということらしい。長髄彦は饒速日命がやってくる前は中洲、すなわち内つ国である大和の長であった。古事記では登美能那賀須泥毘古あるいは登美毘古と記されることから、その拠点は生駒東麓、矢田丘陵北端の鳥見の地であったと思われる。西の生駒山を越えれば孔舍衞坂である。

 神武軍と大和軍との最終決戦の地はこれまでの流れから考えると宇陀から西へ進んだ奈良盆地の入り口にあたる現在の桜井市あたりであろう。太陽を背にして戦うためにわざわざ熊野へ迂回し、宇陀で兄猾をち、吉野の先住民を探索し、宇陀の高倉山から磐余の邑を眺めたときにあふれるほどいた敵軍勢を打ち負かし、ようやく迎える決戦である。書紀にはなかなか決着がつかない状況になった時に金色に光り輝く鵄が飛んできて大和軍を幻惑させたとある。これがもとでこの地を鵄の邑と呼ぶようになり、それが訛って鳥見になったとある。現在の桜井市外山(トビ)、あるいは付近の鳥見山を指すと思われ、長髄彦が拠点とした鳥見とはまた別の場所になる。しかし、奈良盆地北西部を拠点とする長髄彦が神武軍との決戦において対極の場所にあたる盆地南東部に陣形を敷くということは、やはり長髄彦は中洲すなわち大和の国の長であったと言える。

 さて、大和に先住する長髄彦を従えた饒速日命とはいったい何者だったのだろうか。饒速日命を詳しくみたあと、魏志倭人伝と記紀神話の関係を解いていきたい。



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